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⑥R,S,T,U,V聖書の概略とその救い

  • ktanaka33014
  • 2018年12月24日
  • 読了時間: 79分

更新日:2024年8月2日


R,祈り求める聖句

 『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。……』(マタイ7:7口語訳)私が信仰を持ちたての頃、この聖句に出会い深く感動をした。信仰とは全く無縁の未信者の家庭に育った私は、この聖句によって神と出会い、神を体験していったと言えます。

 父なる神に、キリストの御名によって求める祈りの中で、随分色々と不思議な体験をした。信仰を持ちたての若い頃、物質的な物をかなり求めていた時期もあった。もちろん、神は憐れみと愛の神であるから、現世利益的な求め方も、その時にはお許しになり、物質的な祝福が神の存在を体験する強力な助けにはなった。

 全く神を知らなかった私にとっては、神に必要なものを乞い求めて、本当に実現することを見せられることは、神の実在を証明する驚きの体験であった。しかし、そのようなレベルの信仰にとどまってはならず、祈りは成長し、清められていかなければならないと、今は考えています。

 

この聖句の続きの、マタイ7:12(口語訳)を読むと、『……人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。』と言う、有名なイエスの黄金律と一般的に言われている聖句が書かれている。『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。……』の帰結は、むしろ後ろに続く、この黄金律を実行する為ではないだろうか。

 祈りの結果、それが答えられたら、利己的な満足だけでなく、隣人への奉仕、自己犠牲的な愛の行為へと、実を結んでいかなければ、神のみ旨とは言えない。


 『……これが律法であり預言者である。』とはどういう意味だろうか。これは律法の書と預言者の書、すなわち聖書全体がこの一言『……人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。……』に凝縮されると、イエスは言われているのです。


 私が愛したようにあなたがたも愛し合え。イエスが人類の為に命を捨てて愛したように、あなたがたも友の為命を捨てて愛せよ。これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:12,13参照)。

 命は時間に等しいから、神の為、友の為、兄弟の為、隣人の為、自分の時間を削って生きて行きなさいという事なのだ。人生自分のものだと思っていたら大間違い。自分が産まれようと思って産まれて来た人間など一人もいない。誰でも気が付いたら生命が始まっており、命は、両親を通して神から与えられていたのだ。この神に与えられた命を、自我があり、個性があり、自意識がある、それぞれの私という命を、自分の為だけに使うのは、キリストが推奨された生き方ではない。

 命、また命を構成する時間は、自分のものではなく、神に与えられたものだから、自分の為に生きるのではなく、神の為と隣人の為に使いなさいという事です。もちろんそんな力は、人間の本性にはない。人間から、聖書の神の存在と、その倫理面に対する影響を取ってしまえば、人間は利己的で、自分の為に人を踏みつけ、ないがしろにし、自分が良ければそれで良いというのが本性です。

 単に人間的な、肉の奉仕の努力のレベルでイエスの言葉を受け取るべきではない。キリストを信じ、受け入れ、キリストの力に頼って、神と隣人の為に生きよという事です。他の言葉で言えば、他力(イエスの力)によって、このような生き方をしなければ意味がない。意味がないとは言いすぎか、信仰とは関係のない、人間中心の生き方の中で、自力であっても、善いことをすれば、何らかの人助けはできるし、ボランティア活動や、社会奉仕も立派な行いではあります。

 ただ、キリスト教的な意味で、もしイエスが言われた、黄金律的な生き方が出来るとすれば、神を信じ、聖霊によって内側から、造り変えられていくしか方法がない。

 神と出会い、毎日御霊に満たされ、祈り、目に見えないが、心にお宿りになるキリストに、信仰によって結びつけられ、聖霊のお力によって生きていくしか、自分の生きる時間を削っていくような生き方は出来ないのです。信仰の世界の、超自然的な力によって、神の為、隣人の為に力を使いなさいという事です。


 信仰とは関係なく、人間の力、神から離れた努力だけで、人間同士の愛の力を結集させなさいと私は主張しているのではない。そこだけは間違えないようにハッキリさせておきたい。むろん、信仰を除いた世界で、人間同士が助け合い生きて行くことは、それなりに意義のある事であることは、私も社会を構成する一員であり、善いことではないかと評価しているし、そのような福祉的領域で、奉仕しておられる方々を尊敬している。それらの社会奉仕をしている方々の報いについては、公平な審判者である天地創造した神が評価してくださるに違いない。


 さて、祈りの答えられる条件として、祈った内容を信じ切って、疑わないことがあげられます。イエスがエルサレム入場を果たされたその次の日、宿泊していたべタニヤ村から再度エルサレムに入ろうとした時、イエスは空腹を覚えられ、道端にあった無花果の木の実を取って食べようとしたが、まだ季節ではなかったので、葉ばかりで実がなっていなかった。イエスは無花果の木に向かって、今から後実がならないようにと言われた。すると、たちまち、無花果の木は枯れてしまった(マタイ21:18~20参照)。

 『……「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。(マタイ21:21,22口語訳)

 この出来事は、無花果の木に責任があるのではなく、イエスの福音の言葉を受け入れず、実を結ばなかったイスラエル人々が、やがて神から見捨てられ(個人としてではなく、民族として)国家を失い、流浪の民族となって行くことの預言です。

 神に祈り求める時、もちろんイエスの御名によって祈るのであるが、疑わなければその通りになると約束されています。疑わず祈り求めていくことで奇跡が起きる。山に向かって海に入れと言い疑わなければそのとおりになるのです。『……なんでも祈リ求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。』(マルコ11:24口語訳)とイエスは言われた。

 祈りの対象であった何かが、実現してから感謝するのではない。祈った事は実現することを、もはや疑わない。祈りの内容にもよるが、それが神の御旨にかなった祈りであるなら、信仰と結びついて、疑わないならば、もう祈り終わった瞬間にかなえられたと信じることが出来ます。結果を待たないで、実現することを信じ切って、感謝することが出来るのです。

 繰り返しになるが、『……なんでも祈リ求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。』(マルコ11:24口語訳)、とイエスは言われたのです。そんな信仰を神は私達に求めておられるのです。『……もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって「ここからあそこに移れ」と言えば、移るであろう。……』(マタイ17:20口語訳)


 何でもイエスの名によって祈れば神はその祈りにこたえてくださる(①ヨハネ14:13,14,②15:16,③16:23口語訳参照)①②③の聖句の主眼点を考えて見よう。 イエスの名によって祈れば答えられることは同じであるが、その祈りの内容が①②③の中で少しずつ違っている。①『わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」』(ヨハネ14:13,14新共同訳)は、前後関係から、イエスがなさっているわざは、父なる神がイエスのうちにおられて、御業をなさっていることがわかる。イエスを信じるものは、イエスと同じわざをすることが出来るし、もっと大きいわざをすることになる。何故ならイエスが復活後天の父の御元にお帰りになり、そこで父に執り成しの願いをしてくださるからであり、父が子によって栄光をお受けになるためである。イエスの名に願い、何でもかなえられるという祈り①のここでの中心テーマは、わざです。イエスが行ったどんなわざも弟子たちが出来るように、イエスの名によって祈れば、病の癒しを含めたあらゆる奇跡が起きていく約束です。またそれは福音宣教のわざ、かも知れない。もっと大きいわざ、1日に3千人が弟子たちの宣教によって悔い改めクリスチャンになった(使徒行伝2:41参照)と記されています。


