⑤N,O,P,Q聖書の概略とその救い
- ktanaka33014
- 2018年12月24日
- 読了時間: 110分
更新日:2024年8月2日
N,ローマ8章3節『……その肉(イエスの十字架上の肉体)において罪を罪として処断……』
隣人を愛する事も、友の為に命を捨てよという事も(ヨハネ15:12,13参照)イエスによって、成就したこの聖句
『……罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。』(ローマ8:3新共同訳)に根源を持つのではないか。この聖句の理解によって、あらゆる聖書の解釈を、より広げていけるのではないか。
人間の肉体は神による創造時、本来善なるものであったのに、いつからか肉体は罪への入り口になってしまった。神は天地を創造され、土から人間を創造された。人間の肉体、その頭の中にある脳神経の中に宿っている精神、あるいは魂も含む総ては創造時、善なるものであった。あるいは別の表現で表せば、人間の知性、感情、意志は総て善いものであった。神がお創りになったのだから、悪いものがあるはずもなく、自然界、動植物、人間を含め、あらゆるものが善いものであった。
ところが堕罪によって、人間の肉は堕落し、罪の誘惑に一番弱いところとなった。肉の欲望が罪への入り口となってきたのです。肉の欲、目の欲、持ち物の誇りが人間の心を捉えるようになってしまった。罪の誘惑の宿るところはどこか?情欲、肉欲、食欲、目の欲、名誉欲、物欲、持物の誇り等、また人間の精神そのものが神から離れ堕落して行った。金銭に執着し、地位、名誉を求め、高慢になり、神を否定するようになった。神から離れてもやっていける。教育や、科学、生まれ持った才能等を駆使すれば、人間は自分で何でも出来るなどと思い上がるようになった(寿命だけはどうにもならない、高慢になって権勢を誇った人もやがては死ぬ、大金持ちでもやがてはそれを置いて、墓に行く運命)。
もちろん動植物も堕罪の影響を受けた。動物は、肉食動物が出現し、弱肉強食になって行った。植物は茨とアザミに象徴される変化をして、地は雑草に覆われ、毒を持つ草花が繁茂し、人間に害悪をもたらすものになって行った。人間の堕罪後、動植物も悪い方向に変質して行ったのです。
肉体が、さまざまな肉欲によって誘惑されやすくなり、本来良いものであったのに、堕落の入り口になってしまった(善悪を知る禁断の木の実は、食欲と悪の知識欲を誘惑の根底にしている)。肉体に付随する、精神までもが、堕落し汚れてしまった。人間の魂と呼ばれているところ、その心の中、知性、感情、意志で構成されている場所、精神性を形成する上で大事な所であるが、精神そのものも堕落したと言わざるを得ない。
人間の精神は、神から分離して行動するならば、御旨にはかなわない、かなり外れた働きをすることは、自分自身のことを反省して見ればすぐわかる。自分の心を(その知性も含めて)コントロールすることが出来るだろうか。心を制御できる人間はいない。余程の修行を積んだ、禅僧なら話は別になろうが、私達一般人が自分の心をコントロール下に置くなど不可能に近い。私はキリスト教信者になって51年間信仰しているが、自分の心などコントロールできるはずもなく、何か心を乱すような事が起きれば、それに囚われ、今だ、思いは乱れ、自分で制御などできない。そんな時は、ただ跪いて、神に心を静めていただくように祈るのみです。
イエスは十字架で、肉を滅ぼされた。罪の無い方、無垢な方であったが、私達と変わらない肉体を持っていて、私達の罪の結果をお引き受けになり、罪を滅ぼされた。
『……罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。』(ローマ8:3新共同訳)
また、イエスと共に私達の肉も十字架に磔になった。(ガラテヤ2:19,20参照)
イエスの肉が十字架で滅ぼされた時(第二の死と解釈ヨハネ黙示録20:14参照)サタンは宿るところの根拠を失った。言わば悪の霊が宿る依り代を失った。ある意味サタンはここで(十字架の肉の砕きで滅ぼされた)と考えることもできる。イエスはヨハネによる福音書で『…「すべてが終った」…』と宣言なさった。(ヨハネ19:30口語訳)
モーセの蛇を思い出して下さい。旗竿の先に掲げたのは、モーセが作った青銅製の蛇でした。イスラエルの人々が毒蛇に噛まれて苦しんでいた時、モーセがの竿の上に掲げた蛇を、仰ぎ見た人は救われ、毒も無毒化され癒されたという故事があります(民数記21:5~9参照)。
蛇はサタンの象徴であることは間違いありません。掲げられたのが何で蛇だったのか、私は長い間分からなかった。しかしイエスの肉体が滅ぼされる事によって、罪が罪として処断され、サタンが一番罪の誘惑とする入り口であるところの依り代である肉体が破壊された。その誘惑の根本である肉体、依り代としているものが滅ぼされたと考えるなら、何んとなく合点が行くのです(十字架=釣り針説)。
イエスが十字架で、その肉により、罪を罪として処断なさった時、実は私達の肉もこの時キリストと共に処断され、十字架でキリストの肉と共に、私達の肉も破壊された。このように考えることが肝要です。それでないと中々新しい生き方が出来ない。人の生き方が変わっていかない。
罪赦され、救われても、いつまでも肉の誘惑に負けながら、弱いクリスチャン生活を続けて行くことになってしまう。私の罪の誘惑の依り代となっていた、古い肉は滅びた。古い肉をまとった、この世の情と、欲にまみれた自分がキリストと共に十字架につけられ、葬られ、死んでしまったのです。
『あなたがたは死んだのであって、………』(コロサイ3:3)
さらに次の段階で、キリストの復活にあやかり、新しい命、新生された命に、キリストと共に復活(霊的意味での復活)させられたのです(コロサイ3:1、エペソ2:6参照)。
古き自分は十字架にかけられ死んでしまい、もはや私が生きるのではなく、私の内に宿っているキリストが生きているのです。現在の私は信仰によって生きているのです(ガラテヤ2:19,20参照)。
既に、死んで破壊されているからこそ、友のために命を捨てられるのではないか。ヨハネは以下のように書いている。
『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。』(ヨハネ第一3:16口語訳)
イエスの戒めがある。
『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)
命は時間に等しい。時間の連続が命を形成している。今瞬間にも命があるが、命を継続して送ることができるのは、時間が継続して持てているからです。完全に命=時間とは言えない気がするが、仮に、命=時間と考えるならば、友のために命を捨てるとは、友のために自分の時間を少しでも削って行くことではないか。
それは自分の持っている時間を削る事かも知れない。場合によっては、自分の命そのものを差し出せと言われる時が来るかも知れない。自分にとって唯一の大事なものを本当に私は捨てることが出来るのだろうか。それも肉欲中心に生きている、肉の塊のような人の為に、この世の人、すなわち新生もしていない人の為に、自分の一つしかない命を捨てられるのだろうか。
人間的に言えばそれは自分の力では不可能に近い。稀には強固な意志を持っている人がいて、義の為に、大義の為に、あるいは国家の為に、命を捨てられる人がいるかも知れない。太平洋戦争の末期、カミカゼとなって国家の為に命を捨てた、日本の若者たちもいたのだから。
でも事自分に関して言えば、正直そんな勇気は持ち合わせていない。自分の残された人生の大事な時間、また命そのものを捨てる。自分の肉のこの命を、時間も自分の力も、短い残りの人生も、人助けの為に惜しまない、自分の命すら顧みない。本当にそんな生き方が出来るようになるんだろうか?自分の命が一番大事だと思っている、私のような利己的な人間が、そんなことが出来るのだろうか。
キリストにあって、肉が既に滅びているから、肉の命を捨てられる可能性が出て来ます。既に十字架で私の肉が、処断され、既になされているから、捨てることが出来ると信じる。キリストの肉が十字架で処断された時、私の肉も共に処断されてしまったと考えることによって、こんな利己的な私も、友の為に命を捨てられるように変えられるかも知れない。既になされているから、捨てることが出来る。友の為、人の為、隣人の為、自分の時間と労力を割くことが出来るように変えられて行くようになる。時間はかかるかも知れないが、やがてそのような生き方が出来るようになって行けると信じる。
肉は実は本来は善いものであることを前述した。
『また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。』(ローマ6:13新共同訳)
『従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。』(ローマ6:12新共同訳)
肉体がなくては、霊は存在できない。私達の内にある霊は(神からくる聖霊を感じ取るところと言っても良い) 天から下る聖霊と、自分の内に本来ある自分の霊と2つから出来ている(ローマ8:16参照)。
私達SDAの教理は、人間は死んだら肉体を離れて霊だけが浮遊しているような考えは取らない。神の息(霊)+土で人間が出来た(創世記2:7参照)。寿命が来て死ねば、霊は神に帰り、神の息となり、肉体は元の土に帰る。神の息となった霊そのものは無意識ですし、あくまでも神の息です。
人間の死は眠りであり、何の意識もなく深く眠り続けている。イエスが再臨の時、もう一度神の息を吹きかけてくれる。すると、土になっていた私達は、もう一度土から創造され、今度は栄化された、死ぬことのない体が与えられて、復活し、永遠の命を頂くのです。私達はこのように信じている。
肉体は霊の入れ物であるから、道具としての役割があります。道具は錆びたり、欠けたりしていないほうが良い。
母の胎から出て、赤ちゃんから、成人になるまで、生きてきた私達は、生まれ変わらなければ救われない。生まれ変わっていない肉体は、一度十字架にキリスト共に磔られ、霊的新生を経験することによって、もう一度本来の正しい位置に戻され、霊の器として、奉仕の器として使われます。食欲は制御され、美食を追求すること等から解放され、金銭欲は十字架につけられ、奉仕の業等に使われるようになる。神から離れ、自己中心の、勝手な行動をするように肉の防衛本能によって、仕向けられていた、自己の内にある行動力は、神の御旨に従った方向に向けコントロールされるようになる。肉体がなければ人間は生きて行けない(テサロニケ第一5:23参照)。
霊的クリスチャン経験はキリストの様態を疑似体験する。十字架の死➝自分も十字架に磔られる。キリストの復活➝自分も霊的にキリストと共に新しい命に復活する。キリストの昇天➝自分もキリストと共に天に霊的に昇天の体験をする。今キリストは神の前に出ている➝自分も霊的に神の前に出ている(エペソ2:6参照、コリント第二12:2~4参照)。
十字架で自分の古い肉体は霊的にキリストと共に磔にされ、処断されてしまっている。自分の誘惑に陥りやすい肉体は死んで滅びてしまった(念を押すが霊的な意味で)。
既に、滅びているから、捨てているから、命を捨てられるのです。こんな形で、キリストの命懸けの愛が自分に実現しているから、キリストの愛を自分の心に宿して、隣人を愛して行けるのです。自分が自分の力で人を愛するのではなくて、自分の内に聖霊を通して宿っているキリストが、隣人を愛していくのです。『生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。………』(ガラテヤ2:20口語訳)
救いの完成は、空極的には、肉体の救いです。肉は『……またたく間に、一瞬にして変えられる』(コリント第一15:51口語訳)のです。
『この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。』(コリント第一15:54,55口語訳)。死の棘は罪である、罪が処断され死が滅ぼされる。『最後の敵として滅ぼされるのが、死である。』(コリント第一15:26口語訳)
死ぬべき弱い肉体を持っている私達であるが、現世においても、私達の内に宿っている霊の力によって、死ぬはずの身体を、強め、霊の力によって力づけ、癒しの奇跡によって癒し、支え、弱いなりに強め、生かしてくださるのです。
この弱い肉体をも、聖霊によって毎日新たにされ、病んでいる時、調子が悪い時には、癒しの奇跡をもって、支えて下さいます。これ復活したイエスのお力を先備えとして経験することに他なりません。
『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8:11新共同訳)
しかし、肉体が完全に堕落以前のアダムの状態に戻るのは、イエスの再臨によって万物が創り変えられる時まで待たなければならない。被造物だけでなく、救われて霊の初穂をいただいている私達も、身体が贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいると書いてあります(ローマ8:23参照)。
世の終わり、再臨の時、肉体は栄化され、私達の身体は天使の身体のようになります。天国に行けば、娶ったり、嫁いだりする事はなくなる。
『……あなたがたは……思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。』(マタイ22:29,30口語訳)
『……さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。こう言って、手と足とをお見せになった。』(ルカ24:39,40口語訳)
イエスは、弟子たちの前で復活された肉体を見せながら、(しかしドアを開けずに入って来たので普通の肉体ではない⦅ヨハネ20:26参照⦆)魚を食べて見せられた。イエスがお腹が空いていたとはちょっと考えにくい。ハッキリと復活の身体を見せるために、その証拠として、わざわざ皆の前で魚を食べられたのだ。(ルカ24:41~43参照)
何れにせよキリストを信じる私達も、最終的には体が贖われ、死ぬことのない栄化された新しい肉体が与えられることは確かです。世の終わりに、キリスト再臨の時、生きている者は一瞬にしてれ変えられ『……またたく間に、一瞬にして変えられる』(コリント第一15:51口語訳)、死んでいる者は、もう一度土から再生され復活する(テサロニケ第一4:16参照)。この時に完全な救いが実現します。
『「死は勝利にのまれてしまった。死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。』(コリント第一15:55口語訳)
『………もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。』(黙示録21:4口語訳)
実践出来ていない事を、実践しているように言うのは、偽善者です。私は偽善者になり果てたのだろうか。もしそうだったら、そのことを含めて、イエスの十字架の血によって、赦し、贖ってもらうしかない。
ふりかえってみると、実際に私自身の人生において、様々な失敗、苦しみを経験してきた。原因は色々考えられるが、結局『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)とのイエスの言葉を実践できなかった事だと、今更ながら気付き、大いに反省している。しかし過去の結果は変えようがない。それならば、残りの半生を、なんとかキリストの言葉に、少しでも近付けて生きて行きたい、そんな思いでいます。
