①1~8 聖書の概略とその救い
- ktanaka33014
- 2018年12月24日
- 読了時間: 100分
更新日:2024年8月2日
私の半生をかけて理解したこと
1,神の存在を信じる
どのようにしたら神の存在を信じることができるだろうか。自分しかいないと思っていた、神なしの信仰の無い世界に在って。私は神の存在を信じたかった。だが、なかなか信じられなかった。見えない神をどうして信じることができようか。理性が神の存在を受け入れることを邪魔するのです。理性はどのようにしたら、神の存在を受け入れてくれるのか。純粋に神という方に出会うための良い方法は、あるのだろうか。
私が始めたことは、神がいると仮定して、祈ってみよう。本当に聖書が教えているような、全知全能の神がいるのなら祈ってみよう。何か答えが出るはずだ。こんなふうに思い、教会に行き始め、祈り始めたのが、今から53年前。私、田中清二が19歳の時であった。今72歳です(2022/7/20現在)(1950年5月11日生)。自分で言うのも恥ずかしい話しだが、本当に真面目な、純粋な青年であったように思う。
1971年9月11日、私21歳の時、セブンスデー・アドベンチスト八王子教会で、沈めのバプテスマ(浸礼)を受け、キリスト教の信者になった。信仰歴はもう51年になるわけだ。これからできるだけ分かりやすく、私の半生をかけて理解してきた、キリスト教について、説明していきたいと思い立ち、郵便局長を退職してから、パソコンの前に座り、少しずつまとめてきた。この世的に考えて、決して面白くない内容だし、私の稚拙な表現力のせいもあり、読みづらいのは、お許しください。一気に読めるものでもないし、中には難解なところもあるので、少しずつ、気の向いたときに、田中清二という、変わった人間は、何を言いたいんだろうとご自分で考えながら、読んでいただけたら幸いです。もしご自宅に聖書があったら、開きながら読んでください。その方がわかりやすいと思います。聖書は今や大型書店だったら、どこでも売っているはずです。ちなみにセブンスデー・アドベンチスト教会(プロテスタント教会)の信者は、日本には14,000人、全世界には1,800万人おり、本部はアメリカ、ワシントンDCにあります。セブンスデーの意味は第七日目。アドベンチストの意味は英語のアドベント—キリストの再臨からきている。平たく訳すと、第7日目(土曜日)安息日遵守、再臨待望信徒。
わたしは宗教には興味がないし、別に信じるものがあると言う方は、これ以上読み進まなくても良いと思っています。田中清二の半生を振り返って、個人的な宗教理解を、伝道的に書いていますので、興味ある方は、引き続きお読み下さい。
さて本論に戻ります。
『あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている』(マタイ10:30)とイエスが言った神に向かって、心をカラッポにして「神様、私はあなたの存在を信じたいのです、どうぞ私の心の目を開いてあなたの存在することを教えてください。」と熱心に祈って見よう。それが神を見出す最も近道であると自分の体験から私は思う。ある人は、それは危険ではないか、邪教に陥る可能性があると考えるかもしれない。確かに信仰は知性に裏づけられていないといけない、しかしながら知性だけで神を見出すのは、なかなか困難である。もちろん、色々考えて、神にたどり着く人もいるだろう。
しかし、そもそも神は、聖書では、絶対者であり、創造主である。しかも、人格的な神、人をどこまでも愛してやまないというような性質をもった愛の神は、私たちの理性を超えている。創世記2:26『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』 ヨハネ第一4:8『神は愛だからです。』
私自身の半生を振り返って、思うと、神が愛であることが分かったのは、教会に行くようになって、ずいぶんたってからであり、キリスト教でいう神の性質はなかなか理解できなかった。
神の存在を信じるとは、飛躍することではないだろうか。あるところまで、理性や、知性、経験等により神の存在を自分なりに理解したら、理論を飛び越えて、神の存在を受け入れ信じる段階に入っていくはずです。
例えばキリスト教の基本的教理、新約聖書がもっとも大事なことと言っている教え、キリストの復活についてはどうだろうか。コリント第一15:3、4『キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、』いきなりキリストの復活を信じろとはいささか乱暴な話ではある。そのことは重々承知で書いています。
昔、今から2,000年前のアテネの哲学者たちも、キリストの弟子の一人であるパウロが復活の話を始めると、この男の話は後で聞くことにしようと言って立ち去ってしまった。使徒行伝17:32『死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。』死者の復活など、私も含めて誰も見たこともないし、自分の周りにも、本当に心臓が止まり、息をしなくなり、三日もたってから生き返った人などいない。キリストが約二千年前に死から復活したことを、誰か検証できる人がいるだろうか。それは聖書の記述を見て信じるしかない。キリストは復活した後、使徒行伝15:6『五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。』
信仰は飛躍するところがあります。理性を飛び越えるところが出てきます。それは言わば人生の大きな冒険です。そこには、オウム教のように邪教を信じてしまう危険性も確かにあります。しかし神の言葉である聖書に着地するならば安全です。テモテ第二3:16『聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。』
聖書が学ばれ実践されるときには、歴史的に見ても人間の生き方は改善され、客観的に見ても人々の道徳的な生き方に素晴らしい影響を与えてきたのです。聖書にもとづく神の存在を信じる信仰は、安全な道に着地することが出来ます。それは有益な、良い信仰への飛躍です。神の存在を信じることができるものになったことへの前進であり、正しい信仰への第一歩なのです。
神は自らを啓示する
神はご自分の方から私たち人間にその存在を顕すのではないだろうか。何を見たら神の存在を知ることが出来るだろう?何に神は自分の存在を示しておられるのだろうか?創世記1:1『初めに神は、天地を創造された』とあります。キリスト教の神は、創造主であります。このことを受け入れるならば、神が創られた物の中に、神の性質が観じ取られ、自然界の中に、神の存在を見ることができるはずです。詩篇19:2、4、5に『天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。‥‥‥話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。』とあります。
神の声を自然界の中に、聞くことができます。もし総ての自然界を神がお造りになったと信じることができれば、どんなに世界を見る目が違ってくるだろう。美しい夕焼けを見て、神の御手の業を賛美し、夜、輝く満天の星々を見て、これらを造られた神の偉大さを瞑想することができます。更に驚くべきは聖書によれば、私たち人間は、神のご計画によりあえて神に似せて造られたのです。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう』(創世記1:26)とある。人間は自然界の何物よりも特別に神に愛され、その形もその性格も神に似せて造られた。
また、神は『永遠を思う心を人に与えられる』(伝道の書3:11)と書かれています。人は動物と違って、永遠の存在を思うことができるのです。
また愛の神は人間を造るにあたって、愛が一番大事なことと考えられるようにしてくださった。『もっとも大いなるものは、愛である』(コリント第一13:13)と書かれています。もちろんこれは普遍的な、無償の愛、隣人愛と呼ばれるような愛です。男女の間の愛とは違う。そのような愛を、人間は大事なこととして考え、認めることができます。これが、動物とは根本的に違うところです。
多少脱線するが聖書のテーマの本質について、ここで少し触れておこう。それは人類を救う神の愛をテーマにしています。キリスト教の愛とはギリシャ語 αγάπηアガペーの訳、神の無償の愛です。また人に対しては隣人愛です。世界にはいろいろな愛がある。友達同士の愛、肉親の愛、兄弟愛、親子の愛、男女の愛、慈悲の愛、哀れみの愛。愛には様々な形、表現がある。しかし最も大事な愛は、神がご自分の一人子であるイエスを、人類の一人として地上にお遣しになり、我々の人類の身代わりに、一人子イエス・キリストに、人類が受けるべき、罪とその刑罰である死を負わせて、身代わりに死なせて下さった、すなわちキリストの十字架刑による死、贖罪の死、身代わりの死、神の子、キリストの命をかけた愛です。人のために自分が身代わりになって死ぬほどの大きな愛が、他にあるだろうか。『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:13)
何故、キリストは人類のために生命を捨てなければならなかったか、知識としてではなく、本当に自分のものとして体得できるのには大変な時間がかかる。
それは自分の罪深さを悟れる人にはすぐわかることだし、自分を義とする人には、いつまでま分からないことなのです。
罪深い取税人や遊女が先にキリストを受け入れる(マタイ32:31)が、パリサイ人(当時の学者の派閥)に代表されるように、白く塗った墓(表面は正しくても中は腐っているの比喩)と言われているような、自分を義とする人、自分は正しいと思っている人(マタイ23:27)は、キリストの贖罪を受け入れない。
自分は正しい、罪を犯したことなどないと言う人が日本人に多い。後で述べるが、それは罪の解釈が違うからです。キリスト教が言っている罪とは主に心の中の罪なのです。
『ところが取税人は‥‥‥胸を打ちながら言った、神様、罪人のわたしをあわれんでください』(ルカ18:13)聖書では、自分の正しさを強調したパリサイ人ではなく取税人が、神の前に義とされた。キリスト教的に言えば、全人類は神の前に罪人である。『人間は生まれながら神の 怒りを受けるべき者』(エぺソ2:3)であり、『義人はいない、一人もいない。』(ローマ3:10)のです。
聖書によれば、人間は神の前に全員が罪人であり、正しい生き方をしていない。誰かが神の前に身代わりに死んでくださらなければ、決して聖なる神の前に、正しい者として立つことができない。それは道徳上の罪もあろうが、そういうことを含みつつ、もっと人間の根源にある根深い心の中にある問題です。
聖書で罪、とが、とか訳されている言葉はギリシャ語で、ハマルティアと言って、日本語に訳せば、的はずれな生き方を意味します。
神なしで生きて行ける、自分のある程度の正直さと行いで生きて行けると思い込んでいる状態が、そもそもハマルティアなのです。神無しに、自分の知恵と力だけで生きて行けると思い込み、そこに精神的な救いもいらない、神の前に謙虚さも、へりくだりも無い。とにかく教育の力や、自分のもっている能力だけで生きて行けるという考え、また、自分はある程度良心的に生きてきて、良い人間であると言う自己認識、それこそが的外れな生き方です。
「それがあなたの罪なのだよ」と聖書の神は言っているのではないだろうか。
神が自らをお顕しになるところへもう一度戻ろう。神が自らをお示しになる最も顕著な…ものは聖書です。なぜなら聖書は神の言葉なのです。『人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れたからです』(テサロニケ第一2:13)
信じるものにとって聖書は神の言葉です。言葉は思想を表現します。聖書は神の存在とその人類に対する神の考えを示しています。
人間でも、言葉が無ければ自分の考えを伝えることができない、人間同士の世界では、言葉を通してコミュニケーションが図られ、お互いの考えが分かります。聖書は神の言葉です。神の考えが書かれている。『聖書は総て神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。』(テモテ第二3:16)当時の信者たちは、12使徒が語る言葉を、たとえそれが人間の言葉であっても、神の言葉として受け取りました。
『あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。』(テサロニケ第一2:13)
聖書が神の霊感を受けて書かれたとはいえ、一言一句神の言葉であるとは考えていない。聖書を書いた著者は約40人にも及び、最初に書かれた年代は紀元前15世紀。創世記、出エジプト記が代表的なもの。ユダヤで言うモーセの五書(トーラー律法の書とも言う、著者はモーセ)。
最初の方を書いたモーセから旧約聖書は王、預言者等、様々な人が書いた。新約聖書の最後、弟子ヨハネによって書かれた、人類最終預言の書、ヨハネの黙示録まで約1500年間の長きにわたって書かれた。旧約、新約合わせて66巻、全体を通して、思想的な統一が取れている。その記述に矛盾がない、こんな書物が他にあるだろうか。聖書記者約40人、年齢も、学歴も、生まれ育った背景も違う、ある者は王、ある者は漁師、ある者は学者、それなのに、一人一人が書く時に、神は聖霊をお遣わしになり、その著者の思想に影響を与え、統一された神の人類に対する救いの計画をお示しになったのです。これを神学用語で言うと思想霊感と言う。私達はこの立場を取ります。しかしキリスト教会には聖書を一言一句総て神の言葉ととらえ、聖書記者は神の、ただの自動ライターに過ぎないと考える人々もいます。これらの人々をファンダメンタリストといい、キリスト教教派の中で超保守主義派に分類されます。
神が言葉、それが人間という媒体を介したにせよ、神という存在が能動的に自らの意思を表現なさり、愛の神の存在と、救いの道をメセージとして明確に人類にお示しになったことをここでまず認めようではないか。そうでないと、先へ進めない、信仰は始まらない。
『実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。』(ローマ10:17)と書かれています。まず神の言葉に耳を傾けよう、そこが信仰の始まりです。聖書を読む時は、心を静め、まずは心の中に神の聖霊が働きかけるように祈りながら読むことが大事です。聖霊の導きを常に求めながら、謙虚な気持ちで、神の言葉として聖書を読もう。『人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、〝霊〞に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。』(コリント第一2:13)霊によって霊のことを解釈するのです。『〝霊〞は一切のことを、神の深みさえも究めます。』(コリント第一2:10)
論語読みの論語知らずではないが、当時のユダヤの学者たちも聖書は研究していた。『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。』(ヨハネ5:39)
聖書のあらゆる記述の中に、キリストが証されています。聖書の言葉を聞くことによって、キリストを発見していくことが大事なことなのです。
聖霊の導きを求めつつ祈りつつ聖書を読もう、そのとき神は自らの存在をあなたにお顕わしになります。今まで神はいない、神の存在など信じることはできなかった者が、神の存在を信じれるようになれるということは素晴らしいことだ。人生の意味が発見できます。自分が何のために存在し、何のために生きなければならないか、その理由がわかって来ます。人生の意味、目的が分かれば、こんなに素晴らしいことはない。少なくとも、今までよりも、積極的な人生、生きがいのある人生を送ることが出来るはずです。
キリスト教のポイント
いくつかポイントを挙げて説明しよう。信じる、信じないは、個人の自由であるので、ポイントだけを挙げてみよう。
・まず、神はよろずの神ではない。一神教である。動物が神でも、自然が神でもない。
・天地を創造した唯一神を礼拝の対象としている。人や自然界のもの、像、作られたものを拝むことは禁止されている。
・父なる神、主なる神、又はYHWH(ヤーウェ)と呼ぶ。
・キリストは人間となり、肉体をとった神、神の子と呼ばれるが、本質的に神です。
・聖霊は人格的な神です。単なるパワーではない。目に見えないが、あらゆる所に臨済する。
・神は3人いるのか?そうではない、三位一体の神です。
・キリスト教は、あくまでも、唯一神教です。
・神の言葉としての聖書を土台としている。行動規範も、理論も、教えも全て聖書に基ずく。
・但し、聖書の言葉は、単なる教理の言葉ではない。キリストを中心にした解釈をすべき。神の言葉を具体的に顕現したキリストを、聖書の中に見るべき。
旧約と新約の意味
聖書は旧約聖書と新約聖書から出来ている。約は翻訳の訳ではなく、つまり古い訳、新しい訳ではなく、契約の約である。
神と人間との間の救いに関する契約で、イエス・キリストが生まれる1,500年前に、イスラエル民族と神の間になされた約束が旧約聖書、今から2,000年前イエス・キリスト誕生後、弟子たちによって書かれた、神と全人類になされた、救いに関する新しい約束が新約聖書です。
宗教的な考えの中に、それがどんな宗教の中でも、この世での人間の生き方、行いは、来世に影響を与えるかという事がある。どんな宗教でも、善い行いをすれば、来世でそれなりの良い報いを受け、悪い行いをすれば、来世でそれなりの悪い報いを受けるという考えがある。
現世において、自分自身に恥のない生き方、良心的な生き方をして、周りの人々に称賛され、自分も徳のある生き方が出来て、幸せで一生を終える、来世など関係ない。(あるかどうかわからないのだから)そう割り切ってしまって良いのだろうか。
旧約聖書も新約聖書も神の存在が前提です。神と人間の間に、何らかの救いの条件がありそれをクリア出来れば、救われる。その条件を提示できるのは、神の専権事項です。人間の側で条件を変えることはできない。人間の生き方は救いの条件に大きく関係している。旧約聖書はどんな契約を神と人間の間で交わしたのであろうか。
人間は神の与えた規則を守れば救われる、代表的なものはモーセの十戒、神が人間に与えた規則を聖書用語では、律法と言う。律法の書であるモーセの五書には様々な決まりが書いてあり、600以上あると言われている。神の掟を守れば、この世でも恵まれて、死んだ後は天国に入ることができ、永遠の命が与えられます、と言うのが、旧約、ユダヤ民族が、今でも信じて、頑なに守っている律法なのです。ユダヤ教と言うのはまだ厳然と生きていて、旧約聖書だけを聖書と信じ、キリストは受け入れない。掟と様々な戒律、儀式をいまだに守っている宗教です。
新約聖書はどんな契約を人間に与えたのであろうか。人間と神との救いの契約は、律法を守ることではなくて、イエス・キリストが、罪深い人間ために、人類すべての罪を背負って、身代わりに、神の罰=死刑=十字架刑を受けて、人類の身代わりとして死んでくださった、この事を信じるだけで救われる。神の前にどんな極悪人も(普通の人も)罪が赦されて、地上では祝福され、死んだ後は、安心して天国には入れて、永遠の命が与えられる。これが神と人間との間で交わされた新しい契約、新約の意味である。
セブンスデー・アドベンチスト教会(略してSDAは、十字架の身代わり刑を信じることによって救われた以上、旧約聖書の様々な律法は廃され、もう守る必要はなくなったが、ただ、道徳律たる十戒だけはまだ廃されなくて、たとえキリストの身代わりを信じて救われても、十戒は守るべき神の言葉と考えている。クリスチャンはこの標準からは逃れられない。