 ②は神の御旨は愛の実行であることを強調しています。弟子たちはキリストの御心を知った。故にキリストの友となった。キリストの僕ではない、僕は主人のしていることを知らない。弟子たちは主の御心を知った。友のために命を捨てよと言われるほどの大きな愛を実行していくことがキリストの御心であることを知った。

 キリストは人類の為に命を捨てて愛してくださった。同じような仕方であなたがたも愛し合いなさいと、イエスは私達に向かって言っておられるのです。イエスの御名によって求めるものは何でも父なる神が与えて下さる。それは前述のように、あなたがたが神のみ旨を知り、あなたがたが世界に出て行って、イエスから受けた愛の実を結ぶためなのです。

 祈れば何でも父なる神が与えて下さるが、自分の快楽や、放縦の為にではない。隣人を愛し、愛という大きな実を結ぶために、何でも与えて下さる。②の中心課題は愛の実を結ぶことにあります。


 ③『……わたしは再びあなたがたと会い、……その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。』(ヨハネ16:22,23新共同訳)は復活されたイエスとの出会いが中心課題です。

 十字架にかかってイエスが死んで、墓に葬られた時、この世は喜んだが、弟子たちは悲しみに満たされた。ところが3日後に墓から復活したイエスに再び弟子たちがお目にかかった時、弟子たちの心は喜びに満たされた。そしてもはや、復活というキリストの霊における勝利において、キリストの御名によって祈り求めるならば、総てが与えられることになった。父なる神にキリストの名によって求めるものは、何でも下さることになったのです。

 わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになると言われている中で、最も強調されているのが、『……願いなさい……あなたがたは喜びで満たされる。」』(ヨハネ16:24新共同訳)と書かれているとおり、喜びです。

 十字架で死んでしまったと思っていたイエスに、復活なさった後、再びお目にかかり、さらに父のもとにお帰りになられたイエスが、聖霊を五旬節の日にお送りになり、世の終わるまで共におられるとの約束が与えられた。弟子たちの心は喜びで満たされ、その喜びを奪い去るものは、もはや誰もいないのです。

 試練、辛いことが今後もあるかも知れないが、やがてこの世が終わっても天国に行ってキリストに再び会える(再臨の時)確信は、キリストの霊によって満たされ、尽きる事のない喜びとなって、弟子たちの心を、永続的に満たしていくのであります。

 キリストの復活とその後の弟子たちとの再会、キリスト昇天後のペンテコステの日における聖霊降下は、霊の世界が、この世の肉の世界、物質の世界に勝利をしたことなのです。この物質世界に対する霊の世界の優越性から、求めるものは何でも戴けることになりました。言葉を変えて言うならば、イエスの復活を契機として、霊の命令に物質が従う事になったという事なのです。

 そればかりではなく、驚くことに、その日には(a復活したイエスにお会いした日、b聖霊降下によって、心に内住するイエスにお会いした日)もはやイエスに何も尋ねないと言われています。

 知恵と知識の源である神が、霊をつかわし、あなたがたの内に油(聖霊)がとどまっており、それが教えてくれると言うのです。

 『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(ヨハネ第一2:27口語訳)

 世界の深淵の真理、神の人類創造の目的、御言葉に顕現した神のご計画、今私達のすぐそばにおられる霊のキリストに至るまで、一切の神秘、福音の奥義を油(聖霊)が直接教えてくださるのです。イエスに問う事は何もなくなる程にです。

 更に、父なる神ご自身があなたがたを直接的に愛しておられるのだから、イエスはもはや父なる神に、あなたがたの為に願うこともしないと言っています。


 『与えよ、そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。……』(ルカ6:38口語訳)。神の国と神の義とを求めるならば、あなたに必要なものは全て添えて与えられる(マタイ6:33口語訳参照)

 『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピリピ4:13口語訳)

 キリスト・イエスにあって何でも祈り求めてまいりましょう。

 『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。』(ピリピ4:6,7口語訳)

 『……なんでも祈リ求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。』(マルコ11:24口語訳)


 聖書を広げ、ここにこのように書いてあるではありませんか、ですからその通りにしてくださいと、神に要求しよう。祈りのabc、ask,believe,claimです。

 まず求める、もちろんキリストの名によって。次に疑わず信じ切る、感謝も先にしてしまおう。最後に総ては御名のゆえに約束されているのだから、要求しよう。このように書いてありますと、約束の聖句を心の中で繰り返し、要求しよう。

 もちろん、祈りの内容については、十分注意しよう。御旨にかなっているかどうか、これは大変大事なことであり、祈りが自我によってなされることは避けましょう。自分の利益だけを求めていくようなことに陥ってはなりません。

 『わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。』(ヨハネ第一5:14口語訳) 

 

祈りはそのような上記のような祈りも大事であるが、空極的には祈りの中で、神の臨在を意識し、感じることももっと大事なことだと最近は思うようになってきた。キリストの霊の臨在を味わうこともまた祈りの重要な要素であり、実は祈りの目的ではないかとさえ、最近は思っています。

 父なる神から聖霊がキリストを通して送られ、キリストの霊が、天から目に見えなくても私達の所に来て下さっています。キリストの十字架の功しにより、キリストを通して霊の満たしがあります。私達が祈る時、霊が、私達が知っている三次元の宇宙の天ではなく、次元の異なる天から降り、自分自身がキリストの霊に触れる事が出来ます。


 アバ父よと呼ぶ事の出来る霊(御子の霊)が、私達の霊と一緒になって、私達が神の子供であることを証しして下さいます(ローマ8:15,16参照新共同訳)。

 内なるキリストに、私達の心の中に住んでいただき、聖霊の十分な満たしが与えられます。この経験を毎日継続的にしていくことが、私達をキリストに似た者として、造り変えていくのです。神を賛美し、神に対する献身と、自分の内的な再生を経験していくことが、最も大事な祈りの目的ではないだろうか。

 私達は御霊の臨在を常に意識し、内側から湧いてくるような力を戴く事が出来るはずです。単に自分の肉の力による、この世的な努力ではなくて、私達の内におられるキリストが、総てをなしてくださるという経験をすることが出来ます。

 『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』(ガラテヤ2:20)この御言葉が実現するのです。私の内におられる、キリストが、隣人を愛し、隣人の為に時間を費やしていけるようにして下さいます。 


 パウロはある時祈りの中で不思議な経験をした。彼は祈りの内に、第三の天(第一の天—大気圏、第二の天—宇宙、第三の天—次元の異なる天) にまで引き上げられ、御使いの声を聞いた。肉体を離れてか、肉体があるままに、脳中の幻の中で昇って行ったのか判別できないが、パウロの霊は天国にまで昇って、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです(コリント第二12:1~6参照)。