キリスト教の本質に迫って行き、突き詰めていくと、前述したような考え方、生き方になって行くだろう。パウロは言った『…わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一時を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、………』(ピリピ3:13,14口語訳)上よりの力を祈り求め、キリストをこれからも追い求めて行きたい。私の今の存在と、置かれている状況を神はお許しになっていて、こんな取るに足りない、しかも醜い、利己的な自分をありのままに受け入れて下さっている。こんな自分が毎日生きる事を、許して下さっている事自体が奇跡です。
今更、自己の力で何でもできるなどと、私は露ほどにも思っていない。総ては神の憐れみによるのである(テトス3:5参照)。
聖霊が天から、キリストを通して降る時、人間が不可能と思うことすらして下さるという事が、私達が神に対して持っている信仰です。この聖霊の導きにより、知恵と啓示の霊を上から戴けるよう懇願しながら、聖書を正しく理解出来るように、祈りつつ進んで行こう。
ペテロは一度イエスを裏切ったが、すぐ悔いて主に立ち返り、当時の弟子たちの指導者となり、教会の礎を築いた。最後は殉教し、信仰を全うしたと言われている。伝えられているところによれば、ペテロはイエスと同じように十字架につけられたのだが、あまりのもったいなさに、刑吏に逆さに十字架につけてくれるよう自ら頼み、逆さになって刑死したそうです。自分が生涯終わる時には、どんな形で終わるか分からないけれど、出来れば平穏の内に信仰を全うしたいものです。
『……罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉(イエスの十字架上の肉体)において罪を罪として処断されたのです。』(ローマ8:3新共同訳)この聖句の後には、霊の証と言う大事な思想が続いている。『この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:16新共同訳)
罪の依り代である、肉体がキリストの肉体と共に、処断され、破壊された時に、同時に、また次の段階として、私達の心の内に宿るのは、復活の御霊です。そもそも聖霊に教えていただかなければ十字架と復活の意味は、最初から理解できるものではない。
『あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』(ローマ8:15新共同訳)
アッバという語はアラム語であり、日本語での意味は「お父ちゃん」です。当時のユダヤで、父親を小さい子供が親しみを込めて呼ぶ時に、普通に使っていた言葉です。聖霊を戴いた時、私達は、父なる神に対して、子供が厳格な父親を、恐れるような態度を取ることはなくなる。キリストが呼ばれたように、父なる神を呼ぶ時、小さい子供が半ば甘え気味に呼ぶような言葉使いで、信頼の思いを込めて「お父ちゃん」と呼ぶのです。「お父ちゃん」と呼ばせるこの聖霊が、私達の霊と共に、私達が神の子供であることを証ししてくださるのです。証するというのは保証することです。私達の霊も私達が神の子供となったことの保証でありますし、神の霊も、聖霊が親しく降ることにより、私達の霊と一緒になって、私達が神の子供となったことを保証してくれます。
『この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:16新共同訳)
神の聖霊は、私達の霊と共鳴し合い一緒になり、力強く、意識し、感じられるはずです。意識を集中し、自らの雑念を捨て、『「静まって、わたしこそ神であることを知れ。………」。』(詩篇46:10口語訳)と書かれているように、神の霊の臨在を瞑想してみましょう。
内なる心に、御霊が宿ることを、深く瞑想し、次元の異なる天から、キリストの贖罪、復活、執り成しを通して、霊の降下と臨在を求めよう。もっと心をクリアにし、肉欲と、物欲と、この世の思い煩いと、汚れた思いに溢れた己が心を、清め、静めていただき、清浄な思いをもって、父なる神の御座から、御子キリストを通して、降る聖霊を求め、時間を割き、静かに瞑想しよう。御霊を曇りなき心をもって純粋に感じよう。
クリスチャンにとって、聖霊の存在と、その働きはリアルでなければならない。そしてその神の子供となった証拠としての聖霊の顕現が、『一緒になって証ししてくださ』る事であり保証です。その聖霊の顕現は、ローマ8:11から、既に繋がっている。
『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8:11新共同訳)
復活の霊が私達の内に宿っているなら、その復活の霊のお力により、現在持っている、肉の死すべき体をも、霊によって生かしてくださると言うのです。肉の身体は霊を入れる道具であると前述しました。(ローマ6:13新共同訳参照)道具はいつも手入れが行き届き、錆びたり、折れたり、曲がったりしてない方が良いに決まっています。ピカピカで、欠けた所がないのが良い道具です。肉体も同様で、健全で、健康な状態が、神のために用いられる、一番良い状態です(テサロニケ第一5:23参照)。
しかし、この肉体は様々な理由で、病み、損傷していることが多いのです。若い時は何もどこも悪くなくて、ペテロの例えのように(ヨハネ21:18参照)自分で帯を締め好きなところへ、自分の思うがままに活動することが出来ました(ペテロも私達も若い時は同じでした)。ところが、段々と歳をとってきますと、人間の肉体は、衰え始め、物は見えにくくなり、階段は上がりづらくなり、あっちが痛い、こっちが痛いが始まるのです。霊は燃えても、肉体が付いてこないのです(マルコ14:38参照)。
現実には、肉体が悲鳴をあげ、このような状態であったとしても、まだ希望があります。老化し、死へ向かっている、日々衰えている、この肉なる体をも、あなたの内に宿っている復活の御霊によって、神の御用の為なら、もう一度この世においてすら、癒し、元気にさせ、心の内側も、体の外側も、主がお顕れになり、生かしてくださるのです。
『…その霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8:11)
聖霊によって心が満たされて来ると、沈んでいた、力のない状態から、元気が湧いてきます。そして心と身体は繋がっているので、病んでいた身体すら、癒され元気になる可能性があるのです。もちろんそれは、個人個人によって程度の差があるでしょう。でもこのお言葉の約束に従って、『…死ぬはずの体をも生かしてくださ』いと祈る時、必ず奇跡が起きて来ると信じます。何度も言いますが、程度の差はあるでしょうが。
イエスキリストの十字架と復活を信じた時に、あなたがたの肉は、十字架につけられ、世のもろもろの霊力に対して、死んでしまった。様々な人の規則や、偽りの謙遜、宗教儀式に伴う、体の苦行を捨て去り、悪意そしり、口から出る恥ずべき言葉、憤り等を捨ててしまいなさい。あなたがたはキリストと共に復活させられた(霊的に)と、コロサイ書には言われています。(コロサイ2:20~3:11参照)
『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、………あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8:11新共同訳)の解釈は、聖霊の癒しの奇跡によって、様々な病を癒し、ただ弱い肉体を、立ち上がらせて下さるだけではないでしょう。
この聖句はもっと全般的な人間のあらゆる活動を、含むような気がします。私達の知性は、もっと神中心にクリアになって磨かれるし、また私達の感情も、ただ人生の平凡な、日常の事柄を喜んだり、悲しんだりするのではなくて、もっと深い救いの霊の喜びを感じることが出来るように清められていくでしょう。私達の行動力も、ただの生まれつきの肉の欲望に従って行動するのではなくて、神の御旨に沿った行動をするように習慣付けられます。御霊の働くより先に、自分の身体が自分の意志で勝手に行動して行くのではなくて、御霊と共に、御霊の望まれる事を思い行動するようになって行くでしょう(ヨハネ7:6参照)。霊によって死ぬべき体が生かされるという、この聖句は、新生したものが、あらゆる面で、リフレッシュされて、生かされていくことを広範囲に意味しているのではないでしょうか。
『この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:16新共同訳)のわたしたちの霊とは、復活なさったキリストの霊が、私達の外なる肉体と内なる精神に御宿りになって、清めて下さった私達の意志と思想、あるいは意識であると私は考えます。『わたしたちの霊』は『この霊(キリストの霊)』と一緒になって働かなければならないことは言うまでもありません。
ローマ8:23の『“霊”の初穂』とは何でしょうか。アバ父よと呼ばせてくださる、聖霊、このキリストの霊と呼ばれている方が、私達の個人の自身の霊と共に、一緒になって、神の子供であることを証ししてくださる。その証とは活動を意味し、霊の活動が死すべき、私達の肉体を通して顕れ、その初穂、人類の救贖の初穂として、12弟子及び全く変えられた初代教会の信徒たちが、まず収穫されたのです。この、御霊による初めての収穫は12弟子のみならず当時キリストを受け入れた、新生され、聖められた多くの信徒も含まれています。
弟子たちは、実を結んだ霊的活動の中で、お互いを愛し、コイノニアと呼ばれる深い交わりを持ち、永遠の命を確信し、さらに良い実を結び、品性が造り変えられ、この地上においても、お互いの心の中にキリストが内住し、感謝と、喜びをもって生きるようになりました。そんな団体が生まれた事、およびその活動全般が『“霊”の初穂』なのです。
そして、こんな弱い私達も、今から『“霊”の初穂』に加えられるのです。『“霊”の初穂』となったクリスチャンの中身はどんなものでしょう。初穂は麦が何粒もそこに付いているので集団でありますが、また、一粒の麦の集まりでもあります。主が一粒の麦の例えを、御自分を指して言われました。『……一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』(ヨハネ12:24)
私達『“霊”の初穂』は、それぞれが個人として一粒の麦になる事です。『“霊”の初穂』である私達の生き方は、友のために命を捨てる事、それより大きな愛はないと言われた、イエスの生き方に倣うことです。一粒の麦は、死ななければ、成長し、たわわな穂になる事ができません。『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)
一粒の麦になる事の意味は表現を変えれば『……兄弟のために命を捨てるべきです。』と同じことを意味しています。
私達は弱い者です。己が力で命を捨てられるものなど、誰もいません。人間皆、自分の命が一番大事で、利己的に生きているのです。そのことは認めて、利己心を、神の前に告白し、悔い改めながら生きて行く以外に、一粒の麦になれる方法はありません。繰り返しになりますが、命=時間と考えるならば、友のために自分の時間を少しでも削って行く。自分の時間を割いて、自分の貴重な命の時間を削って、祈りつつ、友も含め、隣人の為に、何かやってあげよう。これがイエスが私達にせよ、とおっしゃった生き方ではないでしょうか。
ただ、人の為にやってあげようと言う時、二つ注意することがあります。霊の渇きを感じ、神を求めている人、求道している人に、霊的恵みを、喜んで分かち与えることは、私はクリスチャンとして躊躇しません。自分が今まで体験した恵みを、喜んで分かち与えましょう。イエス・キリストがどんなに素晴らしい方か、聴く耳を持っている方には、徹夜してでも語り明かしましょう。
しかし、注意すべき点の一つ目は、隣人の為に与える助けが、逆説的ではありますが、非常にこの世的であり、単に肉のその場の必要を満たしてあげることの方が多いのです。多分99%はそうでしょう。具体的に『……行いと真実とをもって愛し合おう…』(ヨハネ第一3:18)と聖書に書かれていますし、寒がっている者に衣服を与え、腹減っている者には食べさせる、困っている者を助けることも、聖書の大事なメッセージです。
ほとんどの場合、助けを必要としている人は、具体的な、実際的な必要を求めているのです。その中には、チャンスを逃せば、助けてあげられない、緊急なこともあるのです。腹減っている人には、魂の救いを説く前に、まず食物を食べさせ、お腹をいっぱいにしてあげなければなりません。
注意すべき点の二つ目は、隣人に霊的助けをするにせよ、肉的助けをするにせよ、与える側の、言い換えるならば自分自身の、内側からの悔い改め、新生等の霊的充足なくして、どんな奉仕も善いものにはならないと私は考えています。
『……わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。』(ローマ8:12口語訳)
肉に対して、肉によって果たすような責任を、クリスチャンは、この世に対して負っていません。信仰とは全く関係がなく、単なる人間的な価値観に基づく社会奉仕であるならば、それはそれなりに人助けの意味はあるでしょうが、私が言っている本来の聖書的意味から少しズレてしまうような気がいたします。社会奉仕をして、人の為に生きている人を、どんな宗教であれ、宗教は信じてない人であれ、立派な行いですし、それによって、この世の命が救われている人がたくさんいるわけですから、大変尊敬はしています。神の目からもそれは尊い働きとみなされ、評価されていると思います。世の終わりの時には、それらの善い行いは、万物に対して公平であられる神が必ず正当に評価されると思います。
しかし無宗教でなされる、社会奉仕に対して、今の自分が、キリスト教的価値観からそのことに全身全霊を傾けられるかと言うと、何か違和感があります。『……すべて信仰によらないことは、罪である。』(ローマ14:23口語訳)と言われているように、クリスチャンのすべての行動は、善い行いを含めて、信仰の裏打ちがなければならないと考える立場からするとチョット方向が違ってくるかなと思います。
勝利は確かに、世の終わり、万物が更新されるまで、待たなければならないでしょう。『“霊”の初穂』を幾分かは、いただいている、私達もまた肉体はいつか衰え、死ななければなりません。肉の身体が完全に癒され、贖われることを、心の中でうめきながら、イエスを待ち望んでいるのです。イエスの来臨の時、すなわち今のこの世が終わる時、主を信じて眠りについた人々が墓から呼び出され、生きている私達と共に(かの日を生きて迎えられるとしての話ですが)、新たな復活の栄光の身体が与えられ、完全な救いが実現するのです。(ローマ8:23参照)
O,キリストが私達の内に住んでくださるお約束
『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう』(ヨハネ14:20口語訳)
ヨハネによる福音書14章には、イエスが場所の用意をするために、父の住んでいる天国にお帰りになる事が書かれている。しかし弟子たちは孤児になるのではなく、父は別に助け主である聖霊を送って、あなたがたと共におらせて下さると言われている(ヨハネ14:16,18口語訳参照)。
その日とはいつか?キリストが天にお帰りになってから、目に見えない形、聖霊と言う形で再び来られた日、すなわち直接的にはペンテコステの日です。(使徒行伝2:1~3参照)
『しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。』(ヨハネ16:16口語訳)
『…この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。……』(ヨハネ14:17口語訳)
聖霊が降下した日、弟子たちは再びイエスにお会いした。しかし、ヨハネによる福音書14章~16章をよく読んで見ると、その日は、私達に、とっても、イエスが私達の内におられることが分かる日、個人的にそれぞれが、真剣にキリストを受け入れ、聖霊と出会った日とも考えられます。私達にとって、まだその日が、個人的に訪れていないのか?