例えば十戒の中に『…偽証してはならない。』(出エジプト記20:16)とあるが、偽りを真剣に、神の前に、告白し、悔い改め、イエスの十字架の身代わり刑を信じ、許された後、もう十戒は守らなくてもいい、自由だと考えて、クリスチャンになってから、嘘つき放題していたら、本当に悔い改めたと言えるだろうか。
何れにせよ、少し横道にそれたが、旧約聖書、新約聖書ともに神と人間との間の契約であり、古い契約(主にユダヤ民族と神との間の契約)、新しい契約(全人類と結ばれた十字架の信仰による救いの契約)の意味です。
人間は正しい行いをすれば天国へ入れるか(魂は救われるか)
さて来世があると仮定してだが、人間の行いは何らかの形で、来世に入る為に影響があるのだろうか。聖書はあると言っている。例えばローマ人への手紙を読むと、その中でパウロは、神を知らない異邦の民であっても、人間の本来自然に備わっている良心に忠実に生きれば、自分自身が自然に律法(良心に恥じない生き方)を守ることになって、救われるという趣旨の事を言っている。『たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。』(ローマ2:14)
イスラエルの人々は、単純に、神によって与えられた律法を守るならば、救われ、永遠の命が与えられると思いこんでいた。富める青年について言われたイエスのアドバイスがあります。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』『もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。』(マタイ20:16、17)イスラエルにはあまりにもたくさん掟があったため、続いてこの青年はどの掟を守ればよいか聞いたところ、イエスはモーセの十戒を守るように言いました。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ20:18、19)
戒律―それがどのようなものか、宗教によって様々なものがあると思うが、いずれにせよそれらを守ることによって、悟りが開けたり、道徳的な生活が送れたり、来世に入る希望が与えられたりします。
しかしキリスト教の本質は単に来世に入るために戒律を守る事を超えたところにあります。神を信じている人が、救いの神を知り、その崇高な律法の要求を知って、神の律法を表面的には守っていたとしても、それを超えたところにキリスト教の本質があるのです。
パウロは断言する。律法を守る事によっては誰も救われず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのだ。人間は本質的に、肉に売られており(霊と逆の表現)、生まれたまま肉の性質を持っている人間はそのままどんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる律法の要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけだ。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)
人間の精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、そのままではどんなに努力くしても、神の崇高な律法に従う事は出来ないのです。神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来る、肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないけど、人間の内面が神の霊による生まれ変わりを経験して(新生)、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになる。(聖化)
信仰には色々考え方があるが、私はすべての段階において、人は行いによって救われるのではなく、ただキリストの十字架の身代わりによる死によって、それを受け入れ信じることによってのみ、神の前に義と認められる、と考えます。
クリスチャン生涯、どの段階においても、常に、キリストの贖罪によって、義とされ、義認され、信仰のみによって救われて行くのです。『自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。』(コリント第一4:4) 『罪と何のかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。』(コリント第二5:21)
義とされた後のクリスチャンの行いは、キリストを聖霊の内住という形で、キリストに常につながることによって、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことができるようになります。
『すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。』(コロサイ1:28)
『あなたがたは、主キリスト・イエス を受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。』(コロサイ2:6)
とは言え、人間の努力や行いは、人間の社会、現実生活には必要な側面もあるので、救いとは別次元で、それを認め評価する事が必要であると私は考えます。修行、戒律、宗教は違っても、様々な戒めを守る努力、日常の規範においては、それぞれ適宜役に立っている場合もあるのです。
それどころか、社会の仕組みを考える時、そこには様々な決まり、法治国家として法律、規制等があります。これらも戒めと言えば戒めであり、全員が守っているとは限らないが、法律によって我々も、社会も形成され、維持されています。繰り返しになりますが、人間の努力や行いは、人間の社会、現実生活には必要な側面があり、私達は教育や自己鍛錬によって、社会規範を守るように、良い市民となれるようにして行くべきです。
『律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。…律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、…父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、…偽証をする者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。』(テモテ第一1:8~10)
2,現行罪と心の中の罪
キリスト教では外面の行いも大事であるが、戒めはそもそも内面の方がもっと大事です。例えばこの世の法律では人を憎み、殺したいと思っても、思っているだけでは罪に問えない。実際に実行すれば、殺人罪となり、罪の刑罰を受けることになる。この世の法律では思っているだけでは、犯罪にはならない(内心の自由)。罪人とも呼ばれない。
キリスト教では内面の方がもっと大事です。実際に現行罪としての罪も罪であるが、思っただけでも罪になります。神の聖なる律法はむしろ人間の思いを問題にする。
『兄弟を憎む者は皆、人殺しです。』(ヨハネ第一3:15)
全人類中、人を憎まなかった者が、誰一人としているだろうか、こういう意味で私達は皆罪人です。誰がみじめな私を救えるだろうか、心では神の律法を喜んでいるが、それを行う力がないのです。神の律法を行えなくしているのは、私達ではなく、私達のうちに宿っている罪だ、とパウロは言っています。ローマ書7:7~17を是非一読されたい。
だから人間は、神の前に謙遜になって、悔い改め、キリストの義、贖罪、を求めるしか救いはない。キリストの身代わりの十字架刑(本来は私やあなたが神の前に有罪宣告をされ刑死すべきもの)によって、死という代価をもって、買い取られる以外に救いはない。
そのことを信じることによって、誰にでも、無代価で与えられる救い、それを罪をあがなう(贖う)贖罪と言う。ただしそれは、自分の努力で自分を贖うのではなく、キリストの功績によって、買い取られるのです。
神はキリストの十字架と言う値で私達を買い取ったのです。そのことを受け入れ、自分の事として信じることによって、救いは自分のものになります。信仰とは何か、色々な考え方があるだろうが、信仰の本来一番大事なところは、これらの事を信仰し自分のものにするという事なのです。
十戒を見れば見るほど、自分の至らなさが示され、律法はキリストに我々を連れて行くための養育掛としての働きをする。『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育掛となったのです。』(ガラテヤ3:24)
人間の思いの中にある罪を自覚し、キリストの十字架のもとに連れて行かれ、悔い改め、神に義とされ、赦されて、神の前にキリストの義をいただいて救われる。救いは単に聖なる律法を守るという事ではなくて、イエスの十字架の身代わりの死、自分のための罪の贖い、贖罪を受け入れることによって実現する。
とは言え、人間の行いは何らかの意味で、来世に入るために関係がありそうです。救われたら、行いは何も関係なければ、悔い改める必要もないわけだ。クリスチャンの行いは、義とされた以上、赦された以上、全く関係ないというようなことは聖書のどこにも書いていない。『それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。』(ローマ3:31)むしろ信仰によって律法は確立されていくのです。それはキリストに常に結ばれて、聖霊と言う形でキリストが心の中に内住することによって律法が守られていくのです。律法と言うと何か規制されるような気がするが、実は律法の精神は愛(隣人愛)です。
『愛する者は、律法を全うしているのです。姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。』(ローマ13:8,9) 『神は愛だからです。』(ヨハネ第一4:8)律法は神の性質を表していると言われている、ですから律法の根本は愛である。愛する者は、律法を全うしているのです。
クリスチャンは自分自身を振り返り、反省し、神の前に悔い改めることによって救われます。どの信仰の時点においても、救いは常にこのようなところ、原点に戻ることにより、救いが認識され、確認されていくのだと私は思います。
また、真の神を知らず、良心的に生きてきた人々も、やはり自分を振り返り、悔いをもって反省し、たとえ神を知らなくても救われていくのではないだろうか。神を知らない方々も、良心的に生きていればいるほど、反省は重要なことであり、1日を振り返れば、足りないことばかりが思い浮かぶのではないだろうか。この悔い改めにも似た反省の気持ちが人間としての謙虚さであり、成熟するうえで大事なことです。悔い改めと言う言葉は知らないかも知れないが、このような心の作用によって神を知らない人々も救われて行くのではないだろうか。
ローマ人への手紙を読むと、その中でパウロは、神様を知らない異邦の民であっても、人間の本来自然に備わっている良心に忠実に生き、救われていくのではないか、良心がれば、自分自身が自然に律法(良心に恥じない生き方)を守ることになって、救われるという趣旨の事を言っている。『たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。』(ローマ2:14)もちろんこの場合も反省と悔いの心をもって生きると言う事であって、ただ良心に恥じない生き方をしたという事ではないと私は考える。神を知らない人であっても、本当に良心的な人であれば、反省と悔いの心は、必ずあるはずです。100%悔いのない1日などあるのだろうか。その反省と悔いの心によって、神を知らぬ人々も救われて行くのではないか。
では信仰してもしなくても救われるのだったら、信仰する必要がないではないか?と言う議論も出てきます。私はそれは救いの確実性という事だと思う。やはり聖書を読んで、キリスト教会に通い、常に悔い改めの祈りをなし、自分の義に頼らず、ひたすらキリストの功績により頼んでこそ、救いの確実性が増し加わると考えます。
律法には養育掛用法と、もう一つ見落としがちであるが、標準的用法があると考えます。クリスチャンとしてのスタンダードを示し、キチッとしたクリスチャンを作り上げるのに役立つ用法です。標準に達しているから救われる、達していないから救われないという事ではなく、クリスチャンとして、達すべき標準を示すことは、大事なことではないだろうか。行動の規範として適用される、標準的用法とも言われる律法の作用は、未信者から後ろ指を指されないためにも、現代のクリスチャンにとって必要です。模範的な生き方が出来ない人に、未信者はついてきません。
『律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。…律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、…父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、…偽証をする者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。』(テモテ第一1:8~10)
盗まない、 嘘つかない、殺人をしない、姦淫をしない、同性愛をしない、偶像崇拝をしない、週の第七日目安息日遵守、貪欲に陥らない、人を憎まない、天地創造の聖書の神のみを拝むこと、神の御名をみだりに唱えない、父母を敬う事、等まだまだあると思うが、守らなければならない標準が聖書の中に書いてあり、クリスチャンになればこれらの事を行動の標準として遵守すべきです。これらを守ったから救われるとか救われないとか言う事ではなくて、このような標準に達することが期待されているのです。
いささか脱線するが、殺人には、人を殺すことだけではなく自分を緩慢に殺す事も含まれます。すなわち、健康に反する飲食物、食習慣、アルコール摂取、喫煙、運動不足、睡眠不足、過重労働を含めて、それらを避けなければなりません。大変広範囲な適用が考えられます。もちろん、文字通りの自殺もしてはなりません。
キリスト教の神とは
日本人が一般的に考える神は八百万の神であり、ご神体として、巨木、奇岩、狐、蛇、蛙等があります。また神社等、神聖なものに宿る神霊、精霊等。そのような神イメージは汎神論的なものであり、キリスト教の神ではありません。
キリスト教の神は天地創造の神、愛の神であり、絶対者です。
『すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。』(ローマ11:36)
『唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。』(テモテ第一6:16)
神の言葉 神の顕現としてのキリスト
神の言葉は神の思想を表しています。聖書は神の言葉であるが、実は聖書はキリストを証ししているのです。
『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたし(キリスト)について証しをするものだ。』(ヨハネ5:39)
聖書のあらゆる記述の中に、キリストが証されています。聖書の言葉を読むことによって、その中にキリストを発見して行くことが大事なことです。
例えば旧約聖書にモーセが杖でが岩を打つと、岩から水があふれ出したと言う故事があるが、その岩はキリストを表している。『この岩こそキリストだったのです。』(コリント第一10:4)
『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』(ヨハネ1:1)
『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。』(ヨハネ1:14)
キリストそのものが、神の言葉です。神の顕現であり、具体的に神はどんな方であるかを表現しているのです。それどころか、キリストは肉体を取られた神なのです(受肉)。聖書を読んで、その中にキリストを見出さなければ、最も大事なテーマを見失うことになります。
父なる神=神 神の子キリスト=神 聖霊=神 これを三位一体の神と言う。
復活のキリスト
人間は一度生まれ、一度死ぬことは定められている。古今東西この定めから逃れられた者はいない。仏陀ですら、自分の死期を悟り、第一の弟子ア-マンダに告げ、お前が引き留めてくれたら、もう少し長生きをして、教えることが出来るのに、とア-マンダを3度咎めたとパーリ経に伝わっている。
ところが聖書は違う、人間は一度生まれ、一度死ぬことと、墓に入った後、一度復活することが定められている。キリストを信じようが、信じまいが全人類は復活することになっている。
『時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子(キリスト)の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。』(ヨハネ5:28,29)
サラッと書いてあるが、このキリストの言葉が真実であるならば(偽りのないキリストの言われたことは、私は真実に違いないと確信しているが)、私達の人生観を大いに変えなければならない。人間として生まれたら、死んで、墓に葬られて終わりではない。信者も未信者も、信じても信じなくても、善人であろうと、悪人であろうと、復活の時には多少の時差(後述)はあっても、皆復活すると言うのだから、これはえらい事であります。ある時点で、(それがいつであるかは後述)人類全員が生き返させられます。何十億、いや歴史始まって以来、何百億という人が復活させられるのです。ただし、神の裁き、審判を受ける為か、それとも赦されて、永遠の命を受ける為か、目的は違ってもとにかく、一度復活させられるのです。イエスのもてなしで、いつもお世話をしていたマルタと言う女性がいました。マルタは言いました、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております。』(ヨハネ11:24)
キリストは十字架刑で磔になり、午後3時頃にお亡くなりになり、その日は金曜日、日没よりユダヤの週の第七日目安息日(金曜日日没~土曜日日没まで)が始まるところであり、その週の安息日が始まる前に、まだ使っていなかった新しい墓に葬られた。
翌々日の、今で言えば、日曜日、週の第一日目の朝早く、マグダラのマリアたちが、イエスの葬られた墓に行くと、既にイエスは復活しており、墓の中を覗いたところ、空であったと聖書に記されている。
『あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。』(マタイ28:6)
キリストは復活なさってから三回以上『イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。』(ヨハネ21:14)弟子たちの前に出現し、さらに500人以上の人々に目撃されている『次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。』(コリント第一15:6)
果たしてキリストの復活は作りごとであったのだろうか、私はそうは考えない。もし復活がなかったら、弟子たちはキリストが亡くなった後、大失望し、それぞれの故郷に帰り、元の職業である漁師に戻り、普通の生活をし、キリスト教が全世界に宣教されることもなかっただろう。どうして失望し、チリジリになっていただろう弟子たちが、もう一回元気を取り戻し、ヨハネを除き全員、後日殉教死する程の信念と力が与えられ、当時の社会を変えていくような、新しい宗教の宣教と、目覚ましい信仰の復興を遂げたのであろうか?
