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④I,J,K,L,M聖書の概略とその救い

  • ktanaka33014
  • 2018年12月24日
  • 読了時間: 74分

更新日:2024年8月2日

I,悔改めの聖句  詩篇51篇

私達は何か大きな罪を犯したことはないだろうか。人間が普段から利己的であり、自己中心の存在であること、そもそも生き方そのものが、神から離れており、自分が受けた教育の力と、自分の能力だけで、神を信ぜず、神の力に頼らず、自分だけで生きて行けると思っていること自体が罪です。これを私流に言わせてもらえれば、神からの自立の罪だと言えよう。

 人間として自立することは大事なことだ。親の子供に対する躾や、日本の教育制度なども、人間一人が自存の独立したもの、自立した存在として、厳しい社会を生き抜けるよう、一人前の社会人にする事を目的としています。ただ、それが神抜きで行われていることは大変残念であると私は考えます。


 教育が行き過ぎて、人間が自分の力だけで何とか生きて行けるし、自分の考えの中に神の概念も、存在も、人生の中に神の介入も何ら認めない人間を作り出すとしたらどこか間違っている。


 神に頼る事、神を認める事、神を信じる事、一切ないとしたら、それこそが罪の根源、最も深い神からの離反です。人間中心の生き方です。人間は謙虚にならなければいけない。特に日本人はそうです。明治以来の文化的、社会的発展には敬意を払わざるを得ないが、どこでどんな良い教育、社会制度を作り上げたとしても、人間が本来傲慢であり、罪深い存在であり、根本的に救いを必要としているのだと言うことを、謙虚に根源に立って見つめ直さなければならない。

 教育の根本は救霊であり、人間の知恵や知識を教えるばかりではなく、イエスの存在とその方に頼って生きることを教えなければならない。 

 

さて以上述べたことは、根源的な罪ではあるが、もっと具体的に、現行罪としての罪を誰もが、一つや二つ、聖人君主でもない限り、犯した事があるのではないだろうか。

 ここからが本論です。そのような時、詩篇51篇を熟読していただきたい。私は何度、涙を流しながら、神の前に、犯した現行罪を告白し、詩篇51篇を読みながら、祈り、赦され、悔い改め、立ち直り、主のもとに帰り、信仰生活も、人生もやり直すことが出来ただろう。


 人生どんな失敗があっても、やり直すことが出来るというのは、誠に神の慈しみを知った人間に許されている特権です。人生はリセットできるのです。イエスの愛に限界はないのです。どんなにひどい罪も赦されない罪など一つもありません(聖霊を拒む罪を除いてですが)。もちろん、どんな人間にもこの特権は与えられているのですが、残念ながら、信仰によってしか利用できない特権なのです。『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。』(へブル11:6)


 世の中にはやり直しがきかないで人生を諦めてしまう人もいます。大きな罪を犯し、その罪責感から、人生を台無しにしてしまう人もいるでしょう。人生をダメにしてしまう理由は当人にしか分からない様々な事があるはずです。経済的な問題、仕事上の問題、家族関係、精神障害、ストレス、人間関係、他にも理由はあると思います。


 何れにせよ私達は、最終的には神に帰るべきです。イエスの救いを受け入れる以外に立ち直れることは根本的にはないと思います。表面的に努力して強い意志をもって立ち直れる人も、少しはいるだろうが、罪の問題はイエス・キリストにしか解決できないのです。


 詩編に戻ろう。ダビデ王は、自分の部下であるヘテ人ウリヤの妻バテシバを好きになり、ウリヤの留守中に、バテシバを王宮に呼び寄せ、一晩を共にし、妊娠させた。さらに、策略をもってウリヤを殺害、未亡人になったバテシバを妻とした。これは大変な罪であり、預言者ナタンが神より、ダビデ王のもとに遣わされた。ナタンに罪を指摘された時、ダビデ王は、ただちにそれを認め、神の前に悔い改めた。これがダビデの偉いところです。


 王の権威でこの預言者を殺してしまうこともできたが、神を畏れていたので、神の前に悔い改めたのです。預言者の言うことを素直に認めた。これは権力者には、本当に謙虚でないとなかなかできないことである。詩篇51篇の書かれた背景にはこのような忌まわしい、現実の大罪があったのです。殺人と姦淫の現行罪です。心の中だけで犯した罪ではなかったのです。


 さて、ダビデの詩として有名な詩篇51篇全体を眺めてみると、神の深い憐れみに対するダビデの確信が根底にあります。罪の赦しと、どんな醜い人間をも造り変えてくださる、神の愛に対するゆるぎない信頼があります。罪を悔いるのは辛い経験かも知れない。しかしそれによって、自暴自棄になったり、神の愛を疑ったりしてはいけない。むしろ、キリストのとりなしのゆえに、必ず自分の罪が赦され、それがどんなに大きな罪であっても、清め、十字架の血によって洗い、雪よりも白く(詩篇51篇7節)して下さると言う神に対する愛と赦しの確信を持つことが大事なのです。罪はバプテスマの水によって洗い流され、清められ、神は砕けた悔いた心をかろしめられません。(17)という信頼が最も大事なのです。『……主に責められるとき、弱り果ててはならない。』(へブル12:5口語訳)のです。根底に深い赦しのない悔いは、反って有害であり、その人を絶望と死に追いやります。


『神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。』(コリント第二7:10口語訳)

 最初から読み進んで見よう。ダビデは神の深い憐れみをまず乞うています。『神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。』(詩篇51篇:3新共同訳)

 人間の側に義はない。

 『…「義人はいない、ひとりもいない。…………」。』(ローマ3:10~18口語訳参照)

 『……御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。………』(テトス3:5新共同訳)

 私達の側には、神の前に何の義も、功績もない。人間は自分の内に義を持っていない。救いはただ神の憐れみによるのです。ここが信仰の原点です。毎日、常に原点に戻らなければならない。人生の終わりのその瞬間にも、この原点に帰ることを忘れてはならない。生涯振り返って見て、私達の側に何の功しがあるだろうか。神の前に裸であり、何も持っていない。ただ神の憐れみ、御恩寵によって、救われるのです。


 ダビデは預言者ナタンによって自分の犯した殺人と姦淫の罪を指摘された時、それを神の声として受け留めた。ダビデの罪は神に対する、明白な背きであり、彼はハッキリごまかさず、いつもそれを自覚し、心に留め苦しんでいた。しかしこれは言い訳ではないが、これらの罪は母から受け継いだ原罪的な性質が原因であった。母の胎にいるうちからすでに罪のうちにあった。(7節新共同訳)ダビデ自身が不義のなかに生まれたと表現している(5節口語訳)

 人間は本質的に、肉に売られており(霊と逆の表現)、生まれたまま肉の性質を持っている人間は、そのままどんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけです。

 『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20) 

 人間の精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、そのままではどんなに努力くしても、神に従う事は出来ない。

 『……生まれながら神の怒りを受けるべき者……』(エペソ3:3)とある。

 ダビデは自分は不義のなかに生まれたと言っている。

 しかし、神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来る、肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないけど、人間の内面が神の霊による生まれ変わりを経験して(新生)、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになるのです(聖化)。


 実にダビデの叫びは私達の叫びです。神よ、清い心をつくり、新しい、正しい霊をわたしのうちに与えてください(詩篇51篇10節口語訳参照)聖なる霊を私から取り去らないでください(11)自由の霊をもって、わたしをささえてください(12)清い心をつくり(10)ヒソプ(サウナに入って水をかけるのに用いた枝)をもって、わたしを清めてください(7)バプテスマの水の洗いをもって、私の罪を洗い流しと解釈できます。雪よりも白くなるでしょう(7)。


 新共同訳では洗いという言葉が2回使われています(4)(9)。罪からの洗いと言えば新約聖書ではバプテスマ以外に考えられない。もちろん旧約聖書においても、洗いの概念はあった。幕屋には聖所に入る手前に、身を清めるため洗盤が置いてあった。罪を洗ってくださいと叫んでいるダビデの言葉は、全く私自身の言葉でもある。


 水によって私達の罪が洗い清められるわけではない。それはただキリストの血によるしかない。バプテスマは十字架と復活を表しています。水の中に葬られる時、古き自分は十字架に、主と共に磔られ死んでしまう。水から上がるとき、イエスと共に新しい命に復活する。これからは、霊的に新しくされて、ズーット主と共に、主の霊を心に宿し生きて行くのです。(ローマ6:4,11参照)


 清い心の創造(12)新しい確かな霊の賦与(12)聖なる霊を取り上げない(13)自由の霊による支え(14)これらは神からいただく聖霊を表現しています。

 打ち砕かれたダビデの霊(19新共同訳)と共に、神の霊はダビデの中に入り、混然となって、ダビデの心を新しく造られます。

 この魂の叫びともいうべき詩には、神の救いの確信が、裏付けられています。

 私の救いの神よ(16)救いの喜びをもう一度私に味わわせ(14)やがて今のこの悩みから救い出してくださるのですから、神の恵の業を賛美します。(16)必ず救いを得ることが出来る確信があるから、私の賛美の唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います。(17)


 傍から見れば、大罪を犯していて、ズーズーしい奴だと思われるかも知れない。信仰とは、自分の功績に頼らず、ただキリストのなされた贖いの業と、自分の罪との交換であるから、言わば本当にズーズーしい事なのです。

 この詩篇は単なる後悔の歌ではない。それは赦しと、救いの確信に満ちた賛美の言葉であり、その結果罪人に対する自分の救いの証による宣教の約束と(15)罪人が神に立ち返るように教える約束(15)最後に神に燔祭をささげる、つまり献身するのです(21)。罪赦して下さったその時には完全な賛美の献げものをしようと決心しているのです。


 現代においては燔祭の羊ではなく、自分をささげよう。『……あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。……』(ローマ12:1)

 詩篇51篇は楽観的な救いの喜びの詩です。罪に対する真剣な悔いと、その深い人間の遺伝的な原因まで言及しているが、やがてエルサレムの城壁が修復され再構築されるように、自分も神の新しい霊によって再構築されるという希望と喜び、賛美が 出てくる。賛美はまだ今すぐには捧げる状況ではない。しかし救いの確信が与えられる時が来て、やがて聖霊に満たされ、救いの喜びに満ち、賛美することが出来るようになります。また、神からもう一度チャンスをいただいて、今までにも増して、新たな神に対する献身を決心して行くのです。


 神の御愛、赦しの深さ、確実さは、イザヤ書43章25節(口語訳)に 

 『わたしこそ、わたし自身のために、あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。』とも書かれています。

 神ご自身がその愛を証明するため、 とが(人から責められたり非難されたりするような行為)を消し去り、罪を心にとめないと約束してくださっています。

 『……たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。』(イザヤ1:18口語訳)とも書かれている。


 たとえ、既に悔改めた過去の罪の記憶がよみがえってきても、ヘブル書には、死んだ行いの悔改めは、もうやめて、キリストの、罪の赦しの血、契約の血を信じ切って、良心の咎めを捨て去りましょう、とある。

 『だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、……神がお許しになるなら、そうすることにしましょう』(へブル6:1~3)『…イエスの血によって聖所に入れると確信しています。……心は清められて、良心のとがめはなくなり、……信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。』(へブル10:19~22)