私達にとって、その日とはいつのことか?キリストが、私達と共にいて、私達もキリストと共にいる日。その日にはキリストが私達の内にいることがわかる日だと私は思う。
何か大きな事件が起きて、後から振り返って見ると、その時キリストがそばにいてくれて、私達を守ってくれていたんだなとわかる、そんな日もあるだろう。またヨハネ14:11~12にはキリストが父のもとに行くので、あなたがたはもっと大きいわざをするとも書かれている。御霊が降下した時、1日に3千人が悔い改めた(使徒行伝2:41参照)その日は何か大きな事が起きる日なのだろうか?でも私達にとっての、その日は、そんなに大袈裟なものではなく、きっと、もっと静かで、地道なことであるに違いない。
聖霊が約束どおり
『……あなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいる…』(ヨハネ14:17口語訳)のはいつか。
その日は、聖霊の臨在を求め、祈り、意識する事が出来る今です。またそれには条件があります。
『もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。』(ヨハネ14:15口語訳)
その時、イエスは父なる神にお願いして、イエスの名によって、真理の御霊、助け主を遣わしてくださるようにしてくださる。(ヨハネ14:16参照)
『わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ15:12口語訳)
イエスのこの戒めを心にいだいて、守るものは、イエスと父に愛され、その人に、イエスご自身をあらわすと約束されている。また、父とイエスはその人と一緒に住むとまで言われている(ヨハネ14:21~23参照)。
誰でもイエスを愛するならば、イエスの言葉を守るはずであり、その戒めは、イエスが愛したと、同じ愛し方で、互いにに愛する事です。同じ愛し方と言うのは、命を捨てるほどの愛という事なのです。イエスの戒めを守るならば、その日、聖霊という形でキリストがあらわれ、私達の心の中にお住まいになることが、私たちにわかる。それは、重ねていうが、愛の戒めを守り、イエスを愛し、その言葉を守ることが条件です。
真理の御霊はイエスの願いによって、父より遣わされ、イエスを通して、私達に注がれます。あなたがたはそれを知っているし、真理の御霊はあなたがたと共に、あなたがたのうちにいる(ヨハネ14:15~17参照)。
このお約束は素晴らしいものであるが、私達にもイエスに結ばれながら、神に対して、またキリストに対して、更に隣人に対して、命懸けの愛が求められているのです。もちろん、総ては神の憐れみによるのであって、何一つ、自分の力で出来るようなことではない。御霊の満たしも、そのことによる愛の行いも、総て私達の内に生きておられる、キリストによってなしていただくのです。
『……キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11新共同訳)
『……主はすぐ近くにおられます。』(ピリピ4:5新共同訳)私達はただ、神の憐れみによって生かされていくしかないのです。
キリストの御名によって求める
パウロは何を話すにせよ、行うにせよ、総てを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさいと言っている。(コロサイ3:17新共同訳参照)
また聖書の別の個所には、
『…御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。』(ヨハネ第一2:12口語訳)とあります。
イエスの名はヘブル語でヨシュアיְהוֹשֻׁעַ (イェホーシュア)・イェシュアיֵשׁוּעַ (イェーシュア)、原語での意味は、ヤーウェは救いの意味。ギリシャ語のイエスースからきている。(Ίησοῦς)
キリストの名はヘブル語でメシアמָשִׁיחַ、油(聖霊)注がれたもの、原語での意味は、メシア—救世主の意味。ギリシャ語のキリストースからきている。(Χριστός)
何れにせよ、キリストの名のゆえに神は私達の罪を赦し、更に聖霊を求めるならば、それをお降しになり、御名によって求めるものは何でも私達に下さると言われている。もちろん神のみ旨に沿わないこと、神のみ言葉に反することはどんなに祈ってもかなえられない。例えば人を呪ったりすること、また、あまりにも利己的な願いはダメなことは言うまでもない。祈る時に祈りの内容を良く考える必要があります。何でもの中には、神の御旨にかなわないようなことは含まれてはいないのです。
また総てを主イエスの名によって行いなさい(コロサイ3:17口語訳参照)とはどういう意味なのか、考えておこう。
様々な日常の行動において、①自分の力でやる②霊の力を求めながらやる、①も②も、第三者が、外側から見て、ある人が同じことをやっているように見えるだろう。しかし、①単に人間の生きて行くうえでの必要な事を、自分の意志と力で、肉の努力を傾け、表面的義務としてやっているのと、②霊によって、霊の御手に頼りながら、キリストが心の内に住んで、自分がやっているのではなく、キリストがやっているのだという思いで、キリストに毎秒毎分結びつきながら、祈りながら、やっていることは、全然違う結果になるのではないか。①は善い行いでも、単に人間の肉の努力(勿論、神はそれをも良い結果に変えてくださると思うが)②は永遠の価値に、霊の支配に根ざしている。この②の生き方こそ、総てを主イエスの名によって行いの意味ではないかと私は考えます。
さて、次に、イエス・キリスト(ヤーウェは救い・メシア、救世主、油(聖霊)注がれたもの)、の御名によって祈る事、そのお約束が何回もヨハネによる福音書に書いてあるので少し学んでいこう。
『わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。』(ヨハネ14:13,14口語訳)
イエスの名によって祈る、という事はそもそもどういう意味であろう。祈りは自分の力によってするのであろうか。自分の名によって祈るのであろうか。祈りは自分の努力もあるが、そもそも聖霊の力と導きによって祈るべきであって、人間の業のように見えて、実は神の業なのです。今だに、祈りの本質を私は理解していない。51年も信仰しているのに。その間、何万回、何万時間祈ってきただろうか。もちろん祈りは長ければ良いわけではないことは私も知っています。
キリストの名によって祈るとは、キリストのなされた功績により頼んで祈る事。私達の祈りが聞かれるという事は、キリストの贖罪の血によって、私達の祈りが清められ、神の前に赦されて、受理されたという事を意味します。キリストの名によって祈り、その祈りが聞き届けられるとき、父にその事によって栄光が帰せられます。あくまでも栄誉が帰せられるのは父であります。
神の名をあらわすYHWHの聖四文字については、十戒の第三条で、みだりに唱えることが、明確に禁じられています。ユダヤ人たちは神の名をあらわすYHWHの聖四文字を発音する事すらしなかったので、たぶんヤーウェと読むのだろうが、その正確な読み方すら忘れてしまったほどです。YHWHが出てくるたび、御名をみだりに唱えるのはよくないので、アドナイと言う言葉をあてはめて発音したほどです。ヘブル語のアドナイは、アドン—主、の強意的複数で、わが主と訳されます。主とは、一家の主人、部族の長、王など、上に立つ人を指して使う言葉。 そして、 聖四文字のYHWHが出てきたとき、アドナイをあてはめて読んだのです。
エホバと言う言葉はYHWHの本来の発音ではない。アドナイとYHWHを混同し、合成してできてしまった誤訳の言葉であり、聖書には本来ない言葉である。余計な事であるが、キリスト教のカルトであるエホバの証人(ものみの塔)は聖書にはない神を呼ぶ呼び方で名をつけているのです。
さて、祈りの時、私達の真の父、神の名であるYHWHを呼び求めるのは畏れ多いことなので、クリスチャンになったら、人性を取られた神、すなわち御子キリストの名によって祈るように言われたのだろうか。ある程度私はそうではないかと思っている。
イエスは肉体を取られた神、人類の長子となられた神だから、私達にとって近づきやすい。私の個人的理解によれば、祈りは直接父なる神に届くのではなく、キリストを通して届くのです。キリストの御名によって祈るという事はそういうことではないか。
キリストの名によって祈る時、何でもかなえてあげようと言うお約束の中身は、物質的なもの、金銭的なもの、あるいは病の癒し、事故からの安全等、あまり利己的にならなければ、何でも良いと考えるべきです。
もっと本質的に祈りは何を目的としているのか考えよう。
祈りは神の臨在をそこに求め、聖霊の存在を感じ、神の憐れみと、御愛を瞑想し、祈りの中に見えざる神を体験し、霊的に、自分が神の側に引き上げられ、神に近づいて行く事を目的としているのです。
また、もう一つの祈りの大切な面は、人の為に祈る事です。隣人の為に、救いの執り成しの祈りをすべき事が本質的な祈りの一部だと私は考える。しかし他に異なった意見をお持ちになっている方もいるかも知れない。何れにせよ、このことについても、各自の信仰の達し得た所によって、それぞれ進むべきです。
あなたがたが実を結び、その実がいつまでも残る。わたしの名によって父に求めるものは、なんでも父が与えて下さるが、それは互いに愛し合うあうためだ。何でも父が与えるのは、 信仰の実を私達が結び、その品性の実がいつまでも持続し残るためだ(ヨハネ15:16~17要旨)。
『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。』(ガラテヤ5:22,23口語訳)
キリストの名によって何でも祈り求めるものは与えられるのだが、それは前述の真理の御霊がイエスの願いによって、父より遣わされ、イエスを通して、私達に注がれる事と一緒になっている。そして御霊が降ることにより、お互いに愛し合い、さらに、御霊の実として、私達の品性が磨かれて行くのです。
真理の御霊が来る時、私達をあらゆる聖書の真理に導き、教えてくれる。(ヨハネ16:13参照)『その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあんたがたに言っておく、あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。』(ヨハネ16:23口語訳)
御霊自ら弟子たちを教えてくれる約束です。何でも祈り求める事の中には、知恵と啓示との霊(エペソ1:17口語訳参照)を戴くことが含まれています。御霊は真理を持っている方であり、私達には、肉の目ではどうしても分からない、霊の世界の真実を私達に教えてくださるのです。
それは御言葉を読み祈り、瞑想するうちに、この意味は、そうか今まで気が付かなかったがこういう意味なのだな、と気が付かせてくださるのです。正に霊の眼が開かれるような経験をすることが出来ます。そういう意味では、御霊を求めずに、祈らずに、聖書を読んではならないであろう。繰り返して言う、何でも祈り求める事が出来る約束の中に、最も大事な真理の知恵、知識を上より与えて下さるように祈ろうではないか。それは物的な祝福や、肉体の癒しを祈り求めるよりも、もっと大事な事ではないかと私は考えます。
『今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。』(ヨハネ16:24口語訳)
この喜びは文脈を見ると、イエスに弟子たちが再び会えた時の喜びです。ご自分が、やがて父のもとに帰ってしまうという状況において、イエスは女に産みの苦しみが臨むときの例えで、弟子たちの不安を表現した。しかし赤ちゃんが産まれてしまえば、産みの苦しみも、不安も消え去ってしまう。赤ちゃんが産まれた喜びが大きいからです。
弟子たちも、もうイエスが父のもとに帰ってしまい、イエスのお姿が見えなくなってしまうと言われたので、大変不安を感じていた。
しかし、真理の御霊が下る時、
『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。』(ヨハネ14:20)のお約束が実現します。
その日、聖霊が下る日、再びイエスは弟子たちの心の中に来てくださり、お会いすることが出来るのです(ヨハネ16:22参照)。
イエスの御名によって、何でも祈り求めなさい、そして、あなたがたの喜びが満ち溢れるとは、イエスと弟子たちの霊による再会を意味しているのです。その日は、弟子たちは霊に満たされ、キリストが見えない形で、弟子たちの心の中にお住まいになり、非常に親しくお交わりになり、弟子たちの心は、溢れるばかりの霊の満たしにより、空極的な意味で聖霊の喜びに満たされるのです。
喜びには、色々な喜びがあります。美味しいものを食べたときの喜び、旅行に行って、美しい景色を見たときの喜び、子供たちが結婚した時の喜び、サラリーマンでは昇進したり、給料が上がったりした時の喜び、様々なこの世の喜びを私は否定するものではありません。男性にとって、新しくこれからの人生を共に送れるパートナーと結婚できた時の喜びは、とても大きなものです。
でも私達クリスチャンにとって空極的な喜びとは一体何でしょうか?それは、この世の終わりの時に、再臨なさるイエスに再びお会いできる喜びではないでしょうか。そしてお会いするにはもう一つの形があります。聖霊の満たしという形で、第三位の位格である聖霊の神にお会いする時です。熱心に祈り、また、様々な宗教的事象を通して、イエス・キリストに今お会いすることです。
この世において、聖霊の溢れるばかりの満たし以上の喜びがあるでしょうか。それは経験して見たものでなければわかりません。私は教会の礼拝において、本当に今日は、この会堂に聖霊が豊かに臨んでくださったんだなあと思えるような時があります(残念ながらあまり多くはありませんが)。宗教儀式あるいは単純に聖書の言葉が語られる中に、キリストが目には見えませんが、臨んでくださることがあるのです。
『その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。……』(ヨハネ16:26,27口語訳)
何ということであろう、父なる神ご自身が私達を愛してくださると言うのです。神は光の中に住み誰も見たことのない存在だと描写されています。
『神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。』(テモテ第一6:16口語訳)
旧約聖書の中では、神を見たものは死ぬと考えられていた(イザヤ6:5参照)。その絶対者なる神ご自身が弟子たちを直接的に愛しておられると言うのです。
父なる神が愛してくださるその理由として、弟子たちが、全てを捨ててイエスに従い、命懸けでイエスを愛してきた事、また普通の人には、単に高貴な人間の宗教的指導者としか見えない方を、神の子として、天の父のみもとから来たことを心から信じ受け入れていた事、以上の2点があげられています(ヨハネ16:27参照)。
イエスは単なる偉人ではない、父と呼ばれる唯一、真の神から、派遣された、父と同等の位格を持つ神です。人間と同じ、真っ赤な血が流れ、私達と同じ肉の身体を持ち、人性を取られた、子なる神なのです。私達と同じように地上では歳をとり、腹が空けば食事をし、暑ければ汗を流し、労働の苦しみを経験し、得た賃金によって、母マリヤと年下の兄弟姉妹を養ってきた神なのです。そのイエスを、一見人間に見えるが、父が遣わされた救い主である神であると、信仰によって弟子たちはとらえることが出来たので、父なる神ご自身が弟子たちを愛してくださっているのです。その日、御霊が下る、ペンテコステの日、イエスと再び霊によって会える日、あなたがたは、イエスの名によって求めると言われた。しかし、実はもう、私の名(キリストの名)によって祈っても、あなたがたのために、父なる神に私は願わないとイエスは弟子たちに言われる。意地悪して、執り成しをしないと言うのではない。父ご自身があなたがたを愛しておいでになり、直接あなたがたの祈りを聞くからです。
父なる神は愛の神であることを想起しよう。総ての救いの計画は愛の父から出て、子を犠牲にするまで父ご自身が苦しみ、私達の贖いを計画したことを忘れてはならない。
私達は決して、父なる神を、私達の失敗を、赦さず、監視して、いつ罰を与えようかと思っているような、残酷な、無慈悲な、領主のように考えてはなりません。天地創造も、人間と動植物の命も、贖罪の計画も、罪の赦しも、やがて新しい命に復活し、事実上の天国として、 この地上そのものが神の宮になる回復も、総ては父なる神から出ていることなのです。『万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。……』(ローマ11:36口語訳)
P,信仰と十一献金の祝福
私達は聖書の自分の都合の良いところだけを受け入れ、都合の悪いところは無視するようなことがあってはならないでしょう。十一献金とそれに伴う祝福について、また特別な神から何でも引き出せるような、賜物、ギフトとして与えられるような信仰について考えて見たい。
まず信仰についてであるが、信仰はイエスのなされた贖いの業、救いを、そのまま戴く信仰が最も大事な信仰であると私は考えます。
『しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。』(ローマ4:5口語訳)
不信心な者を義とする信仰とは、キリストの十字架によってなされた贖罪の業をそのまま自分のものとして、受け入れ、捉える信仰です。100%完成された、イエスのなされた救いの業をそのまま受け入れ、戴いてしまう信仰です。神に対する信頼と言っても良い。素直な、素朴な信仰は、小さな、どちらかと言えば受け身の信仰です。
それとは対比して、何か巨大な、鋼鉄のような、何事にも動じない、岩をも貫くような信仰もあることは明記しておこう。パウロが後に、神の賜物として与えられるような信仰を書いているが(コリント第一12:9口語訳参照)ここに出て来る、聖霊によって与えられる特別な賜物としての信仰は、山をも動かすような信仰、何事が起きても動じない、まるではがねのような信仰だろう。もちろん、そんな信仰心があったら、それはそれで良い事だ。私にもそんな特別な信仰の霊を、神よりの賜物として戴きたいものです。
しかし、イエスの贖いの業、完成された救いの業、『…「すべてが終った」…』(ヨハネ19:30口語訳)と言われている、完成された救いの業、そのものを受け入れるような信仰は、賜物として与えられるような、偉大な信仰とは、何かちょっと違うような気がする。
それは、働きはなくても、不信心な者を義とするかた(イエス)を信じる人は、その信仰が義と認められる信仰です。それは、あの癲癇を患っていた息子をイエスの前に連れてきた父親の信仰です。