その答えは、キリストが本当に復活したと考える以外にないのです。
イエスは、復活後、弟子たちの前に現れ、その証拠として、わざわざ魚を目の前で、お召し上がりになった。
『イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。』(ルカ24:41~43)
魚を食べて見せることにより、自分は神の子であり、預言どおり復活したことを証明した。キリストの復活をその後、周りの多くの人々が目撃した。キリストの復活を見て、弟子たちは勇気付けられ、当時のイスラエルを中心にキリスト教を広めて行った。復活以外に弟子たちの覚醒の原因を考えられない。
私たちの頭は、科学的でないものは現代において、受け入れない。しかし信仰の世界においては、どうしても、ありのままに受け入れ、ただ信仰のみによってしか把握できないものがあります。それがイエス・キリストの復活です。理性で考えてもそればかりは、その場にいて見ていた訳ではないので、聖書の記述、弟子たちの証言を信じるしかない。多くのキリスト教の教派において、様々な教理の相違はあるけれど、復活だけは共通しています。復活の文字を、教会名に取り入れた教団は数多くあります。復活を受け入れ信じなければ教会に加入する事、教派はどうであれクリスチャンになることは、困難です。信仰は理性を否定しない、あるところまでは理性的に考えて行く、しかしあるところで飛躍しなければならない、それが復活のところだと私は考えます。
自分がある牧師によって、個人的に聖書研究を始めた青年時代の頃を思い出して見る。私は以前からキリスト教は良い教えだと思っていた。私の叔父が熱心なクリスチャンであり、その家で、牧師を呼んで特別に私の為に、個人的な聖書研究会を開いてくれることになった。聖書を研究すればするほど、私は、心の中では、何とかキリスト教を信じたかった。しかし中々信じることが出来ないでいた。今を思えば私の理性が、私が信仰に入るのを邪魔していた。今まで進化論が唯一の真実だと思い込んでいた私にとって、この宇宙も、地球も、人類も総てを創造された、絶対的な神がいる事を信じることは大変難しいことであった。(進化論と創造論‐後述)
ある時どこかで飛躍が起きたのだ思う。それは単に十字架で、お気の毒にも、無実の罪で殺されたと思っていた、歴史上のキリストが、個人的に、田中清二の犯した総ての罪を負われて、自分の代わりに、父なる神の刑罰である死を受けてくださったとわかった時に、私は神の前に、ひざまずき、赦しを祈った。そこが私にとっての、信仰の飛躍であったと私は思う。
さて、ユダヤ教の祭司長たちは、イエスが生前、3日目に復活すると言っていたことを思い出し、当時のユダヤ総督、ピラトに願い出て、3日目までローマ兵をイエスの葬られた墓につかわし、見張りをしてもらうように手配した。見張りのローマ兵はイエスが復活したことを、週の初めの日の朝早く目撃し、早速、祭司長たちのところに駆けつけ、そのことを報告した。
『そこで、…兵士たちに多額の金を与えて、言った。「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさい。…この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている』(マタイ28:12~15)
出来うれば、本文書をお読みの皆さまが、そのような噂の方を信じることなどないように、願うものです。
イエス復活の余りのすばらしさに、一つの弊害がおきてしまった。当時の礼拝は、シナゴーグと呼ばれるユダヤ人の会堂で、ユダヤの安息日である土曜日に行われていた。現代でも、ユダヤ人は土曜日の安息日を守っているが、キリスト教徒は復活の記念として、キリストが復活した日曜日を礼拝日にしてしまった。このことは聖書には何の根拠もない。土曜安息日は、十戒の第四条に厳しく定められており、礼拝日の変更は、聖書に何らかのハッキリした根拠がなければなりません。聖書のみにより安息日の変更は証明できませんので、私たちは聖書的な安息日礼拝は今でも土曜日であると考えています。
祈りの重要性(1)
さてここで、祈りについて触れておこう。祈りについて100万遍解説しても、実際祈って見ることが、何より大事です。誰に対して祈るのか‒天地創造の父なる神。誰のとりなし、仲介によって祈るのか‒肉体を取られ、私達と等しい人間となった、イエス・キリストの名によって。自分の力によって祈るのか‒そうではなく、聖霊の臨在と導きで。何を祈るのか‒基本的に何でも良い。(物質的必要、精神的必要、健康、家内安全、無事故、他人の為、自分の為等)‒ただし人を呪うようなことはダメ、聖書の御言葉に合うように祈る。途方もないこの世の欲望を満たすようなことは最初からダメ。祈る形はひざまずき、歩いているとき、仕事中、どんな格好でも、いつでも。場所‒教会と限らずどこでも。出来たらいつも祈れる自分の祈り場を確保すると良い。声を出して祈ること、心の中で祈ること、どちらでも可。色々祈りについて様々な意見もあると思うが、私が51年間信仰してきた結論から言うと、神の存在を実感出来るのは、やはり祈らないとちょっと難しいかな、これは個人的な意見です。
また祈りの終わりに唱えるアーメンはヘブライ語で、本当にとか、真実にとかいう意味です。日本語で、そのとおりです、真面目に、真実に祈ります、というような思いを込めた、言葉です、おまじないではありません。アーメンに抵抗ある人は、日本語で、「その通りです。」と唱えて差し支えありません。
愛の律法
律法についてはいくつかの用法があるのは前述した通りです。しかし究極的な意味での律法、すなわちイエスの戒めがある。
『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13)
友のために命を捨てるほど愛することが、最大の愛であり、そこまでいかなくても、人の為に、多少犠牲になってあげるとか、家族のために自分のやりたい事を少しは我慢するとか(愛としては少し小さな気がするが)このようにすることが、イエスの戒めの意味です。
私もこの御言葉『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』の前に立つと、「神様ゴメンナサイ、私はとっても自分の命が大事で、利己的な人間で、人の為に命を捨てられません」と祈るしかないのです。
しかし聖書の他の場所に、『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』(マルコ10:27)とあります。ヨハネも言っている『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)大変な事を12弟子の一人、愛の使徒と言われたヨハネは、ここでサラッと言っている。これが真面目に言えて、実行できる人が本当にいるんだろうか。(ヨハネは別にして)
これが聖書の言う律法の本質なんだろうか。これが出来なければ、皆罪人なら、私も含めて私達皆罪人です。
しかし違った面からもう少し考えて見よう。命は良く考えると時間に等しい。時間の連続が命を形成している。今瞬間にも命があるが、命を継続して送ることができるのは、時間が継続して持てているからだ。
完全に命=時間とは言えない気がするが、仮に、命=時間と考えるならば、友のために命を捨てるとは、友のために自分の時間を少しでも削って行くことではないか。自分のやりたい事ばかり、自分本位の生活の中でやっていく事は、この法則に反するだろう。友と言わず、他人のために、何か自分の時間を割いてあげて、やってあげることが、命=時間を捨てることではないだろうか。それが時には大きな愛になり、中程度の愛になり、最も小さな愛になる場合もある。例え、小さな愛であっても、皆がこのキリストの言葉の原則に生きるならば、それは積み重なって、良い意味での変化を周りの人々に及ぼしていくのではないだろうか。
3,キリスト教会の教派について
キリスト教会の教派について、どうしてこんなに色々な派があるのだろう、誰でも思う疑問である。それにはどうしても過去の歴史的経緯を見ないと説明ができない。紀元後31年にキリストが十字架刑についてから、すぐ原始キリスト教会が始まった。最初は教会のような建物はなく、ただ普通の家に集まって集会をしていた。キリスト教は出発の最初、ユダヤ人から、激しい迫害を受けた。ユダヤ教の新しい分派とみなされ、異端の教えとして迫害された。ユダヤ教はイエスをただの人間と考え、救い主としては受け入れない。ユダヤ教の神は、見えない存在、唯一絶対の存在、天地を創造し、人間を創造した。信仰の父と言われるアブラハムから連綿と続いてきた、ユダヤ民族のための宗教であった。ユダヤ民族は旧約聖書のみを信じ、唯一、真の律法を神から与えられたことを誇りとし、周りの諸民族(異邦人)とは婚姻によって混ざらず、民族の純血と独自性を誇り、自分たちを特別な民族、神に選ばれた民(選民)と考えてきた。
ところが新たな分派である、ユダヤ教から見れば異端のキリスト教は、旧約聖書は否定しないものの、ナザレ村から出た、死んでしまったのに、生きているという、一人のユダヤ人イエス・キリストを、人間となった神であるとして礼拝している(人間を拝むなどユダヤ教徒には絶対に許せないこと)。さらにキリスト教は、ユダヤ人は民族として、もう選民ではなく、神に捨てられたと主張し、神の言葉として旧約聖書に加えて、12弟子の書いた手紙を、また後から弟子に加わったパウロの手紙を、新約聖書として神の言葉に追加し、ユダヤ人があれほど蔑み、忌み嫌っていた異邦人に、神の言葉を宣教し、その勢力を当時のローマ帝国内に拡大して行った。ユダヤ人から見れば、大変不敬虔な、許しがたいのが、キリスト教徒であった。イエスを磔刑した最大の理由は、人間なのにイエスは自分を神の子と自称した事であった。『この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』(ヨハネ19:7)
キリスト教はローマ帝国によっても迫害を受けた。紀元64年、ネロ皇帝がローマ市内に火を放ち、それをクリスチャンのせいにし、大迫害をしたという、有名な話が伝わっている。
紀元392年ローマ皇帝テオドシウス一世の時、余りにもキリスト教徒が帝国内に増加したので、ローマ帝国の国教になった。このころからそれまでは純粋に聖書のみの信仰を貫いていたキリスト教が変容していく。ローマ帝国に昔からあった、多神教の習慣と、教えが教会の中に入ってきたと言われている。旧教とも言う、ローマ・カトリックが成立していく。 バチカンに本拠を構え、ローマ法王が神の子(イエス・キリスト)の代理者となり、法王の座から、発っする言葉には過ちはない(法王無謬説)を唱え、罪を許す権威を持ち⦅イエス以外に罪を許す仲保者はいない。『神は唯一であり、神と人との間の仲保者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです』(テモテ第一2:5)⦆、
様々な像を拝み⦅偶像、形あるものは拝んではならない(十戒の第2条)⦆、聖母マリヤを拝み(キリストよりマリヤ崇拝が多い‒聖書に根拠なし)、イエスの復活が週の第一日目(日曜日)だったからと言って、礼拝日を日曜日に変更⦅カトリック教会の権威によって旧約聖書の安息日、週の第七日目(土曜日)を変更したと認めている⦆、その他壮麗な寺院を建立し、礼拝を神の言葉を説くと言う単純なものから、煌びやかな、儀式中心なものに変容させ、聖職者には結婚を禁じ(聖書のどこにも規定がない)、修道院を作り、修行させ(聖書に根拠がない)、過去には、買えば罪を軽減されるというあの有名な免罪符を発行し(サン・ピエトロ大聖堂建立のための資金集めが名目)、数々の聖書にはない教えを実行してきた。
この旧教の余りにも聖書から離れた姿を見て、プロテスタント(抗議する者の意)新教が1517年マルチン・ルターによって成立していった。神学博士であったルターは、ドイツ、ヴィッテンベルク大学学生寮の塔内の図書室において聖書を研究していたところ、塔の体験として有名になる経験をする。それは『正しい者は信仰によって生きる』(ローマ2:17)と言う使徒パウロの言葉により、神の前に信仰によって義と認められる経験(信仰義認経験)をしたことであった。ここから総てが始まった。
その教えは聖書に帰れという事。ソーラフューデ(信仰のみ)、ソーラースクリプチャー(聖書のみ)、万民祭祀であった。(神父のとりなしなど必要なく、信者一人一人が個として直接神を拝する。)ちなみに、プロテスタント教会では、牧師は全く、神の前には平等な一人の信徒に過ぎず、すべての人は神に直接祈り、直接懺悔する。神父のような、神と人との間を取りなすような人はいない。それぞれが個人としての立場で、神を受け入れ、神に近づいていくのである。『神は唯一であり、神と人との間の仲保者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。』(テモテ第一2:5)『あなたがたは、…祭司、』(ペテロ第一2:9)