 行き過ぎた良心の呵責に悩むのはやめましょう。私たちは、イエス・キリストにあって赦されているのですから。

 『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、……。』(コロサイ3:12)

 『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』(コロサイ1:22)

 行き過ぎた良心の咎めを取り去って、真心から神に近づくことが出来るのです。『……あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、』(ミカ書7:19)てくださるのです。


J,委ねの聖句 ①  詩篇37篇 

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、』(詩篇37:5口語訳)

 神にすべてを任せよというが、一朝一夕には自分のすべての心配事を神に任せることはできない。すべてを主に委ねることがどんなに難しい事か、心配事が起きるたびに思い煩って来た自分です。

 ああしようか、こうしようかと考えて、時には眠れない時も何度も経験しました。人間の虚しい努力や改善方法によって問題を解決しようと、ついあがいてしまう。結局どうにもしょうがなくなって、最後には神にすべてをお任せします、今の思い煩いをすべて神にお任せします、最善に導いて下さい、と祈るしかないのです。

 神にすべての問題をお任せする事、自分の人生のすべてをかけて信頼する、お任せする。これはまさに信仰の極地である。これがいつも出来たらどんなに素晴らしい境地が与えられるだろう。委ね任せるとは信仰のあらゆる領域の中で大変難しいジャンルであると私は考えています。


 たとえば一度は全部お任せすると決心し、祈り、言葉でも言い表し、周囲の人々にも表明するが、時間が経過し、一日また一日と過ぎて行くと、後から後から、ああでもない、こうでもない、こんなことが起きたらどうしよう、あれをやった方がうまく行くのではないか、次から次に心に雑念が浮かび上がっては消え、また違う思いが出てきては、それを打ち消したり、本当に乱れに、乱れる心と思いを制御できないのが私です。


 神に委ねる聖句は『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、』(詩篇37:5口語訳)この御言葉に尽きます。言いたいことは何もかもこの御言葉に含まれています。人生悩んだ時、何度この聖句を心の中で繰り返してきたことであろう。問題は心の訓練にあるかも知れないです。


 すぐ小さな問題でも、それに囚われ、クヨクヨといつまでも悩んでしまう癖のある私のような者は、禅僧のように、座禅でも組んで、心を制御することをも学んだ方が近道かも知れない。結局どんなに思い煩っても、悩んでも、最終的には、人生はなるようにしかならないのです。詰まるところ、神の御計画、私の人生に対する、神の導きに任せるしか、方法がないのではないか。


 この詩篇37篇の最初のところで、ダビデが悪しき者が栄えるのを見て悩んでいたことがわかる。

 『悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。』(詩篇37:1口語訳)

 悪をなす者が勝手気ままな行いをして、神の律法とは関係なく、罪の中に自由に好き勝手に生きて、おのれの欲望を満足させて行くのを見て、彼らに嫉妬していたのです。しかし悪しき者はいつまでも栄えるのではない。必ず神からの報いが来て、やがて立ち行かなくなり、枯れ果て、過ぎ去って行く。彼らをうらやましいと思い、思い悩めば悩むほど、今度は自分がその悪に巻き込まれ、罪を犯してしまうので、彼らに嫉妬したり、悪を行って栄える者のために、悩んだりしてはいけない、憤ってもいけないと言っているのです(詩篇37:8参照)。

 私達も思い煩いの幾分かは、自分が神に従って、正しく、善い道に歩もうとしているのに、この世の人は、自分の欲望を満足させるためのみに生きて、幸せそうに、得意げにしている。そんな人を見て、ああ私もあんな風に生きてみたいと、嫉妬し、ねたんでいるのではないだろうか。うらやましいと思うのは、結局同じことを自分もやりたいな、という自分の中にある、罪の、肉の欲望が、そう感じさせ、誘惑にいざなっているだけなのです。原因は自分の中にあります。

 まだ変えられていない自分の心の中にある、罪を楽しみたい自分の欲望が、この世の人がやっている、罪であるのに、何でもお構い無く実行し、放蕩にふけって、しかも楽しそうなことを目にして、嫉妬したり、うらやましいと思ったりするのです。厳に慎もう。『………身を慎んでいましょう。』(テサロニケ第一5:6,8新共同訳)


 あなたは周囲に関係なく、『主に信頼して善を行え。………』(詩篇37:3口語訳)と勧められています。さらに『しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。』(詩篇37:11口語訳)(マタイ5:5参照)と書いてあります。何故柔和な者は神の国を継ぐのか、そこには深い理由がある、罪をうらやみ、憤ってもいけない、自分も同じ罪を犯しかねないからだ。(詩篇37:8参照)


委ねの聖句② マタイ6章25節~34節

 命とその入れ物である体の問題。イエスがマタイのこの聖句でおっしゃった事は、何が一番大事かの問題です。一つしかない自分の生命が大事か、飲む物、食べる物、着る物か。

 飲む物、食べる物、着る物は生命を維持するため、体を覆うため確かに必要な物です。それらは不要であるとは聖書にも書かれてないし、イエスも言っていない。むしろ、天の父はこれらのものが、ことごとくあなたがたに必要である事をご存知であると書いてあります。

 しかし生命がある事、今身体がある事自体が大事なんです。食物より生命があることが大事、着物よりも身体があるほうが大事。食物も着物もなければ、やがては生命を失うし、身体も維持できないことは分かっています。食物も衣服も、長いスパンで見れば、命や身体の健康に繋がっています。

 しかし今すぐ、緊急に、どちらを選べと言ったら、食物と衣服ではなく、生命を選ぶ、身体を選ぶ、身体を毀損することなく、今命があっての物種だから。

 実は、人間はその本質を忘れて、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い煩っているのです。思い煩うことそのものをもうやめなさいと言うイエスの言葉。これはイエスの命令であると理解すべきです。

 空の鳥は何も思い煩っていないではありませんか。作物を育てる為、種を蒔くわけでもなく、収穫の為に刈入れをするわけでもなく、作物を倉庫にしまうわけでもないのです。ただありのままに生きている空の鳥を、天の父なる神は、養っておられるではないか。

 人間と空の鳥と、どっちが優れているというのか。人間に決まっているではないか。だったら、神の目から見た、空の鳥より、はるかに優れている大切な人間を、神は見捨てるようなことはなさらないハズです。

 神の国と神の義とをまず第一に求めなさい、そうすれば飲み物、食べる物、着る物は必ず添えて与えるように保証します。これらは添えて与えられるという神の保証の言葉、信仰者に対する約束の言葉です(もちろん神を熱心に信仰しなさいという条件付きですが)。


 思い煩って、悩み苦しんで、自分の寿命がわずかでも延びれば、思い煩うことの、利益があるかも知れない。でもそうではない、思い煩っても、自分の寿命をわずかでも延ばすことはできない。何やったって、死ぬ時は死ぬのです。また、それ以上のことが起きてしまう。実は思い煩えば、思い煩うほど、寿命はストレスで縮んでしまうのです。そんな苦労をしてまで、そんな不安を、精神的な苦しみを体験してまで、わざわざ寿命を短くして、どうするんだろうか。本末転倒です。 

 長生きしたかったら、心穏やかに、主イエスにすべてをお任せし、お委ねし、平安な気持ちでいなさいと言っているのです。それが一番の結論です。


 着物も同様です。野の花は、労働していない、働きもせず紡ぎもしない。野の花はよく見ると繊細で、美しく飾られています。栄華を極めたソロモン王ですら、この一輪の野の花の美しさには及ばない。今日は綺麗に咲いているが、明日は枯れ果て、火にくべられ、燃やされてしまう野の花ですら、神は美しく装うて下さるなら、あなたがたにそれ以上に良くして下さらないはずがあろうか。あなたがたに、必要な、身を覆う衣服を与えて、野の花以上に着飾って下さる。 

 要はあなたがたには信仰がないのです。神に対する信頼、すべてを養い育ててくださる神、地上のすべての現象から、物質から、人間を含めた動植物からすべてをお持ちで、統御し、支配しておられる、愛の神に対する信頼がないのです。

 だから不信仰を捨てて、すべてを神にお任せしよう。飲む事、食べる事、着る事もすべて、私達に必要な事は神がご存知なのだから、愛の神、何でもお出来になる神にすべてをお委ねし、お任せしよう。一日の苦労はその日一日だけで十分なのです。それ以上思い煩って、さらに苦労に苦労を重ねようというのか(マタイ6:34参照)。

 神を知らぬ異邦人のような、飲む物、食べる物、着る贅沢、それだけしかない、それに生涯すべての努力を集中しているような、生活をしてはならないのです。  


委ねの聖句③ エレミヤ書13章23節

 『………豹はその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。』(エレミヤ13:23口語訳)この聖句は、『……「義人はいない、ひとりもいない。』(ローマ3:10口語訳)と同じ意味です。

 そのことは良く理解しているが、私は、個人的にこの聖句を神に委ね任せる時の、瞑想に、役立てています。所詮、人間は何もできないのだ、この私が、どんなに思い煩って、どんなに人間的な努力をしたとしても、豹の斑点を変えることが出来るだろうか。出来はしない、何もできない。豹の斑点を変えることは人間には不可能です。

 思い煩いはどこから起きるのか。それは神の側に自分の思策を入り込ませることで起きます。神は計画をお持ちで、私達の一番良いようにして下さっているのに、私達が神の御手の方まで人間的な思策、推測、思惑を巡らし過ぎて、神の側にまで、自分の思いにある何かを捻じ、神の御心までネジ曲げようとして、思い煩うのです。

 物事には人間の側と神の側と、両側面があります。

 人間の領域では、あらゆる事を想定し、出来得る限りの努力をし、一生懸命やる必要がある。しかし考える限りのあらゆる努力をした後は、すべて神の領域にお任せしなければならない。それ以上まだ、ああでもない、こうでもない、と思い煩うことは、神の領域にまで人間の手を入れ、心の中で、神の御手にまで、人間の側の思いを、押しつけ、干渉するようなことです。その時に私達は思い煩っているのです。

 神の側にまで、手を伸ばし、自分の働きをしないようにしよう。私達はどんなに逆立ちしたって、豹の斑点を変えることは出来ないのです。この言葉がどんなに私の思い煩いを取り払ってくれたか、私の人生において、何度も何度も経験してきた。また、自分の心に、神の領域まで立ち入らないように、自戒することによって、思い煩いを神にお委ねすることが出来るようになっていく、それはある意味、自己鍛錬、精神的な訓練とも言えよう。             


委ねの聖句④ ピリピ4章6,7節

 『どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。』(ピリピ4:6,7新共同訳)

 思い煩って、クヨクヨするのはやめましょう。何でもいい、どんなことでも神に聞いていただけないようなことはありません。何でも祈ることが出来るのです。どんな心の思いでも打ち明けることが出来るのです。ただし、聖書の言葉に反することは避けましょう。人を呪ったり、自分の享楽だけのために、この世の富を不必要に求めたりすることは最初から聞かれません。

 『わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。………』(ピリピ4:12口語訳)

 飽くことにも、飢えることにも、乏しいことにも、富むことにも、あらゆる境遇にキリストに助けられて、処していけるとパウロは言いています。 

 『神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19)