父親は、イエスに『……しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。』と言った(マルコ9:22口語訳)イエスは父親に、『…「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。』(マルコ9:23口語訳)とおっしゃった。その時父親は、自分の信仰の態度を悔い改め、『……「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』(マルコ9:24口語訳)と信仰告白をした。
イエスはこの父親の告白の言葉を受け入れられ、癲癇の霊に、その息子から出て行くように命じられ、癲癇の霊を追い出された。(マルコ9:25,26参照)
「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」この言葉こそ、すべての弱い私達にあてはまる信仰の立位置の言葉ではないだろうか。信仰と言って誇れるほどの信仰は何一つない。この父親のように、主よ信じます、救いの業を、あなたがしてくれたことを、十字架の完成された、贖罪の救いを、何もかも私の為になされたと信じます。信じ切れない心、あなたを全面的に受け入れきれない、ほんの少しでも、懐疑の心があります。それらをどうぞお赦しください。そのことも含めて、不信仰な私を助けてください。このように神に祈るしかない私達なのです。
『……もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって「ここからあそこに移れ」と言えば、移るであろう。……』(マタイ17:20口語訳)
『……もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、「抜け出して海に植われ」と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。』(ルカ17:6口語訳)とイエスは言われた。
からし種の木の種子、当時は植物の種の中で一番小さなものであると考えられていた。その種に比べられるような、小さな信仰すら、私達にはないのです。何故なら、信仰によって山が動いた話は、今だ、聞いたことも、見たこともないので、たぶん誰も、からし種一粒ほどの信仰を持ち合わせていないのだろう。
次に特別な賜物として与えられるような、大きな何物にも動じない強い信仰を持つことも可能だという事を考えて見よう。『……なんでも祈リ求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。』(マルコ11:24口語訳)とイエスは言われた。
祈りの対象であった何かが、実現してから感謝するのではない。神の御旨にかなった祈りの内容であるなら、強固な信仰と結びついて、もう祈り終わった瞬間にかなえられたと信じることが出来ます。結果を待たないで、実現することを信じ切って、感謝することが出来ます。繰り返しになるが、なんでも祈リ求めることは、すでにかなえられたと信じなさい、そうすれば、そのとおりになるであろう、とイエスは言われたのです。
また、イエスは、働きの最後の場面、十字架につけられるための一週間、その最初の日、子ロバに乗って、エルサレムへ入場した。その後、夜はべタニヤ村へ宿泊の為お戻りになり、お休みになった。翌朝早く、エルサレムに再入場されようとしたとき、空腹を覚えられ、道の傍らにあるイチジクの木から実を食べようと思ったが、まだ季節でなかったので葉しか茂っていなかった。イエスが、今から後、おまえにはいつまでも実がならないようにと木に向かって言われると、木は弟子たちの見ている前で、たちまち枯れてしまった(マタイ21:18~20口語訳参照)。
『……もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。』(マタイ21:21口語訳)
イチジクの木は、実を結ぶことが出来なかったエルサレム、イスラエル民族を象徴し、やがてエルサレムは、紀元70年ローマ軍によって、滅ぼされ、この木のように枯れてしまうのであった。
さて、祈りの中で、必要を求め、信じて疑わないならば、しかも、御心に沿った祈りの内容であるならば、
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。……』(マタイ7:7口語訳)
『与えよ、そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。……』(ルカ6:38口語訳)と約束されている。
ここで、念を押しておくが、内容が悪い祈りをすることは、言語道断です。人を呪ったり、賭け事や、不労所得であるところの宝くじに当たるような類の事を祈ったり、また、肉的に、ただ外面的に、自分の人間的努力ばかりを重ねてきて、自分の欲望を満たすだけに、神の力を借りるような、そういう祈りは最初から祈ってはいけない。神はお聞きにならない。
さて、次に、十一献金する人への祝福の言葉に移りましょう。神の御言葉は私達に収入の十分の一を神の宮に携え、神のために、専任で働く人の生活を支えるように定めています。
『わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落とすことのないようにしようと、万軍の主は言われる。こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。』(マラキ3:10~12口語訳)
紀元前2千年頃、アブラハムの孫ヤコブから生まれた12人の男の子がいた。やがてそれぞれイスラエルの12部族となって子孫が増えていくこととなる。最初は、カナンの地で生活していた父ヤコブと12人の男の子供たち、飢餓があった関係で食料の豊かなエジプトに寄留することになり、約束の地、カナンを出て、エジプトに出立した。この時ヤコブを含めて70人程の部族であった。神の数奇な導きで、末っ子ヨセフがこの時、エジプトの宰相に就任しており、エジプトに定住することを許され、やがてイスラエル民族はエジプトの地で増えて、430年後の出エジプトの時には約300万人になっていた。イスラエルの部族の内、レビ族は祭司の部族であり、一般的な仕事をしないで、神に仕える事を専任としていた。残りの11部族が、収入のそれぞれ十分の一を持ち寄りレビ族を支えたのです。これは、現代にも適用されるとSDA教会は考えており、神の働きに専任する牧師等の生活を支える為に、信者は収入の十分の一を献金として捧げなければならない。神は『……御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。』と書かれている(ローマ8:32口語訳)。そのことを信じる信仰が必要である。
一般常識から考えるならば、収入の9割で生活することは大変です。しかし天地を創造され、私達に肉と霊の両方の命を与えて下さる、神が、御自分のために十一献金を捧げている信者を祝福されないはずがない。十分の一献金を実行する時、『これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい…』(マラキ3:10)と言われている約束が実現していきます。聖書では、神を試すなどと言う事は、決してしてはいけないことであるが(マタイ4:7参照)、十一献金だけは『これをもってわたしを試み、』とあります。これはもうこの言葉を、神の言葉として信じて実行し、本当に書いてあるような祝福をされるかを試して見なければなるまい。
実は十一献金をやっていれば、私達が実際の人生の困難、苦難に行きあたった時、非常にに大きな祈りの、神に対する揺るぎのない根拠になる。また、人生の窮乏の場面での、強固な防波堤になる事を、私の経験から言うことが出来ます。それを実行することによて、神の言葉、神の約束を固く捉えることができます。神は必ず、あらゆる意味で私の必要を満たされるという確信になります。『わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19新共同訳)
何らかの確信、内的な根拠を持つことは人生をやって行く上でどんなに自信を与えてくれるだろうか。良い意味で自信がないと人生を力強く歩んで行けない。それが偉人の言葉だったり、先輩の励ましだったり、あるいは自分の信条だったりするかも知れない。それらも人生の指針として役立つ場合もあるだろう。
皆、誰でもそうだが、気が付けば、何故だかわからないが、(神の許しのもとにあるのは間違いないが)既に始まってしまっている、長い人生の道程の中で、聖書という揺るぎのない神の言葉の中に、生き抜くための土台と指針を求めたら、これ以上の基盤になるものはあるまい。それは、人生そのものを支え、価値を与えるものなので、生活の手段としての、金銭などに替えられるものではない。 一生のうちには、突然、とんでもないことが起きることもあるのだから。
十一献金をするという事は信仰に結び付けられて、絶対者なる神に全的に信頼していくという事です。神があなたが地上にいる限りは、必要な食物と必要な物質を与えてくれ、満たしてくれる約束です。もちろん精神的にも支えてくれるはずである。『……あなたがたは楽しい地となるからである……』(マラキ3:12口語訳)とも書いてある。
聖書の色々なところで、罪の中では、大きな罪として挙げられているのが貪欲の罪です。『……貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。』(コロサイ3:5)と書かれています。誰にでもある金銭に執着する心を、献金という行為によって、十字架につけて、なくしてしまうように、教えられているのだと、私は解釈しています。献金にはそういう、役目もあると考えます。何よりもお金が大事だと考えているような人(お金を神としているのだから、これは偶像礼拝)が、十分の一献金をする訳がないからです。
イエスキリストは十一献金をする事を否定はなさらなかった。『……十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。』と言われました(マタイ23:23)。
イエスは隣人を、公平とあわれみと忠実をもって、愛する事が律法(聖書)の中で最も大事であると言われたが、十一献金、そのものを否定はしなかった。まず、宗教者の第一の義務は、愛の行いを隣人に対してする事、そして十一献金 をすることも、大事だよ、とイエスは言われたと私は理解しています。
クリスチャンの行ない、口から出る言葉も含めて、総ては、キリストの名によって、実行せよ(コロサイ3:17参照)『…すべては信仰によるのである。……』(ローマ4:16口語訳)とあります。十一献金の実行も、それに伴う祝福の約束も、信仰に結び付けられなければ、何にもならない。
一般的に、献金の話をすると、この世の人の、普通の考えは、「宗教というのは、最後は金を搾取するんだね、仏教系S会もキリスト教も同じか、私達から、金をむしりとるのが目的なんだな。」そんな世の人の評価で話は終わりになってしまう。誠に残念です。
でも神の言葉を謙虚に受け止めると、十一とそれに伴う神の祝福の約束は、素晴らしいものです。神の言葉と守りに対する、揺るぎのない信頼関係に入って行く、チャンスをこの制度は私達に与えてくれます。一言で言うなら神に対する信頼と言うことなのです。
十一献金を実行する時、神の存在に対する、現実体験としての確信が与えられます。
そもそも、神は万有であり、宇宙、地球、人間、動植物、金、銀を創造した方です。総ては神御自身のものであるので、献金など、神は根本的に必要となさりません。神は無から有を呼び出される方です(ローマ4:17参照)。その神が私達の微々たる献金が必要とは、笑止千万です。神を見くびってはなりません。この地球、太陽系、私達が属する2千億の恒星からなる天の川銀河、すべて神のものです。さらにその外に広がる、外宇宙には、私達がいる天の川銀河と同じような銀河がさらに宇宙に2兆存在しています。この総てが万物の創造主である神のものです。神は究極的な意味で私達の献金などに依存していません。もともと、金も、銀も神のものです(ハガイ書2:8参照)。
では献金は、十一献金も含めて、何のために定められたのか?それは私達のために他なりません。
あなたがこのことを実行する時、神の実在に触れることが出来る入り口に立っているのです。あなたの前に、目には見えないが、確かに実在する、驚くべき世界が開かれようとしているのです。
最後に、繰り返しにはなりますが、『これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい…』(マラキ3:10)聖書の中で、ここだけ、この聖句だけが、神を試して見なさいと、言われているのです。
あなたも神がどんなにあなたを祝福するか、試して見ませんか。
Q,安息日について
自然界に7日周期で変化するものは、あるだろうか?
月の満ち欠けも7とは関係ない。海の潮の満ち引きも1日2回である。地球の自転、公転も7とは関係ない。1週間が7日とはどこから来ているのだろうか。
私が思うに、旧約聖書の天地創造の物語に起源を求める以外に、その根拠を探すのは難しい。神は本当に天地創造を7日間で行ったのだろうか。単なる物語としてではなくて、現実の歴史的事実として、1日1日を区切って、神は人を造ったり、陸と海を創ったり、動植物を創ったりしたのだろうか。もしこのことが事実として信じられないなら、聖書的意味で7日目安息日を守る意味がなくなります。
『神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って、休まれたからである。』(創世記2:2,3口語訳)
7日目安息日を守るという事は、6日間の神による天地創造をそのまま信じ、神が休んだように、自分たちも7日目、今の土曜日に当たる日を、聖別し、休むことなのです。
進化論者はこの日を守る全く意味がない。そもそも人間がアメーバーのような単細胞生物から、何十億年もかけて進化し、自然に生じたという考え方は、聖書とは価値観が全然違うもので、そもそも神の存在すら認めないのだから、安息日を守るなど、何も意味がない。
神は、モーセを通して十戒をイスラエルの人々に与え、その中の第四条を、天地創造から、何千年も経過しているのに、改めて天地創造の記念日として第7日目安息日を聖別し、仕事を休むように、再び定めました。他の九つの戒めも等しく大事であるが、よく考えて見ると、第四条安息日はモーセが定めたのが最初ではなくて、アダムとエバ創造時に安息日は人類に与えられていたのです。神がお命じになった人類最初の一番古い定めが安息日です。
神は天地創造時に、既に、その第七日を祝福して、これを聖別されていた。神が休んだから、人間も休みなさいという事です。この休みの趣旨は疲れたから休む休みではない。何故なら、この休みの制定は天地創造直後であり、堕罪前であり、被造物の中で疲れるなどという事は世界中にどこにもなかったはずだから。
また神が天地を創造し、そのため神が力を使ったから疲れるなどとは考えにくい。神は疲れることがないし、無限、万能な方だ。では最初の安息日は何の為だったのか?神に造られたものは、命に溢れ、相当の数が最初から地に満ち、神ご自身から見てさえ『……はなはだ良かった。…』(創世記1:31口語訳)と思えるほどに完璧に創造されていた。ゆえに、最初に定められた、安息日の目的は、被造物全体が、神を賛美し、神に栄光と感謝を帰し、賛美に満たされて、賛美と礼拝を捧げる日ではかかっただろうか。
安息日は創造の神を礼拝し、感謝し、賛美する日であった。それ以外に、最初に制定された第七日目の安息日の存在理由を見つけ出すことは私にとっては困難です。
ただ、いくつかの問題点はある。天地創造の最初の1週間ですべてが創造され、7日目安息日が週の最後の日に制定されたとしよう。しかし何千年前かの一時点における神の創造の業を認めたとしても、はたしてその7の区切りは、天地創造の時から、今まで1日も区切りのズレがなかったのだろうか。安息日の休みは現代にいたるまで、1日も途切れることなく、あるいは何らかの理由で1日くらい飛ばされることなく、天地創造以来、連綿と、同じ区切りで続いて来たのだろうか。
これは信じるしかない、誰もそれを証明できない。今カレンダーを見れば日曜日が週の第一日目であり、土曜日が週の第七日目である。週の第7日目安息日は、今の土曜日に当たる。何千年もの歴史を持つユダヤ民族が、いまだに土曜日を第七日目安息日として、歴史的に守り続けている。(昔は時計がなかったので、日没から日没までを一日と数えたので、正確には安息日は金曜日日没から土曜日日没までを指す)一人や二人なら数え間違えることはあるかも知れないが、ユダヤ民族全体で、数え間違えることは、まずありえないだろう。
ギべオンの上に(ヨシュア記10:12~14参照)太陽が昇り、1日太陽が沈まず歴史上1回だけ1日が48時間続いたことがあるが、この事件が起きた時、その日が週の第何日目か書かれてないので、わからないが、地球が1日だけ自転を止めた日だから、2日分あっても1日と数えるのであろうか。
さらにヒゼキヤ王の時、太陽が日時計を10度逆進したとある。(列王紀下20:11参照)つまり地球の自転が10度逆転したが、この日ズレた10度は、永遠にズレたままで、日没から日没までの安息日の計算には影響がないのであろうか?次々に訳の分からない素朴な疑問が湧いてくる。
結局、天地創造以来、週の第七日目は、連綿と続いて来たと信じるしかない。最も根本的な教理にかかわることが、証明できないことは信仰の世界では有り得る。イエスの復活を誰か証明できるだろうか?死んだら、私達も復活の時までしばらく眠りにつき、その後キリスト再臨の時、復活させていただけるとは信じているが、そのことを誰か証明出来るだろうか。聖書の言葉を読んで信じるしかない。
『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた(ことを)……悟るのである。』(へブル11:3口語訳)
『……あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っている……』(コリント第一15:12口語訳)
『……「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。……」。おろかな人である。……』(コリント第一15:35,36口語訳)
信仰によってイエスの復活を本当にあった事として捉えて行く以外にないのです。また、イエスの復活を信じ受け入れた者は、神がイエスを復活させた同じ、その力を、私達にも働かせ、私達をも復活させて下さることを待ち望んでいます。たとえ私達が死んで、無意識の眠りについていたとしても、もう一度塵から、神は私達を造り、今度は、二度と死ぬことはない、シミも傷もない、栄光の身体へ復活させてくださると信じるしかない。