ただルターの改革で、ルター派ができたのであるが、聖書にはまだまだ改革しなければならないことがたくさんあり、一つ改革するごとに、一つ教派が産まれてしまったと言っても過言でない。例えば、カトリックもルター派も、洗礼は、水を頭に垂らすだけだが、聖書を読むと、水の中に下りて行ったとある。『二人とも水の中に入って行き、…洗礼を授けた』(使徒行伝9:38)沈めのバプテスマ、(浸礼)の方が正しいと気づき、バプテスト派ができた。
英国ではジョン・ウェスレーが信仰復興(リバイバル)を成し遂げ、メソジスト派ができた。米国ではメソジスト派はプロテスタントの最大教派である。青山学院はこの派の流れをくんでいる。
日曜礼拝は聖書のどこにも、はっきりした根拠がなく、ユダヤ民族が、今でも守っている、週の七日目安息日(土曜日)こそ、聖書の真の礼拝日であることに気づき、セブンスデー派ができた。
聖霊降下、聖霊による清め、を強調して、メソジスト派から分離しホーリネス派ができた。
文明を世俗的な物ととらえ、それを拒み、独特の風習で昔の生活をしているのが、メノナイト派、聖霊のバプテスマを強調し、異言を語る事を重視しているのがペンテコステ派、アッセンブリー派等様々な教派ができてしまった。
何が正しいかは、原点である、聖書のみの法則に照らして、それぞれが、個々の責任で良く聖書を学び、決めるべきであろう。その選択に、私の書いたものが役に立てば、光栄なことである。書き忘れたが、ローマ帝国は東西に分裂、西は西ローマ帝国(395-476)、東は東ローマ帝国(395-1453)となった。 それに伴ってカトリック教会も分裂し、西ローマ帝国にカトリック教会、東ローマ帝国に、東方教会と言われる、ギリシャ正教会ができた。ギリシャ正教会は、ビザンチン(コンスタンチノープル、現在はイスタンブール)に居を定め、発展していった。別の総主教がいる。(法王とは呼ばない)彼らは像を、偶像礼拝だからと言って拝まず、代わりに絵を拝む(イコン)。この派が、ロシアに伝わっていったのがロシア正教となる。プロテスタントから見れば、像であれ、絵であれ、形あるものは作ってはいけないし、拝んでもいけない。『…いかなる像も造ってはならない。…いかなるものの形も造ってはならない。…それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。…』(出エジプト記20:4,5)これは十戒の第2条です。絵だから良いとは、私達新教には解せない、東方教会の変な見解ではある。ちなみにどちらも旧教に属す。
脱線ついでに、16世紀、英国で、教義上の問題でなく、政治的問題(国王ヘンリー8世の離婚問題)が原因となって成立したのが英国国教会。カトリック教会から分裂した。礼拝儀式、教義等はカトリック教会との共通点が多い。アングリカン・チャーチともいう、日本では聖公会と呼んでいる。これは一応プロテスタントに分類される。本当にプロテスタントと呼べるのかは議論の余地がある。
日本では昭和15年に宗教団体法が施行され、余りにもたくさんある日本のキリスト教派を当局が管理しやすいように、日本基督教団の名のもとに諸派が加わるように勧め、加入しない独自の教派は、徹底的に宗教弾圧した。戦後日本基督教団から脱退し、独立した教派もあったが、日本基督教団はたとえ官憲によって強制されたとはいえ、これも神の御旨であったと考え、そのまま教派の集合体として、今に至るまで存続している。私の個人的な立場は、教派は聖書に基づく教えをそれぞれが、正しい解釈と思って(本当に正しいかどうかはまた別の論議になるが)成立したもので、人為的な団体をそのまま存続させるのは、おかしいと思っている。
英国においてメソジストの牧師であったウィリアム・ブースが始め、日本では山室軍平が組織したのが、社会奉仕が主な特徴の救世軍、社会鍋で有名。
中田監督で有名なホーリネス(信仰による病の癒しを強調し、イスラエルの為祈る、現在ホーリネス系の分派多し)、内村鑑三が創設した、教会組織を否定する無教会派(東大閥に多い。聖書を原語で読むので有名)
ものみの塔は三位一体を否定し(大昔のアリウス派の流れか、紀元325年ニカイヤ会議で異端とされた)キリストは神に造られたもので神ではないと主張、政治参加、投票も含めてやらない、輸血を拒否するのでも有名。
キリストの幕屋‒神道とキリスト教の融合を試みる、手島郁郎が創始者。(無教会系)
モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)米国ユタ州を本拠地として、ヤコブ(イスラエル民族の始祖、アブラハムの孫)に妻が複数いたことを理由に、一夫多妻制を採用(今は教義を変更して禁止している)、聖書とは別の聖典であるモルモン経典を使用(ジョセフ・スミスが神から任命された預言者、彼が天使からもらったと主張)。キリストの身代わりの贖罪は完全否定、モルモン教会の礼拝、儀式に参加することによって救われるという。
さて聖書を学びたいが、どの教会を選んだら良いか、教えてください、という事を良く耳にする。そんな疑問について、私は「キリスト教は聖書を、基にしているのだから、出来るだけ聖書に従っている教会が良いですよ」と答える。
聖書は、偶像崇拝を禁止しているのに、像や、絵を拝む教会は聖書的でない。十字架の形すら、首から下げたり、拝むことはしない。父なる神 子なる神キリスト 聖霊なる神 三位一体を否定する教会は、聖書的でない。 週の第七日目安息日(土曜日)が正しい聖書的な礼拝日です。週の第一日目(日曜日)の礼拝日は聖書的でない。
預言の実現について
預言とは一般的には予言のことではあるが、聖書では、神から預かった言葉として、予言もその中に含めて『預言』と書く。預言者は、超自然的に、神の霊が個人に降下し、神の代わりに、その時代に、予言を含む、神からのメッセージを伝達した。たとえイスラエルの王であろうと、その言葉に耳を傾けなければならなかった。旧約聖書イザヤ書は、紀元前700年頃、預言者イザヤによって書かれたが、その中に明確なメシア預言がある。有名なイザヤ53章であり、章全体がキリストの贖罪を預言している、是非一読していただきたい。
『彼(イエス)が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎(とが)のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷(十字架)によって、わたしたちはいやされた。』(イザヤ書53:5)
イエス・キリストが私たちの身代わりに、私たちのために、神の刑罰である磔刑を受ける姿が、そのことが起こる700年前にハッキリと預言され、描かれていることに、驚きを禁じ得ない。神が存在しなければ、このような預言ができるはずがない。
ダニエル書の預言にも、この世界の行く末がハッキリ示されている。ある日ネオ(新)バビロニア(紀元前625~紀元前539)王国のネブカデネザル(映画マットリックスで船の名前に借用されていた)王が夢を見た。頭が黄金、胸と腕が銀、胴が青銅、脚が鉄、足が鉄と粘土でできた、人の形をした像が立っていて、大きな岩が足元に飛んできて、像を粉々にしてしまう夢であった。預言者ダニエルが、これは各時代を表している事を解き明かした。(ダニエル書2:31~45参照)黄金が新バビロニア(紀元前625~紀元前538)、銀がペルシャ帝国(紀元前538~紀元前330)、青銅がギリシャ帝国(紀元前330~紀元前146)、鉄がローマ帝国(紀元前146~紀元後476)、粘土と鉄が、ローマ帝国が分裂してその後滅びた時以降、統一した帝国にはならなかった、国々に分裂したヨーロッパ、現代に至る。
青銅器の文化と言われたギリシャ帝国を良く象徴的に表している。鉄のローマと言われるローマ帝国、武器に鉄を多用したので、像はその特徴を良く表現している。土と粘土は混ざらないので分裂した国家の特徴を表している。前にも述べたように聖書では岩はキリストを表し、やがてキリストが(初臨‒キリストの生誕は2,000年前)再臨(世の終わりにキリストが再び来る事)し、神の国が出来ると言う預言であった。ダニエル書が紀元前に書かれたことは間違いない。どうやって歴史全体を預言することが出来たのであろう、それは人間の歴史を支配しておられる神がいて、その方が私達のためにお示しになったと考える以外にほかにない。
新約聖書最後に納められているヨハネ黙示録も預言書です。有名なのが世界最終戦争を表しているハルマゲドン(ヨハネ黙示録16:16)です。この言葉は、映画の題材として、使われることも多いので、聞いたことのある方も多いであろう。しかしこの解釈についてはキリスト教各派色々あって、ここでは説明は避けておこう。
さて聖書に基づいた私の予言を一つ、ヨーロッパは一つの国にはなりません。英国のEU離脱は神から出たことだと私は考える。
預言の目的は何か、色々な、災害、災難に対して準備ができる等、様々な理由が考えられるであろうが、私は神の実在性の確信が得られることだと考える。我々現代人はチャールズ・ダーウィン(1809~1882)によって進化論的な思考、歴史観にすっかり慣らされているので、なかなか、聖書的な神の存在、歴史を支配する人格的な神の実在を受け入れ、信じることができない。ところが預言はどうだろう、否定することができない神の関与が人類歴史にハッキリ標されている。人間の理論を超えた、絶対の存在である神、その方を認めることこそ、預言の果たす最も大切な働きであるように、私には思えます。
4,死後の問題
死後の問題について、宗教の重要テーマなので触れないわけにはいかない。死後は何もなく、死んでしまえば、すべて終わりで、生きている今を楽しめばそれで良いと考えている現代人にとって、なかなか受け入れるのは難しいと思うが、聖書はこの問題について、明確な答えを示しています。イエス・キリストは、死はそれですべて終わりではなく、死後復活があると言った。
『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』(ヨハネ11:25)
イエスその方が、死から最初によみがえった方であり、その方を受け入れ信じるものをもう一度、永遠の命によみがえらせてくださるとのお約束です。
『わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)
ただ復活には2種類ある。罪を赦され裁かれない復活と、もう一つは裁かれる復活。この2つの間には大変な時間の隔たりと、復活の質が違うが、それはまた千年期のところで、後述します。
『時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子(キリスト)の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。』(ヨハネ5:28,29)
復活はいつ起こるのか、それはキリスト信者にとってはキリストの再臨(初臨2千年前、再臨‒世の終わりにもう一度キリストが来る事)の時です。
『主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、』(テサロニケ第一4:16)。
死んでから復活するまでの間、死んだ時期によってかなりの時間差があるが、その間、どこかに魂が浮遊しているのだろうか、それはない。
死とは眠りである。
『わたしたちの友ラザロが眠っている。』『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう』『そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ」』(ヨハネ11:11~14))ラザロは死後4日たっており、匂い(死臭)がした。『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。』(ヨハネ11:39)その後、イエスはラザロを死からよみがえらせます。『「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。』『すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。』(ヨハネ11:43,44)
ラザロは仮死状態から目覚めたわけではない。完全に死んでおり、腐り始めていた。そのラザロをイエスは復活させたわけだが、この時イエスは死を眠りと言った。『わたしたちの友ラザロが眠っている。』(ヨハネ11:11)死んでから復活するまでの間は眠りです。深い眠りには意識がない。、いつ死んだかは、死んだ本人にとってあまり時間的な意味を持たない。死んだのが、4日前であろうと、1年前であろうと、10年、100年、1,000年前であろうと、本人にとっては、一瞬の出来事に過ぎない。死んだ者はその瞬間から、深い、意識のない眠りにつく。