 必要なものは必ずすべて備えて、満たしてくださるとのお約束です。祈った後、まだ現実には祈ったものをいただいていなくても、必ずお約束したものはいただけると信じ切って、心に平安が与えられるのです。現実に何かが起こるより先に、心に平安が与えられるお約束です、ここが大事なところです。祈った結果、先に聖霊によって、心に平安が与えられるのです。

 『そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。』(ピリピ4:7口語訳)

 『ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物を賜わらないことがあろうか。』(ローマ8:32口語訳)

 飲む物、食べる物、着る物、それらは異邦人が切に求めている物である。空の鳥が生きて行くうえで必要な物を備えているように、神は私達クリスチャンにそれらが、必要であることをご存知である。だから『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。』(マタイ6:33口語訳)

 こんなにたくさんのお約束があるのですから、これらの聖句を心の中で繰り返し想起することにより、信仰に結び付けられて、毎日を神の導きと、そのお力に囲まれて生きて行きましょう。

 イエスは、あなたはこれらのみ言葉を信じるか、と今も言っておられ、私達の答えは『………信じます。不信仰なわたしを、お助けください。』(マルコ9:24)と癲癇もちの、子供の癒しを求めた父親の言葉のように、自分の不信仰を反省しながら、ただひたすらイエスにより頼んで行くだけです。


委ねの聖句⑤ ヨハネ14章27節

 『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。』(ヨハネ14:27口語訳)

 どんな平安をキリストは私達に与えてくださるのだろう。それは前節に書かれているように、父がイエスの名によって、おつかわしになる、すべての事を教えてくださり、イエスの話を思い起こさせて下さる聖霊(ヨハネ14:26)によって与えられる、神からくる平安です。それはキリストが持っていた平安であり、この世が与えるような物質的な平安とは違う。この世が与える平安は、名誉、地位、財産、安楽な生活、多くの子供に囲まれ、幸せで、仕事も順調で、健康にも恵まれ、総てが自分の思い通りになる、そんなこの世的な、まさに世俗的な満足による平安です。しかしイエスは言う、私が与えるのはこの世が与えるような平安ではない。

 『たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。………』(マタイ16:26口語訳)とイエスは言われる。

 イエスの持っていた平安とは何か?それは神のみ旨の中に憩う平安です。貧しく、職も定まらず、毎日の食べる物にも事欠き、着る物に不自由するような境遇にあっても、その平安は取り去られない。

 何物にも換え難い平安、それは罪赦されて、神の子供となり、救われて、やがて永遠の命を与えてくださるイエスにしっかりと結びつき、たとえ信仰のゆえに迫害され、牢屋に入れられ、この世の希望と、空極的には肉の命を奪われようとも、途絶えることのない、聖霊の臨在が与えてくださる平安です。

 イエスは見えないけれども、常に私達のそば近くにおられます。

 『………主はすぐ近くにおられます。』(ピリピ4:5新共同訳)

 いつも魂の救いを喜び、永遠の天国へ入れる希望に満ち、喜んでいる、自分の周りの環境に左右されないで喜んでいる、イエスが与えて下さるのはそんな平安です。


 『……「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。』 (ヨハネ4:15)とスカルの井戸辺で、イエスに願ったサマリヤの女のように、私達も、永遠の命に湧き出る、自分の心から泉のように湧き出る、その永遠の命の水を、イエスから戴き、飲もうではないか。

 平安、尽きることのない平安、それは最終的には天国へ行ってもらえるものだとは思うが、先付けで、この地上でも、聖霊の満たしによって、戴けるのです。

 イエスは天の御国に、父の御もとにお帰りになる前に、平安をあなたがたに残していくと言われた。心を騒がせるな、怖気るな。分かっていても現実の世界、肉の必要、食べ、飲み、着ていかなければならない世界に目を配ると、つい怖気づき、恐れ、心穏やかでなくなってしまう、不信仰な私です。 


 実際に、この世で生活するには、必要なお金があり、冠婚葬祭のお付き合いがあり、税金も納めなければならず、病気になれば医者にかからねばならない、そんなすべてにお金がかかります。救われているというのに、自分や家族の肉的な必要を満たすために、右往左往するのが私達です。

 しかしそんな肉の生活を神は無視なさっているわけではない。十一献金の祝福を与え、あふるる恵をもって、天の窓を開いて、私達を恵むとおっしゃって下さっている(マラキ3:10~12参照)。

 すべての必要を満たしてくださる神(ピリピ4:19参照)がいます。万物の創造主であり、すべての真の所有者である神が、私達の味方なのです(ローマ8:31参照)。

 私達を罪とその刑罰である永遠の滅びから救うために、御自分の一人子の命すら惜しまずに与えられた父なる神が、御子のみならず、万物をも賜らないはずがあうかとあります(ローマ8:32参照)。

 ですから私達はこの方の御手にすべてを委ね、又必要を祈り求めつつ、絶大な平安、安らぎの中に憩うことが出来るのです。

 『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』(マタイ11:28口語訳)これが、私達にイエスが言われたお約束です。


K.力の聖句①  イザヤ書33章2節

『主よ、われわれをお恵みください、われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救となってください。』(イザヤ33:2口語訳)

 恵み、神の恵みの中でしか生きれない私達、神を待ち望め、いつ神は私達のところに来られるのか。それは呼び求める時にはいつでも来られます。特に朝です。

 必要を感じ、朝早く起きて、神の前にひざまづき、今日の祝福と、力のない私に一日の力の満たしを求め、神の臨在と助けを祈り求める時、神は聖霊を降下させ、私達の腕を強めてくださいます。

 私達が働くのではなく、私達を通して、神が私達の腕となって働くのです。見えない神の腕が、私達の腕となり、悩んでいる私達を救われます。

 すぐ助けられるかどうかは、その時と場合によります。主の力を戴くには、待ち望むことが必要です。たとえすぐに力に満たされなくても、待ち望み、忍耐強く求めていれば、急に力で満たされることもあります。必ず聖霊が私達の中に宿る瞬間が訪れます。 

 性格にもよるだろうが、特にこの私は、小さい事にも、心が奪われ、心にひっかかる事を一途に考えてしまい、取り越し苦労ばかりしています。心の小さい悩み多い人間なのです。しかし憐れみ深い神は朝ごとに、悩みある度に、近くにおられて、御腕を伸ばし、私達の腕となって、救ってくださいます。 朝ごとに、われわれの腕となるということは、私達が何かをしようとするとき、私達の内側を強めて、それを実行できる能力を与えて下さるという事なのです。


 私が郵便局で局長として働いていた時、毎朝のように、この聖句を読んで、出勤しました。自分の心がどんなに慰められ、強められたことか、数えきれないほどです。正に神の言葉は生きていて、私達の中に働いているのです。


 『というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』(へブル4:12口語訳)


力の聖句② イザヤ40章27~31節

 『ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。』(イザヤ40:27~31口語訳)

 聖書全体は神の言葉ですが、このイザヤ書の言葉は誠に神の言葉そのものであり、大変印象的で有名な個所です。

 

実際にあった話であるが、全く神を知らない、ある人が、心臓病を病んで苦しんでいた時、たまたま手にしたキリスト教のパンフレットに、この言葉が書いてあり、非常な感銘を受け、その人なりに神との出会いを求めて、山ごもりを一か月ほどしたそうです。炭焼き小屋か、普通の山小屋か定かではありませんが、人里離れた山の中で毎日、この御言葉を読み、心で唱え、この人なりのやり方で、祈っていたそうです。そうしたら、ある時、「あなたの信仰は聞かれた」と言う声がして、心臓病も癒されてしまったそうです。だいぶ以前にその人の体験談を読んだので、細部は覚えておりませんが、やがて、その方は教会に行くようになり、SDA信徒になりました。その修行とも言えるような苦闘の中で、このイザヤ書の御言葉を繰り返し唱えていた時、この御言葉の力強さ、味わい深さを体験したと書かれていました。 


 この御言葉は本当に味わい深く私達の心に迫ってきます。祈りつつ、瞑想しつつ、何度も読んでみましょう。まずヤコブよ、イスラエルよ、は自分のこととして読むことが大事です。それでないと力が湧いてきません。田中清二よ、あなたの人生、神が知らないとでもいうのか、あなたは自分の評価では、自分の人生をちっぽけなものだと思っているかもしれないが、神はあなたの人生を顧みてくださっている。あなたの人生の道が、神に隠れているわけではない。あなたが祈るとき、何やら祈っても祈っても答えが来ないような気がするが、そんなことはない。あなたの訴えは神に届いている。やがてあなたは力づけられ、鷲のように翼を張って、人生を勢いよく、のぼることが出来る。あなたは知っているでしょう、あなたは聞いたことがあるでしょう。あなたが信じている主、YHWHはどんな方か。永遠の昔から存在し、これからも永遠の未来にわたって存在し続ける神、

 『万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。……』(ローマ11:36口語訳)

 『……「わたしはアルパであり、オメガである。」』(ヨハネ黙示録1:8口語訳)

 『「……わたしは初めであり、終りであり、』(ヨハネ黙示録1:17)、地の果ての創造者、地球の果てどころか、宇宙を造られ、所有なさり、支配なさっている神なのです。

 そもそも神が造られた、宇宙とはどんなものか、それは私達の想像を遥かに超えています。最近の研究によれば、ビッグバン理論によると、宇宙は138億年前に原因不明のビッグバンと呼ばれる爆発があり、風船を膨らませるように、その爆発の中心から、放射線状に、無数の銀河が、外へ向かって無限の宇宙空間を飛び続けている。

私達の住む太陽系がある天の川銀河の直系は10万光年、恒星が2千億個あり、宇宙には同じような銀河がさらに2兆ある。それぞれの銀河自体がビッグバンから、すごい勢いで、外へ向かって飛び続けている。宇宙の大きさは推測できる範囲において、半径約465億光年の球状体。地球から最も遠い銀河が131億光年先にあるのが観測されています。

 さてこの宇宙は誰が造ったのか、それとも自然にできたのか、ビッグバン前に銀河はあったのか、ビッグバン前の宇宙はがらんどうだったのか、そもそも何でビッグバンが起きたのか、何もわかってないのが現状です。

 『天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。』(詩編19:2)宇宙は絶対者である神が造ったのだと私は信じています。

 『…もろもろの国民は、おけの一しずく…、』(イザヤ40:15)と思われるほど偉大なで、大いなる方、この神にとって、出来ないことは、何一つない。私達人間は、弱いし、疲れもするが、神は弱ったり疲れたりはなさらない。神の知恵は、測りがたく、人間の知恵の及ぶところではない。  


 贖罪の知恵は、人間が誰も思いつかなかった。キリストの身代わりによる十字架の死を、自分の為だったと、ただ信じるだけで、どんな罪をも赦されます。老いも若きも、貧しい者も富める者も、知恵ある者もそうでない者も、どんな人でも信仰によって平等に、神の前に義とされ、永遠の命をいただけるとは、そんな知恵をだれが考えつくだろうか。神以外にはない。  