そのように第7日目安息日が、今の土曜日の当たるかどうか、それは天地創造以来、連綿と続けて守られてきたと信じるしかない。
旧約聖書が12弟子がいた頃の神の言葉であった。神の言葉と言えばそれは旧約聖書の事であった。
紀元後に書かれた弟子たちの手紙等の著作物も、キリスト教徒の間には、神の言葉、新約聖書として認められていった。新旧約聖書正典が確立するのは、AD397年のカルタゴ会議まで待たなければならなかった。新約の最後の書、ヨハネ黙示録が書かれたのがAD90年の後半であるから、新約聖書正典の成立まで300年かかったことになります。
当時の信者たちは、既に使徒が語る言葉を、たとえそれが人間の言葉であっても、神の言葉として受け取った。
『あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。』(テサロニケ第一2:13)
しかしキリストを信じない、伝統的なユダヤ教徒にとって、ユダヤ教の一分派とみなされていたクリスチャンと称する人達の、指導者達が、その教会に宛た手紙等を神聖な、聖書に加えるとは、許し難い不遜なことであった。それは決して受け入れられない神を冒涜するのにも等しい事であった。
ユダヤ人たちは、旧約聖書の中のモーセの5書を、特に律法の書(トーラー) と呼び、聖書の中でも最も大事な規範として受け入れ、表面的にその言葉を解釈し、人間の肉の努力で守ろうとしていた。また、人間の力で守れると思っていたし、表面的には守っている人もいた。そういう人々は、表面的な律法遵守によって天国に入れると思っていた。その中にはモーセに与えられた十戒が含まれており、その第四条には安息日遵守の明確な戒めがあった。(出エジプト記20:8~11参照)
しかしユダヤ人にとって律法はそれだけでなく、後代になってタルムードとしてまとめられることになる、人々が口伝えに伝承してきたものも、守らなければならない律法であった。いわゆるユダヤ社会を毒するほどにはびこっていた、言い伝え、伝承の類です。これらもユダヤ人にとって守るべき大切な戒めだった。これらの伝承の結果、神の言葉は本来の意味からは、歪められて理解されていった。
キリストは神の言葉を、正しく解釈し直し、福音を宣教していったのである。その頃のユダヤ社会においては神の御言葉そのものよりも、言い伝えの方が、重要視されていた。また、旧約聖書には600程の守るべき規定があると言われている。ユダヤ教は、戒律でがんじがらめの民族宗教だと言われるゆえんです。今日でも正統派ユダヤ人たちは、このとんでもない重い戒律を背負って生きているのです。
新約聖書においては、直接、第七日目安息日について、その遵守を呼びかけている聖句は誠に少ない。例えば
『「……心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者(律法の書と預言者の書、つまり聖書全体の意味)とが、かかっている』。(マタイ22:37~40口語訳)
とイエスはおっしゃったが、これは十戒の第一条から第四条の遵守(神に対する戒め)と、第五条から第十条の遵守(人に対する戒め)をイエスが分けて、別表現で表現なさったと解釈することが出来ます。しかし、この箇所は安息日遵守の、イエスの言葉による、直接表現ではない。
また、旧約聖書の中には、本体としてのイエスが来られるまで存続し、イエスを予表し、イエスの影と言われている、様々な規定があった。それらの規定はイエスが来られるまで存続し、イエスの影として、本体であるイエスを指し示していた。イエスが来た以上、イエスを指し示してきた本来の役目が終わり、旧約聖書の戒めの中には、礼典律と言って、既に廃された戒めが多数あります。
それらの主なものは、割礼、犠牲制度、神殿の運行に伴う様々な洗い事の規定、食物の禁忌規定、各種祭典、礼典に伴う特別安息日(7日目安息日ではない)、異邦人と行き来を禁じる様々な制度等(雑婚の禁止を含む)(コロサイ2:14~17参照)(エペソ2:14~16参照)があります。
これらは総て廃された戒めです。これらを礼典律は、今だに廃されていないと考える道徳律(モーセの十戒)とは区別されます。
それでは積極的に安息日を論じた新約聖書の記述はないかと言うと、ただ一か所ヘブル書にその記述が見出される。ここにおいても、非常に微妙な言い回しで安息日を扱っている事に注目されたい。ご自分でヘブル4:1~11を良く読んでください。聖句の前後関係を良く読み評価してもらいたい。ここで難解なのは、パウロが(ヘブル書の著者は誰かは書かれてないが、内容から言ってパウロ以外に考えられない)第七日目安息日、天地創造の記念日(ヘブル4:4口語訳)を念頭に論じながら、同時に神の安息(へブル4:1)、すなわち魂が十字架で救われた事、言い換えれば魂の安息、救いの安息について、言及していることである。
結論は救いの安息、魂の安息にイエスによって入った者は、『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル4:9口語訳)と書かれているように、安息日を守ろうではないか、という事です。
神の安息、すなわち救いの安息、魂の安息に入った者は神が御業を休まれたように、自分も業を休んだ、すなわち仕事を休んだ(へブル4:10口語訳参照)。この安息に入るよう努力しようではないか。この安息日の御言葉に従順でないと、不従順の悪例に倣う事になり、救いから漏れることになるかも知れない(へブル4:11口語訳参照)。
さらに話しをややこしくしているのは、キリストの福音を受け入れた日、ある日を今日として定め、今日御声を聞いたなら、心をかたくなにせず、この素晴らしい罪の赦しを与えるイエスの福音の言葉を受け入れなさい、と福音の宣教と絡ましているところです。ダビデの預言の言葉を引用している。そして、このキリストを受け入れた日が、実はそれぞれの人の今日であり、イエスとの出会いの日であり、魂の救いを受け入れた人は、ヨシュアが当時のユダヤ人を休ませていたように、7日目の安息日を救われた人は休むべきであり、神は後になって、他の日の事について語られてはいない(へブル4:7~8参照)。ヨシュアから今日福音を受け入れたら、心をかたくなにしてはいけないと預言したダビデまで、約500年の時間があるのに、それを短い言葉で、7日目を決定づける、フレーズとして引用しているのも、驚きです。
この部分の要旨は、神との間で、魂の安息、すなわち罪の赦しを得た信徒は、先祖たちが守って来たように、肉体的にも、仕事を休み、安息日を守るべきです。新約時代に入っても、7日目安息日遵守まだ残っているということです。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル4:9口語訳)もし、それを守らないと、先祖たちが陥ってしまった、不従順の悪例にあるように、神の御言葉に対する不従順に陥いってしまい、信仰の落伍者が出るかも知れないので、安息日を守ろうというのです(へブル4:10,11参照)。
多少横道にそれるが、へブル人への手紙は何故パウロが書いたと思われるのに、直接パウロが書いたという記述が、へブル人への手紙の中に見当たらないのか。普通、他のパウロの書簡は、パウロ自身が書いたことを明記しています。
へブル人への手紙は、ヘブル語を話す民族、すなわちユダヤ人に対して書かれた手紙であり、これをパウロが書いたと記すと、ユダヤ人クリスチャンにとって、抵抗感があったからだと私は考える。
もともと、パウロは、自分自身が異邦人に向けた使徒であると自覚し、異邦人伝道がパウロの主な働きであった。『……ペテロが割礼の者(ユダヤ人)への福音をゆだねられているように、わたし(パウロ)には無割礼の者(異邦人)への福音がゆだねられていていることを認め、』(ガラテヤ2:7口語訳)
ユダヤ人から改宗し、クリスチャンになった、へブル語を話す人々にとって、パウロが、指導する教義、信仰による義とか、割礼を含む様々な礼典律法が廃止されたとかは、食物規定の廃止も含めて、たとえクリスチャンになったとしても、非常に抵抗感のある問題であった。
ユダヤ人改宗者には民族的に引き継いできた、伝統、習慣、文化があります。パウロは自分たちがユダヤ教徒であった時、大事にしていた、旧約聖書に基づく習慣、伝統を、次々と変更してしまうので、彼らはあまり良い感じをパウロに対して持っていなかったはずです。だから、へブル人(ヘブル語を話すユダヤ人)に自分の書簡が偏見をもって見られないために、パウロはへブル人への手紙を書いた際、敢えて自分の名を記さなかったのではないか。
余談になるが、ユダヤ人にとって人気のあった、強い影響力を持った、指導者は、パウロではなく、律法を守る事を強調したイエスの兄弟ヤコブであったと考えられる。
ペテロが、エルサレムを出て、異邦の地アンテオケにある教会を訪問していた時、そこでは当然のように、異邦人と一緒にペテロも食事をしていた。
しかし、エルサレムにいる律法を強調する『…ヤコブのもとからある人々が来る……』(ガラテヤ2:12~14口語訳参照)と、異邦人との交際を彼らに批判されるのを恐れ、ペテロは次第に身を引いて、異邦人から離れて行き、一緒に食事をするのもやめてしまった。
この事を、偽善だと言って、パウロは厳しく、教会員達の面前で、ペテロを糾弾した。これらの記事、時代背景を見る時、使徒と言えども、様々な信仰に対する考えがあり、信仰のとらえ方には、ヤコブのように律法、信仰から産み出される結果の善なる行為を強調する者、パウロのように信仰による義を強調する者、様々な個性があったと考えられます。このことから神は信仰に対する様々な考え方の差異を、ある程度はお許しになっていることがわかります。もちろん、それは程度問題はあろうが。
『また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。』(ペテロ第二3:15,16口語訳)
これは、聖書解釈がいかに、救いに直接かかわる大事なことであるかを教えてくれているペテロの言葉です。
パウロの知恵に満ちた、神の恵みを表現している言葉を、どう解釈し受け取って行くか。それは救いに対する重要問題です。ある人々は、パウロの恵みの言葉を曲解して、自分の身に滅びを招いてしまったとすらペテロは言っているのです。パウロの説く、福音の言葉をどのように解釈していくかは、救われるか、救われないかを左右するような、大事な聖書解釈のポイントなのです。
ある意味、パウロの福音解釈は両刃の剣とも言えよう。律法は、(道徳律も含めて)廃止されたのだから、キリスト者は自由だ。聖霊に満たされて歩めばそれで良い。もうクリスチャンは恵によって救われるのだから、愛の行いをしていけばそれで良い、神の律法など守らなくても良い、そんなことをパウロは言っていない。パウロの恵みの言葉を受け入れ、神の前に義とされた者は、無律法主義に陥ってしまうのだろうか?
パウロの言葉を良く読むと、むしろ救われたものは、『…キリストの律法の中…』(コリント第一9:21口語訳)にいるのだし、愛によって働く信仰だけが神の前に尊い、と書いている。
信仰の結果として、神の前に、愛の行いと言う、義の実を結ぶことが強調されている。どの手紙を見ても、必ず恵の言葉の後に、愛の行いを強調している。
自分を愛するように、隣人を愛することに、すべての律法が含まれている。
『律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(ガラテヤ5:14口語訳)
何故パウロは『キリストの律法』、という言葉をコリント第一9:21とガラテヤ6:2で使ったのだろうか。(ちなみに、キリストの律法と言う言葉はパウロの書簡の中に、この2箇所しか出てこない)
救われたものは、救いを受け入れた後には、神の律法の中にいると言えば何も問題が起きなかったはずです。神の名称の代わりに、キリストの名を出すことによって、愛を強調したかったのではないだろうか。もちろん、キリスト=神なのだから『…偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト… 』(テトス2:13新共同訳)、どちらでも結果的には同じだと思うが、ニュアンスの問題であろう。コリント第一の同じ個所で『…わたしは神の律法の外にあるのではなく、…』(コリント第一9:21口語訳)と表現しているので、単純に(神の律法の中)と受け取っても構わないと、私は思ってもいる。
パウロの頭の中には、今までユダヤ人が陥ってしまっていた、律法主義を避けるために、敢えて『…神の律法…』とは言わずに『キリストの律法』と使ったのだろう。
また、パウロはクリスチャンはキリストの霊によって満たされて歩くとき、『…律法の下にはいない。』(ガラテヤ5:18口語訳)(ローマ6:14口語訳)と言っている。これはどのように解釈すべきだろうか。律法は廃され、無律法主義で歩みなさいという事なのであろうか?
『…律法の下にはいない。』の本当の意味は何か?
生まれつきの肉の力で、聖霊の臨在も、助けもなく、表面的に律法を、ただ人間的な努力によって守って行くような、守り方の下にはいないと解釈すべきです。
キリストの霊の臨在と内住による、霊の満たしなくして、人間の力、肉の努力だけで、律法の文字面だけに拘って律法を守ろうとするとき、私達は、霊の下ではなく、律法の下にいるのである。充分に注意をしなくてはいけない。
また『………律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。』(ローマ3:20口語訳)とパウロが言った、いわゆる、律法の養育掛用法の下にはいないとも解釈すべきだ。『……信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。』(ガラテヤ3:25口語訳)。ここでは、道徳律が罪の自覚を生じさせ、養育掛用法によってキリストの必要を感じさせ、罪の救いをもたらすキリストに連れて来ると解釈している。しかし、もしかすると廃された、礼典律と言われている、様々な儀式律法も、人々をキリストに連れて来る、養育掛的働きをしていたのかも知れない。ここは意見が分かれるところです。
クリスチャンはキリストの救いを受け入れた以上、いつまでも罪の自覚に悩まされ、ウジウジとして、良心の咎めに責められているべきではない。いつまでも律法の養育掛用法の下にいるべきではないのです。
私達は霊が解放され、恵の下にいて、いつも救いの喜びの中にいるべきです。
何れにせよ、律法には様々な用法があり、クリスチャンの行いのスタンダードを示す標準的用法もあります。別の言い方をすれば、愛の方向性を示す用法と言ってもいいかも知れない。行いによって救われるか、救われないか、という問題は抜きにして、(誰でも皆、信仰のみによって救われると私は信じているが)、もう一つ、クリスチャンの行ないの標準を示す(あるいは愛の方向性を示す)、律法の用法もある事を認めなければならない。
一方、人間の正しい努力や行いは、人間の社会、現実生活には必要な側面もある。
救いとは別次元で、それを認め評価する事が必要であると私は考えます。 修行、戒律、宗教は違っても、様々な戒めを守る努力、日常の規範においては、それぞれ適宜役に立っている場合もあります。その良い行いによって、魂が救われるなどとはサラサラ言わないが。
また、社会の仕組みを考える時、そこには様々な決まり、法治国家として法律、規制等があります。これらも戒めと言えば戒めであり、日本の法律を考えても、余りにも多すぎて、全員が守っているとは限らないが、法律によって私達も、社会も形成され、維持されている、肉の社会の事実があります。公平に見て規則、戒め、律法がすべて悪いと言うわけではなく、現実の社会においては、役に立っている場合も多いのです。
パウロは律法が本来の機能を果たすうえでの、養育掛とは異なる、もう一つの用法、クリスチャンにとっての標準的用法ともいえる言葉を以下の様に述べています。
『律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。…律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、…父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、…偽証をする者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えれらているのです。』(テモテ第一1:8~10新共同訳)
さて、なぜ多くの聖書学者が、著者名が明らかでないヘブル人への手紙を、パウロの書簡と考えるかについては、その、機微に満ちた内容からです。ユダヤ神殿、聖所、至聖所、日々の燔祭、年に一度の贖罪の日の儀式、各種儀礼の描写、それらの霊的解釈(へブル9:23~28参照)、このような詳しい説明は、学識豊かであったパウロ以外に、著述出来ないものです。
さて、ここで、ユダヤ教の伝統、選民、規律と戒律、神殿の宗教儀礼、それらを教育され、幼い頃から信仰生活をしてきて、途中で改宗し、クリスチャンになった、ユダヤ人たちの気持ちを考えて見よう。
ユダヤ人が途中でキリスト教に改宗しても、自分達が、幼い頃から教育され信じて来た、宮参りや、割礼、ユダヤ神殿における様々な儀式、厳格な食物規定等が廃された、と受け入れることは、何か自分たちが守ってきた大事な物がなくなるような、寂しい気持ちになったのではないだろうか。ユダヤ人クリスチャン達は、頭ではわかっていても、そんなすべての民族的習慣をすぐに捨てることは出来なかったに違いない。
日本人がクリスチャンになっても、仏教や神道の習慣、宗教儀礼、お盆に故郷に帰り先祖の供養をするとか、3回忌とか、盆踊り、夏、秋の祭、盆暮の付け届け、七五三の宮参り、端午の節句等、また食物については、魚、一部の地域の動物の肉の生食習慣等、日本の様々な文化、慣習から抜け出すのは容易ではない。もちろん、キリスト教信仰とは矛盾しないものもその中にはあるだろうが。
それと同じことが、ユダヤ教徒からの改宗者達にも起きていたはずである。ユダヤ教をバックボーンに持つ、ユダヤ人改宗者達は、たとえイエスを救い主として受け入れたとしても、その多くの習慣、特に、イエスが屠られた神の子羊であり(ヨハネ1:29,黙示録5:6参照)、ユダヤ神殿の犠牲制度は、根本から廃されたと主張する、ヘブル書は、中々受け入れにくいものだっただろう。
脱線ついでに、ヘブル書の中心テーマを大雑把に紹介したい。まず本質はキリストが大祭司として天にある至聖所にお入りになったので、もはや救いは完全になされ、完成されたという事です。