聖書では人間は土から造られ、神がご自分の息を吹きかけると、息をし始め、生きたものになったと、創世記2章に描写されている。土たす神の息が生きた人間になったので、息がなくなると、人間は死んでに土に返る。息そのものは、どこかに浮遊しているのではなくて、神の息に戻ってってしまう。息そのものには個々の意識等はない。『息吹を取り上げられれば彼らは息絶え、元の塵に返る。』(詩篇104:29)『塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。』(伝道の書12:7)霊は神の息であるから、思ったり考えたりするわけではない。
死ぬことを息が止まると言う。息を引き取るとも言う。神の息に引き取られてしまうのだ。再臨の時、もう一度神は息を吹きかける『その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』(創世記2:7)再臨の時、キリストを信じて死んだ者は、もう一度土から造られて生ける者になって復活する。体の材料はいくらもある土、この中に必要な元素はどんなものでも含まれている。ただし今度は二度と死ぬことはない、栄化された体に復活します。『今とは異なる状態に変えられます。……一瞬のうちにです。…死なないものを必ず着ることになります。』(コリント第一15:51~53)。
死後霊魂があることを否定する聖書の個所をいくつか挙げる。ユダヤでは口寄せ、死人の霊を呼び寄せることは禁じられていた。『霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。』(レビ記19:31)そのようなことを行うものは追放されなければなりません。『呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。…主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。』(申命記18:11~12)
聖書の中で、一ヵ所だけ、死者に問い合わせた王がいたこととが書かれている。預言者サムエルが亡くなった後、神に背いたイスラエルの初代王、サウルは(最初は善い王だった)、神に祈っても答えがもらえなくなり途方に暮れ、してはならないことをした。こともあろうに神が禁じておられた口寄せのもとに行き、死んだ預言者サムエルを起こしてもらい、そのお告げを聞きに行ったのです。聖書のこの個所を読むと、まことしやかにサムエルの霊が出て来るのですが、実はこれは、サムエルの霊ではなかったのです。サムエルは死んで、何の意識もなく、イエスの再臨の時に起こる復活まで眠っているわけですから、ここで出てきたのは、サムエルではなく、悪霊とも言われる何か別の勢力がサムエルを騙って出てきたのです。(サムエル記上28:11~19参照)
人間の世界に、科学では説明ができない、悪の霊現象があることは、認めておかないといけません。何故なら、いざそのような現象にあった時、信じてはいけないものを信じるようになる危険があります。このような悪の勢力の存在があることを知っていただきたい。何か困った事が起きたら、聖書の神、真の愛の神を忘れないでください。教会は全ての人に門戸が開放されています。決して悪の勢力に、尋ねに行ったりしてはいけません。
太平洋戦争末期、戦況が悪化し、どうにもならなくなった時、時の指導者、東条英機は霊媒のもとを訪ね、作戦を練っていたという話が伝わっています。
困ってくると人間は弱いもので、何をしてしまうかわかりません。そんな時、神に祈りつつ、聖書を読んで見てください『あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。』(詩篇119:105)とあります。
この世に幽霊はないし、死後の魂の存在はないのです、霊魂不滅説の立場は取りません。よくTVの怪奇現象の番組などを見ていると、何かそのような霊現象があると思わされてしまいます。そのような霊現象があるとしたら、それは何か、私達を騙すために、別の悪の勢力が、作り出しているものだと考えます。
『死者はもう何ひとつ知らない』『その愛も憎しみも、…既に消え失せ…、もう何のかかわりもない』(伝道の書9:5,6)死は眠りである、キリストが再臨して、眠りから起こしてくださる時、栄光の身体を与えてくださる。その時が来るまで、死者は何年でも眠り続ける、意識はないので、目覚めたときには一瞬にしか感じない。
仏教の生死観は、死ぬと何かに生まれ変わり輪廻転生し、輪廻転生を繰り返し、世界はその繰り返しのサークルの中を果てしもなく続いて行く。
キリスト教の生死観には生まれ変わりも輪廻転生もない。生まれた人は一人一回の自分の人生を生きて、自己責任をもった、人間の個体として生きて行く。死は眠りであるので、死んでから何年、何十年、何百年、何千年たとうが、本人にとっては一瞬にしか感じない。復活の時は栄光の身体に作り変えられる。
キリスト教の歴史観、最初に神の創造があり、途中で、人間に生まれた(受肉)キリストが来られ、十字架で贖罪を完成し、それから2,000年ほど歴史が直線的に続き、そして再びキリストが再臨なさり、この世界が一度終了する。その時、信者全員の復活がある。
『わたし(ヨハネ)はまた、新しい天と新しい地を見た。』(ヨハネ黙示録21:1)この地上が、造り変えられ、新天新地になって、本当の神の国が実現し、直線的に、永遠に続いていく。
5,進化論と創造論
進化論と創造論という、生命の起源に関して2つの考え方があります。どちらが正しいだろうか?それぞれに主張があり、それぞれに欠点があるのです。私は科学については、あまり得手ではないので、十分な説明ができません。どうしてもキリスト教に対する、護教的な論点に立ってしまいます。私個人の宗教体験の中で、日々神存在の確かさを確認している者として、公平な立場で論じることが出来ないのは、やむを得ないことではあります。
進化論は46億年前に地球ができて、最初は生物は存在しなかった。いつの時点か、隕石説とか、原始大気の中で放電の結果とか、宇宙人説とか、色々な説があるが、アメーバーのような単細胞の生命体が突然、偶然に、生じ、何十億年もかけて、それが次々と進化していき、進化の頂点に人間が出てきたという考えです。創造論は、聖書の創世記に書いてある、神の7日間による、生命創造物語をそのまま事実として受け入れ、動植物も、人間も神によって造られたと信じる、キリスト教派ではファンダメンタリストとか、福音派とか言われる人々が取る立場です。
まず進化論は理論であって、証明された事実ではないのだという事を頭に入れておこう。私達日本人は、小学生の頃から、進化論は唯一の正しい教えであると、叩き込まれているので、なかなか創造論を受け入れるのは困難です。キリスト教は道徳的には良い教えだが、何と、神の創造などという迷信をいまだに信じているのか?創造論は現代人がキリスト教を信じることが出来ない大変な障害になっているのは事実です。とは言うこの私も、入信した青年時代、人類がアダムとエバの2人から、すべて産まれて増え、何十億人にもなったいう事が、大変な疑問であった。ちなみに米国では、高校の教科書に進化論と創造論両方が記載されているそうです。
進化論の大きな欠点の1つが、進化の木と言われる、単細胞生物から、無脊椎動物、脊椎動物、魚、両生類、哺乳類と進化していく過程が、化石を取り出すと、順序良く並ばなければならないのに、並ばないことです。種類から、種類へ枝分かれして進化していく、分かれ目の化石が見つからないのです。これを失われた環、ミッシングリンクと言う。
進化論の欠点の2つ目は、遺伝子操作とか、キメラ(ギリシャ神話の異種が合体した動物)とか、そういうことは別にして、自然界の中では亜種以上の変化が起きていないことです。界門綱目科属種のうち属までの自然な状態での変化は認められていない。チャールズ・ダーウィンはガラパゴス諸島で、フィンチと言う鳥のくちばしを観察したところ、個々の島々で、その大きさが変化しているのを発見し、進化論を思いついた。しかし、亜種以上の種類を超えた変化は自然界には見られないのです。小進化(種類の中での変化)はあっても、大進化(種類を超えた変化)が見られないのです。簡単に言うと、犬はプードルやスピッツやダックスフンドになっても猫にはならないのです(例えは適当ではないと思うが)。
進化論の欠点の3つ目は、生命の化石が出て来る地層からは、もうすでに進化した姿で、色々な種類の化石が、大量に、一挙に出て来ます。これは進化論では説明ができない。アメーバーから、高等生物へ、突然変異や、優れた生物の自然淘汰が繰り返され、徐々にゝ高等生物に進化してきたというのが進化論なので、生命の爆発と言われるほど一挙に、かなり進化した状態で、地層から生物の化石が発見されるのは全く説明ができない(神がある時点で生命を創造されたと考える方が自然)。
創造論をいくつかの例で弁護してみよう。医学をしている学者が良く言う事であるが、人体等の精巧な作り、仕掛けが実によくできているそうである。人間の身体を研究すればする程、これが偶然にできたとは考えにくい、人体を設計した、何者かがいるのではないかと考えさせられてしまうそうです。
キリスト教の神は、神学的には『無から有を呼び出される神』(ローマ4:17)、存在しないところから、存在するものを呼び出し、存在させることが出来る絶対者としての神です。
昔は無から物質が生まれることは考えられないことであった。しかし、近年、物質が完全にエネルギーになることが発見され、その理論を最初に、数式で表したのがアインシュタインである。特殊相対性理論から導き出されたE=mc^2 の数式があまりにも有名です。神は無限のエネルギーをお持ちになっている。物質が100%エネルギーになるなら、逆にエネルギーを物質に変化させられるはずです。どんなに宇宙が広大であろうと、無限は無限なのであるから、無限の神は無限の物質をお造りになることはできるだろう。もちろん、宇宙の星々がすべて無から創造されたという事は、無理かも知れない。材料があって、宇宙空間にガスのようなものが渦巻いていて、それがいつか固まって、星になるということも天文学では観察されている。でも材料になる物質は最初からあったのだろうか。宇宙の物質を最初に造ったのは誰だろう?そんな疑問がいつまでも残るのだ。
では地球はいつ頃出来上がったのか考えてみよう。約46億年前と言う。それはどうしてわかったのか、実は地球上の、もっとも古い岩石は5から6億年前の岩石しか出てこない。マグマで変成してしまったり、自然界の変動、風雨による浸食、海水によって浸食されたり、色々な理由で、地球が出来上がった当時の46億年も前の岩石は、地球どこを探しても出てこない。ではどうして地球の年齢は46億年と分かったのか。それは地球に落下してきた隕石の年代を測ると約46億年前であることがわかり、隕石と地球の年代が同じであると推論されるためです。
岩石、隕石を含めて年代をどのように測るのであろうか。例えばウランが半減期で鉛に姿を変えていく、(ウラン238の半減期45億年、ウラン235の半減期7億年)最終的には全部鉛になるのであるが、その残量で年代を測定する。ところが最初に含まれている鉛の量が0だと仮定しているため、その岩にあるウランの崩壊による半減期の年代は大変長いものになる。
カリウム‒アルゴン法、カリウム40(半減期13億年)がカルシウムとアルゴンに変わる事を利用して測定。しかし大気中のアルゴンの混入もあるため、なかなか誤差の多い測定法と考えられている。
ヘリウム(4He)による年代測定はかなり正確に出るようだが、今まだ研究段階のようだ。
炭素14(C‒14)を使った年代測定は、4,000年位まではかなり正確に出ると言われているが、宇宙線によるC‒14の生成、海洋から大気中にC‒14が放出される等、誤差もかなりある。何億年というような長い年代測定はできない。
では宇宙の年齢は?ビッグバン理論によると138億年前に原因不明のビッグバンがあり、風船を膨らませるように、その爆発の中心から、放射線状に、無数の銀河が、外へ向かって無限の宇宙空間を飛び続けている。天の川銀河の直系は10万光年、恒星が2千億個あり、宇宙には天の川銀河と同じような銀河がさらに2兆個ある。それぞれの銀河自体がビッグバンから、すごい勢いで、外へ向かって飛び続けている。宇宙の大きさは観測できる範囲において、半径約465億光年の球状体。地球から最も遠い銀河が131億光年先にあるのが観測されている。
さてこの宇宙は誰が造ったのか、それとも自然にできたのか、ビッグバン前に銀河はあったのか、ビッグバン前の宇宙はがらんどうだったのか、そもそも何でビッグバンが起きたのか、何もわかってないのが現状です。
『天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。』(詩編19:2)宇宙は絶対者である神が造ったと考えるのはおかしなことだろうか?