 こんな経験を私達もしたいものだ。私は、昔、SDA日本三育学院のキリスト教学科で学んでいたが、ある時、誰もいないセミナー教室で、一人で聖書を勉強していた。しばし、本から目を離し、天にいる復活のイエス・キリストを瞑想し、天に思いを馳せていると、不思議な経験をした。突然、心の思いが、しばし地上から離れ、キリストと共に、自分も霊的によみがえっているような感覚にとらわれた。意識を、天に向け、キリスト共に自分も霊的に復活しているのだという感覚を持った。思わず心の中で「アー……。」と言ってしまった程の経験であった。正直に言って、それは、数秒の出来事で長くは続かなかったのであるが。


 弟子たちから執事として任命されたステパノは、その殉教の時、天が開けて『……「ああ、…人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。』(使徒行伝7:56口語訳)


 私達が今、地上にいながら、霊の眼をもって、第三の天を想像することは可能だと考えます。現代においては、パウロのように、幻の内に第三の天に昇るような、現象は起こらない。否、絶対起こらないとは言えない、それは神のなさることだから。しかし、私の霊が既にキリスト共に次元の異なる天に、霊的に引き上げられていると想像するだけで楽しく、幻は見なかったとしても、それは個人にとっては、キリストの霊に触れさせていただく、貴重な時間ではあります。


 でもこんなことを書きながらもヨハネ第一の手紙の2:24,25の聖句が私の心の中に浮かんで来た。それは、あまり異象など求めずに、もっと地道に信仰の道を確実に歩みなさい、と言っているようにも理解できる御言葉です。信仰の根拠を異象等に置かず、静かに、淡々と救いの約束を自分のものとしておきなさいということなのかも知れない。

 『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。 初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一2:24,25新共同訳)

 御言葉にとどまり、いつもキリストと御父の内にいること、すなわちそれが永遠の命なのです。

 個人の救いにとってそのことが最も大事なことなのです。もちろん宣教すること、隣人に親切にすること、友の為命を削り、時間を削って、内なるイエスの力によって愛の奉仕をすることも同様に大事ではあるが。

 愛の戒めを守る事、そうするならばイエスと父はあなたがたの所に住み、その日私があなたがたにおりあなたがたは私の内にいることがわかる(ヨハネ14:15,21,23。ヨハネ15:10,12,13口語訳参照)。友の為命を捨てるほどに、互いに愛し合えというイエスの愛の戒めを守るならば、『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。』(ヨハネ14:20口語訳)と約束されています。


 『…わたしの愛のうちにいなさい。』(ヨハネ15:9口語訳)『…わたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。』(ヨハネ14:23口語訳)

 父なる神と御子イエスが私達の所に来て住んで下さいます。これこそ、限りある命の中で生きている私達にとって、何よりの慰めの言葉です。聖書の言葉、キリストの言葉、神の言葉に拘って生きていきたい。そしてその中にある約束を信じ、目には見えないが、霊にあってキリストと共に居る時間、地上にあっても、父と御子と一緒に住む時間を、出来る限り残りの人生において増やしていきたい。もちろん、許されるなら、イエスの恵みによって、神を愛し、人を愛し、愛の行いと、宣教にも努力して行きたい。


S,救いの現実性

 『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。』(ヨハネ第一1:1~4新共同訳)

 救いの現実性を考える時、いつも思い浮かぶのは、ヨハネ第一の手紙第1章の言葉です。この御言葉が現実性を伴って、私達の鈍い心を啓き、永遠の世界がどんなものか見えてくるのです。


 少し、自分と言うものを考えて見よう。私達、今、どう考えても、この自分と言う自意識のある存在が、この瞬間にいるのは間違いないことです。果たして自分はいつから始まったんだろう?

 人間、産まれてから、しばらくすると誰でも物心がついてきます。2~3歳の時には自意識としての自覚はまだないが、自分と言うものは既にあったのではないか。自分が何をやっているのか、最初に私が覚えているのは、実は、自分は未熟児で、身体が弱く、まともなハイハイができず、いざって、誰かに向かって移動している姿です。そんな事を、今この文章を読んでいるあなたは信じられないだろうが、私はなんとなく覚えています。たぶんそれは1~2歳くらいの記憶である。一番最初に自分が覚えている自分の記憶はたぶん、自分が移動するのにハイハイができないくらい、ひ弱であった私は、止むを得ず座ったまま、もちろん布で出来たおしめをつけて、左の臀部を下にし、左足は曲げて、右足は曲げずに前の方に出して、勢いをつけては、木の黒く塗ってあった台所の床板を、ズリズリ尻でこすりながら移動していた。その後遺症かも知れない。数年前からだろうか、左の腰が痛くなり始め、72歳の現在でも、神経痛とは思うが中々治らない。 


 次に覚えているのは、木の格子に囲まれたベビーベッドの中で、ほっておかれ、出ることが出来ない1歳下の妹がボロボロ涙を流しながら、エーンエーンと泣いている姿です。私は格子の外に立っていて、妹を見て、子供心に、妹は何で泣いているんだろうと、どうしたらいいんだろうと、何度も心の中で、自問自答した事を覚えています。思わず何とか泣き止ませたいと思って、近くの洋服ダンスの小さな引き出しを開けて、中にある物を取り出し、泣き止まない妹の所に持って行った。確かナイロンの婦人物の靴下が丸めてあり、団子のようにしてあった。自分の小さな手に持って、妹をあやすために格子の間から渡したことを、鮮明に覚えている。妹はおしめをしており、妹とは年子なので、私が3歳位の記憶であろうか。そのうちベッドのそばで自分が眠くなってしまい、眠りこけていたら、叔母さんがやってきて、アラ可愛いとか、何かしようとしていたんだとか、言っていたのまで覚えています。本当に不思議で信じてもらえないかもしれないがこの場面はかなり今でも鮮明なのです。 


 随分時間を飛ばしますが、私が中学生になった頃、どうして自分は生きなければならないのだろう、何のために生きなければならないのだろうと考え始めた。真剣に自分は何者で、どうして生きているか、死んだらどうなるのか、考え始めた。その頃、聖書が教えているような永遠の世界があるなどとは、自分の限られた思考からは思いもよらなかった。


 ただひたすら、考えたら何かが発見できるだろうと思っていた。真理が本当にこの世にあるのだろうかと考えていた。自分は反抗期であり、でたらめな生活をしているのに、理屈ばかりこねまわす嫌な人間であった。でも今になって思えば信仰とは無縁な、ただ普通の家庭に育った、この私と言う一人の人間に、神が何かを教えようとしておられたような気がしてならない。自我の確立には、青臭い、何か精神的にもがいて、意味もなく苦しんでいるような時期が必要なのです。結局、考えても、何も分からなかったと言うのが結論です。


 16歳になり都立武蔵高等学校に通っていたころ、倫理社会の先生の影響で、西田哲学の「善の研究」を読み、自己流に自分の部屋で座禅を組んだりして、西田の説く、純粋経験を体験しようとした。16歳の少年に西田幾多郎の哲学など、理解できるはずもなく、ただただ高校時代は、あまり勉強もせず、暗い、悶々とした日々を送っていた。