罪の身代わりに羊の血を捧げる事を中心にした地上のユダヤ神殿における犠牲制度による贖罪儀式は廃され、キリストこそ神の怒りをなだめる身代わりの捧げものであり、羊の血ではなく、キリストが十字架上で流された血潮によって、私達は救われるのです。その血により、罪が拭い取られ、清められ、良心の咎めはなくなり、確信を持て神の御座に近づくことが出来ます。ヘブル書には、死んだ行いの悔改め等、基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの罪の赦しの血、契約の血を信じ切って、良心の咎めを捨て去りましょう、とあります。
『だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、……神がお許しになるなら、そうすることにしましょう』(へブル6:1~3)
『…イエスの血によって聖所に入れると確信しています。……心は清められて、良心のとがめはなくなり、……信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。』(へブル10:19~22新共同訳)
行き過ぎた良心の呵責に悩む事はないのです。罪の記憶ですら、『…あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ』(ミカ7:19口語訳)て、神は忘れてくださる。
羊の血は罪の記憶を消し去ることは出来ません。『……いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。』(へブル10:3,4口語訳)しかし、イエスの流された血は、罪の問題に対しては、神の赦しの最終回答であり、良心の咎めさえ取り去ってくれるのである。『……心はすすがれて良心のとがめを去り、……』(へブル10:22口語訳)
ユダヤ人にとってキリストが、大祭司であるという発想は新しいものであった。大祭司はレビ人でなければならなかったし、ユダヤの宗教儀式は、民族としてのレビ族が専任に行うことに定められていた。イスラエルの部族の内、レビ族は祭司の部族であり、一般的な仕事をしないで、神に仕える事を専任としていた。残りの11部族が、収入のそれぞれ十分の一を持ち寄りレビ族を支えたのである。
キリストは、血統的にはユダ族の出身であった(マタイ1:3参照)。キリストはユダ族であり、レビ族ではないので、大祭司にはなれないというユダヤ人の理解があった。そうではないことを証明しようとして、ヘブル書の著者は、アブラハムの時代にあった故事を持って来て、その証明にしようとする。これは神学的には大変大きな問題を抱えることになるが、それについては後述する。
ヘブル書の著者は、アブラハムがサレムの王、メルキゼデクに捧げものをして礼拝したことを旧約聖書から引用する。アブラハムと言えばユダヤ民族にとって信仰の父であり、最も尊ぶべき存在である。アブラハムが、メルキゼデクにすべての物の十分の一を贈った(創世記14:18~20参照)。メルキゼデクとはいったい何者か?創世記の中に突然出て来る。神の祭司であるが、血統もなく、始めもなく、終わりもなく、永遠から永遠にいます方である。実はこれはキリストの別名による顕現であると言われています。しかし、メルキゼデクは実際に存在したサレムの王であると言う説もあります。その説を採っても、メルキゼデクがこの時代においてキリストを表す予型であったことは確かです。
アブラハムがメルキゼデクに捧げものをした時、レビはまだ産まれていなかった。正確に言えば、レビは、アブラハムの孫ヤコブの子供、すなわちアブラハムのひ孫であった。この時はまだ産まれていず、まだアブラハムの腰の中にいたのだ。変な表現だが聖書はそう主張している。
アブラハムがメルキゼデクに十一献金の捧げものをしたときレビはアブラハムの腰の中にあって、アブラハムと一緒に捧げものを、メルキゼデクにしたのだ。イエスはメルキゼデクに等しい方、メルキゼデクはイエスの予型なのである。レビ族は、祭司の民族であり、大祭司もレビ族から選ばれる。しかし元をただせば、レビもアブラハムの腰の中にあって、捧げものを、メルキゼデクにしたのだし、そしてメルキゼデクはキリストの予型なのだから、キリストこそ、ユダ族から出ても、真の大祭司である。こういう証明で、イエスが天にある真の聖所で仕えておられる真の大祭司であると主張する。
『…(大祭司たるイエス・キリストが)天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。』(ヘブル8:1,2)
こんなことを言いだせるのは、弟子たちの中で、最も学識豊かであったパウロ以外に考えられない。
ユダヤ人の神殿を中心にした犠牲制度が、ヘブル書には事細かく書かれている(へブル9:1~14参照)。その要点は、地上にあったユダヤの聖所には毎日、羊の燔祭の血が聖所の前の部屋に注がれていた。毎日ユダヤ人が犯す多くの罪が、羊の血によって、聖所の前の部屋に運ばれ、赦されていったと考えられてきた。その積み重なった罪が、1年間聖所の前の部屋に、象徴的にたまっていたと考えた。1年に1度、贖罪の日に(今の暦で、10月頃)1頭の山羊を殺し、大祭司が聖所の後ろの部屋、すなわち至聖所に入り、清めの儀式をした。さらに、もう一頭の山羊は荒野に放ち野垂れ死にさせた(サタンの滅びを象徴的に表すと考えられる)。
イエスはこの時代の終わり(今から2千年前の事)に、動物の血ではなく、ご自分の血を流され、十字架の血をもって天の至聖所に、聖所の後ろの部屋にお入りになり、民のとりなしの為に、天において神の前に出てくださった。
『わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。』(へブル6:19)
『……こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、…信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこう…』(へブル10:19~22口語訳)。
だから救いは完全であり、良心の咎めを取り去り、悔い改め、バプテスマ、按手、罪の告白などのキリスト教の初歩の教えを後にして、今や、良心はすすがれて、咎めはなくなり、救いの確信をもって神の御前に出られます。これがへブル書のテーマです。
『だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、………』(ヘブル6:1,2新共同訳)
神学的重要問題が、既述した祭司性の変更(ユダ族であるのにイエスは大祭司である)に関する、パウロの論証から派生します。むしろ私などはこちらの方が本筋論であると思うが、ご判断は、この稿を読んでいる方々にお委ねしたい。
このパウロの論理に従えば、私達全人類が、最初に造られた人、アダムの腰の中にいたことになります。進化論を信じていない私達クリスチャンにとって、人類の子孫の細胞の始まりは、アダムの腰の中にあるという表現をすることが出来ます。もしそうなら、神が食べてはいけない、と言われた禁断の木の実を、アダムが罪を犯して食べた時に、 私達全人類も、アダムの腰の中にあって、禁断の木の実を食べたことになります。この意味で私達は生まれながらに罪人なのです。
キリスト教的に言えば、全人類は神の前に罪人である。『……生まれながら神の怒りを受けるべき者…』(エぺソ2:3新共同訳)であり、『…「義人はいない、ひとりもいない。』(ローマ3:10口語訳)人間は神の前に全員が罪人であり、正しい生き方をしていない。
ローマ書5章12節から読むと、イエスの救いと、アダムの罪が対比されて書かれている。アダムにあって、罪と死の結果を被ることになった全人類は、第二のアダムであるイエス・キリストの義なる行為によって、その義が総ての人々におよび、義が被せられ、覆われて救われる。もちろん信仰によってその救いを受け入れるならば、という条件付きです。この条件を付けないと、万民救済論になってしまう。
第二のアダムであるイエスの救いは、私達にとって第一のアダムにあって罪人とされた以上に、広範囲に、力強く適用されるはずだ。『…もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。』(ローマ5:15口語訳)アダムにあってアダムの腰の中で全員罪人とされたが、キリストによって、全人類の代表者として、神の子が、肉体を取られ、律法の下にお生まれになり、愛の律法を完全に実践し、罪を犯さず、完全なる生涯を送られたので、その義が、さらに力強く全人類に及ぶ。
キリストが十字架上で肉を処断した時、私達も古き自分、肉の欲望で生きている滅ぶべき自分が、イエスの肉と共に完全に処断され、そのことを受け入れて、信ずる者には、聖霊が内住してくださり、弱い肉にありながらも、霊によって、霊の管理の下で生きることが出来るようにして下さったのです。(ローマ8:3~11参照新共同訳)
キリストが十字架につけられた時、私達も十字架につけられたのだし、キリストが復活した時、私達も霊的に復活している。第二のアダムであるイエスの持っている体験はすべて私達の体験となります。さらには、人間が信仰によって深くイエスに結び付けられることによって、世の終わり、すなわちイエス再臨の時、本当の復活が起きて、私達もキリストと同様に復活させられるのです。
キリストにある私達には、ある意味既に永遠の命が、心の中で始まっているのです。全人類が第一のアダムの腰にあって罪を犯し、第二のアダムであるイエスにあって回復せられるという事は、そういう事なのです。
現実感としてアダム以来の肉の父祖における罪の影響は、自分の親による影響も含めて大きい。ダビデは言った。わが母は罪の中に私を身ごもったと。『わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。』(詩篇51:7新共同訳)
私の個人的な経験であるが、生まれた子供が初めて、親に嘘をついた日を忘れることが出来ない。それは、自分の子が二歳から三歳の時、誰が教えたのか、自己を弁解するため、嘘をついたのです。誰も教えないのに、子供は自己を弁護するため噓をつくことを覚えるのです。
アダムの腰の中にあって、全人類は細胞レベルで一緒に罪を犯してしまった。第一のアダムの経験は、遺伝的、生物学的共有であって、第一のアダムが罪を犯したとき、全人類は第一のアダムの腰にあって、同時に罪人とされ、同時に堕落してしまった。これは、肉に連なるものとして、肉の弱さの中で、しかも体験的に、個人的に感じる事が出来る。
しかしながら、イエスキリストの救いの伝播、すなわち、イエスのなされた業の中に、ある救いの確証は、遺伝的、生物学的、細胞的な物ではない。それは言わば、聖霊の注ぎの確証です。聖霊による新生の経験は、ある意味捉えどころがない。第二のアダムにある私達の内的経験は、どれほどに明確に霊の誕生として自覚できるのであろうか。第一のアダムに自分があることは、自分自身の経験として、肉の弱さのゆえに、肉とその欲望に憑りつかれ、泥まみれの中で生活してきた過去は、消すべきもなく、自分の中でハッキリしているが、第二のアダムを受け入れた時には、どれほどに明確に霊の誕生を自覚できるのであろか? 生涯のある時点で救われて、肉の人から、霊の人になったとしよう。イエスにある、新しい誕生も、明確に自覚できるのだろうか?
イエスの贖罪を信じる時に、上からの霊による生まれ変わりが求められる。イエス・キリストに心の中で固く結ばれていくこと、それは聖霊を毎日注がれるという事に他ならない。毎日キリストに、霊の心の中で出会い、霊のキリストが、自分の心の中に住んでおられることを悟る事。祈る事でもよい、瞑想でもよい、御言葉を深く考える事でもよい。霊の臨在を、自分の近くに感じ、信じ、隣人の為愛の行動をする事、こうする以外に、キリストにあるリアリティーを自覚する方法はないはずです。
クリスチャン経験の成長の中で、第一のアダムにある時の罪深い経験以上に、第二のアダムであるキリストにあることは、明確な聖霊の満たしの経験であるべきです。ローマ書5章17節に、『……さらに力強く支配するはずではないか。』と書かれている。このことを体現するには、どうしても、祈りと瞑想、ある時には断食祈祷、日々の繰り返し、本当に霊的意味での、御霊と共に歩む、霊的格闘とも言える過程が必要になって来ます。聖化とは、一朝一夕になるものではなく、日々聖霊の臨在と、満たしを求め、キリストに結ばれて行く、長い繰り返しの信仰の道程です。
何処に、『……さらに力強く支配するはずではないか。』というパウロのイエスにある、力強い、現実の生活における、キリストの体現を感じるか?救いの要素は、アダム以来の弱い私達の側にはない。人間の生まれつきの才能や、後から学習によって獲得した、知識、学識、能力等、それらはこの複雑な現代社会を生きて行く上で、またこの世の仕事をする上でも、大事なものであるが、それらを一度十字架につけてしまおう。虚しくなった自分を見つめ直し、復活のイエス・キリストの霊に満たされ、自分も霊的に復活したような体験をして、最終的には、神と人の為に命を捨てるほどの、愛に満たされた活動へと、そのリアリティーを求めて行く以外にないだろう。
さて本筋に帰ろう。何故新約聖書では、第七日目安息日遵守を強調したところが少ないのか。それは当時の社会において、聖書といえば、旧約聖書を指し、旧約聖書の中にある、たくさんの律法の中で、ユダヤ民族としての特徴を良く表していた第7日目安息日を守ることは、特に問題にして強調するほどもないくらい、常識であったからだと考えます。
当時は、聖書の言葉以上に、人々が口伝えに伝承してきたものを守っていた。後にタルムードとして、文書化されていくが、むしろ聖書そのものよりも、言い伝えの方が守るべき大事な教えになっていた。ユダヤ社会は、言い伝え、伝承の類を守ることに一生懸命になっていて、本来守らなければならない聖書の意味が失われていた。何百もの守るべき戒めが存在していた。ユダヤ教は、戒律でがんじがらめの民族宗教だった。
余りにも安息日遵守は形式的なものになり、本来の魂の安息を得た者が仕事を休んで、赦しと救いの安息を得たしるしとしての安息日、神に対して賛美と感謝を、礼拝として捧げるという意味が失われてしまっていた。キリストは安息日の律法を破ったのであろうか?『……イエスが安息日を破られたばかりではなく、……』(ヨハネ5:18口語訳)
べテスダの池の縁に、38年もの長い間病気に苦しめられ、横になっていた人を安息日にイエスはお癒しになった。病をイエスによって癒され、元気になった人が床を取り上げて歩いていると、周りのユダヤ人達は、今日は安息日だから、病の癒しも、その結果、床を取り上げて歩くことも良くないと言って批判した。当時の常識として、ユダヤ人たちの考えていた安息日の守り方を、イエスは破られたのです。イエスは、安息日の守り方を改革され、本来の守るべき姿に、戻されただけであった。当時のユダヤ人のタルムード的守り方からは、イエスは安息日を破ったと見なされたのです。
『人の子は安息日の主である。」』(マタイ12:8口語訳)安息日に羊が穴に落ちたからといって、引き上げてやらないだろうか(マタイ12:11口語訳参照)。であるならば、病に苦しむ人を、安息日であっても癒してやるべきではないか。『……だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。』(マタイ12:12口語訳)
当時のユダヤ社会において、安息日には歩く距離すら決まっていた(使徒行伝1:12参照)その距離は、今の単位で、約900メートル。その禁を破らないように、ユダヤ会堂は1800メートルおきに建てられていた。聖書の中に安息日には何メートルしか歩いてはいけないなどと言う規則はない。ユダヤの伝承による、ナンセンスな、人間が考え出した戒めです。
弟子達が、安息日に、麦の穂をつんで食べ始めた。それを見たパリサイ人達が安息日にしてはならないことだと言って師であるイエスを咎めた。手の平で、麦の皮をむき、食べるのは、脱穀の仕事になると言うへ理屈です。
『…「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。』(マルコ2:27口語訳)と言って、彼らの解釈が間違っていることをイエスは教えられた。
『週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。』(使徒行伝20:7)。
ここに『週の初めの日に、パンをさくために集まった』とあり、これを一般教会は聖餐式と解し、バウロたちは、日曜日に聖餐式をし、礼拝をしていたと主張する。そしてこれを、日曜礼拝の正当性を支持する決定的な聖句として、よく引用する。しかし、パンをさくこと、これを即、聖餐式であるとすることは、無理がある。当時は安息日にかぎらず、パンをさいて会食することが、コイノニアと言われるクリスチャンの信徒同士の深い交わりの中で、愛餐として、通常の日でも、家でもどこでも、よく行なわれていた。(使徒行伝2:42~46参照)
色々な解釈がこの聖句にはあるが、週の初めの日にパンを裂く為に、弟子たちが集まっていたとあるので、確かに復活の記念日として弟子たちがすでに集会を持ち礼拝をしていたようにも受け取れる。
また黙示録には『…主の日に御霊に感じた。…』とあり、主の日は日曜日であるから、ヨハネはすでに、パトモス島で日曜礼拝していたのだという根拠に使われる場合がある。これらの聖句から、すでに弟子たちは復活の記念日として日曜日に礼拝し始めていたという解釈をする教会もある。
『ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。』(ヨハネ黙示録1:10口語訳)
この聖句を持ってヨハネは日曜礼拝していたというのです。しかし、これが礼拝であるという根拠は何もない。また、この黙示録が書かれたのは、遅くても紀元後96年であり、教会が日曜日を主の日と呼ぶようになったのは、二世紀の終り頃であるので、この時はまだ日曜日を主の日とは呼んでいないはずです。
主の日という語が聖書に出てくるのはここだけで、他にはない。これに似た言葉は旧約のイザヤ書58:13に『わが聖日』『主の聖日』という語があり、これは第七日安息日を指している。
新約になってからも、日曜日は『週の初めの日』と呼ばれていて、『主の日』と呼ばれた記録はどこにもない。むしろ、福音書には『人の子は、安息日にも主なのである』という言葉がみられ、これは第七日目、土曜日のことです。黙示録にある『主の日』という言葉も、日曜日ではなく、むしろ第七日目、土曜安息日であるとするのが聖書的であり、そのほうがきわめて自然な解釈です。