 弱った者、勢いのない者、遠慮なく、神の前に集まれ。神は弱った者に力を帯びさせ、勢いのない者に、エネルギーを注がれます。それは天来の力であって、聖霊が宿ることによって与えられるのです。

 単なる人間の肉の努力、力、才能ではない。人間の努力や、教育や、才能は、ある一定の範囲の中で効力を発揮するだろうが、『弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。』と言われている神の癒しは、もっと根源的なものです。

 天の父から出た聖霊が、キリストを通して私達に注がれるのです。それは聖書の御言葉を離れて降るのではない。熱心な祈りと、聖書の約束の言葉に基ずいて、それを信じる事によって与えられます。 

 それは究極的にはイエスが与えられる復活の命に基づくのです。新しい命の恵、新生の力が、心と、死すべき肉体にすら、作用し、生き生きとさせてくださるのです。

 人間は弱り、疲れ果てる時があります。ある者は人生に疲れ果て、行き詰まり、希望をなくし、自殺してしまう。2021年に21,007人の日本人が、自殺しています。人間は弱いものです。お金に困り、愛に破綻し、いじめや、パワハラ、家族関係の悩み、世間からつまはじきにされ、孤独、精神病、不治の病、生きて行く理由が分からなくなったり、様々な理由で自殺してしまう。

 何と人間は、哀れな、壊れやすい、もろい者だろう。この世で生き抜いて行くというのは、大変なことなのです。

 神が憐れんで、守っていてくださらなかったら、私たちは、とっくに、どこかに吹き飛んで、消えてなくなっていたに違いない。生きていることを許されていること自体が、神の憐れみです。


 こんなに利己的で、愛もなく、イエスの福音を知りながら、他者の為に生きることもできず、やっていることと言えば、自分の為ばかり、友のために命(時間)を捨てよと言われても捨てられず、自分を愛するように隣人を愛しなさいと教えられているのに、実践できないでいる、こんな弱い私です。罪深い、利己的な自分であるが、そんな私をイエスは優しいまなざしで見つめ、愛して、生きることを許して下さっている。 


 年若い者は疲れるだけでいいだろう、まだ若いから休めば元気がすぐ回復する。しかし壮年の者は疲れれば、疲れ果てて、もう倒れてしまう。まして、老人はどうなるのか、倒れて起き上がることも出来ず、そのままあの世行きか。止まれ。

 しかし主を待ち望む者は、たとえそれが年若い者であり、壮年のものであり、老人であろうとも、新たなる力が与えられると言うお約束です。

 主を待ち望め、主を時間をかけて待たなければならない。待つことは辛い経験です。そして、待つことには信仰が必要です。信じなければ待つことはできません。

 例えば、ある人と待ち合わせをしたとしよう。その人が不誠実な人で、いつも約束を守らないで、すっぽかすような人であったら、約束の時間に来なかったら、待つだろうか。その人の人格を、信じることが出来ないので、待たないであろう。ああまたかと思って、待つことを止めて、家に帰ってしまうだろう。しかし、待ち合わせを約束した人が真面目で、信用できる人だったら、多少遅れても、彼は必ず来ると信じて、待ち続けるであろう。待つ事は、相手を信じていなければ出来ないのです。

 同じように、主を待つというのには信仰がいる。神に対する祈りには待つと言う行為がある程度要求される。約束された神は真実であるから待つことが出来るのです。待つと信仰は表と裏です。待っていれば、必ずある瞬間が訪れ、祈りに応えが出て来ます。もし応えがなければ、ない事それ自体が答えかも知れない。 


 待つ者は、鷲のように翼を張ってのぼることが出来る。その疲れは飛び去り、力に満たされ、生き生きと、活力に満たされて来る。走っても疲れることなく、歩いても弱ることがないのです。ここで言葉通り、肉体が走っても、歩いても疲れないのか。肉体のことをも含んでいるとは思うが、ここでは単に、肉体の事を言っているのではなく、人生の歩みのことを言っていると解釈すべきです。

 人生には、ある時は様々な理由で、走らなければ、追いついていかないこともあります。締め切りに追われることがあるのです。仕事等していて、ある時は分、否、秒を争う時もあります。


 私も、28年9ヶ月勤めた郵便局の局長を定年退職した最後の2016年、平成28年3月20日頃から、3月31日東京支社で、退職辞令をもらうまでの約10日間、年度末決算と、28年余の仕事の整理、引き継ぎの書類の作成等、物品等の整理も含めて20~30程のやらなければならないことがあり、文字通り猫の手も借りたいほどの忙しさを経験し、果たして3月31日までに全部、新局長に遺漏なく引き継げるだろうか、と大変な思いをした。神に祈って委ねつつ仕事をこなしていったら、奇跡的にも3月末をもって、総ての仕事を終了する事が出来た。  


 何れにせよ、『しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。』(イザヤ40:31口語訳)と書いてあるではないかと、神の約束を信じて祈ってみよう。忍耐はいるかもしれないが、この御言葉を経験し、必ずや神の御手を感じることが出来るはずです。


力の聖句③ イザヤ41章10~16節

 この聖句も大変力強い聖句です。

 『恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。』(イザヤ41:10口語訳)

 人間の肉体は、本来、神によって、土から創造され、善なるものであった。最初の人間は、衣服を着ていなっかった。裸であり、恥ずかしいとか、肉体が罪深く、卑しい物だとかという考えはなかった。神によって造られた物は、人間の肉体のみならず、自然界にある、動植物含めて総てが良い物であった。ところが堕罪によって、性質が変化してしまった。動物は弱肉強食になり、植物も雑草や、茨や、アザミ生じ、毒をもち、食すると死をもたらすような植物すら出てきて、変化してしまった。人間の肉体も本来善なるものであったのに、神の御旨からは遠く離れ。肉欲、目の欲、情欲、食欲、性欲等を欲しいままにするようになり、堕落の先鋒に立つようになってしまった。


 肉体の堕落は良くわかるが、実は精神も肉体と共に堕落し、名誉欲、あらゆる貪欲、金銭欲、財産欲、立身出世欲、神から離れた知識欲、様々な精神的傲慢等を生じるに至った。現在あたり前だと思っている、私達の精神活動も、肉体の活動も、そのままでは根本的に堕落しているので、キリストと共に十字架に磔けて、一度滅ぼしてしまわなければならない。キリストの血によって、贖われる時、精神と肉体は本来あるべき正しい位置に服していくのです。

 精神はキリストの御旨に沿ってコントロールできるようになり、自分が知恵があることを誇ったり、この世の地位、名誉を求めたりしないようになって行きます。常に謙虚になり、神の前に、いかに人間が浅はかな者であるか、正しく悟り、大言壮語するようなことはしなくなります。人に仕え、相手を自分よりも優れたものと考え、尊敬し、すべての事を受け入れ、感謝するようになります。


 肉体は神の聖霊が住むところになり、五体は、神の聖霊がご使用になる道具となる。道具は錆びたり、折れたりしていない方が良いに決まっています。肉体は健全で欠けたところがなく神に用いられるようになります。(テサロニケ第一5:23参照)

 私達の身体は、罪の欲に供するのではなく、神の器、神の道具として、神の働きのためにささげなければならない。その為には、ある意味逆説的になりますが、肉体の鍛錬維持、健康という問題が大切になります。

 健康的な飲食物を摂取し、適度な運動、休養、睡眠、節制等、様々な健康の原則の実行をして、健康管理に努めなければならない。例え小指一本失っても、苦痛なことだし、どんな病であっても、元の健康を回復するまで大変な努力を要することは私達が経験してきたことです。

 私は局長時代に、恥ずかしながら、痔瘻になったことがあるが、病院に行き手術、その後のケアと大変な思いをしました。肉体が病気になれば、労力と、時間と、費用をかけて、それを治すのです。神の聖霊の器としての肉体は、常に健康で、正常に作動するように、私達は自己管理を怠らず、ケアしていかなければならない。 


 さて、神が強めて下さるのは、心と肉体の両方であると私は考えます。 

 『恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。』(イザヤ41:10口語訳)

 神が強めてくださるのは、三つの部分、肉体、精神(魂or心⦅知・情・意⦆)、霊(私達の霊すなわち聖霊を感じるところ)を強めてくださるのです。

 また、あなたと共にいて下さる約束は私=個人宛である、と同時にもっと大きな、民族単位、国家単位の中で、神は力を現わされると私は考えます。 


 このイザヤ書が書かれた時代、イスラエルの何を強めてくれるというのだろう。文脈から言うと、これは当時のイスラエルの国が、異邦人の国に囲まれ、常に実際の戦争の中にあり、神がそれらの国々からイスラエル民族を守り、強めて、助け、周りの国に対して、新品の鋭い刃を付け替えたばかりの脱穀機ようにして、諸々の山も砕いてしまう程、イスラエル民族を強めると読み取れます。イスラエル民族にとってその救済は、国家単位であり、単に霊的なことにとどまらず、肉体を含んだ、現実的な救済です。個人の人生を強めることも含むであろうが、もっと大きな単位の、悪の勢力と闘う者の、肉体も精神も強め、実際の戦いにおいても介入し、勝利させる機会を与えるとの意味だろう。


 もちろん、あなたの神、と言われているとおり個人の神であり、個人と共におられる神、インマヌエルの神。(イザヤ7:14,マタイ1:23,28:20参照)

 『恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。』(イザヤ41:10口語訳)

 精神的にも私達個人を支え、強め、人生の危機の時、恐れを克服させてくれます。気落ちして、弱く勢いのない者に、天の父からキリストを通して私達に降る聖霊は、私達の弱った心を慰め、励ましてくださいます。

 精神を強められ、奮い立ち、勇気が与えられます。個々の人生を雄々しく生きて行くことが出来ます。わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる神なのです。さらに、神のわが勝利の右の手は具体的になって私達を支えてくださる。今度は私達の右の手を握って支えてくださると続いている。

 『あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手を(固く取って⦅新共同訳⦆)とってあなたに言う、 「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。』(イザヤ41:13口語訳)

 

「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」は神の直接言われた言葉としてかぎ括弧が付いている。恐れるな、助けるの2つの言葉は、この13節と次の14節、前の10節でも使われ、三度繰り返されている。

 これはペテロが復活なさった主イエスに、三度『「………あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。』(ヨハネ21:15口語訳)と念を押されたように、神が必ず約束を果たされるという強い念押しの言葉です。

 また右の手は、私たちにとっては、利き腕であり、主に活躍する手である。また右はイスラエル民族にとって、神の恵みが臨在する方向です。『………主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。』(詩篇16:8)左とは言わない。

 左利きの人には、この聖句は違和感があるかも知れない。もちろん左利きの人には、その左に主はおられるのです。

 何れにせよ、神は私達の右腕、人生をやっていくうえで、最も大事な利き腕を強め、固く握りしめて下さるのです。(『…あなたの右の手を固く取って言う…』⦅新共同訳イザヤ41:13⦆)


 こんなに強い、天地を創造された神のお約束が、「あなたの」と名指しされ、田中清二の個人的な神になっているのです。それぞれ、今読んでいる方の、個人的な神になられます。単純に感動し、感謝しよう。私達は、どんな境遇であっても、例えこの世的には、独りになったとしても、決して独りではない、主が共におられ、強めて下さるのです。