 自分とはいったい何なのだろう、この自分はいったい死んだらどうなってしまうんだろう、何もわからなくなって、ただ消えてしまうだけなんだろうか。何故、田中清二は始まってしまったんだろう。もちろん考えても分かるはずはなく、時間ばかりが過ぎ去っていった。

 どう考えても、永遠に生きれる世界があるという事は思いつかなかった。ただ自分と言う自意識を持つこの存在が、自分にとって唯一無二の存在であり、自分がいなくなってしまえば何も認識できなくなってしまうんだ。自分にとって、認識できなくなれば、この世界がいかに繁栄していようと、どんなに大勢の肉親や友人がいようと、総ては終わりになってしまう。自分にとってはあってもないと同じだ。そんな様に空虚な考えを抱いていた。ただ自分がここにいるという事だけは確かなことだし、この自分が死ぬという事は、たぶん何もわからなくなることなんだろうから、一体その後はどうなってしまうんだろう。そんな疑問を持っていた。

 しかしどんなに考えても分かろうはずもなく、教えてくれる先生も大人も誰も自分の周りにはいなかった。この素朴な疑問に対して、なぜ周りの大人たちは問題とも思わず、平気で生きて行けるのだろう。人生のこの根本問題を解決しないで生きて行けるのだろう。青春時代に、自分とは何かと言う純粋な疑問を感じていた私は、そんなことを考えもしない人達を本当に不思議に思えた。


 しかしこれらの答えは聖書にあったのです。聖書にしか自分の存在、又常に問いかけて来る自意識の、不思議さと言う問題に対する回答はないのです。実はこれらは、真の神を求める私の魂の叫びだったのです。

 『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。』(ヨハネ第一1:1新共同訳)。イエスキリストは初めからあったものとして書き出されています。イエスは初めから存在していた子なる神であった。イエスはただの立派な行いをした、宗教の創始者ではなかった。イエスは宇宙が出来る前に父なる神と共に、初めから存在し、万物、全宇宙、全銀河、2兆個と言われている全銀河も、キリストによって造られたのです。

 『……つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。』(コロサイ1:16新共同訳)

 御子は永遠の昔から父なる神と共に存在し、万物は御子キリストによって造られたのです。

 この方は、歴史上のある時点、私達現代から振り返れば、今から二千年前のヨハネが生きていた時代に、旧約聖書が預言していたとおり、処女マリアからお産まれになった。

 『…わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの…』(ヨハネ第一1:1新共同訳)と描写されているように、ヨハネの身近にいて、三年半の公生涯の期間一緒に寝食を共にして、親しく触れ合い、語り合った、尊敬する師であり、生身の実在する人間であり、しかも神の御子であった。この方は永遠の命を持つ方であり、命の言葉、神の生きた言葉そのものです。それを信じる私達に永遠の命をお与えになる十字架にかかり、復活したメシアです。

 『この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。』(ヨハネ第一1:2新共同訳)

 今から二千年前のヨハネが生きていた時代に、この永遠の命が現れたのです。人類の歴史はこの為にあったと言っても過言ではありません。もしこの方が歴史に現れなかったとしたら、人類はいまだ真っ暗闇の中にいたはずです。全く救いのない状態にいたことでありましょう。永遠の昔から、宇宙の創造前から御父と共にいた方が、今やヨハネが生活していた時代に出現なさり、人間の輩(ともがら)として人性をお取りになりました。

 この方は永遠の昔から神と共に存在し、御自分の内に永遠の命を持ち、信じるものに永遠の命をお与えになることが出来る方であることを、12弟子達はヨハネも含めて確信し、自分たちの生涯をかけて従って行ったのです。弟子達は、この世の財産も、仕事も、最後には自分たちの命すらも、全てを捨てて、イエスに従いその教えに共感し、全世界へイエスの教えを宣べ伝えて行ったのです。

 私達は確かに、イエスの声を直に聞いた、見た、そして一緒に生活し、その方に手で触れた。この事を証せざるを得ない。あなたがたに伝えざるを得ないとヨハネは言っているのです。(ヨハネ第一1:1,2参照)

 この聖句を読むとき、有限の死んでしまえば、何もなくなってしまうと考えていた自分と言う存在が、実は永遠の世界に入ることが出来る、貴重な存在であることに、気付いてきます。自分も含めて、全ての人に、永遠の世界が待っている、そのチャンスがあるのです。人の命がその存在においてどんなに尊いかと言うことは、信仰に入らないとわかりません。肉のこの世の命を受けたと言うことは、霊の命が始まる出発点なのです。


 青春時代から私の抱いた自己意識の疑問は、自分はその時にはわからなかったけれども、実はずっと、神が永遠の世界がある事を教えようとして、私の心の中に働きかけてくださっていたことだったのです。

 人生って素晴らしいじゃないですか。この世の肉の生活の延長線上に、実は心の持ち方によって、永遠の世界への現実性がある事を理解した時、霊的な目が、自分の目の前に、パット開けて来るのです。

 人間は有限なものであるが、実は有限なものではない。無限に続く何かのファクターを持っているのです。もちろんそれは絶対者である父なる神の存在と、イエスの十字架の犠牲による贖罪の愛、それに続く復活した永遠の命をお持ちになっているイエスを、信仰によって受け入れると言う条件はあります。その条件をクリアすれば、私達死に定められた人間もまた永遠の存在の仲間に加えられるのです。


 どのように私達は、永遠の存在を信じ、自分もその永遠の世界に入れられ、加えられ、確実なものとして体験していくことが出来るのか?それはヨハネ第一1:3~4に書かれている、御父と御子イエスとの交わりによって体験できます。交わりとは、祈りだけとは限らないが、祈りは御父と御子イエスを体験するためには必須条件です。霊の交わりは主に祈りを通して多くの場合得られます。

 他にも、聖書を神の言葉として読むこと、また、『……あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。……』(ヨハネ第一1:3参照)とあるように、クリスチャンとコミュニケーションを取り、信徒の交わりの中に加わることも、大事な霊の交わりであろう。

 また、肉体の癒しや奇跡的な事故からの救出等、神の守りを体験した人は神認識をよりたやすく出来るかも知れません。神との交わりは、あらゆる事象を通して、また多くの場合祈りを通して得られるのではありますが、その最終的な目的は、聖霊によってのみ与えられる、魂の救いに満たされた、深い喜びを得る事です。

 『わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。』(ヨハネ第一1:4新共同訳)

 と書かれているように、心の中に永遠の、尽きる事のない喜びが満ち溢れるようになるためです。この喜びはこの世が与える物質的な喜びではありません。何もなくても楽しくてしょうがない、こんな喜びはこの肉の世は与えてくれません。神と共におられると言うイエスの霊の臨在が与える喜びこそ、本当の喜びです。