これは時と律法を変える、というカトリック教会が聖書にした事ではないのか。『彼はまた時と律法とを変えようと望む』(ダニエル書7:25口語訳)の預言が実現して行く。彼(カトリック教会)は驚くべきことに、神の律法を変えている。カトリック教会の十戒には、第二条がない。(第十条を二つに分けて、数だけは十にしている)。モーセの十戒の第二条は『あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。…… 』(出エジプト記20:4,5新共同訳)という偶像礼拝の禁止です。
カトリック教会は、マリアの像や諸聖人の像を拝んだり、これにむかって祈ったりしています。これは、例え、これらの像を、神として偶像礼拝しているのではなく、像を通して、イエスを拝んでいると言う変な理屈をつけたとしても、やはり偶像礼拝であり、神の律法に対する、明確な違反行為であります。だから、カトリック教会はこの戒め削除したのです。
西方教会であるローマカトリックと東方教会であるギリシャ正教が分裂したのも、この聖句に対する解釈の違いが大きい。もっとも、ギリシャ正教は、像を刻んだり、拝んだりしないが、その代わり、イコン(聖画)を拝むから、私達から見れば大して変わらない。
律法の第2条を削除し、さらに第4条も変更して行ったのです。律法を変え、時を変えたのです。
カトリック公教要理に書かれている十戒
1、わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはなら ない。
2、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3、主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4、あなたの父母を敬え。
5、殺してはならない。
6、姦淫してはならない。
7、盗んではならない。
8、隣人に関して偽証してはならない。
9、隣人の妻を欲してはならない。
10、隣人の財産を欲してはならない。
モーセの十戒
『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。』(出エジプト記20:2~17新共同訳)
カトリック教会は礼拝日を週の第7日目から週の第1日目に、カトリック教会の権限によって変更したとはっきり認めています。
彼らは次のように宣言している。「われわれは、カトリック教会がラオデキヤ会議(A.D364年)において儀式を土曜日から日曜日に移したがゆえに、土曜日に代えて日曜日を守るのである。」-The Convert’s Catechism of Catholic Doctorine, by Peter Geirmann,p.50. )ラオデキヤ会議が開かれた際、教会は日曜休業に関して、次のような決議をおこなっている。
「クリスチャンはユダヤ化して、土曜日を無為に過ごすことなく、その日は働かなければならない。しかし特に主の日(日曜日)を尊び、クリスチャンとして出来る限り、仕事をしてはいけない」。
何れにせよ、土曜日を聖日にする派、日曜日を聖日にする派、両者共、それぞれが何となくそれらしき根拠を持ち寄っている観があるが、私はこう考えます。
旧約聖書の天地創造に由来し、またモーセの十戒において再度強調されている、重要な教えである第7日目安息日の変更があれば、新約聖書の中にも明確な表現で、その変更が記述されているはずです。
たとえば、羊を殺して罪のいけにえとして捧げる、旧約聖書の時代のユダヤ神殿を中心に行われていた犠牲制度や割礼の儀式、諸々のユダヤの祭典、それに伴う特別な安息日、その他旧約にある様々な規定等は、その儀式が予表していた、本体であるイエスの十字架の犠牲が実現した事によって廃止された。このことについては、新約聖書の中に明瞭な廃止の宣言があります。(エペソ3:15,コロサイ3:14,ヘブル10:18参照)
第7日目安息日が廃止されたなら、新約聖書の中にその明瞭な宣言があって、いいはずです。週の初めの日にエルサレム教会への救援献金を集めたり(コリント第一16:1~3参照)、パンをさいたり、パトモス島でヨハネが幻を見たりしたことが土曜日から日曜日への礼拝日の変更の根拠となっています。
さらに、ローマ書14章にある、ある人々は特定の日を重んじるが、どの日も同じと考える人もいると言うパウロの記述をもって、安息日は廃されたと言う人達もいます。しかしこれは、旧約聖書の各種祭りに伴う特別安息日を、今までのユダヤの伝統、習慣で祝祭日として守っていた人がいたのであり、7日目安息日ではないと解釈します。聖書全体のメッセージから考えてもこの聖句をもって、7日目安息日が廃されたと主張する事には無理があろう。
以上、安息日が変更された、もしくは廃されたと思われる個所を探して、その根拠としたい人々が挙げている聖句を考察して見たが、そのどれをとっても、余りにも明瞭な変更宣言とは言えない聖句です。
もしかしたら、日曜教会の人々が主張するように、この頃から、週の第一日目が、イエスの復活の記念日として、当時の人々の中で、何らかの集会が持たれるようになっていたのかも知れない。しかし、週の初めの日に集会が持たれていたとしても、同時に第7日目安息日は主の聖なる日として、神の命令どおりに守られていたはずです。前述で、考証したヘブル書にある、『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル4:9口語訳)をここで、繰り返し触れるようなことは、煩雑になるのでしないが、明瞭な聖書上の変更宣言もないし、まして、使徒たちによる直接的な変更宣言もない。神の直接的変更命令もない。そういう事がなく、ただ、いくつかの聖句の中に、日曜日に集会を持っていたという現象しかとらえられない。明確な変更宣言がないと言う事は、第7日目安息日(土曜日)は続いているし、クリスチャンにとって今も守るべき神の礼拝日であると、公平に判断して良いだろう。
ヘブル書の『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル4:9口語訳) 神の安息、すなわち救いの安息、魂の安息に入った者は神が御業を休まれたように、自分も業を休んだ、すなわち仕事を休んだ(へブル4:10口語訳参照)この安息に入るよう努力しようではないか。この安息日の御言葉に従順でないと、不従順の悪例に倣う事になり、救いから漏れることになるかも知れない(へブル4:11口語訳参照)ここの記述は第七日目安息日を守るべき、御言葉の根拠として、もっと評価されて良いと考えます。
さてもう一つの安息日遵守に関して、安息日を守ることは、何らかの形で、行いによって救われるという律法主義に陥る事なのかという、神学的な問いがあります。
救いに関する考え方を検証して見よう。
私たちは恵の下にいるが律法の下にはいない。律法によっては罪の自覚が生じるのみと言う、養育掛的用法の下にはいないが、愛の方向性を指し示す用法、言葉を変えて言うならば、クリスチャンとしての行動のスタンダードを示す用法、標準的用法の中にはいるのです。
律法には人を救う力はない、また律法は霊的な物であり、肉のもとに売られている人間が、どんなに努力をしても、それを守ることなどできない。表面的には守っているように見えたとしても、人間にはその精神の髄まで、肉的な物が腐敗的にゴチャゴチャに入っているので、守ることなどできないのです。
律法の下にいないとパウロが言っているのは、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいないと言っていると、私は解釈する。もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなるし、律法主義と言われてもしょうがない。
私達は霊の下、キリストの恵みの下にいるので、律法の下にはいない。しかし、人間は肉を持っているので、人間はその肉を情と欲(金銭欲、名誉欲、自己顕示欲等それらすべての欲)と共に、十字架につけていかなければならない。
週の第一日目の主日礼拝ではなく、創造の記念日である第7日目安息日を覚えて聖とし、その日に礼拝をささげ、7日目を聖別し、仕事を休み、魂の安息、イエスの贖罪による救いの安らぎに入ったしるしとして、肉体も休め、仕事を離れ、御言葉に祈りつつ従う事は良い事だと考えます。聖書が私達クリスチャンの信仰と行動のすべての規範です。
安息日を古代の様に守ることは、また律法の下に帰る事なのだろうか。私達はキリストの恵みの下にいるのであって、律法の下にはいない。『……あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。』(ローマ6:14新共同訳)肉の努力や、人間の力だけで神の律法を守ろうとすることは不可能です。『なぜなら、肉の思いに従う者は、……神の律法に…従いえないのです。』(ローマ8:7新共同訳)
『…従いえない…』何故なら、人間は肉のもとに売られており、イエスキリストが肉を十字架で処断なさらなければ、私達の肉が邪魔をして、そもそも神の律法など守れない。
ではどうするのか?律法を廃棄するか、私達の肉を廃棄するか?どちらかです。あるクリスチャン達はキリスト者の自由をはき違えて、律法は廃棄された、道徳律も含めて、それらは戒めとして廃されたと解釈するが、その聖書解釈は間違っています。古き自分が十字架で死ぬか、律法が死ぬか、二者択一なら、古き自分が死ぬ以外にないのです。道徳律は廃止されてないし、廃止することもできない、それは神のご性質です。
しかし、だからと言って、十戒を守ろうとするあまり、キリストの霊を離れ、肉の努力を重ねて行くことは肉の処断に逆行することになります。安息日を守る事は、再び肉の努力を重ね、肉の処断に逆行する事なのだろうか?
ここで、話をややこしくしてしまうかもしれないが、どうしても、コリント第二の手紙、3章4章に触れておく必要があります。この部分を一言一句解説することは止めるが、要はローマ書やガラテヤ書のパウロの主張の表現を変えた、同じ律法に対するメッセージであると解釈することが出来ます。コリント第二の手紙、3章4章でパウロが言っていることを、わたしなりに分かり易く解釈すると以下のようになります。
手紙は文字によって内容を伝える。コリントの信者は、パウロに言わせれば、パウロが書いた、パウロの生きる手紙である。(イエスによって変えられた霊に満たされたコリントの信者自身が手紙である)文字は人を殺し、霊は人を生かす。石に刻まれたモーセの十戒の文字は死を宣告する務めだ。これは『……律法によっては、罪の自覚が生じるのみ…』(ローマ3:20口語訳)と同じことを書いた別表現です。
要するに、罪を指摘し、罪に定める働きが文字の働き。もはや、イエスを信じ、恵の下にある信者は、そのような律法の下、養育掛的用法の下にはいない。主を仰ぎ見るとき、恵の下に、霊の自由な中にいて、キリスト者の自由を味わうことが出来ます。今でも会堂で、律法の書が読まれるたびに、何か自分の肉の努力で、単に表面的に律法を守る事によって救われるのではないかと言う、律法主義の覆いが会衆の心に被せられ、恵の光を遮ってしまう。律法の下にいないとパウロが言っているのは、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいないと言っていると解釈できます(または、もはや養育掛かり用法の下にはいないので、良心の咎めから解放されるのです)。
もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなる。これこそ律法主義です。
『…主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17新共同訳)モーセの顔覆いは、私たちから取り去られて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、聖霊の毎日の満たしの中で、イエスにいつも心の中でお会いして、イエスと同じような形に私達は日々変えられていく。これがクリスチャンの生き方です。
救われたものは、『…キリストの律法の中…』(コリント第一9:21口語訳)にいるし、愛によって働く信仰だけが神の前に尊い。
『互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。』(ガラテヤ6:2)
信仰の結果として、神の前に、愛の行いと言う、義の実を結ぶことが出来ます。恵の後に、愛の行いが強調されている。『律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(ガラテヤ5:14口語訳)
福音にあずかったとは言え注意していないと、この世の神が、この世の名誉、財産、成功、肉欲、現世的欲望等の満たしをもって、福音を覆うことがあるかも知れない。滅びの道をたどる人には福音は覆われてしまう事があるかも知れない。しかし、私達はイエスに仕える僕(奴隷)だ。偉大な力を土の器の中に持っています。変えられていない、古い肉を十字架につけ、復活のキリストの命を霊的に宿し、霊的に復活の経験をすることが出来ます。やがては本当の現実の復活も、この世の終わりには体験させていただき(コリント第二4:14参照)、一緒に神の御前に立たせていただける事を私達は知っている。この霊の力によって、私達は生きる手紙として、御霊の実、愛の実を豊かに結んでいくのです。
さて、安息日遵守は、霊の問題です。
イエス・キリストの十字架の血によって、魂の救い、魂の安息を得た者が、真の7日目安息日を、魂の安息として過ごすことが出来ます。この世の肉の仕事も休まなければならないが、ただ仕事をしなければ良いと言うようなそんなレベルの話ではない。その日は救いの記念日であり、また創造の記念日、贖いにおける再創造の記念日、天使たちと共に創造と贖いの二重の意味で神を賛美し礼拝する日です。この日こそ、最も身近にキリストを感じ、意識し、霊に満たされ、魂の救い(安息)を感じる、本当の心の安らぎの日でなくてはならない。
結論としては、最終的には第7日目安息日遵守は、御言葉への単純な従順へ導くという事ではないかと私は考える。罪とは何か、道徳的な事もあろうが、命を捨てるほどに神と人を愛せと言われたイエスの言葉が実行できないのが、最も根深い深刻な罪です。
あるいは神無しで自分の力、能力だけで生きて行ける、神無しの自律的生き方が罪です。それは利己心の裏返しだとは思うが、善悪の道徳的、倫理的レベルの話ではない。人間の力だけで生きれるという、正に現代のバベル(混乱の意味)の塔を、今、心の中に打ち立てようとする、神の存在を自分の思念から除いた、人間中心の考え方そのものが罪の本質です。
色々な表現、考え方はあろうが、罪とは何だろうか。アダムとエバの罪の始まりまで遡ります。神が食べてはいけないと言う禁断の木の実を食べたことが罪の始まりです。要するに単純に、愛の神の言葉に従わなかったことが罪です。どんなに言い訳をしようが、神の言葉への従順が一番大事なことです。安息日とは何か。魂の救いの結果、安息として肉体の仕事も休めて、第7日目に神を賛美せよと言う、聖書の言葉に、単純に従う事です。聖霊によって、救いの喜びに満たされる、魂の安息日としたい。
パウロの十戒に対する考え方を書いている書の中に、エペソ書がある。十戒を考える時、どうしてもこの書を外すことはできない。イエスを救い主として受け入れた後、何をどうすれば良いのか、どのように行動し考えていけば良いのか、いわばエペソ書において、パウロは十戒の霊的解釈を展開している。ここは私流に言わせれば、新約聖書の中で触れられる、最も顕著な、救われたクリスチャンが、今後どのようにして、十戒を表面的でなく、霊的に、キリストの結びつき、内住のキリストの霊によって、守っていかなければならないかを記述している個所です。
直接、単刀直入に十戒を守りなさいと言うと、ユダヤの律法主義にエペソの信者は逆戻りする恐れがあった。パウロは敢えて十戒を整然と並べたりせず、エペソ4:25から十戒の順序を全くバラバラにして、しかも表面の行いよりは、心の中を描写し、心の持ち方が大事であることを強調して書く事にしたのだと思えます。
無慈悲、憤り、悪意を捨てなさい(エペソ4:31)これは6条‐殺すな。みだらな者、汚れた者(エペソ5:5)これは7条‐姦淫するな。
『盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。』(エペソ4:28)これは8条‐盗むな。
『だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。』(エペソ4:25)これは9条‐偽るな。
『………また貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。』(エペソ5:5)これは10条‐貪るな。
6条から10条まで、本来は大事な戒めから優先して並べられるはずです、十戒は全部大事ですが。殺すなは、偽るな、より重要でしょう。嘘と殺人では、この世の法律でも刑の重みが違います。十戒は重い順に書いてあるのです。⑤父と母を敬え⑥殺すな、⑦姦淫するな、⑧盗むな、⑨偽るな、⑩貪るな、の順です。そして当時の社会には何の社会福祉制度もないのですから、両親を敬う戒めは、(老後の面倒を見ることを含むと考えられる)十戒では人間同士の戒めとしては一番最初に来る、重要な戒めとして第5条があるのです。パウロはあえてこの最初の戒めを順番を逆にし、最後の方、すなわち6章へ跳んで、エペソ6:2『「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。』(エペソ6:2)と書いています。この書き方からして、エペソ書のこの個所を書いているパウロの脳裏には、十戒があったことは間違いありません。わざわざ十戒を見事に跡形もなく(順番としては)、バラバラにし、更に、心の中の状態まで色々と付け加え、また様々な、酒に酔うなとか、無分別になるなとか、細かく気を配って歩めとか、メッセージを付け加え、エペソ4章から6章に至る、いわば自分の新十戒解釈を書きました。
何故パウロは、それとなく条文としては悟られられないように、エペソの信者に提供したのか?何故パウロは5条から10条までを、かくもバラバラにして解説し、単なる表面的な行いではなく、人の心の奥底まで届くように、微に入り細に入り、エペソ書の後半で解説して行ったのか?その理由は、繰り返しになりますが、直接、単刀直入に十戒を守りなさいと言うと、エペソの信者がユダヤの律法主義に逆戻りする恐れがあったからだと思われます。
パウロは知恵に満ちた方であり、あえて十戒を整然と並べたりせず、エペソ4:25から十戒の順序を全くバラバラにして、しかも表面の行いよりは、心の中を描写し、心の中そのものの持ち方が大事であることを強調して書く事にしたのです。
それにしても、さらにもう一つの大きな疑問が湧いて来ます。神に対する義務である十戒の1条から4条をエペソ書では何故、解説することを省略したのであろうか?