 『主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。』(イザヤ41:14口語訳)

 全宇宙から、私達地球を見たら、たぶん埃の一片にしか見えないだろう。天の川銀河にある恒星2千億、その外の宇宙に、さらに2兆の銀河があると言われている。諸々の国民は桶の一滴、はかりの上の塵のようだと描写されている(イザヤ書40:15参照)。

 ヤコブから産まれた、イスラエル民族。虫に等しいほど、小さな存在だと表現されている。

 確かに私達はこの巨大な宇宙に比べれば、その存在は塵のようなものかも知れない。実際そうだろう。人生など、泡として浮かび、泡として消えてしまうようなものだ。永遠の歳月と比べたら、私達の人生、たかだか70から80年、一瞬なものかも知れない。中には100まで生きる者もいようが、永遠の時間から見れば大差ないのです。私達の人生は、どう考えても一瞬であろう。詩篇記者は神にとっては千年も、世の間のひと時のようだ。私達が年が尽きるのは、一息のようだと言っている。

 私達が飛び去るのは息を吸って吐く、その一呼吸動作の合間のようだ。アッという間に人生は過ぎ去って行く(詩篇90:4,9,10参照)と表現している。私も今年2022年、令和4年5月で72歳になった。平成28年、2016年3月で定年退職して、翌々月に66歳になり、早いもので丸6年余たった。

 この虫のような、泡のような存在であっても、神は顧みて下さる。憐れんで下さるのです。

 余りにも小さく、余りにも短い人間の一生。大変壊れやすく、病気、事故、犯罪等で何かあれば、すぐ途中で消えてしまう人生。もともと短い人生なのに、途中で終わってしまう人も多い。良く考えて見ると、悲しくなってしまい、涙が出て来る。

 でもそんな私達を救うために、イスラエルの聖者が来られた。この地上にイエスは来てくださった。処女マリヤから、聖霊によって産まれ、私たちと同じように赤ん坊から、子供へと成長し、30歳まで大工仕事をなさり、家庭を助け、早くに亡くなった父ヨセフの代わりに長男として働き、何人もの弟や妹たち、また母マリヤを養ってきたのです。

 30歳で大工をやめ、公生涯にお入りになり、3年半苦節の限りを尽くした伝道生活を経て、罪のないイエスが、私達人類すべての罪咎を一手にひき受けて下さり、十字架で人類の身代わりに死んでくださった。イエスの十字架は本来、私達が引き受けなければならない刑罰です。罪の支払う報酬は死であると言う、父なる神が人類に下す刑罰です。単なる死ではなく、教理的に言えば第二の死(黙示録20:12~15)である滅びの死を、イエスは甘んじてお受けになった。天の万物を創造し所有しておられる、父なる神と、同等な方が、御子として、贖罪の目的の為に、一塊の人間になられた、これを受肉と言う。英語でインカーネーションと言い、救いの根本であり、神学上の神秘中の神秘です。


 神は死ぬことができないが、人間となれば死ぬことが出来ます。罪の赦しは容易ではない、必然的に身代わりの刑罰を受ける犠牲、供え物が必要になるのです。イエスは最初から死ぬため、神の刑罰を人類の身代わりになって死ぬための供え物として、地上に産まれてきた。

 諸々の銀河を創造された方が、こんなちっぽけな地球の、それも一人の人間になられた。例えは適当でないと思うが、それは言わば、私が一個の単細胞生物のアメーバーになるようなものだ。そしてイエスは救いを成し遂げられたのち、天に帰られてから、またこの地球を、リニューアルし、新天新地にする為、再臨なさいます。さらに、この地球が天国になった後も、永遠に人性を取り続けられるというのです。

 ヨハネ黙示録には、父なる神と、御子イエスが、この地球にお降りになり(第三降臨)、新しいエルサレムに、永遠にお住まいになると書かれている(黙示録:21:1~4,22,23参照)。

 外宇宙に2兆もの銀河をお持ちの神が、この地球を玉座とし、御子イエスと共に宇宙の中心として、お住まいになるのです。何んと畏れ多いことではないか。神は人が考えも付かなかったことを備えて下さるのです。


L,力の聖句④ 

『主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。』(詩篇147:10新共同訳)

 『主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。』(詩篇147:10口語訳)

 この聖句は肉による世界と霊による世界の葛藤である。肉は人間の優れた肉体や精神の能力、また飼って、道具として使っている家畜、動物。霊は人間が自分の限界を認めて、神の霊により頼み、神の力に満たされて生きて行く生き方を指します。

神は馬の強力な力を(今は自動車か?)喜ばれない。また人の足の速さを良しとして、ほめたたえるものではない。むしろ、神から離れて行動する、人の足の速さに象徴される、単なる人間の努力は、神に受け入れられるものではない。また、馬に象徴される、近代文明の発明した道具、機械等はそれなりの便利さや、力はあるだろうが、神が喜ばれるものではない。

 人が一度自分を神の前に、己をを虚しくして、自分の力の限界を悟り、全能の神に頼らなくては、本質的に、善も何もできないものだと悟ることが大事なのです。


 神に祈り、聖霊の力を求めて、霊の満たしを受けてから行動する時、自分の肉体に備わっている能力がより活性化され、精神もより活動的になり、能率的に自分の持っている能力の何倍もの働きをすることが出来得る。 

 様々な人間が使う道具。古代では馬であっただろうが、現代では、自動車等文明の利器も大いに用いられる。例えばPC等もそうであろう。私が若い頃は、こうしてPCで原稿を書くなどとは考えられなかったし、PCそのものがまだなかった時代であった。今やPCは大変便利な道具となり、原稿を書くのも、日記をつけるのも、データーで保存するにも役に立ち、大変便利です。

 しかし、それらの道具も、まず一度、横において、霊の導きを求めてから、私は使うようにしています。いつだったか、余り祈りもせずに、聖書の記事を書こうとして、PCに向かったら、「肉の奉仕は受け入れない。」と言う神の声が聞こえてきた。聞こえてきた、は不正確です。自分の思索と、全然関係なく、全く思いもかけない心の外側から響いてきた、と言うのがその時の状況であった。自分の思いの外側から心に響いてきた。それは個人的な体験として、まさに私にとって、聖霊の声でした。

 『また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。』(イザヤ30:21口語訳)


 少々脱線したが、要するに『主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。』(詩篇147:10口語訳)の聖句は、文明の利器を含め、個人の能力、肉に備わったすべてを用いて活動をする時に、まずは自分を虚しくして、神の力を求めてからやりなさいと言う事です。 


力の聖句⑤ 

 『わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。』(詩篇18:34口語訳)

 『手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。』(詩篇18:35新共同訳)

 この聖句を考えるにあたって、当時はBC1,000年位前の時代であった事を考慮すべきだ。日本の戦国時代よりまだ2,500年前の時代である。実際にイスラエル民族は周りの諸国との戦いに明け暮れていた。そんな時代背景を考えると、手に戦いの技を教えと言うのは、本当にダビデに、神が臨まれ、聖霊によって用いられ、戦いの技を教えたと解釈できよう。

 現代においてこの聖句はどんな意味、場面に適用できるだろうか?今は戦闘行為はないが、ある意味、生きて行くことは、戦いであることに変わりはない。様々な問題、仕事、職場、対人関係、家庭、親子関係、子育て等に対処していかなければならない。神はそんな現代人が抱える戦いにも、技を教えて下さるのではないだろうか。

 こうしたらこちらはうまく行く、ああすればあちらも喜び、四方丸く収まる、そんな経験を私は随分、仕事をしていた時経験した。余りにも難しい問題に直面し、心の中で、神様助けてください、教えてください、導いてくださいと心の中で咄嗟に祈ったことも、しばしばであった。神はその度に私に解決する知恵を授け、道を開いて下さった。

 また、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせとある。確かに、ダビデには、神によってすごい力が与えられたのであろう。私にはとても青銅でできた弓を引く力はないが、どうしても人間的には不可能と思えた、職場上の大きな事件に何回か遭遇し、苦闘の祈りの中で、神の導きをいただいて、問題を解決できた。それは私にとって、正に青銅でできた弓を引く経験であったと言えよう。 


力の聖句⑥

 『また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。』(イザヤ42:3,4口語訳)

 わがしもべに聖霊を注ぐ(イザヤ42:1参照)とあるので、これはイエスがメシアとして神の聖霊の油を注がれることを預言した言葉です。諸国の人々に真理の道を示し、『海沿いの国々はその教を待ち望む。』とあるので直接的には、異邦の地ガリラヤ(マタイ4:15参照)を伝道し、さらにツロ、シドン等の地中海の海沿いの異邦の人々にまで、イエスが教えを伝えに行った事を預言しています。(マタイ15:21参照)

 この聖句は弱い者達の為の聖句である。哲学者パスカルは人間は考える葦であると言ったが、葦そのものは、頼りない、風に吹かれれば、茎を曲げられ、今にも吹き飛ばされそうな、弱い存在です。決して堂々とした太い幹がある、樫の木のような大木ではない。さらにおまけに、ここに出て来る葦は傷ついているので、もうひと吹き、強い風が吹けば、たぶん完全に折れてしまいそうな、危うい状態の葦です。これは人間の存在が、いかに脆い者であるかを表現しています。

 多くの人間が精神的にも、肉体的にも色々な原因で傷ついている。ある人は仕事上の問題で、鬱病にかかり、疲れ果て、しかも不眠に悩み、生きて行くのもやっとの状況です。ある人は、重病にかかり、入院し、ベッドの上で、いつ治るかわからない、闘病生活を送り、肉体の病が、自分を大いに苦しめています。ある人はもうすでに、第4ステージまでに進んだ、骨にまで転移した癌に侵され、終末期の緩和治療を受けている。

 傷ついた葦を癒してくださる方はどこにおられるのだろうか。聖書を読むと、信じるなら私達のそばに、今ここにおられます。イエス・キリストは、傷ついた葦を折る事はなさらない。優しく優しくその傷口を包んで、癒して、又立ち直らせて下さるお力があります。時間はかかるかも知れないが、信仰によってイエスに繋がってさえいれば、必ず癒しの時が訪れるのです。


 ほの暗い灯心はどうであろうか。ほの暗い、灯心ほど、情けなく、頼りない物はこの世にあまりない。灯をガラスで覆ったランプも発明されていない時代、油を入れる、楕円形の入れ物があり、先が長細くなっており、そこに油をただ入れてあっただけの物。糸を撚って作られた芯が、中に浸してあり、その先が少し細い口から出ており、そこに火を点け、灯として使っていたのです。

 灯そのものが、現代の電灯に比べれば途方もなく暗い物であった。ここではさらに念を押すように、ほの暗い灯心であると表現されている。そもそもそんなに明るいとは言えない照明道具なのに、長い時間使用してきたので、燃料も切れかかり、消えそうになっている、ほの暗い灯心です。いったいこれは何を表しているのだろうか。