 私達の存在が永遠に存在し続けることが出来る存在であることを発見すること、この気付きこそ喜びの土台です。神との生きた交わりの中で生き続ける、これ以上の喜びがあるでしょうか。今、この時に、この確信を持てることが最大の喜びなのです。楽園で失ったものが回復し、最初のアダムが創られたところの立場まで人間が回復される事、罪なく永遠の存在として私達の存在が永遠に存続することが出来る事、これ以上の喜びがあるでしょうか。


 もちろん一時的には、誰でも死んで眠りにつき、イエス再臨の時、復活させていただくまでは、無意識に土の中で過ごさねばなりません。自分が死んでから、イエスの再臨が、何年、何十年、何百年かかろうと、聖書によれば死は深い眠りと同じですから、本人にとってはアット言う間にしか感じられないはずです。死んだと思った次の瞬間には、よみがえらされ、再臨時のイエスにお目にかかれることを意味します。


 結論は、私達は永遠の存在として神と共にその御元で暮らすことが出来るのです。千年紀後の、創り変えられたこの地上が、最終的には天国となるのです。実現した地上天国には、父なる神の御座がおかれ、御子イエスが永遠に人性を取られ、多くのよみがえらされた聖徒と共に、喜びの存在であり続けるのです。


T,その時はどの時

 『……そのとき御子をありのままに見るからです。』(ヨハネ第一の手紙3:2新共同訳)

 御子の動かさざる救いの奇跡、ご自身の命を人類のために投げ出した犠牲、すなわち贖罪の業のゆえに、今私達は、神の前に、現時点ではこんなに罪深く、失敗ばかりして、肉のまだ変えられていない性格を持っているのに、ありのままに、神の前に赦されています。私達の側には何の善い行いもないのに、キリストのなされた贖罪の業のゆえに、ありのまま、そのままで、十字架の影に立つとき、罪なき者として、神の前に立つことが出来ます。生涯一度も罪を犯したことのない者として、正しいものとして、キリストの義の衣で覆われて、あるがままで救われ、神の前に義と認められています。神学用語でこの立場を義と認められる、義認と言う。

 『御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。……』(ヨハネ第一3:1新共同訳)とヨハネは書いています。父なる神は御子をこの世につかわし、人類全部の救いのために、人類の罪の身代わりとして、死に渡されるほどに、この世を愛してくださいました。

 御子イエスは地上において神の御旨を果たし、愛の生活をし、人類の代表として罪のない模範的な生涯を送ったのです。何の罪もない、何の落ち度もない、全く正しく、完全に義であり、愛そのもののお方、イエスの上に、神の刑罰は下りました。人類に注がれるはずの滅びの刑罰を、御子イエスが身代わりになって、全面的に引き受けて下さったのです。

 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。……』(ヨハネ第一4:10口語訳) 

 十字架刑は、とってもつらい苦しみを伴う死刑の方法ですが、御子はそれを苦悩の中に甘んじてお受けになりました。神は全人類の過去、現在、未来の罪を御子に負わせて、十字架でそれを処断なさったのです。ですから、それを信じ受け入れるものは、全ての今まで犯してきた生涯の罪が赦されて、義とされ、何も罪のない者として、神の御前に立たせていただけるのです。

 それは私達が神の子と呼ばれるほどに神は私達を愛して下さっているからです。事実わたしたちは、キリストを全面的に受け入れ、心底から信じている以上、神の子とされているのです。聖書に書いてある通り、私達は今や神の子なのです。

 『……それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。……』(ヨハネ第一3:1新共同訳)

 ハレルヤ!神の子(こんな醜い私が神の子なのですか)は地上にあってはまだ普通の人間ですが、実は御子キリストが間もなく地上に再臨なされ、再び天から出現なさる時、私達は『……御子に似た者となる……』(ヨハネ第一3:2新共同訳)のです。御子と似たものになるってどんな事でしょうか?それはまだハッキリしませんが、御子の中に永遠の命があるように私達にも永遠の命が与えられ、御子に栄光の身体があるように、私達にも栄光の身体があたえられるはずです。


 イエスの御身体は、復活後永遠に人性をまとわれたのです。イエスの復活した身体には、肉体があり、十字架上で、槍で刺された刺し傷もあり、手の平には釘が打たれた傷もあるのです。それは消えることなくずっと記念として残っていると推測されます。またイエスは復活した後、弟子たちの前で、魚を食べられたと言う記述(ルカ24:42,43参照)もありますから、私達もたとえ栄光の身体を与えられても、何らかの食べ物を食べることは間違いないようです。

 また天国にいて罪を犯してはならないのは当たり前の話であるので、この地上にあってもイエスが清いようにこの永遠の望みをイエスに見出している人は、御子に結ばれて、清い生活をするようにと言われています。

 『御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。』(ヨハネ第一3:3新共同訳)

 『……罪は不法である。』(ヨハネ第一3:4口語訳)とあり、法とは十戒にある定めなのです。それは表面的な現行罪を含みますが、むしろ心の動きの方を問題にします。最終的にはキリストによって変えられた人間の、純粋な心から発する、実践的な、かつ積極的な行動愛を求めています。


 例えば兄弟を憎む者は人を殺したと同じであり(ヨハネ第一3:15参照)と書かれているように、現行罪も明らかに神の前に罪ではありますが、それを含みつつ、むしろ心の中が問題です。

 日本の法律は心の中までは取り締まりません。どんなに人を憎もうが、実際に殺さなければ罪には問われないのです。これを内心の自由と言います。でもキリスト教は、心の奥底を罪の根源として問題にするのです。他人を憎まなかった人など、この世に一人もいません。誰でもこういう意味で、私達は皆罪人なのです。生まれついての罪人であり、肉の下に売られているのです。イエスの血によって贖われ、救われなければ、信仰はスタートが切れません。スタートどころか、今まで記述してきた、贖いの概念こそ、信仰のそれぞれの段階で常に意識され確認される事であり、最終的なものであるとも言えます。いつも、信仰のどの段階でも、また最終段階、すなわち死ぬ間際でも、その土台によって常に神の前に受け入れられ、赦され、義認され、救われるのです。 


 キリストと直に『…顔と顔とを合わせて、見…』(コリント第一13:12口語訳)る時がやがて来ます。救いの瞬間を、現実の救いとして体験する時が来ます。そのことが起きる時(世の終わり、再臨の時)、義認されていること以外の立場はありません。キリストの前に立つとき、救いの根拠は私達の側にはありません。例え地上の生活の中で、多少の善い行いをしていたとしても、それはキリストが聖霊を通して私達に働きかけ、させてくださったのであって、自分に誇りはなく、ただキリストの名によって、父なる神に栄光を帰するだけであります。救いの瞬間を迎えても、その時、私達には救いの根拠となるような、善い行いなど何一つありません。総てイエスのとりなしと、功績によって義とされ救われて行くのです。


 『……そのとき御子をありのままに見るからです。』(ヨハネ第一の手紙3:2新共同訳)この時はいつか、第一義的には、この世の終わり、すなわちイエスの再臨の時です。まずこれが何と言ってもその時の第1番目の解釈です。この世が終わる時、もしその時わたしたちがすでに人間としての寿命が尽き、土の中で眠っていたとしても、復活することが出来ます。天地創造の時、アダムを土からお創りになり、神は御自分の命の息を吹き入れられ、アダムは生きた者とされました。同じように、再臨の時に、たとえ私達が土の中に葬られ、文字通り、土に帰っていたとしても、再び土から身体が創られ、神が新たに命の息を吹きかけ、私達は復活することでありましょう。その時、私達は、顔と顔、目と目を合わせて、イエスを見るのです。 