その理由として考えられるのは、ユダヤ社会では十戒の1条から4条の安息日の規定を守るのは当たり前の事であったからです。今更、敢えて、神を拝むのに、刻んだ像を拝むなとか(偶像礼拝の禁止第2条)、御名をみだりに唱えるな(第3条)とか、天地を創造された方のみを礼拝せよ(第1条)とか、他の神を持ってはならないとか、7日目安息日を聖とせよ(第4条)とか、敢えて言う必要がなかったのでしょう。
それらはユダヤ教の特徴がよく表れている戒めであり、今更このエペソ書の中で、それを強調すると、クリスチャンの中に、また昔のユダヤ教の古い習慣に逆戻りし、行いによって救われると勘違いする律法主義者が出てきてしまうと考えたのでしょう。
第一次エルサレム会議(使徒行伝15:19~21参照)で、異邦人から信者になった人々に対して、異邦人にも割礼を施すのか、激しい議論が行われた。その結果、わずらいをかけてはいけないので、異邦人にはユダヤ伝統の割礼は施さないし、モーセの律法(道徳律は除く、儀式等を制定した礼典律)を守らなくても良いとする、決議があった。姦淫しない、血を食べない、偶像にささげた肉を食べない(偶像礼拝になるから)。絞め殺した動物の肉を食べない(礼典律法に書いてあるから)。‐これは動物が絞殺される時、人間には食べて健康に良くない物質が、その体内に分泌されることが科学的に証明されている‐。
さらに古い時代から安息日に会堂で集会がもたれ、そこではモーセの律法が朗読される慣習になっていると、付け加えられている。
この決議の中で、異邦人に対してはっきり禁じられている事は、肉食そのものではなく、偶像礼拝である(十戒の第2条)、肉食はOKであった。また、礼典律に定めてある食物の禁忌規定のうち、動物の血と、絞め殺した動物の肉を食べる事を禁じた。豚肉については、礼典律の中に、はっきり禁じられているが、ここでは豚肉の禁食は除外されているか、もしくは触れられていない。さらに、不品行をしてはいけないと言う表現で、姦淫が禁じられている(十戒の第6条)。安息日遵守(十戒の第4条)については、あまりはっきり触れられていない、ただ昔から安息日ごとに、会堂に集まり、モーセの律法を読む習慣になっている、と言う表現に届められている。安息日ごとに会堂に集まりの文言を持って、安息日礼拝を呼び掛けたものとして受け取るのは、少し強引な解釈かも知れない。
しかしこの表現は、次に続いている、諸教会に送付された手紙には含まれていない(使徒行伝15:29参照)微妙な点です。
さらに、私の他に神があってはならない(十戒の第1条)、御名をみだりに唱えるな(第3条)、父と母を敬え(第5条)、殺すな(第7条)、盗むな(第8条)、偽るな(第9条)、貪るな(第10条)、これらの7つの戒めについては、異邦人への注意事項としては、全く触れられていない。
しかし、このエルサレム会議の異邦人が守るべき決定の文言に、この7つの条文が全く触れられていないから、異邦人は守らなくて良いのか、ユダヤ人だけが守るべきなのかと言う解釈は間違っている。異邦人はクリスチャンになったら、父母をないがしろにし、他の神を拝み、御名をやたらみだりに唱え、殺人をし、泥棒をし、嘘をつき、あらゆる物を貪欲に求めて良いのだろうか。そんなことはあり得ない。要するに何故、異邦人のクリスチャンにわずらいをかけてはいけないとする決議をしたのか、その理由は、最低これだけは守ってくださいよ、(言外に割礼はしなくていいですよとの意図あり)と言う事であって、ここでは触れていない他の十戒の条文について、守らなくては良い、などとは、この決議は意図してないのです。そう解釈する方が妥当であり、聖書全体の解釈にも一致する、と個人的には思うが、あなたの解釈は如何に?
『肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』(ローマ8:3,4新共同訳)
現在のこの稿をお読みのすべてのクリスチャンに、僭越ながら、私が勧告します。私達が自分の力で、神の聖なる律法を守れることなどあり得ません。私達生まれながらの人間は、罪のもとに売られて、肉の努力や修行ではどんなに努力しても、神の律法を守れないことはすでに書いて来ました。完全になる(成熟できる)唯一のチャンスは、自分の力や努力ではなくて、イエスの十字架の血による贖罪をそのまま自分のものとして受け入れ、罪の中から買い戻され、そして内なるキリストに心の中に住んでいただくことなのです。罪の赦しもキリスト、罪からの聖めもキリスト、品性の完成もキリストなのです。キリストに常に結ばれて行く以外に、成熟できる可能性はありません。100%キリストなのです。キリスト教はキリストに始まり、キリストに終わるのです。
この稿を書き終わる途中で、インターネットである論文を目にした。SDA教会は原罪は認めない立場を取ります。誘惑に陥りやすい人間の弱さは認めます。
予定説の立場は取らず、予知説をとります。神学的立場として人間の自由意志を強調します。
実はこれは、ギリシャ正教を代表とする東方教会の特徴です。詳しいことは、そのままその論文をコピーしておくので読んで下さい。アダムの腰の中にあって、全人類がアダムと共に、罪を犯したのだという、私の聖書解釈も、この論文が触れているところがあるので、自分で評価してください。
以下コピーです。分かりにくいかもしれませんが、考え方の流れは把握できると思います。
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主イエスの豊かな恵みに感謝しながら、聖書や神学へのDEVOTIONを深めていくサイトです。キリスト教を知りたい方のための導入になればと考えています。
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プロフィール|ピグの部屋
ぺタ
自己紹介:メソジスト・ホーリネスの流れにある「プロテスタント教会」に所属しています。 「教理的な問題」……
<「原罪」という言葉をめぐって>
さて、楽園追放以降の堕罪した人間について
西方教会では生まれながら「原罪」を持っている、と教えている。
そもそも、「原罪」とは何なのだろうか?
西方教会における教理上の「基礎」になっている
アウグスティヌスの解釈によると、
人間は生まれた時点で、すでに「原罪」という罪を持っていて
それは、生殖行為を通じて、子孫へと生物学的に「遺伝」する
ということらしい。
だから、生まれたばかりの乳幼児にも「罪」がある
というふうに西方教会では考えられている。
カトリック教会の「幼児洗礼の習慣」は、
こうした考え方に基づいて行われている。
<「原罪」の根拠となった「アウグスティヌスの聖書解釈」>
それでは、アウグスティヌスは聖書のどの部分から
「生殖行為による生物学的遺伝」という「原罪論」を導き出したのだろうか?
ローマ書5章には以下のような1節がある。(新共同訳)
一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、
死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
(ローマの信徒への手紙 5-12)
上の新共同訳聖書に対して、
アウグスティヌスが実際に読んでいたとされる「ラテン語聖書」の翻訳箇所は
一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、
死はすべての人に及んだのです。
彼(アダム)において、すべての人が罪を犯したからです。
となっていたらしく、ギリシャ語訳 から ラテン語へと翻訳される際に
「彼において」(in quo omnes peccaverunt)という
「明らかな誤訳」が混入していたことが分かっている。
そして、この誤訳のラテン語聖書を読んだ
アンブロジアスター(至高のアンブロジウス)という人物が
「ローマ信徒への手紙注解」という注解書を書いていて、
それを読んだアウグスティヌスが、この議論をベースにして
「彼において」から「彼の腰において」という、さらなる誤解を重ねて
「生殖・性」=「悪」という、彼特有の自説を補強するように解釈した。
この結果、この誤訳による「ロマ書5-12」の曲解をもとにして、
「アダムによる性行為を通じて、全人類に罪がもたらされた」
という「生殖-遺伝説」が定着することとなってしまった。
全ては、ラテン語聖書への翻訳における誤りと
それに基づいた誤った聖書注解から事は始まったのだが、
この事実が後になって判明したのは、
エラスムスによるギリシャ語訳聖書とラテン語訳聖書の
詳細な内容比較(検証)によってだった。
5世紀のアウグスティヌスから、16世紀のエラスムスまで
1000年間も「誤訳に基づく解釈」によって
「主要な教理」が縛られていたということになる。
同じような、誤訳や捏造記事によって
重大な教理が意図的に歪められていた事件として
「コンスタンティヌスの寄進状」という事件があったのだが、
(正教とカトリックの東西分離の一端となった事件)
それについては、話が逸れてしまうので、ここでは述べないでおこう。
興味があれば調べてみてほしい。
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<正教(東方教会)が「原罪説」に反対する理由>
さて、この「原罪説」(生殖遺伝説)には、大きな難点がある。
① 「必然性」によって罪を犯すのであれば(他に選択の余地がない)
そうやって犯された行為に対して、倫理的責任が問えなくなる
② 「罪」がまるで、物質のように、遺伝子を通じて遺伝する
という「生物学」的な理解のしかたが正しいのか?
②の疑問は、現代の遺伝子工学(ゲノム解析)などによって、
その原罪を引き起こす「遺伝子」なるものを発見して、
それを除去すれば、人間の「原罪」は無くなるのか?という問いにつながる。
①は「自由意志」と「倫理的責任」の関係について述べている。
人がなした行為に対して、倫理的責任を問うことができるのは
その人が、自由意志によって、それを意図して
その選択(行為)を行った場合であって
もし、意図してなされた行為でなかった場合には、
道義的責任を問うことはできない。
という道徳上の基本的な考え方がある。
もし、生物学的に「原罪」が遺伝した結果として、
まるで「本能」のように、「意図するしない」とは無関係に、
生物的な「必然性」に基づいて「罪」がなされる、ということであれば、
そうした「意図」せざる「必然」による出来事に対しては
そうしたことの「倫理的責任」を求めることは難しい。
例えば、自然落下してきた隕石によって、建物が損壊した場合に、
降ってきた隕石に対して、賠償責任を求めるなんてことはありえない。
隕石は、引力による落下として、「必然性」に従って落ちてきただけであり
自由意志によって、それ以外の選択がありえた、という状態ではないからだ。
しかし、誰かがビルの屋上からボールを投げて
隣の家の窓ガラスを割ったならば、その投げた人には「責任」が問われてもよい。
その人には、自由意志によって、その選択をしないでおく、
他の選択を行う、という可能性もあったからである。
「正教」(東方教会)においては、
「罪」は必ず、人間の「自由意志による選択」とセットで扱われる。
「自由」によってでなく、「必然性」に縛られて行うのであれば
そこには問われるべき倫理的な咎(責め)が存在しない。
それは、引力によって自然落下してきた隕石となんら変わらない。
エデンの園において、アダムとエバは、
彼らの「自由意志」に従って、善悪を知る木の実を食べる、
神から離反する、という選択を行った。
この行為には、それをしないでおくという他の選択肢の可能性もあった。
人類最初の「罪」が、
個人の自由意志による選択(濫用)によって起こされたように
堕罪以後の人間たちの「罪」もまた、個人の自由意志によって起こされる
というのが、正教における「罪」の考え方の基本線となっている。
また、生殖行為や誕生する生命自体を「罪深い」と考える視点は持っていない。
なので、東方教会の「幼児洗礼」は
カトリックの「幼児洗礼」とは全く異なった視点(狙い)から行われている。
ただ、正教が否定しているのはあくまでも「罪の遺伝説・必然説」であって、
原罪」に相当するような考え方が全くない、というわけではない。
アダム以後の人間は、罪を犯しやすい状況に置かれていて
罪の影響力が人から人へと社会の中で伝染しやすいことは否定できない。
一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、
死はすべての人に及んだのです。
すべての人が罪を犯したからです。
(ローマの信徒への手紙 5-12 新共同訳)
アダムの堕罪をきっかけとして、創造当初とは著しく違った状況に
人間が置かれていて、罪に染まりやすい状況であることは認められている。
・ すべての人間は、何らかの仕方で、アダムの堕罪に参与している
・ 堕罪によって、人間の本性(神の像)が何らかのダメージを受けている
・ 強力な感染病のように、罪の力が、人の間に広がることはありえる
「すべての人が罪を犯した」というロマ書5-12は
上記のような解釈(byカッパドキア三教父)がなされている。
また、正教では、この「ロマ書5-12」の箇所は、
常に「第1コリント15-22」とセットにして読まれる。
アダムによってすべての人が死ぬことになったように、
キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
つまり、「ロマ5-12」と「第1コリント15-22」は同時的に共存している。
堕罪後の人間は、アダムの罪によって影響を受けており、
また、それと並行して、主イエスの受肉・復活による感化をも受けている。
それゆえ、正教(東方教会)においては
「人間の本性」が現状において、
いかなる「善」も自由意志によっては選択できず、神への応答もできない
という、アウグスティヌスに由来する「全的堕落」の教理は退けられる。
「アウグスティヌスの呪縛」による教理への影響を、正教会は受けていない。
「神のかたち(像)」は確かにアダム以後、
何らかの欠損やダメージを被ってはいるが、
主イエスの「受肉」と「復活」を通じて、
全ての人類において、最低限の自由意志の働き、良心、理性などの
「神の像」のある部分はすでに「機能回復」を受けている。
だから、回心・洗礼を通して、人間が信仰へと向かうプロセスは
「神の恩恵」によって、一方的に受動的に救いに導かれる、というのではなく
(=これが、宗教改革者たちの「単働説」による救済論であるが)
すでに与えられている、神からの「招き」「恵み」に対して
回復されている「自由意志」を働かせて、人間が主体的に応答することによる。
神の「恩恵」と人間の「自由意志」のいずれかに偏るような解釈は
正教の教理では採用されなかった。
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<「罪」ゆえの「死」か、「死」ゆえの「罪」か>
西方教会では、「罪」の結果、その「罰」としての「死」がやってくる、と考える。
(刑罰としての「死」という考え方からすると、罪を赦してもらうことで
「死」の問題が克服される、という行き方になるが、これが「刑罰代償説」である。)
東方教会では、「神と人の隔絶」によって、「死」が入り込み、
「死」の影響力によって、「罪」への傾き方が強化される、と考えている。
(逆にいえば、「死」が征服されば、「罪」の隷属させる力が弱まっていく。
この考え方に立つのが、キリストの復活による「勝利説」という救済論である。)
つまり、「罪」からの「死」か、「死」ゆえの「罪」か、で解釈の違いがある。
この部分は、あんまり深入りすると、
「卵」が先か、「ニワトリ」が先か、といった無益な論争になりかねないので
「罪即死」または「死即罪」というふうに
両者の間には、きわめて緊密な関連性があるのだ、と解釈しておこう。
さて、「死」があることで、
「この世の事物」への「執着」「我欲」が倍加させられる。
有限な人生だから、生きている間に「好きなことをやらないと損だ」と考えて
自分の欲望充足のためだけに生き、「自己中心性」をさらに強めることになり
「神との交わり」よりも、
「この世の事物との交わり」が何よりも大事とされるようになる。
創造当初は、人間は「世界」(被造物全体)の監督者として
世界を秩序づけて、管理する「主人」としての立場に置かれていたはずなのに
むしろ、この世の「被造物」にすぎないものによって絡め取られてしまい、
それらにかえって支配され、隷属させられてしまう。
「この世の被造物」は、
こうして人間にとっての「神の代わり」になってしまい
「この世の被造物」を「主人」として崇めて、
人間はその「奴隷」として生きるようになる。
人間は「神」を正しく仰ぐことができなくなり
隷属している「被造世界」の事物を、「神」に仕立て上げるようになる。
これが「偶像崇拝」である。
このようにして、神と人間の「正しい関係」が失われたことによって
人間と世界の「正しい関係」もまた失われてしまった。
世界は、無秩序、不調和、悪、が栄える場所に変質してしまい
そのために、そこで生きる人において
罪へと傾かせる力がさらに実体を持つことになる。
この「悪循環」を断ち切ることは
もはや「人間自身の能力」によっては不可能であった。
(→ 正教も、ペラギウス主義的な「自力救済」は認めていない。)
この「死」と「罪」への隷属状況から、人間を救い出すために
「神」である「主イエスご自身」が、あえて「人間」に身を宿して、
この世にまで降りて来られる必要性が生じた。
では、主イエスの「受肉」と「十字架の復活」は、人間の救済にとって
どのような意味をもった出来事であったのだろうか?
ここで、私たちは「キリストの事業論」「救済論」へと足を進めることになる。



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