 この灯は私達の心の中の信仰の状態を表しているように思われる。信仰を持ちたての頃、バプテスマを受けた頃の自分を、皆さんそれぞれが思い出してみよう。今から思えば多少は変な信じ方だったかもしれない、今よりは信仰的には未熟だったかもしれない。でも心は救いの喜びに満たされ、聖霊に満たされ、松明が燃え盛るように、熱心に赤々と燃えていたのではなかったか。それが、何十年と言う歳月が流れていくうちに、いつの間にか信仰の灯は暗くなり、もう消えかかっているのではありませんか。かろうじて教会には来ているが、もう消えて無くなる寸前になっている。あれほど一時は燃え盛っていたのに、もう炎は消えて、火が見えない状態。芯の先から最後の煙の一筋がツーと立ち昇っている。しかし良く見ると、完全に消えてはいない。かろうじて、芯の中に赤い点が、ポチッと残っている。フーッと強く吹くと消えてしまうので、ソォッと切れていた油受けの器に、新しく油を注ぎたし、また燃え出すのを待つ。合言葉は慎重に慎重に、芯に残っているわずかな、火を消さないように、静かに吹きながら、またボッと火が付き、燃え出すのを待つ。彼(イエス)は傷ついた葦を折ることもなければ、ほの暗い灯心を消すこともなさらない。やがて聖霊の新しい油が補給され、芯から炎が立ち昇り、以前にも増して赤々と燃え上がる時が来るのです。


 『……彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する』(イザヤ42:4口語訳) しかし、弟子たちの成長は遅く、イエスは以下のようにお嘆きになったこともあった。

 『……いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか……。』(マタイ17:17口語訳)

 『……まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。』(マルコ8:17口語訳)と。

 しかし、イエスは最後まで弟子たちを見捨てるようなことはなさらず、落胆せずに彼らの成長を見守っておられた。

 『……彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する』(イザヤ42:4口語訳)これはイエスの生き方の預言です。

 『……「わたしは道であり、真理であり、命である。……』(ヨハネ14:6口語訳)

 唯一の父なる神のみもとに行く道である方が、真実をもって道をしめされた。御自身が道そのものであると宣言なさり、イエスを信じるならば誰でも救われるという、永遠の真理の道を確立なさった。

 イエスは人類のすべての罪を負い、十字架上で『……「すべてが終わった」……』(ヨハネ19:30口語訳)と宣言なさり、息を引き取られた。真理の道を地に確立し、成就した方。

 『この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」』(使徒行伝4:12口語訳)とペテロが聖霊に満たされて言ったとおりである。

 

『……海沿いの国々はその教を待ち望む。』(イザヤ42:4口語訳)イエスが訪れた海沿いの国々ツロ、シドン(マタイ15:21参照)だけでなく、これはユダヤ民族以外のすべての異邦人を指している言葉である。私達日本人も含む異邦人はその教えを待ち望んでいたのです。

M,ヤベヅの祈り 

『ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。』(歴代志上4:10口語訳)

 ヘブル語ヤベヅの意味は苦しみ、または悲しみです。母親が難産で、苦しんで産んだ子だからヤベヅと名付けたと書いてあります。(歴代志上4:9口語訳参照)


①女は子を産むことによって救われる(テモテ第一2:15参照)これはどういう意味だろうか。

②若いやもめは再婚して子を産めと言われている(テモテ第一5:14参照)この意味は何を表しているのだろうか。この2つの聖句から、何か普遍的な原則は導き出せないだろうか。

③何故ヤベヅの母親は、苦しんで子を産まなければならなかったのだろうか。

 ③から考えて見よう。この答えは神の言葉による、定めです。産みの苦しみ、それは創世記、罪を犯したエバに与えられた、苦しみです。

 『つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。』(創世記3:16口語訳)

 この御言葉が発せられた時、女は苦しんで子を産むことが定めとなったのです。ヤベヅのお母さんは、難産でしたので、普通の産みの苦しみ以上に苦しんだと思われます。

 続いて、『あなたは夫を慕い、彼はあなたを治める』と女に言われましたが、現代においては妻が夫を治めているのではないか、この部分の言葉は逆転してしまったのではないかと、個人的には思っています。

 さらに、産みの苦しみから生まれた子供が、救い主になるという預言が与えられた。

 『わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。』(創世記3:15口語訳)

 これは最初のメシア預言として、聖書でもっとも有名なところです。女のすえ、つまり人類の子孫からメシアが産れ、おまえ(エバを誘惑した蛇)のかしらを砕くのです。サタンはやがて滅ぼされるの意味。蛇もまた、メシアのかかとを砕く、十字架でキリストの肉体を傷つけることをかかとを砕くという表現で表している。サタンはかしらが砕かれるので、致命傷、やがては完全に滅ぼされる。メシヤはかかとを砕かれるので、かなり痛い、しかし致命傷ではない、サタンのように滅ぼされる事はない。やがて救いを達成し、メシヤの王国は永遠に続いて行くの意味です。

 さて、この預言をアダムとエバがどれほど理解していたかは不明です。しかし堕罪し、エデンを追い出された2人にとって、唯一の希望であるこの神の言葉は、必ず心に残っていたのではないかと思われます。産まれてきた子に、アダムとエバは自分達の犯してきた罪から救う贖い主ではないかと期待して、希望を持ったに違いないのです。アダムとエバの場合は、実際には救い主かと思って産んだ長男カインが殺人者になってしまうという、悲しみの結果にはなってしまいました。しかし次男アベルは義人であり、それはアダムとエバにとって、もしかしてこの子が救い主かと期待できる、優しい、神に忠実な子供であったようです。しかし残念ながら、次男の義人アベルは、長男の殺人者カインによって殺されてしまった。後の世になり、正しい方であったイエスは必ず、罪人たちによって迫害され、殺されることになっていたので、ある意味これはイエスの死の予表かも知れません。

 何れにせよ、救い主がアダムとエバの子孫から産まれるのは、これよりずっと後のこと、この時からまだ4,000年を経なければならなかったのです。この創世記をはじめ、さらに聖書の中に書かれていた数々のメシア預言を信じ続けてきた後代のイスラエルの人々は、自分達の子孫から、メシアが現れるかも知れないと、ほのかな期待を、いつの時代でも持っていたはずであります。

 預言者ダニエルも『……メシヤなるひとりの君が来るまで、……』(ダニエル書9:25と言う神の言葉を信じて、その預言の実現を待ち望んでいた、一人でした。

 さて、実際に女性になぜ産みの苦しみが与えられたのか、パウロはテモテの手紙の中で、アダムはだまされなかったが、エバはだまされたと言っています(テモテ第一2:14参照)。産みの苦しみで、今でも命を落とす女性もいます。ヤベヅの母は苦しんで子供を産んだ。その苦しみの子が、祝福の子供となった。ヤベヅは神と共に歩み、神はヤベヅを祝福された。


 ①に戻り、何故、女は子を産むことによって救われるのだろうか。男は仕事の苦しみで汗を流し、一生を労働の苦しみで終わる。額に汗を流し、労働をして、雑草と闘いながら苦しんでその日の糧を得るのが定め(創世記3:17~19参照)。女は子を産み、子を育て、子供のために苦労して行くのが定め。定まった罪の結果の苦しみの中で、男も女も救い主イエス・キリストを見出すのが目的であろう。単に苦しみで終わるだけだったら人生は空しいが、苦しみを通して、キリスト、救い主を見出すところに人生の意義があります。

 一般的に男は仕事で苦労し、女性は子育てで苦労する、これが古来よりの定めであり、今でもある程度現実を反映しているのです。人生の、苦しみが、主に男は仕事、主に女は出産と、子育てです。

 ただし、現代は余りにも複雑な社会となり、聖書の言葉通りにはならなくなってきた面もあります。男女の差がなくなり、男も育児を手伝い(イクメン)、女も仕事をする時代になりました。

 現代では結婚せず、子を産まない女性も多く、ではそういう人は救われないのか、そうではない。今や男も女もなく、仕事をすることによって、自分の限界を感じ、力の源である、神を見出すことが大事だと言う事です。結婚、未婚、子供がいるいないにかかわらず、仕事をしている、していないにかかわらず、人生において、男も女も、総ての人が、生きて行くうえでの仕事、男女協同の子育て等、その他あらゆる種類の生活の困難さを通して、神を求めて、神を見出すように導かれる、苦しみをとおして、神に頼ることを覚えて行くのです。

 『またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。』(マタイ21:44口語訳)

 ここで石は、イエスを表している。私達人間は空極的には、 イエスによってしか、意味のある人生を生きる事はできないのだと思い知らされるのです。神無しに生きれる、自分の力のみによって生きて行ける、と思っていること自体が、神から見たら、的外れで、傲慢な、神から遠く離れた生き方であることなのです。人生の重荷を通して、自我が砕かれ、神の存在を受け入れ、キリストに頼って生きて行く事が、本当の生き方であることが、分かって来ます。


 こうは言っても、神を知らないながらも、一生懸命自分なりに生きてきた人の人生を、否定するものではありません。神を知らなくても、それなりに善良であり、それなりの努力があり、自分のできる範囲の中で、人に親切にして生きてきたことは良い事だと思う。しかし、信仰という価値観から見ると、その生き方には、修正の余地がある。修正より生まれ変わりと言う方が正確。英語ではリボーンreborn、精神的に生まれ変わることを言う。

 自分の努力、良い事を行ってきたことの誇り、自分のキャリア、学歴、能力、教育の力だけで、自分の力によって生きて行けるという思い込み、実際生きてきた、そのことすべてが無駄であるとは言わないが、ある時、神と出会い、もう自分の力では生きられない、キリストに全的に頼って生きよう、そのように、変えられて行くことがすべての人にとって必要なのです。 


 ②若いやもめが、働かずしゃべってばかりいるのは、常に、学んでも真理の道に到達しない人たちと同類でありましょう(テモテ第二3:7参照)。若いやもめは、他人の家を用事もないのに歩き回り、口にしてはならないことまで、話すようになり、道を踏みはずした人もいます(テモテ第一5:11~15参照)。かなり辛辣なパウロの言葉ではあります。男女問わず、おしゃべりに無駄な時間を使うのは、余り神の喜ばれることではない事は、頭の片隅にでも留めておかねばならないだろう。このような生き方は良くないので、若いやもめは再婚して、家庭を持ち、子供を産んで、育てるようにパウロは言っています。


 また横道にそれるが、聖書では、エバはアダムのあばら骨の一つから取られ、造られた。神はアダムが一人でいるのは良くないと考えられたからです。またアダムは神が造ってくださったエバを見て、これは私の骨の骨、私の肉の肉、ヘブル語で男(イーシュ)אִישׁ 、女(イシャー)אִשָׁה と名付けた(創世記2:18~23参照)。


 最近感じる事であるが、生きて行くという事は、様々な、この世の用事をこなしていかなければならない。霊の世界を求め霊的なことを第一にして、それにすべての時間をささげ、神との交わり、聖書の御言葉を研究する事を第一にしようと考えても、実際の肉の生活と、それに伴う用事が、神を第一にする事を邪魔します。確かに、私達の生活には着る物も必要、洗濯もしなければならない、食事もしなければ、生きて行けない。あらゆるご近所のお付き合いや、病気になれば、医者に行ったり、その他様々な用事がある。肉とその用事、しなければならないことに私達は囲まれている。