 しかし、主の再臨の時まで生き残っている人達は現実問題として少ないでしょうから、事実上のその時は、私達が息を引き取る時だと考えられます。これが第2番目のその時の解釈です。私達が死ぬ、人生で一番深い眠りに陥る時、それが実は再臨の時なのです。人間、普段は寝る時、恐怖は覚えません。ただ疲れて憩いの休みに、スーッと通常は招き入れられるのです。非常に疲れている時は、寝落ちと言う言葉があるように、アット言う間に深い眠りに、気持ち良く入ってしまいます。それはある意味、祝福であり、気持ち良いことであり、恐怖ではありません、翌朝目覚めることが分かっているからです。

 自分にとっては、死も同じようであると私は考えます。人生最後の眠りも(誰でも迎えるわけですが)、次の瞬間、再臨の場面に移ります。朝元気に、爽やかに目覚めさせていただけるように、再臨の朝が来て、気が付けば、そこにキリストが立っておられるわけです。再臨の朝は、スッキリ、健やかに、永遠の命を受け継ぐ栄光の身体をもって目を開けるのです。ですから、この人生最後の眠りは、はむしろ祝福であり恐怖ではありません。自分が死んでから再臨まで、何年、何十年、何百年かかろうと、死は深い眠りと同じなので、無意識で、墓にいる間は一瞬にしか感じられないはずです。 

 『……「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。………そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。』(ヨハネ11:11~14新共同訳)

 自分が死んだと思った次の瞬間、再臨の朝、目覚める時が訪れます。気が付くと、そこにキリストが立っておられるのです。こう考えると信仰をもって救いの確信を得ている者にとって、死は終わりではなく、さらに新たなる人生の始まりであると言うことが出来ます。永遠の命への門出なのです。本来は悲しむことではなく、真に清められた霊的な目から見たら、祝福のひと時であるに違いありません。この世に愛着がある人はこの世の命が大事ですから、死は絶望であり、悲嘆以外の何ものでもありませんが、キリストを信じる者にとって、死は、次の朝永遠に目覚めるためのしばしの休息に過ぎません。ですから信仰の目をもって、見れば、死は悲しい出来事ではなく、むしろ新たな人生の門出として、祝い、喜ぶべきことなのです。

 ここで、カギとなる言葉は、信仰の確信です。信仰上の救いの確信がなければこうはいきません。自分がキリストにあって、罪赦され天国へ入れるかどうかわからない?そんな状況ではこのような、死生観を持つことはできないのです。自分が救われています、自分がこんなにも、今醜い状態にあろうと、イエスの十字架の犠牲は自分の為であり、聖書の約束によれば、イエスを心の底から信じている以上、今救われています。そう言い切って良いのです(ローマ10:9口語訳参照)。この証があってこそ、死の眠りは天国への門出となるのです。

 

今、イエスを深く瞑想し、心の中でイエスにお会いしましょう。今、キリストの霊、聖霊の神の臨在を感じ、その方を中心にして、意識して生きて行きましょう。今霊的にキリストにお会いしていないで、再臨の時、あるいは眠りにつく時、本当にキリストにお会いできるでしょうか。

 今、自分が救われているかどうかわかりません、義と認められているかどうかわかりません、では、自分の死は眠りであり、次の瞬間イエスにお会いし天国へ入れる瞬間なのだ、と言う確証を持つことが出来ません。信仰の確証、救いの確証を持つのは、今なのです。


 しかしこうは言っても、たとえこのように信じてはいても、不信心な、先が見えない私達にとっては、死は一時的には、忌むものであり、肉親との別れであり、この世の名誉も地位も財産も放棄しなければならない、嘆きの時であることも事実でしょう。家も土地も、財産も、妻も、夫も、子も、孫も、あるは人にとっては、ひ孫も、全て置いていかなければならないのです。人間の情的に言えば、確かに死はすべての人達と、又この世の事柄とお別れする時であり、悲しいことであるのです。

 いくらクリスチャンと言えども、死とは悲しい出来事です。信者の葬式が教会でなされたとしても、皆、教会員は、悲しいし、涙を流すのです。


 亡くなった信者に対して、「天国に入れておめでとう」などと言う人は一人もいません。

 さて、『……そのとき御子をありのままに見るからです。』(ヨハネ第一3:2新共同訳)のその時は、今まで述べてきたように、多くの人にとって自分の寿命が尽きる時と言う意味でしょう。

 ただ例外的に生きたまま、世の終わり、再臨を迎えられる人達もいます。それらの方のそのときは、死を味わうことなく、イエスが空中から降臨なさる様を見て、朽ちるべき肉体が、朽ちない栄光の身体に、キリストの来臨の輝きに触れることにより、終わりのラッパの響きと共に一瞬にして変えられ(コリント第一15:51参照)、『…空中で主と出会…』(テサロニケ第一4:17)う時です。死を一度も経験しないで、天国へ移される人々は、少数ですけれども、必ずいるはずであり、彼らは、誠に祝福された人々です。 


 さらに第3番目のその時の解釈は、聖霊の神が自分の所に臨在し、聖霊によって心に理解力が与えられ、救いの真理を悟った時ではないでしょうか。

 霊に満たされたクリスチャンになる事は、その時を考えるのに、大変大事な要素です。御霊が私達の霊的目を開いてくださらなければ、私達は霊的なことは理解できず、この世的な目は開いていても、霊的には盲人なのです。

 『…「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。』(ヨハネ9:41口語訳)

 聖書が真理として悟ることが出来た事、天地創造や、堕罪、そこからの十字架による贖い、イエスの復活と昇天、再臨、世の終わり、回心による新生経験等の聖書の真理を、絵空事の物語ではなく、真実として、自分の一生のすべてをかけて受け入れるに値する事だと信じれた事、そのものが、自分の知恵や理解力によるものではなく、キリストを通して注がれた聖霊の働きによるものです。信仰のそれぞれの段階〽で、実は目に見えませんが祈り等に応えられて、聖霊が降ってきているのです。『……また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。』(コリント第一12:3口語訳)と書いてあり、常に聖霊は私達を導き教えているのです。 

 『……この油が、すべてのことをあなたがたに教える。……』(ヨハネ第一2:27口語訳)油は聖書では聖霊を指します。聖霊がすべてを教えてくださるのです。

 

イエスの有名な例え話の中に10人の乙女の話があります。10人の乙女がいました、皆信仰のともし火は持っていました。皆信仰は持っていたのです。しかし油(聖霊)の入った壺を、10人の内の半分、5人の乙女は用意をしていませんでした。5人の愚かな乙女達は、信仰のともし火が消えそうなので、油を店に買いに行きました。その間に花婿であるキリストが来てしまい、花婿を迎えることが出来ませんでした(マタイ25:1~13参照)。この聖霊を入れる壺は、私たち自身が毎日、キリストによって、聖霊の油を満たしてもらう事を意味しています。この聖霊の油は売ったり、買ったり、他人に分けてあげたりできないものです。 