さて創世記の創造物語を私なりに勝手に解釈させていただくと、以下のようになる。
『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』(創世記1:1~3)
神の地球、生命創造は無からではなく、何かの材料があったように思われる。それは地が今のような状態に出来る前の、材料になったガス状の物質かもしれない。混沌、カオス的なものがあり、どろどろとしたものか、また、水のような材料があった(太古の海水か?)。しかも神の霊が、水の面を動いていたとあるので、何らかの変動があったと考えられる。要するに神は地球上の材料を使って地球の面を整え、生命を造り、人間を造った。(土から作られた‒ヘブライ語で原語アダマは土、アダムは人)
「光あれ。」太陽をその時造ったのではなくて、闇に覆われていた混沌から、大気が分離し、昼と夜が創られた。『神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。』(創世記1:4,5)
太陽が見えて、光が射し込むようになった。闇が淵の面を覆っていたが、大気が生じることによって、地表に日光が射し込んで来たと考える。先に述べたように地球上の最も古い岩石は、5から6億年前の物であるから、それらの材料を使って、地球上を生命と、生命が生きれる環境を整備したと考えるならば、生命体の周りから、どんな古い岩石が見つかっても、矛盾はない。
化石の年代は化石そのものから測定することはできない。化石のそばにあった岩石から年代を測定する。化石のそばに、たまたま古い岩石があればその化石の年代になってしまう。化石そのものをC-14を使用して年代測定ができるのは、せいぜい正確には4,000年前位なもので、何億年と言うような単位ではC-14では、測定はできない。もし神が、地球を材料を使って、表面を整備したと考えるなら、化石のそばからどんな古い岩石が出てきても矛盾はない。化石の見つかった近くの岩石の年代を測る、イコール化石そのものの年代とはならない。
神の創造は、そんな、何億年も前ではなく、せいぜい数千年単位の、万とまではいかない比較的若い年代に起きたと、ファンダメンタリストは考える。
地層の問題も、同様に考えることが出来る。たまたまある地層から、何億年前の古い岩石が出たとする。するとこの地層は何億年前の地層となる。しかし岩石そのものがどんなに古くても、神はその材料を使って比較的若い年代に、地上を整備したとしたら、地層から古い岩石が、神がご使用になった材料として、出てきても、何の問題もない。何でこんなことを言い出しているかと言うと、ファンダメンタリストたちは、地層も大変動があった時代に、一気に作られたと考えるからだ。地層はもっと比較的短時間の間に形作られたのではないだろうか。フランスのサン・エチネにある地層で、何本もの化石化した木の幹が直立して、何層にも地層を貫いているところがあり、この考え方の証拠と言われる。その写真も公開されているので、ぜひ調べて確認してみてください。
6,異次元の空間の存在
ひも理論と言う言葉をご存知でしょうか?一般相対性理論と量子力学を統一できる理論として、物理学者が提唱し、まだ証明はされていませんが、万物を説明できる理論として期待されている。私の平凡な頭ではとても理解できないレベルの理論であるが、簡単に言うと、物質の素粒子のような最小単位の存在が、10次元の中で、ひものように存在しているらしいのだ。その理論にもう1次元、超重力理論を加え11次元を唱え、膜理論が提唱され、宇宙は膜のようなもので構成され、一つの膜と、もう一つの別の宇宙の膜の接触でビックバンが生み出されたと、宇宙論にまで発展している。物理学者は今、次元の違う宇宙空間が存在する可能性があると主張している。
さらに最新の宇宙論にはホログラフィック宇宙論と言って、宇宙の境界面に2次元の情報量(エントロピー)のある場所があり、そこから3次元の私達の住む世界が投射されており、私達のこの世界は仮想現実の世界かも知れないと、途方もない理論を展開している。
結論を言えば、私達は科学を信奉しているが、こと宇宙論に関しては何もわかっていないのが現実です。
天国と言うとはなはだ幼稚に聞こえるが、私個人の勝手な理解では、我々が住んでいる3次元空間の隣に、目は見えないが、別次元の存在として、別の世界が存在する可能性があります。
『神の国はあなたがたの間にあるのだ。』(ルカ17:21)
また、現実の存在として、父なる神と、イエス・キリストが存在する場所(天国)が次元が違う所にあって良いと考えます。物理学者ですら、膜理論の中で、我々が知っている以外の別次元の、宇宙があるかも知れないと言っているのだから。
『新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたし(ヨハネ)は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のよう に用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。』(黙示録21:1~2)
『…神が人と共に住み、人は神の民となる。…彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。』(黙示録21:3~4)
この宇宙のどこかに、あるいは別の次元の世界に、われわれが想像することもできないパラダイスがあるかも知れないのだ。こんなおとぎ話のようなことは、信じられないかも知れない。しかし、もし聖書が描いているような世界が、別次元に本当に存在したら、私たちの生き方は、この世においてすら変わってくるに違いない。
この世にあっても永遠の存在を信じ、善い生き方をし、空しいこの世の富や名声にこだわるのではなく、神の愛によって守られ、その愛を心に宿し、神を愛し、人を愛し、いついかなる時にも、希望をもって生きていく、そんな生き方を、人としてせっかく一度生まれたのだからしていきたいものです。
祈りの重要性(2)罪の告白と悔い改め
祈りは魂の呼吸であるといわれています。祈りによって神を引きずり下ろすのではなく、自分が神に近ずけるように、イエスの仲保により頼み、自分を整えていくのです。何かをください、物事がうまく行くようにという事も祈りの大事な課題ではありますが、むしろ祈りの中で、見えない神と出会い、罪を告白し、十字架の贖罪を個人の経験として体験し、罪赦されたという確信が与えられ、さらなるイエスに対する献身と、信仰が深められていくのが祈りの中心であります。
それは正に祈りの中で起こる心の中の奇跡なのです。祈っていくとき、聖霊が、目には見えませんが、祈る人の心を動かし、イエスの愛を心に感じることができ、今まで好きだった、この世のものが、嫌いになり、時には直接神の言葉が心の中に響き(めったにないですが)、人生の生き方そのものが変化していくのです。
「祈りはいつするのですか?」と聞かれることがあります。いつでも、歩いているときも、仕事をしているときも、静かに心の中で神に祈ることが出来ます。正式には、密室にとじこもって、一人静かに、父なる神の前にひざまずいて直接、小声で、ある時は、普通の声を出して、祈ることが良いかと思います。
しかし、祈りは基本的に姿勢は関係なく、いつでも、どこでも、どんなときにも、心の中で声を出さずに祈ることができます。
さて、祈りの中で特に大事なのは、罪の告白の祈りであります。プロテスタントには懺悔室はありません、罪を許す権威はキリストだけがお持ちなので、『人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』(ルカ5:24)神父や牧師に罪を告白する必要はありません。ただ直接、イエスに向かい、個人的な罪は個人的に祈りの中で自分の罪を、小さな声で告白すればよいのです。それで罪は許されます。人に聞かせる必要はありません。
『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。』(ヨハネ第一1:9)公の罪は、公に言い表しお詫びすべきです。例えば公共物を、若いときの勢いに任せて、うっかり壊してしまったとか、そんなことが考えられます。
聖書の中に、取税人ザアカイがキリストに出会い回心する話が書かれていますが、ザアカイはキリストを受け入れ、罪許された後、自分が税を集金した時、不正を働いていたら、弁償することを申し出ました。
『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』(ルカ19:8)できうる限りの、物、金に対する弁償、それは義務ではないので、できうる範囲でと考えて良いでしょう。
イエスが十字架刑についたとき、イエスの両脇に、強盗を働いた為に、十字架刑になった人達がいました。2人のうち1人は最後までイエスを信じませんでしたが、1人は十字架の上から、イエスを救い主として受け入れ、人生真にギリギリのところで救われました。
『「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』(ルカ23:42,43)
今日あなたはパラダイスにいる。死刑になるほどの罪を犯した強盗が、具体的にどんな犯罪をしたのかは、聖書には書かれていませんが、この強盗が、イエスに、今一度、御国の権威をもっておいでになるときは、私を思い出してください、と言ったら、その場で生涯してきたすべての罪を許され、今日あなたは天国にいるであろう、とのみ言葉を、お約束としていただいたのです。一瞬のイエスに対する信仰告白でこの強盗は全部の生涯の罪を許されて、天国へ入る資格を得ました。
しかし、十字架刑の最中に、この強盗が自分の罪をイエスに全部告白する時間があったとは到底思えません。
『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』(ローマ3:23,24)
すべての人は神の栄光を受けられなくなっており、値なく、恵により、すべての人が、神の前に信じることだけで義とされるのです。
『不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」』(ローマ4:5~8)
また、ガラテヤ書においてパウロは、
『けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。…』(ガラテヤ2:16)と言っています。
罪の告白は重要ですが、その告白がそのものが罪を赦すわけではなく、イエス・キリストのなされた贖罪の業が罪を赦すのです。またヘブル書には、死んだ行いの悔改めは、もう横において、キリストの、罪の赦しの血、契約の血を信じ切って、良心の咎めを捨て去りましょう、とあります。
『だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、……神がお許しになるなら、そうすることにしましょう』(へブル6:1~3)『…イエスの血によって聖所に入れると確信しています。……心は清められて、良心のとがめはなくなり、……信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。』(へブル10:19~22)
行き過ぎた良心の呵責に悩むのはやめましょう。私たちは、イエス・キリストにあって赦されているのですから。
『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、……。』(コロサイ3:12)
『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』(コロサイ1:22)
また、パウロはコリント人への手紙の中で
『自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。……。』(コリント第一4:4)とも言っています。
あまりにも良心的で、心を悩ませている方に向かって、ヨハネはこう言っています。神の前に自分の心を安んじていよう、神は我々の小さい心よりも、広く大きな心をもっている大きな方であると。
『……神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。』(ヨハネ第一3:19,20)
罪の告白の次に来るのが、悔い改めです。
『神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。』(コリント第二7:10)
あまりに深刻な失敗や、過ちを、人間的に後悔しすぎますと、自殺、あるいは精神的ノイローゼになりかねません。神はそのようなことを決して求めておいでになりません。自殺は、十戒の第六条、汝殺すなかれに反しています。自分の命を殺すことも、この戒めには含まれます。
本当の悔改めは、人間的な悔いではなくて、神からくる、聖霊による、悔いであって、罪の結果、やばい事になるかもしれない、と言う感覚ではなくて、結果はどうであれ、罪そのものを悲しむことです。これは人間の変えられていない、生まれつきの心ではできません。
心の生まれ変わりについては、
『……はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』(ヨハネ3:5)とイエスはおっしゃいました。水はバプテスマ(浸礼)、霊は聖霊による新生経験であります。
悔いの次は、改めることになりますが、改めるのは、なかなか大変です。人それぞれ性格の違いもあり、何でもパット改められれば、一番良いですが、なかなかそういうわけにはいかず、時間のかかる場合もあります。一朝一夕にはいかないようです。祈りのうちに、何とか少しでも、前に進んで、改められるようにしていくことが大事だと思います。
そういうわけで、私もまだ道半ば、改めることがいっぱいあるので、もし今までのわたしの言動によって、傷つけられた方がいましたら、今この場で、お詫びしておきます。
さて、総ての祈りは、最後にキリストの御名によって祈ります、と付け加えます。なぜなら私達は何をどう祈ってよいか分からないと書かれています。
『…わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』(ローマ8:26)
イエスは『わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。』(ヨハネ14:14)と言われました。キリストの御名によって祈るとは、このお約束に基ずくものであります。
御名より頼むという事は、自分の功績に頼らないということ、『…イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されているからである。』(ヨハネ第一2:12)とあるとおりです。
イエスの贖罪と仲保によって父なる神に祈ることだと思います。
『神は唯一であり、神と人との間の仲保者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです』(テモテ第一2:5)
イエスの御名によって祈るとは何か。私達の祈りは、罪のために神に届きにくくなっています。尊い犠牲をなしとげた御子の血が、私達の祈りに注がれて、清められ、赦されて、父なる神に届いて、応えられていくのだと、私は理解しております。
食物と健康改革
キリスト教の一般的立場は、食物とか健康とかにはあまり注意をしません。旧約聖書だけを信じているユダヤ教の社会では、旧約聖書に規定されている禁忌としての食物規定がありました。今でもユダヤ人は宗教的禁忌としての食物規定を守っています。キリスト教は、禁忌としての旧約聖書の食物規定は新約聖書によって廃止されていて、何を食べるのも基本的には自由であると考えています。
セブンスデー・アドベンチスト教会(日本語に訳しますと、第七日目(土曜日)安息日遵守・キリストの再臨待望信徒)では健康のため、出来るだけ菜食主義を勧めています。キリスト教の一般的考えを否定しているわけではありません。尊重しつつも、旧約聖書の食物禁忌規定は廃止されているが、そこにはユダヤ民族の健康を考える神の御配慮があったのではないかと推論し、色々理由はありますが、結論として、あくまでも、健康のため、菜食主義を勧めています。
マクロビオテック(玄米菜食主義‒桜沢如一「正食」)に考え方は近いですが、それほど極端ではありません。マクロビオテックの陰陽の考え方はとりません。玄米は好きな人は食べますが、ほとんどの信徒は白米を普通に食べています。
ラクト・ベジタリアンと言うのが公式な立場です。卵乳菜食主義者とも訳されます。卵と牛乳併用の菜食主義です。ただ宗教に関係なく健康のため、完全菜食主義の方々も世の中にはたくさんいます。われわれのグループの中にも、完全菜食主義者もいますし、フイッシュ・ベジタリアンもいますし、肉を普通に食べられる方もいます。
『(肉を)食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、(肉を)食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。……』(ローマ14:3)
肉を食べる人もいる、食べない人もいる、それぞれ個人の自由であって批判してはいけないとパウロは言っています。
『 ……食べ物のことで、兄弟を滅ぼしてはなりません。……』(ローマ14:15)
『何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人はは野菜だけを食べているのです。』(ローマ14:2)
『肉も食べなければぶどう酒も飲まず、…望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。』(ローマ14:21,22)
SDA教会が推奨する健康改革運動は食物以外にも、運動、日光、水、新鮮な空気、休息、節制、神に対する信頼等多岐にわたる改革です。単に食物にとどまらず健康全般に及びます。
皆さんの中でそれぞれが、大なり小なり自分の健康法を実践していらっしゃると思いますが、要は健康の為、適度な運動をして、必要な日光に当たり(今はオゾン層崩壊による紫外線の害には注意が必要)、水分をよく取り(清涼飲料水には糖分があるので要注意)、1日に何回か深呼吸(大気汚染に注意)をし、過労死などしないように、休息も大事。神に対する信頼、ひらたくいえば信仰心が大切。節制‒良い物でも行き過ぎは注意。十分な睡眠が健康の秘訣。範囲を広げれば水治療法等も含まれてきます。あくまでも概要です、民間療法的なこととか、その他にも色々あるでしょう。