エバはアダムの『助け手』として造られたと聖書にあります(創世記2:18口語訳)。肉の世界はあまりにもやることが多い、多すぎる。聖書に基づけば女性は男性の、骨の骨、肉の肉、であり、男性を脇から支え、その手足となって補助してくれる存在です。

 もちろん、男女の違いは機能的な問題であって、主にあっては、一人の尊い存在です。神の前に男も女もなく皆平等であり、魂の価値は同じであり、尊い人間です。

 『……男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。』(ガラテヤ3:28口語訳)

 エバはこの世における、現実の、肉の用事を、アダムを補佐し、かなり引き受けて、こなしてくれる存在なのです。誰でも、歳をとって自分の周りの事がだんだんすることがおっくうになってくる。女性こそ、現実の働き手であり、主婦であり、助け手です。肉の用事をテキパキとかたづけてくれる、有難い存在なのです。正に男の、骨の骨、肉の肉です。聖書では、妻は、夫によって、虐げられる存在ではなく、男性の分身、自分自身なのです。聖書では自分の身体のように、妻を愛し、大事にせよと言われています(エペソ5:28参照)。もともと、自分のあばら骨なのだから。 

 さて、きっかけは色々あるだろうが、男も女も皆キリストのもとに来て、自我が砕かれ、自己に頼ろうとする生まれつきの肉の性質が変えられて行く、ここが大事なところです。生まれつきの人間の性質では、神の国は継ぐことはできない。『…肉と血とは神の国を継ぐことができない……』(コリント第一15:50口語訳)


 自分の性格も含めて生まれ変わることが肝要なのです。

 あらゆる環境が整えられて、私達は整備され、自己が砕かれて行く。男も女も、経済も、子育ても、この世の仕事も、友人関係であろうが、健康問題、実際の病気であろうと、すべて神の手段となり、私達が砕かれ謙虚になり、自己の力に頼ることをやめ、本当の意味で、神との出会いを経験して行くのです。

 ある意味それは、私達にとって、辛く、歓迎すべき経験でないことの方が多いかも知れません。しかし神は『……万事を益となるようにして下さる……』(ローマ8:28口語訳)方です。 


 生まれつきの肉の力、能力、知恵、力、あるいは教育によって培ったもの、学識も、時と場合によっては、神に用いられるかもしれない。しかしそれらの才能等は、一度、岩なるキリストに落ちかかり、砕かれ、粉みじんにされないと、私達の心の中にお住まいになっている霊のキリストは、その人の内側から、溢れ、現れ、流れ出してこないのです。

 ナルドの壺は、砕かれることによって、部屋中に良い香りをまき散らすことが出来ました(ヨハネ12:3,マルコ14:3参照)。

 キリストによって、自我が砕かれる経験は辛い経験です。様々な経験、失敗、試練、悲しみを通して、私達は自我が砕かれて行く。そして最後は、自己はキリストの前に、降参(サレンダー)する。オベイ(服従)ではない。

 そして『……キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11新共同訳)となって行くのです。


 ある人の罪は、活動しないことではなくて、自分の心を分析し、精神を病むほどに、自分の内側ばかりを見続け、他人の心の中も、その鋭すぎる感覚によって、分かりすぎ、過剰な配慮をし過ぎてしまうことかも知れない。しかしそれがどんな性格のものであろうと、キリストに癒せないものはない。キリストがすべてでありすべての内にいますとなった時、すべてのものは、その精神も含めて、あるべきところに置かれる。要は自分が神に対して、服従ではなく(オベイ)降参(サレンダー)するしかないことが、齢をとって肉体が衰え、自分のさまざまな能力が衰えていくと、段々分かって来るのです。


 さて、ヤベヅの祈りに戻ろう。『ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った………』(歴代志上4:10口語訳)とある。イスラエルの神は唯一の神で、 天地を創造し、人間を創造し、動植物を創造した、総てを支配しておられる神です。偶像の神に呼び掛けているのではない。

 この真の神は、御自分の御子イエスを世に送り、身代わりに十字架で死なせた、愛の神です。

 私達はこの世の神や、自己信頼や、富や、名誉や、本当に偶像と呼ばれる蛇、キツネ、蛙や、仏、神道等の、日本の沢山の神、八百万の神に呼ばわっていないだろうか。『ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った………』とわざわざ書いてあるところを読む時、何かここに、神聖な、襟を正さなければならない、雰囲気が漂ってくる。

 祝福を求める時、俗的に生きてきた何か自分の時間の連続を断ち切り、そこで一旦区切りをつけて、聖なる神、イスラエルの真の神、万物の創り主である神に、思いを集中し、聖なる思いをもって、神の前に、まず悔い改めて、自己の行いを正し、身ぎれいにして、祝福を祈り求めようではないか。(もちろん、こうは言うもの、自分で何かを清めることなどできない、ただありのまま、そのままでキリストのもとに来ればよい。十字架の血によって、自分の罪を拭い去っていただくだけです。)私が言いたいのは祈りの姿勢のことです。外の身体の姿勢も含むが、心の姿勢です。真摯になって、襟を正して、イスラエルの神に呼ばわろう。

 『……「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。……』(歴代志上4:10口語訳)この短い祈りの言葉がヤベヅが神に呼ばわって発した言葉です。 ヤベヅは苦しみの意味であったが、実際の人生は祝福に満ちた人生、名前とは逆転の人生、また、兄弟達の内で最も尊敬されていて、リーダー的な存在であった(歴代誌上4:9参照)。


 『……「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、……」』とあります。

神は万物の創造主、絶対者ですが、同時に愛の神です。私達がこの世の生活を送るにあたって、人間的レベルで不幸になる事を、神は喜ばれるような方ではない。

 『……わたしがあなたがたに対していだいている計画は……。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、……』(エレミヤ29:11口語訳)

 神が私達を豊かに恵まれる場合、物質的な事もあるだろう、私はそれを否定しない。私達は仙人のような生活を送っているわけではない。実際に、自分達の肉体を維持するために必要な日々の糧があり、金銭もなければこの世で生活できない。

 更に健康がなければ、自分で生きて行くこともできず、多くの方にお世話になって、医者にかかったたり、介護して頂いたりして、生きて行かねばならない。もちろん誰しも年齢を重ねて、老いて行く。その過程で、自分の身の回りの事すら自分で出来なくなる時が誰にでも訪れる。たとえそんな境遇になっても、 『わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19新共同訳)この信仰をもちたいものです。確かに神は、私達の必要をすべて満たしてくださる方だと、私は信じています。

 『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピリピ4:13口語訳)

 パウロの以下の言葉にも留意しておかねばなるまい。『ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。』『金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。』『わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。』(テモテ第一6:8,10,7口語訳)


 結局、健康で、ある程度のものが食べられて、必要な寒さをしのげる衣服があればそれで足れりなのだろう。箴言にはこう書かれている。

 『……貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。』(箴言30:8)

 貧しいと、貧しさの故に盗みをしたり、犯罪の誘惑が出て来る。お金に関する事で、一生しなくていいはずの、苦労をしなくてはならない。「貧すれば鈍する」貧しいと、心までも豊かでなくなる危険性も出て来ます。もちろんそうでない方々もいますが。

 富めば(あまり私達はこの心配はしなくてよいと思っているが)その財産を守ろうと、余計な心配、思い煩いが起き、夜も眠れぬほど心配になるかも知れない。

 また、クリスチャン人生は、神により頼み、すべてを神の導きと、力によって進むべきであるのに、神を忘れる危険があります。必要を神に祈り求めることを忘れ、人間的手段と、金銭の力ですべてを解決できると思い込み、神に頼ることを忘れてしまうことにもなりかねない。

 さらに、富におぼれ、神そのものの存在さえ忘れてしまうことだってあり得ます。パウロは、『わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。……』(ピリピ4:12口語訳)と言っています。その秘訣は、どんな苦難、どんな時でも、イエスにあることを忘れないこと、総てをイエスキリストにあって計画し、どんな状況でも、良い時でも悪い時でも、富んでいても貧しくても、キリストの霊の臨在を呼び求めて進んで行く事。心の平安を失わず、神により頼み、ただまっしぐらに、永遠の命と天国を目指して行く事。キリストの愛を聖霊の力によって注がれ、心にキリストが住んでいただきながら、その愛を『……自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。』(マタイ19:19口語訳)の実践として生きて行く事。これ以外に人生の目的はないし、それ以外の生き方をしたいとは思わない。


 『ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、(わたしを祝福して—新共同訳)わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。(聞き入れられた。—新共同訳』(歴代志上4:10口語訳)


 『……わたしの国境を広げ、………。』国境が広がることはその国にとって、とても誇らしいこと、良いことだ。例えば、日本の領土があの小笠原諸島の西之島の噴火で、少しでも広がったので、なんとなく、日本国民は皆喜んでいる。実際には自分が得をしたわけでも何でもないのだが、少しでも日本の領土、また領海が広がれば、日本人として悪い気持ちはしない。


 ヤベヅの領地が広がることは、イスラエルの神の領地が広がる事。それはこの世的な意味もあり得るのだろうが、それ以上に霊的領地が広がる事、神の国の支配地域が拡大する事、すなわち救いの福音が国境を越えて広がって行く事を霊的に意味する。また個人的に言えば、田中清二の霊性が、自分個人の枠を越えて、他の人に伝わって拡大して行く事。自分の力ではなく、神の憐れみにより、恵によって支えられている自分の国境が、霊的に、少しでも自分の範囲から、拡大して、隣近所、友人、知人の中にまで拡大していくことを意味する。

 『「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。』(ルカ17:21口語訳)とイエスは言われたが、その私達のただ中にある、見えない天国、霊の世界が、自分を通して、滲み出て、周りに拡大して行く事。そして永遠の命を得る為の良い影響を与えて行く事、キリストの贖いの業によって、救われ、罪赦されて義とされる方々が、少しでも増えて行く事、これこそ、私の国境を広げの意味ではないかと私は考えます。


 『……あなたの手がわたしとともにあって、……』

 神の手がわたしと共にある、これはインマヌエル(神、我らと共にいます)の思想です。神が私と共にいつもおられるなら、こんなに心強いことはない。やることなすことは、総て神の御手と共に行うのであり、パウロは、『……すべてを主イエスの名によって行い、……』(コロサイ3:17)と言っている。神の手は、罪を犯す者、不正を働く者には、その罪を責め、厳しい面があるが、『……主の手はそのしもべらと共にあり、……』(イザヤ66:14口語訳)主を愛し、従う者には祝福をもって臨まれる。『……わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。』(イザヤ41:10口語訳) 


 旧約聖書の故事に、アマレク人との戦いの際、モーセが手を上げていた時は、イスラエルが勝利し、手を下げるとアマレク人が優勢になった。そこで2人の人が左右からモーセの手を支え、終日モーセが手を上げているようにしたら、その戦いにイスラエルの人々は勝利を得たとあります(出エジプト記17:8~13参照)。


 『……あなたの手がわたしとともにあって、……』私達は神の御手の中から、はみ出さないようにしよう。自分が神から離れ、御手から逃れていて、神の祝福の御手が共にあるように祈れるだろうか。『あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。』(ピリピ2:13口語訳)