 御言葉を離れた聖霊はあり得ません。聖霊は常に御言葉と一緒に行動を共にするのです。聖書は神の言葉であり、聖書を離れた聖霊の働きはありません。聖霊が降る時、そしてそのことによって、聖霊が感化して下さり、贖罪の真理がみ言葉を通して、自分の事として理解できるのです。救いに至るあらゆる真理が分かって来る時、それがその時の第三番目の解釈です。キリストの十字架の救いが、自分のためだったと分かったという事は、実は聖霊がそのように、私達の目を明らかにして、教えてくださったのであって、人間の単なる知性、生まれつきの肉の理解力では、理解することが出来ない事なのです。水と霊によって生まれ変わらなければ、神の国に入る事はできないのです。(ヨハネ3:5口語訳参照)


 その時の第4番目の解釈は、私達が人生の節目〽で神の御業を見せていただいた時です。神が直接、色々な形で、私達の人生に直接関わる時、大きなその時となって私達は驚愕し、神の業を、自分の人生の時間の中で、そのときを経験するのです。顔と顔を合わせてある意味、それは、長い人生の、時間と時間との谷間に、神を垣間見る瞬間だと言えます。

 

例えば個人的な証になりますが、私もまた驚愕すべき神の御業を、若かった頃、自分の人生の一過程、時間と時間の谷間の中に、ハッキリと見せていただきました。もう既に約9年前に故人となった父のために、今から53年前、父も私もまだ若かった頃、私が父の罪の赦しと、魂の救いの為、祈った時、それは起こったのです。聖霊の奇跡、神の臨在に触れることが出来ました。

 父はその頃、アルコール中毒に陥り、母、私、妹は父を家に残し、別の町でアパートを借りて暮らしていました。私が19歳の頃です。その時は既に、私は教会に通っていましたが、父のあまりの酒乱に、子供ながら呆れ果てて、父から電話があったある時、「もう父親とは思っていない」と宣言するほど関係は悪化していました。ところが、八王子教会の長年、長老をしていたS叔父に「それでもお前の親でないか」と諭され、考え直し、ある土曜日の午後、八王子教会の礼拝の出席の後、家に父の様子を見に行きました。自分の家を庭から覗いて見ると、初夏の比較的暑い時期だったからでしょうか、父は泥酔していて、下着一枚の姿で居間から出てきました。もう私は何も言えず、悲しい思いでその場を退き、車に乗って帰る途中、道路の端に車を止め、涙ながらに祈ったのです。神に自分の悲しみを打ち明けました。父の罪を赦してくださるようイエスに懇願しました。すると、次の週の土曜日、父が教会の礼拝に来てくれたのです。礼拝後、勇気を振り絞って、私は教会の一番後方に座っている父の席に行って、父と握手をして「お父さん、よく来たね!」と言いました。後から父が言っていましたが、教会に来た時、まだお酒の匂いがプンプンしていたそうです。教会の玄関の所に父が来た時、たまたまそこに、父をよく知っているUさんがいて、「田中さん、よく来ましたね。」と言われて、ひっぱりこまれるようにして、教会に入ってしまったそうです。また私が教会に来ているとは知らなかったと言ってました。

 それから父は変わりました。好きなお酒をピッタリとやめ、毎週教会に来るようになり、やがて、1年ほどして、その時点で母も教会に行くようになっていたので、父母共に一緒にバプテスマを受け、SDA八王子キリスト教会のメンバーになったのです。S姉妹もその時一緒にバプテスマをお受けになりました。その後、私は、日本三育学院に学び、牧師になり、転勤で5か所ほど教会の牧師をやり、ちょうど10年牧師を続けた後、ある個人的な事情で、聖職を辞し、昭和62年6月23日に八王子横山町郵便局の局長に任用され、平成28年3月31日に65歳で定年退職するまで、28年9か月の長きに渡って同局で局長をしてまいりました。すでに退職して約6年がたち、思い起こすと、実に感慨深いものがあります。


 父は、亡くなる前に、認知症になり、八王子の片田舎にある認知症の専門病院に3年ほど入院し、平成25年10月26日に亡くなりました。私も父も、まだ若く、元気だった頃の、父がキリストを受け入れ回心した出来事を、昨日のように思い出し、今更ながら、「神は私に、又私の家族に不思議な事をして下さったんだなあ。」と感じています。誠にあの時、神は臨在し、聖霊を通してその存在を現わして下さいました。


 その後、様々な紆余曲折はありましたが、 私達の人生の節目〽で、イエスは哀れに思いになり、私達の祈りに応え、救いの御業を、見せて下さいました。私達はその場に居合わせ、神の存在を実感し、神に触れ、度々驚愕するのです。

 ヨハネが言う、『……そのとき御子をありのままに見るからです。』(ヨハネ第一3:2新共同訳)の、そのときの一部をすでに体験しているのです。

 

その時はどの時、の第5番目は、聖霊が私達に宿り、私達が単なる人間的努力ではなく、心の内側から聖霊の神に強められ、聖霊に満たされて、善い事が出来る瞬間です。その時私達は、イエスに目には見えませんが、実はお会いしているのです(ヨハネ第一4:12参照新共同訳)。


 雨が降ったりして歩けない時もありますが、私は毎日健康のために、出来得る限り、約1時間ほど歩くようにしています。以下に、5年ほど前に経験した事を書きます。

 浅川と湯殿川がと長沼町で合流していますが、そこまで歩いて来るのが、一番慣れたコースになっています。ある日の午後、自宅から、その合流点まで歩きに行った帰り、サザンスカイタワーの西側舗道を通り、自宅のある南へ向かい、真っ直ぐ歩いていました。K電業の角まで歩いて来た時 、左手の方から杖をつきながら歩いてきた一人の男性の老人がいました。K電業の10mほど手前で、何かに躓いたのでしょうか、急に倒れてしまったのです。驚いた私はすぐに駆け寄り「大丈夫ですか。」と声をかけ、片手を取って起こそうとしたら、意外にその老人は重くて、すぐには上体を起こせなかったのです。そこへ、たまたま、見ず知らずの青年が通りかかったので、もう一方の、手を取ってもらい、2人で「ヨイショ!」と声をかけて力を合わせて立たせてやると、老人は立ち上がることが出来ました。


 いつも私がイエスの前に引け目を感じていることは、私があまりに利己的な愛のない、人に対する優しさや、同情心のない、人間であるという事です。御言葉に、『……だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16新共同訳)とありますが、命も、また、それを構成している時間も、人のために使えない、捨てきれない私であるのです。

 自分で自分の悪いところばかりが見え、クリスチャンになって51年もたつのに、今だ、自己嫌悪に陥ったりしています。こんな醜い自分、利己的な自分が変えられるよう、悔い改めの祈りはしていますが、中々、自分の心は変わっては行かないのです。