禁酒禁煙は健康の原則の中で実行していますが、聖書にも酒に酔ってはならないと書かれています。
『酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、』(エペソ5:18)
『……また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、……』(テサロニケ第一5:23)とありますので、良いことは取り入れて、健康で、元気でおられることが、何よりのことです。
特に霊の健康は見過ごされています。霊と言っても日本的な変な意味での霊でなく、ここでは聖霊のことですが、信仰心を涵養し、たまには聖書でも読み、教会にも来ていただき、真の神を発見する事こそ、霊の健康を取り戻す一番の近道だと思います。
7,千 年 期
これからの世界はどうなっていくのであろうか?科学は増すゝ発展し、人類は幸福を享受し、文明は終わりなく永久に続いていくのだろうか。マタイ24章を読むと、キリストが世の終わりと、ご自身が再びこの世界に、超自然的に来られる(再臨)ことを預言している。12弟子たちの『…あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。』(マタイ24:3)と言う質問に答えて、戦争、飢餓、地震、天変地異があることを教えられ、『だから、あなたがたも用意していなさい。人の子(イエス)は思いがけない時に来るからである。』(マタイ24:44)と言われた。
聖書の中にこの世が終わると書かれている箇所はかなりあります。
大変な災害がこれから起こり、キリストの再臨によってこの世が終わる。そのとき、キリストを信じて、死の眠りについていた人々がまず最初によみがえり、その時点で、生きていた信者たちは一瞬に不死の栄光の身体に変えられ、父なる神がいらっしゃる神の国へ旅立つ(神の国は物理的にもあるのだろうが、次元の違う宇宙のどこかにあると、個人的に勝手に解釈)ここが千年期の始まり。
『……主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っているて者が、……』(テサロニケ第一4:16,17)
聖徒たちが神の国へ旅発ったあと、しばらく地球には千年間誰もいなくなってしまうが、正確にはサタンとそれに仕える悪霊どもが、誰もいなくなった地球という環境の鎖に縛られて残される。千年たつと、再びイエスと聖徒らがこの地上に、新エルサレムとともに降ってきて、この地球そのものが神の国となる。
ここで第二の復活が起こり、キリスト再臨時復活した以外の全人類がよみがえり、サタン、悪天使、神を信じない者ども全員が、神の国を戦い取ろうと企てるが、最後の審判が行われ、各自に滅びの宣告がなされ、全員納得の上で火と硫黄の中に投げ込まれ(第2の死)、燃え尽きてしまう(いわゆる地獄であるが、永遠に燃える地獄ではなく、燃え尽きれば火は消える)。
何か夢物語のように聞こえるかもしれませんが、以下聖書を引用しておきます。尚、千年期には福千年説と言って、キリスト再臨前に、地上が楽園になり、人類に千年間の幸せな時期が訪れ、それからキリスト再臨があり、世が終わると考える人々もいます。脱線しますがナチスドイツの第三帝国は千年続く(千年王国)などの考えも、この辺の影響を受けています。
『わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。』(ヨハネ黙示録20:1~3)
『わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。』(ヨハネ黙示録20:4~6)
『この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都(新エルサレム)とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。』(ヨハネ黙示録20:7~10)
預言の霊
ここで霊の賜物について触れておこう。救いは全くの、イエス・キリストの贖いのなされた業を、受け入れ、信じるだけで、誰にでも無償で与えられることは、何度も繰り返し説明してきました。それとはまた別に、聖書の中に聖霊が自由に、個人の持っている能力等に応じて賜物をお与えになることが書いてある。
『…霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。』(コリント第一12:1)初代教会の特徴に、聖霊の神が、単なるパワーとしてだけではなく、あたかも目には見えないが、どこにでも偏在する、ひとつの人格神として、顕著に、個人個人に臨まれていたことがわかる。
『すると、‟霊”がフィリポに……と言った。』当時は聖霊が自在に弟子たちに明確に語りかけていたようである。更に聖霊は賜物を、信徒の能力に応じてくださった。賜物の種類はたくさんあり、超自然的な能力もあり、単なる才能みたいなものもある。総ては信者全体に奉仕し、全体の益になるためだと書かれている。
『一人一人に‟霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。』(コリント第一12:7)
次に聖書が掲げている賜物の種類を列挙してみる。
知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力、使徒、預言者、教師、援助する者、管理する者等。
皆が同じ賜物を持っているわけではありません。私などは、個人的にいやしの賜物に、とても魅力を感じますが、現代あまりこの賜物が強調されないのは、医学が発達し、神の奇跡的ないやしに頼らなくても、何んとかなるからでしょうか。
異言の賜物は、何か訳のわからないことをベラベラとしゃべりだすらしいですが、セブンスデー・アドベンチスト教会(略してSDA)のなかでは、否定的です。この賜物の強調は、何といっても、ぺンテコステ派でしょう。彼らは異言を語ることによって、聖霊をうけたと主張します。
SDAが強調するのは、預言の賜物なのです。SDA教会が公認するエレン・G・ホワイト(1827~1915)という女性預言者がいました。病弱で小学校もろくに行けず、大した教育も受けられなかった彼女が、45冊も生涯本を書いたこと、それだけでも驚きです。彼女自身が勉強し、色々な本を読んだり、歴史書を参考にしたり、あるいは代筆者がいたりした事も事実ですが、全体的に考えて、預言者として受け入れて良いと私は思います。
キリスト教信仰においては聖書が、神の言葉であり、信仰と行為の唯一の規範です。聖書とエレン・G・ホワイトの著述が矛盾すれば、聖書を選ぶべきです。彼女の著作は聖書に代わるものではありません。彼女の本が小さい光とすれば、聖書は大きい光です。小さい光は大きい光へ導くためのものです。とは言うもののSDA教会の教理において、彼女の著書が大きな影響を与えたのも事実です。今はネットでも彼女の著書を自由に購入できますし、彼女の書いた本でもっとも有名な「キリストへの道」をまず読んでいただくことをお勧めします。
天の聖所と清めの解釈
1844年にアメリカにおいて、ウイリアム・ミラーが起こした大再臨運動があり、多くのキリスト教徒がミラーの計算式を信じ、1844年に世が終わり、キリストが再臨すると信じ、待ち望んでいた。ところが聖書には『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(キリスト)も知らない。父だけがご存じである。』(マルコ13:32)と書いてあるとおり、世の終わりと再臨がいつかは、父なる神の専権事項であり、人間には知ることが出来ません。
結局、ウイリアム・ミラーが提唱した1844年10月22日にはこの世は終わらず、キリストは再臨しませんでした。
ウイリアム・ミラーの計算の根拠になる基本は、預言の計算を1日を1年としたことでした。『……一日を一年とする……』(民数記14:34)更にダニエル書に出て来る2300の夕と朝の間の預言を2300年と解釈し、ペルシャ時代のエルサレム再建命令を(BC457年)その起点とし、1844年が2300年目だと解釈したことです。
預言の書であるダニエル書には、キリストの初臨、すなわち紀元27年の公生涯に入る年と、週の半分、すなわち3日半、預言の計算は、1日を1年と計算するので、三年半後、紀元31年に起きる十字架刑の預言がありました。
ユダヤ人であるダニエルは新バビロニアとそれに続くペルシャ帝国の捕虜になっており、当時ユダヤ王国は滅亡していました。北朝十部族はアッシリアに(BC722)、南朝二部族(BC586)新バビロニアに共に滅ぼされ、ユダヤ民族全体は捕囚の憂き目にあっていました。有名なユダヤ民族のバビロニア捕囚です。捕囚の身のダニエルが神に祈ったところ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなる君(イエス・キリスト)が来るまで7週と62週あり、さらに週の半ばにメシヤは十字架につき、新しい契約を立てることが示されました(ダニエル書9:24~27参照)。エルサレムを建て直せという命令は、ペルシャ王によって、何度かなされていますが、最も大々的で、有名なのが、アルタシャスタ王の再建勅令で、紀元前457年に出された。その時から483年(69週×7日=483日)がたつと、紀元27年になる。その時、メシヤが来られの預言は成就しました。「メシヤ」とは、「油を注がれた者」という意味です。キリストは、紀元27年にバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、聖霊の油を注がれ、公生涯にお入りになられ、三年半働かれ、紀元31年に十字架刑におつきになり、古い契約を廃止され(旧約聖書の犠牲制度)、十字架の血を信じる者はだれでも救われるという新しい契約を結ばれました。『 …エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週ある……彼は(メシヤ)一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。……』(ダニエル書9:25~27口語訳)。メシヤ預言は正確に成就いたしました。
ウイリアム・ミラーの着目点は、エルサレムを建て直せのこの預言の起点を2300の夕と朝の間にも、あてはめたことでした。ダニエル書『…二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。』(ダニエル書8:14口語訳)2300の夕と朝の間、そして聖所は清められるの聖句解釈から、エルサレムを立て直せの命令が出たBC457年を計算の起点とし、それから計算すると、預言の計算は1日が1年と計算し(民数記14:34)、聖所を地球と解釈し、その当時の解釈で、地球が清められるのは1844年となりました。この年キリストが再臨なさると多くの人が信じて、キリストの再臨を待っていたのであります。また、ユダヤ教のユダヤ神殿の中にあった聖所という場所で、聖所の清めの儀式が一年に一回あり、それがユダヤ歴7月10日であり、西暦に直すと10月22日あたっていたことから、1844年10月22日に再臨を待っていたのです。その数、約10万人の人々が各教派から集まっていたといわれています。
もちろんキリストは来られなかった。『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(キリスト)も知らない。父だけがご存じである。』(マルコ13:32)と書いてあるとおりである。
その後、天にも聖所があることがわかりました。『…(大祭司たるイエス・キリストが)天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。』(ヘブル8:1,2)
地上の聖所は天の聖所のひな型に過ぎなかった。事実、紀元70年のローマ軍によるユダヤ神殿の完全な破壊により、当時も今も、聖所は地上に存在していなっかった。聖所の清めは、地上の聖所(地球)のことではなくて、天の聖所のことで、1844年から天において真の大祭司キリストが、清めの働きを始められたのだ。これが清めの段階と解釈され今に至っている。
8,補 足
契約の宗教と悟りの宗教
契約宗教と悟りの宗教の違いがあるように思われます。私達日本人の先入観として、宗教に入れば、何事にもとらわれなくなり、すべての事に動揺せず、悟りの境地に達し、無我になることが出来ると思っているところがあります。それは禅とか、諸行無常を悟った仏陀の宗教の影響です。
キリスト教は必ずしも悟りの境地に達することを求めない。キリスト教的な悟りの境地はあるのだろうが、むしろ動的な、愛の行いを重視している。確かにキリストも『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。』 (ヨハネ14:27口語訳)とおっしゃったので、心に安らぎがないわけではない。
父なる神が、キリストをとおして、聖霊を与えられ、心に平安が宿り、喜びで満たされていくこともあります。確かに心の静けさ、悟りのようなものが宗教の一面としてはあります。
しかし、キリスト教は根本的には契約の宗教です。絶対、唯一の、人格的な神がおられ、人間との間に、救いの契約を交わしたのです。もちろん、旧約聖書における古い契約と、新約聖書における新しい契約があるが、契約は契約です。私達人間の側でどんなに怒ったり、泣いたり、思いわずらったりしようと、神との間の契約は変化なく、履行されていく。神と人間との間に結んだ、救いの契約は、人間の側の、その時々の気分、感情等にはあまり左右されない。神との契約を信じながら、プラグマチックに、教えを実践し、祈り、勤勉に毎日を過ごしていくことが、キリスト教の心情ではないかと考えます。
長老派 会衆派(組合派) 監督派
長老派は教会の運営を、牧師と、信徒の代表である長老とが共同して行う。長老は役職者名であり年配者ということではない。教会の運営形態の事で、いわゆる教派ではない。
会衆派(組合派)は教会を、信徒一人一人の合議によって運営していく派。直接民主制に近い制度を採ることが特徴。各個教会はかなり自由に運営される。何かあれば信徒の全体集会が開かれ、多数決で物事を決めていく。教会の運営形態の事で、いわゆる教派ではない。
監督派は直接的には英国国教会を指し、英国国王が監督(主教)を任命したことからこの名がある。
復活の意味に二種類あること
聖書の中に表現されているい『復活』には二種類あるように思われる。一つは実際の復活で、キリストが週の第一日目(日曜日)の朝、死からよみがえり実際に復活したこと。また、キリストを信じて、眠りについた(死んだ)人々が、世の終わり、すなわち、キリスト再臨の時、新しい、栄光の身体を与えられ、実際に復活し、永遠の命をいただくこと。
しかし、もう一つの復活の使い方は、特にパウロの書簡に多いが、実際の復活に触れながら、いつの間にか霊的復活に言及していくことです。霊的復活というのは、人間がキリストを受け入れることによって、心の内面が、聖霊によって新たにされて、つくりかえられ、あたかも内面的に復活したようになることです。私達は身体の調子や、気分が悪いときもあります。落ち込んだ状態からやっと体調が戻って、復活したとか日常的に使うが、パウロの内面的な復活の表現は、ちょっと、ニュアンスが違うように思われます。霊的に表現している例を聖書から引用してみよう。
『キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。』(エペソ2:6)クリスチャンはまだ天の王座に着いてはいないので、ここは霊的表現であることがわかります。
『さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。』(コロサイ3:1)まだキリスト信者は実際の復活はしていないので、ここでは霊的な(内面的な)復活を表現していることがわかります。
『キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。』(コリント第一15:12)ここではハッキリと実際の復活について言及されている。話はそれるが、当時のコリント教会の信者の中にすら、死者の復活を信じていない信者がいたことは事実であるので、全く今までキリスト教にも、聖書にも縁のなかった人が、キリストの復活や、死者の復活を、すぐ信じなさい、と言う方が無理かもしれない。
聖書を読むときの心構え
キリスト教は宗教である、科学とは違う。人間の理性を否定しないし、良く理解して受け入れなければならないが、ある程度納得したら、信仰に入ることを目的にしています。知的に理解するだけでは、意味がないのです。もちろん狂信的になれ、などとは思ってないし、そうなる必要もない。信仰に入ってからも、自分の宗教行動がどんなものか反省的にふり返ったり、絶えざる理性的な聖書の学びが必要であると思っています。
聖書を読むときには、必ず聖霊の導きを求めながら読むべきです。
『……人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。』(コリント第一2:13)とあるように、霊のことは霊によって解釈すべきという基本原則があります。
『聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。』(テモテ第二3:16)
『…“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。』(コリント第一2:10)とあります。
祈りなくして聖書をただ批判の為だけに読んではならない。聖書の本文批評というような学問ジャンルがあり、神の言葉を、単に人間が書いたという信仰とは関係なく、批判的に理解している人々もいるから、そのような信仰の隘路に、陥らないように、ただ純粋、単純に神の言葉として受け取る心構えが必要です。
『…神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、……。』(コリント第一1:27)私が信仰に入り、日本三育学院カッレジ・キリスト教学科でキリスト教神学を学んでいたとき、ある信仰の先輩に、「田中さん、信仰から信仰へであって、信仰から学問へではないよ」と言われたことを思い出します。