 自分の思う事、考える事が、すべて神のみ旨にかなうという事はほとんどの場合ないかも知れない。しかし、本当に、私達がヤベヅのように、聖霊に満たされたら、思うことが神のみ旨にかなうまでに高められことはあり得る。自分の好み、主義、主張によってするのではなく、あなたの手(神の手が)わたしと共にあって、やることなすことがすべてうまくいき、祝福されていく経験、そんな経験を、例え1時間でもしたいものです。自分も祝福され、更に人も祝福される。その目的は自分の為に生きるのではなく、ただ神と隣人の為に生きる事、友のために時間を削り、命を捧げ、一粒の麦となって生きる事。


 イエスが十字架で、その肉により、罪を罪として処断なさった時、実は私達の肉もこの時、キリストと共に処断され、十字架でキリストの肉と共に、私達の肉も破壊された。このように考えることが大事です。


 神の手が私と共にあるのは、何のためか? 何のために、神より祝福され、神は我が力となるのか?それは、私個人が、勝手に一人だけ栄るためではあるまい。否、むしろその逆だ。『彼は必ず栄え、わたしは衰える。』(ヨハネ3:30)とあります。

 自分の人生くらいは、平安で、幸せに送りたいという思いは私の中に常にあります。誠に、どこまで行っても罪深い、生まれつきの肉の思考から離れられない、利己的な私の中には、そのような思いも、幾分かはあります。誰でも自分だけは、幸せでいたいと思う、これは人情です。その思いを神は許されると私は思う、ヤベヅの祈りは正に、そのような感情から発した祈りです。神はその願いを『……聞き入れられた。』(歴代志上4:10新共同訳)とあります。

 しかしながら、繰り返しになるが、突き詰めて行くと、聖書の中では、自分以外の周りにいる人々に自分の時間を捧げる生き方が求められています。時間=命であるならば、ある意味、人の為に時間を削る事が命を捧げる事です。時間は自分の為だけに使うのではなく、何とか神の為、隣人の為に使いなさいという事が、イエスが弟子たちに与えられた新しい戒めにより求められているのです。


 神の為生きるという事は様々な事象が考えられます。その身体である教会の為の奉仕の業(管理、維持、祈りの奉仕、牧会、講演会の手伝い、礼拝、SSの奉仕、掃除、食事当番、受付等)もあろうが、忘れてならないのは宣教の奉仕、平たく言えば伝道しなさいという事も含む。教会の使命は、地域奉仕もあるかも知れないが、空極的にはイエスの救いを宣べ伝える事、福音宣教に尽きる。もちろん、福音宣教は直接的に聖書の言葉を語るばかりとは言えないと思うが。


 人の為生きるという事は、様々なボランティア的な生き方が考えられる。また、組織に属さなくてもできることはあるはずです。例えば、毎日接する近所の人々をはじめ、友人、知人、親戚の者等、自分の身の周りの人々に親切にする、それだったら誰にでもできる事ではないだろうか。

 生まれ変わっていない肉の、この世の人に対してすら、己の命、言い換えれば人生の残りの貴重な時間すら、与えて、削って、奉仕して生きるという事を意味します。 


 人の為の生き方はトルストイの最後の生涯の場面が参考になります。彼は聖書に多大な影響を受け、自分は伯爵であり、文豪となり、名声を得ていた。また、大変な財産を持っていたのに、領地にいる貧しい農民の為にそれを分け与え、一介の農民として生きようとした。妻に反対され実際はできなかったのだが、友のために命を捨てるというイエスの言葉が彼をそのような行動に駆り立てたと思われる。結局、反対され何もできなかった。 


 82歳の時、家出して、旅に出、風邪をひき、発熱したので、モスクワから約300キロ離れたアスターポヴォ駅で下車し、その駅舎で最期を迎えた。彼は何もかも捨てて、貧しい人に自分の財産を施そうとした。しかし、妻の反対でできないので、主治医一人を連れて、生涯を終える旅に出たのです。彼は総てを捨て、命まで捨てて、人の為に純粋に生きたかったのだと、私は思う。


 『……、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。……』(歴代志上4:10口語訳)

 災い、災難、それに伴う苦しみ、嫌な言葉です。しかし、現実の世界にそれは存在する。身近な災いの例として、交通事故が挙げられます。誰にでも起きる可能性のあるこの災い。2021年の日本全体の交通事故死者は2,636人。負傷者数は約36万1千人。毎日全国のどこかで起きている。病気になる事も災いの一つだ。その他、家庭内の不和、離婚、親子断絶、友人間の諍い、様々な人間関係のトラブル、あげればきりがない。私達は災いに囲まれて生きていると言っても過言ではない、このうち一つくらいは誰でも経験しているはずです。


 仏教は人生の避けられない苦しみを、生、病、老、死の四苦+愛別離苦・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦 (ぐふとくく)・五陰盛苦 (ごおんじょうく)=八苦と表現している。仏教の根本的な教えは苦集滅道である。「苦」は生・老・病・死の苦しみ、「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境地、「道」は悟りの境地に達する修行。手段は違うが何とか人生の苦しみから救われたいという思いは同じです。 


 人間何でこんなに苦しみがあるのか、それは聖書では罪がこの世に入ってきたからだと言っています。

 災いを免れたい、それは人間なら誰しも思う事です。もし災いを逃れたかったら、災いをもたらす原因になっている、罪をやめることが一番です。原因を取り除かなければ、結果を良くすることはできない。タバコを吸いながら、肺癌を治すことは出来ない。原因を取り除けば、結果も良くなるのです。災い避けたいなら、その特効薬は真面目に生きなさいという事。聖書は、裏を返せばそのように言っているように思われます。

 真面目に生きても、災いが追いかけて来る事があるかも知れない。それなら心からの悔い改めが足りないからだと推測されます。表面的ではなく、神に真摯に向かい合い、心底から、自分の行状を悔い、改めて、正しい行いに立ち返るべきです。

 しかし、行いを改めても、尚、災いが追いかけて来る。それなら、私は、心から勧める。キリストの十字架の贖罪を受け入れ、自分の過去と現在の罪を赦して頂き、十字架の血の功により、神の御前に罪なき者として立たせていただき、心に平安を得なさい。その時災いは、必ずや、あなたを離れ去るはずです。


 『むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。』(マタイ6:20,21口語訳)

 この世の物欲から切り離され、盗まれもしない、さび付きもしない、天に宝を蓄えよ、そのような生き方が、理想の生き方です。私のような凡人は、中々物欲を捨て去ることが出来ないで、理想から、かけ離れた生活をしているのが実情でありますから、誠に大きいことは言えません。イエスが言われたような生き方に、少しでも近づけて行きたいとは思っています。  


 『……、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。……』と共にヤベヅの祈りをしようではないか。事実ヤベヅはそう祈っているのだから、そのように祈ることは大いに奨励されて良い。

 神はその願いを『……聞き入れられた。』(歴代志上4:10新共同訳) 

 『……神は彼の求めるところをゆるされた。』(歴代志上4:10口語訳)とあります。

 『だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。』(マタイ6:9~13口語訳)

 模範的祈りとして、イエスが教えた主の祈りの中にすら、わたしたちが、試練や苦しみに会うことなく、悪しき者がもたらす、災いから守られるように祈る事が奨励されています。

 ある人たちは言う、クリスチャンの品性の完成の為には試練が必要なんだ、私達が罪を捨て、義に生きる為、神はある時には災いをも試練としてお許しになる事があるのだ。確かにそれは、正しい意見で、その通りかも知れない。だからと言って、わざわざ自分から艱難苦難を求める人がいるだろうか。神に対して災いを免れさせ、苦しみを受けさせ無いようにと祈っても良いのです。 


 また、どんなに自分の人生が平安であるように願っても、信仰のゆえに受ける苦しみ、迫害は避けられない。パウロはまだ回心する前、ユダヤ教に熱心であり、クリスチャンを迫害し、多くの聖徒を捕えては、牢獄に入れていた。ステパノが、ユダヤ人によって迫害され、石で打ち殺された時、石を投げる人々の上着の番付きをしていた、と自分で言っている(使徒行伝22:20参照)。

 イエスは超自然的な方法により、ダマスコに向かって歩いていたパウロの前に、光としてお顕れになり、異象のうちに御言葉をおかけになり、直接的力でパウロを回心させ、御自分の弟子とされた。ダマスコのアナニヤに、イエスは『わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。』(使徒行伝9:16口語訳)と言われた。回心後のパウロが、正にキリストの為に命懸けの宣教生涯を送った事は、彼の書いた手紙(そのものが聖書であるが)を見れば歴然としている。 

 パウロも含め、(パウロは13番目の使徒)ヨハネを除いて、使徒全員が殉教死した。ヨハネは天寿を全うし、その墓が今でもエペソにある。『……この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。』(ヨハネ21:23口語訳)ヨハネが死なずに今も生きているのではない。


 横道にそれたが、神はある場合にはヤベヅに許されたように、災いを免れしめ、苦しみを受けさせず、と言う祈りを聞き入れられる。総ては神の憐れみによるのです。『神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。………』(テトス3:5新共同訳)

 ヤベヅは苦しみの人と言う名前の通り、母親がヤベヅを産むとき、十分に苦しんだから、もうそれ以上の苦しみが必要なかったのだろうか?文脈を見るとそのようにも読み取れる。また、彼は、当時としては珍しく、主と共に歩み、主の御霊に満たされ、正しい道に歩み、多くの人に良い感化を与えることが出来たから、災いや苦しみを経験せずに信仰生涯を送ることが出来たのだろうか。

 どうしてある信者には、とても辛い試練、災いが臨む事があり、ある信者には、ヤベヅのように災いが臨まず、苦しみが避けられるのだろうか。この事について、クリスチャンの個々の人生の試練、苦難等については、人生誰でも色々あるとしか、私には言えない。

 しかし、どんなことがあろうと、神の深い愛を信じ、各々の問題を摂理の御手にお委ねするしかないではないか。八王子教会で信仰を共にしてきたY兄弟が、何でALSになってしまったのか、私にはわからない。ただ神の奇跡の業が行われて、癒されるように祈ることしかできない。

 誰しも、辛い経験、災いを経験したくないものです。千年に一度の大震災とそれに伴う大津波で、命を奪われた約2万人の東北に住んでいた人々は、突然の災害が降りかかる事を、予期できただろうか? シロアムの塔の18人の例えを思い起こす。『また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの18人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。』(ルカ13:4,5)

 ただ、私達は神の前に、謙遜になって悔い改め、自己に頼らず、自分の力をあてにせず、総てを、与えて、支配なさっている神にお任せし、1日1日を無事に過ごせるように祈り求め、ヤベヅが乞い祈り求めたように、私達の総ての手の業が祝福され、主の祝福の手が私達と共にあり、私の国境線が拡大され、福音の伝道の意味でも、周りの人に良い感化を与え、(決して、あれでもクリスチャンかなどと陰で言われないように気を付け)主が聖霊によっていつも私達と共におられ、災いを免れしめ、苦しみを受けさせずと毎日、このヤベヅの祈りを唱え、生き方の指標にしながら、主が私のヤベヅの祈りを許されるように、乞い、願い、奉って行こうではありませんか。

 
 
 

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