信仰と癒しの問題
神癒とは本当にあるのだろうか。信仰と癒しの問題は現代人には理解するのは難しいことの一つだと思います。聖書を読むと、病気は悪霊によって引き起こされていると考えられており、イエス・キリストが病気の霊を追い出すと、病んでいる人が完治したと書かれています。
『……ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたし(イエス)の命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。……イエスが手を取って起こされると、(その子は)立ち上がった。』(マルコ9:25~27)
言語障害と聴覚障害が病気の霊によって引き起こされ、イエスが命じるとそれらの病の霊が出て行って、耳も聞こえ、話も出来るようになったのです。他にも癒しの例はたくさん書かれています。イエスやその弟子たちが行った病いの癒しをすべて否定するなら、聖書の大事な部分を失ってしまうことになりかねません。
イエスの時代は細菌によって病気になるとは誰も考えていませんでした。細菌によって病気になることがわかったのは、パスツールからです。1800年代に、微生物が病原体である可能性を示唆したのはパスツールです。微生物は動物や人間の身体にも感染するという結論に達したパスツールは、狂犬病のワクチンを開発したことで知られています。それまで細菌が病気を引き起こすことは知られていませんでした。14世紀にヨーロッパで、ペストが流行った時、人々は、ペスト菌による感染とはわからず、なすすべがありませんでした。当時のヨーロッパの総人口の4分の1が亡くなったといわれています。
医学が発達し、病気の原因も分かり、良い薬もでき、様々な先進治療、医療機械(時には高額なものも)による治療を受けられるようになったから、もう神の癒しは必要ないのでしょうか。私はそうは思えません。現代でも神の癒しはあるし、そのことは信仰の一部だと思います。もちろん医学には医学の役割があるし、それを無視して、大昔の迷信のような、加持祈祷に返れとは言いません。迷信が危険なことは、今も昔も変わりはありません。でも、現代医療によってすべての病気が治るわけではなく、難病奇病は増えるばかりです。
現代においては、正直言って、神の癒しは、めったにおきません。神の癒しはどうすれば起きるのか、こうすれば、こうなるというような公式には表せませんが、神の癒しは、今でも起きる場合があるのです。このことについては、私の個人的な体験がかなりの影響をを与えていると思います。
フランス南部、ルルドの泉のことを聞いたことがあるかも知れません。宗派は違いますが、めったに起きない奇跡を求めて、年間500万人もの人々がこの地を訪れています。ルルドに昔、聖母マリアが出現したとのこと、とても信じることはできませんが(プロテスタント教会はマリア崇拝はしませんし、マリアの昇天も認めません、マリアはただの人です、聖書はマリアに関しては神性を付与していません)、ただし、癒しの奇跡は数は少ないですが、たまには起きているようです。
ルルドの泉で1960年から2000年までの40年間に、カソリック教会の奇跡によって癒されたとの公式認定者はわずか4人でした。でも、それを完全否定するわけにはいきません。教派は違いますが、神による癒しは、必ず現代でもあると私自身が信じているからです。
食品添加物について
健康改革運動はSDA教会が、現代に生きる人々に対して、大きな使命を持って推進してきました。その中に食品添加物をどうするかという新たな問題があります。聖書の書かれた時代には、もちろん化学合成された食品添加物などはありませんでした。今や日本は世界でも1、2、を争う食品添加物大国です。
私達SDAのグループからよりも、信仰には関係のない、自然食品を愛好するグループから、その危険性についての警鐘が鳴らされています。日本人の二人に一人はがんになるといわれている今、がんの原因にはいろいろあると思いますが、食品添加物も、もしその原因の一つと考えられています。できるだけがんの危険性の要素を減らすということが、ベターだと思います。
『…食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』(コリント第一10:31)
もちろん、食品添加物は、動物実験を経て安全性を確認して許可されていることは私も承知しておりますが、それは個別の、検査の結果の安全性であって、今のように、化学合成と自然にあるものを加工した物を含めて約1500種類もある食品添加物が、複合して、人体に摂取されることによって起こる危険性については、どこにもデーターはありません。
現代の食品産業の中で、化学合成された食品添加物を、抜きにして、食品を大量生産することはもはやできないし、そんなことをすれば、食品の腐敗等の、別のリスクが出てきます。
できるだけ保存料を使わずに、作られた、良心的食品に、カビが生えて、回収されることになったなどとはよく聞く話です。現代において食品添加物を一切取らない生活をしたかったら、自給自足の生活をするしかありません。ほんの一部の人にはできるでしょうが、すべての人ができるわけではありません。私達のできることは、この問題にできるだけ関心を持ち、なるべく自然の食品を選び、できるだけ自然のものを食べ、少しでも口に入る添加物を減らしていく以外にないでしょう。
SDA教団の組織の一つに、三育食品があります。昭和45年頃から、化学合成された食品添加物を使用せず、豆乳や、ごまバター等の自然食品を作ってきました。昭和49年に三育フーズと社名変更し、昭和62年に株式会社になり、現在に至っています。資本金2千万円の小さな会社ですが、SDA教会の健康理念に基ずいて設立された食品製造の会社です。
全人教育
『……あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、……』(テサロニケ第一5:23口語訳)
聖書の教える、人間は、霊と心と体からできている。霊は聖霊が宿るところを指し、心は、知性、感情、意志からできていて、体は肉体のことです。この三つを教育することを三育教育と名付け、全人教育を目指しているのが、SDA教団の組織の一つ、日本三育学院です。聖書による宗教教育が他の学校と違う著しい特徴でしょう。東京杉並にある東京三育小学校が有名です。他に中学、高校、大学が、広島、千葉、茨城等にあり、そこでは全寮制の教育が行われています。大学には神学校があり、看護学部、短期大学(英文科)もあります。食事がユニークで、卵乳菜食を実行しています。また、労作教育といって、農業を中心に、木工、自動車修理、園芸等をカリキュラムに取り入れています。
興味のある方はパソコンの検索エンジンで、日本三育学院と入力してみてください。
医療伝道
イエス・キリストの宣教は、奇跡による病気の癒しと切り離すことはできない。『イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、……。』(マルコ1:34)
信仰による救いを宣べ伝えると同時に、人々の病を癒したキリストを模範として、社会に医療の提供のため、SDA教会では、すでに昭和4年に東京衛生病院を設立している。現在も荻窪の天沼に東京衛生病院がある。SDA天沼教会が敷地内にあり、地元に行くと、教会通りと名付けられた街路まである。他に、神戸アドベンチスト病院と沖縄にアドベンチストメディカルセンターがある。
霊魂についての考え方
内村鑑三は娘ルツ子が亡くなった時、墓の前で「万歳ルツ子は天国に行った。」と言ったのは有名な話です。仏教でもキリスト教でも、ほとんどが霊魂不滅説を取っています。人間の肉体は死んでも、霊魂は死なず、時々黄泉の国から帰ってくるというような考え方です。私達SDAは前述したように、このような考え方は取らない。
『……罪を犯した魂は必ず死ぬ。』(エゼキエル18:4口語訳)
『……死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。』(伝道の書9:5,6口語訳)
たとえば、死んで、すぐ霊魂だけが天国に行って、すでにイエス・キリストにお会いしているならば、何故、世の終わり、すなわちイエスの再臨の時、わざわざ復活して、それから天国へ行く必要があるのか、明らかに矛盾しています。
霊魂不滅か、死者の復活かと問われれば、ハッキリ私たちは、死者の復活こそ聖書が言っている統一的な真理として、死者の復活の考え方を取ります。死者は死んでから、何の意識もなく、眠っているのです。復活の時目覚めるまでは、たとえそれが、十年であろうと、百年であろうと、深い眠りと同じであるから、その人にとって見れば、長い間の眠りである死は一瞬です。キリストが天から下って来られるとき、目覚め、復活するのです。
霊魂不滅説を取ると、死霊を呼び起こし、口寄せに尋ねる等、明らかに暗黒の勢力に迷わされることにもなります。そこには様々な迷信も出て来ます。死者の霊を呼び起こすような(死者の霊ではなく実は悪の霊がそのように見せかけているだけなのだが)降神術にさえ道を開きかねない。
もちろん、何をどのように信じようと個人の自由です(信教の自由は憲法で保障されている)。しかし、できれば、聖書の考え方を取る方が賢明ではないだろうか。
地獄の在り方
地獄は本当にあるのだろうか。悪いことした人は、罰として永遠の責め苦を受け、火であぶられたり、針の山に登らされたり、血の池地獄に沈んだりするんだろうか。
キリスト教では、最後には悪人は火で滅ぼされるという教えがあります。すでに千年期のところで述べたように、世の終わりから千年経過し、キリストと新エルサレムが天から下ってきて、世の終わりの時によみがえらなかったすべての人々が、復活し、最後の審判がなされる。それから火と硫黄の池に投げ込まれ、焼き尽くされる。『……この火の池が第二の死である。』(ヨハネ黙示録20:14)その火は永遠に続くのではなく、燃え尽きればやがて消えてしまう。永遠の地獄説は取らない。それは愛の神の精神に反する。あくまでも、燃え尽きればそれで終わり、火はやがて消え、この地球全体が最後は天国になる。
『……聖なる都、新しいエルサレムが……天から下って来るのを見た。』(ヨハネ黙示録21:2)
『……水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって……神と小羊(イエス)の玉座が都にあって、…… 』(ヨハネ黙示録22:1~3)
『……神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。…… 。』(ヨハネ黙示録21:3,4)と神の国について描写されています。その他にも様々な描写が神の国についてなされているので、ぜひご自分でヨハネ黙示録21,22章をお読みください。
秘密携挙説
わたしは昔、あるDVDを見たことがる、あまり馬鹿らしくなって途中で見るのをやめてしまったのだが。内容は、ある神父が、ジェット旅客機に乗っていたのだが、自分以外の乗客もパイッロットも、突然消えてしまい、座席には彼らの着ていた衣服だけが残っていて、飛行機は神父以外に誰もいなくなってしまい、どんどん高度を下げて行き、墜落してしまうという話だったと記憶している。神父以外の乗客もパイッロットも、秘密携挙されて、天国へ行ってしまい、救われなかったのは、取り残された神父一人だったというブラックユーモアの映画であった。これは再臨、すなわち世の終わり前に、ある信者の一部が、秘密に携挙されて天国に行ってしまうという奇妙な説からきている。これではまるで、日本の神隠しのようなものになってしまう。このような秘密携挙説はSDA教会では取らない。
受肉の神秘
『主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。』(イザヤ41:14口語訳)
全宇宙から、私達地球を見たら、たぶん埃の一片にしか見えないだろう。天の川銀河にある恒星2千億、その外の宇宙に、さらに2兆の銀河があると言われている。諸々の国民は桶の一滴、はかりの上の塵のようだと描写されている(イザヤ書40:15参照)。ヤコブから産まれた、イスラエル民族。虫に等しいほど、小さな存在だと表現されている。
確かに私達はこの巨大な宇宙に比べれば、その存在は塵のようなものかも知れない。実際そうだろう。人生など、泡として浮かび、泡として消えてしまうようなものだ。永遠の歳月と比べたら、私達の人生、たかだか70から80年、一瞬なものかも知れない。なかには100歳まで生きる者もいようが、永遠の時間から見れば大差ない。私達の人生は、どう考えても一瞬であろう。詩篇記者は神にとっては千年も、世の間のひと時のようだ。私達が年が尽きるのは、一息のようだ。私達が飛び去るのは息を吸って吐く、その一呼吸動作の合間のようだ。アッという間に人生は過ぎ去って行く(詩篇90:4,9,10参照)と表現している。
私も今年2022年で72歳になった。定年退職して、早6年たった。正に歳月は人を待たずである。
この虫のような、泡のような人間であっても、神は顧みて下さる。憐れんでくださる。余りにも小さく、余りにも短い人間の一生。大変壊れやすく、病気、事故、犯罪等で何かあれば、すぐ途中で消えてしまう人生。もともと短い人生なのに、途中で終わってしまう人も多い。良く考えて見ると、悲しくなってしまい、涙が出て来る。
でもそんな私達を救うために、イスラエルの聖者(キリスト)が来られた。この地上にイエスは来てくださった。処女マリヤから、聖霊によって産まれ、私たちと同じように赤ん坊から、子供へと成長し、30歳まで大工仕事をなさり、家庭を助け、早くに亡くなった父ヨセフの代わりに長男として働き、何人もの弟や妹たち、また母マリヤを養ってきた。30歳で大工をやめ、公生涯にお入りになり、3年半苦節の限りを尽くした伝道生活を経て、罪のないイエスが、私達人類すべての罪咎を一手にひき受けて下さり、十字架で人類の身代わりに死んでくださった。イエスの十字架は本来、私達が引き受けなければならない刑罰です。罪の支払う報酬は死であると言う、父なる神が人類に下す刑罰です。単なる死ではなく、教理的に言えば第二の死(黙示録20:12~15)である滅びの死を、イエスは甘んじてお受けになった。天の万物を創造し所有しておられる、父なる神と、同等な方が、御子として、贖罪の目的の為に、一塊の人間になられた。これを受肉と言う。英語でインカーネーションと言い、救いの根本です。神学上の神秘中の神秘です。
神は死ぬことが出来ないが、人間となれば死ぬことが出来ます。罪の赦しは容易ではない、必然的に身代わりの刑罰を受ける犠牲、供え物が必要になるのです。イエスは最初から死ぬため、神の刑罰を人類の身代わりになって死ぬための供え物として、地上に産まれてきた。
諸々の銀河を創造された方が、こんなちっぽけな地球の、それも一人の人間になられた。例えは適当でないと思うが、それは言わば、私が一個の単細胞生物のアメーバーになるようなものだ。
そしてイエスは救いを成し遂げられたのち、天に帰られてから、またこの地球を、リニューアルし、新天新地にする為、再臨なさいます。さらに、この地球が天国になった後も、永遠に人性を取り続けられるというのです。黙示録には、父なる神と、御子イエスが、この地球にお降りになり、新しいエルサレムに、永遠にお住まいになると書かれている(黙示録:21:1~4,22,23参照)
外宇宙に2兆もの銀河をお持ちの父なる神が、この地球を玉座とし、御子イエスと共に宇宙の中心として、お住まいになるのです。何んと畏れ多いことではないか。神は人が考えも付かなかったことを備えて下さるのです。
最後に
『主よ、わが終わりと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。』(詩篇39:4口語訳)
自分の父が亡くなってから早いもので、今年の秋が来ると9年になります(2022年8月現在)。幸いにも父はSDA八王子教会の熱心な信者として生涯を終わった。
信仰に入る前の若いころはかなり酒が好きで、母を泣かしたみたいだが、SDA八王子教会でバプテスマを受けてからは、真面目になり、あれほど好きだった酒もやめ、教会の奉仕に専念するようになった。
田中建設という、親族が経営する地元の小さな建築会社に勤めていたこともあり、国道16号線、子安町の坂の途中、西側の丘の上に建っている、八王子市緑町906‐6のSDA八王子教会は、父が設計図をひき、請け負いの建築業者を探し出し、自ら現場監督をして、新しく建替えた教会です。
礼拝の時に、会衆が座る長椅子の良いのがなくて、わざわざアメリカまで行って特注し、日本に輸入した。言葉の壁もあり、同信の英語ができる若い人と一緒に行って通訳してもらったようだが、大変な苦労をしたようです。
さて、そんな父を亡くし、葬儀もSDA八王子教会で済ませた。八王子教会の納骨堂がある秋川霊園の小高い丘の上に八王子教会の納骨堂があり、そこで先に召された同信の方々と安らかに眠りについている。私自身もいつかは、人生の最後を迎えなければならない。聖書の言葉を借りなくても、一度生まれることと一度死ぬことが人間には定められているのだから、こればかりは避けようがない。どんなに財産があろうと死んで持っていけるわけでもなく、必ず平等に死は人間に訪れるわけだから、その時になって、あわてないようにしたい。ああ自分の人生何だったのかな、その間際になって考えても遅いわけです。
長生きをしたい、誰でも健康で長生きができれば、こんな幸せなことはない。聖書はそれを否定するものではない。しかしどんなに長生きして、健康であっても、いつかは、皆最後の時が来る、誰にでも必ず訪れる。もし、人生はこれで終わりではなく、しばらく、無意識の眠りにつくかもしれないが、永遠の、尽きることのない命が与えられ、キリストの再臨なさるときに、超奇跡的な力で、墓から復活させられるとしたら、人生は捨てたものではない。
死後に復活があることを心から信じることができたらどんなに良いだろう。人生死ねばすべて終わりではなく、さらに素晴らしい来世を、本当に信じることができたらどんなに幸せだろう。最後に使徒パウロの言葉をもって締めくくろう。
『万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。……』(ローマ11:36口語訳)



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