 しかしこの時は、もう聖霊がわたしを動かしたのでしょうか、何のためらいもなく、欲得の感情もなく、ただひたすら、倒れた老人のもとに駆け寄って、助けることが出来たのです。私としてはビックリの経験でありました。もしかしたら神がそのような機会を私の目の前に設け、愛の行いを、無我で、させるよう導いて下さったのかも知れないです。

 何れにせよ聖霊は私達の心に働きかけます。

 『……神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。』(ヨハネ第一3:24新共同訳)

 私達が、変えられ、親切な行いが御霊により無我で出来る、純粋に神のお力によって出来る時もあるのです。この時が、イエスに顔と顔を合わせてお会いする、その時ではないか。イエスの姿を見る、その時ではないだろうか。

 『……彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似る者となることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』(ヨハネ第一3:2口語訳)

 キリストの愛が自然に実行出来る時、その時、キリストは私達のそばにおられ、私達は霊的にキリストを見ているのです。『……そのとき御子をありのままに見るからです。』(ヨハネ第一3:2新共同訳)

 正にその時、キリストの霊は私達を通して現れており、言い換えれば、私達がキリストの手と足となって、この世の人に対して善なる行いをすることが出来るのです。


 肉の努力の奉仕、すなわち宗教を抜きにした、神とは無関係の、人間中心の、ヒューマニズムによる人間的愛の行い、人間の努力だけの善い行いをする事を、私が言っているのではありません。表面的に見れば、人間的な努力だけの善い行いも、霊的に満たされキリストの霊の内住による善い行いも、両方とも同じように見えるかも知れません。どちらも尊いものだとは思いますが、決定的に違うのは、その時がキリストを見る時であるかどうかです。


 キリストに触れ、ありのままに霊のキリストを見て、『……そのとき御子をありのままに見るからです。』(ヨハネ第一3:2新共同訳)の御言葉を体験しているという事なのです。私達からキリストが溢れ出す、こんな強い救いの確信はないでしょう。それはローマ書に書いてある通りです。

 『この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださ…』(ローマ8:16新共同訳)る瞬間なのです。

 それが、そのときなのです。

 『キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。』(テトス2:14新共同訳)、(ヨハネ第一4:12新共同訳参照)

U,墓の入り口を閉ざす岩

『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61新共同訳)

 マタイ27:56にはイエスの十字架を遠くから見守っていた婦人たちが大勢いて、その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子ら(ボアネルゲ雷の子と呼ばれたヤコブ、ヨハネ⦅マルコ3:17参照⦆)の母がいました。 小ヤコブ(イエスの兄弟ヤコブのこと)とヨセフの母マリア(マルコ15:40参照)はイエスの母であり、ゼベダイの子らの母とは姉妹(ヨハネ19:25参照)でありました。ですからイエス、ヤコブ、ヨハネは従兄弟という事になります。

 さて、『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61新共同訳)とありますが、もう一人のマリアはイエスの母マリアであると私は解釈します。

 

この時の状況をよく考えて見ましょう。イエスは不当な裁きによって十字架にかけられ、『すべてが終った』(ヨハネ19:30口語訳)と言って、贖罪が成し遂げられました。全地が暗くなったり、地震が起きたり、死者の墓が開かれ、記念として死者が復活したり、様々な不思議なことが、その時に起こりました。さらに、イエスは全人類の罪がイエス自身に負わされ、神から見捨てられたと感じ、『そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』(マルコ15:34口語訳)と叫ばれるほどの苦しみを味わい、お身体の中で、血漿とリンパ液が分離し、心臓が破裂して死んでしまったと言われています。十字架に手を釘づけされるのは、とっても痛いですが、致命傷ではありません。ある場合には死ぬまで2~3日もかかる場合もあるそうです。イエスが、あまりにも早く、死んでしまったので、本当に死んだか確かめるために、ローマ軍の兵士が脇腹を槍で刺して確かめたほどです。血漿から分離したリンパ液が水のようになって流れたと書かれています(ヨハネ19:34口語訳参照)。ローマ総督ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと、不審に思ったと書かれています(マルコ15:44口語訳)。裕福であり、議員もしていた、イエスの隠れた弟子であった、アリマタヤのヨセフが、勇気を出して、イエスの遺体の引き取りをピラトに願い出て、自分が死んだら入ろうと思って岩を掘って作ってあった、まだ未使用の墓に、綺麗な亜麻布にイエスの遺体を包み葬りました。墓の入り口は、大きな石を転がしておいて、塞いでおきました。(マタイ27:45~60新共同訳参照)


 『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61新共同訳)のです。ローマ軍の兵士も、大勢の群衆も、もはや帰ってしまい誰もいません。皆が墓から去って行ってしまった後、辺りは急に静かになった事でしょう。日も傾き、夕方です。あのゴルゴダの丘での十字架の出来事、日中の喧騒はいったい何だったのでしょうか。大勢の群衆はもう解散し、今は嘘のように静まり返っています。イエスの葬られた墓辺りには、イエスの母マリアとマグダラのマリア以外には、誰もいません。日も沈みかけ、そろそろ安息日が始まろうとしています。


 イエスの母マリアと、マグダラのマリアは、イエスが納められた墓の入り口の、大きな岩を見つめて、悲しみに暮れ、そちらを見つめながら、座っています。今日午後三時頃、十字架につけられ、イエスは亡くなってしまいました。何よりも、誰よりも救い主と期待していたイエスが死んでしまい、岩を掘って作ってあった墓の中に、遺体になって横たわっているのです。午後からの出来事にあまりにも疲れ、もう立ってることすらできません、ただただ座って、茫然と、墓を塞いでいる大きな岩を見つめている以外、二人のマリアには方法がありませんでした。


 マグダラのマリアがどんな気持ちで、この墓を塞いでいる大きな岩を見つめていたか、考えて見ましょう。マグダラのマリアにとってイエスは自分の人生にとって全ての希望でした。イエスと出会う前は罪の女(ルカ7:37)でした。どんな罪があったかは聖書にはハッキリとは書いてありません。でも7つの悪霊に憑りつかれており、イエスはその権威により、悪を犯させる原因となっている悪霊を追い出されました。(ルカ8:2参照)マグダラのマリアの罪は何だったか、多くの聖書解釈者たちによって、古の昔より議論されてきました。7つの悪霊を、7つの大罪と解釈する人もいました。傲慢・憤怒・嫉妬・怠惰・貪欲・大食・色欲です。


 イエスが公生涯を始められた最初の頃、パリサイ人シモンの家をイエスが訪問した時、この町で罪の女と言われていた人が、イエスに泣きながら、後ろから近づいてきて、涙のしずくでイエスの足を濡らし、自分の長い髪の毛でそれをぬぐい、香油を持ってイエスの足を塗りました。(ルカ7:37,38口語訳参照)もしこの女がマグダラのマリアだとすると、イエスの宣教の最初に、香油を持ってイエスの足を塗った事になります。


 パリサイ人シモンは、旅で汚れたイエスの足を洗う水を用意してくれませんでした。しかし、マグダラのマリアは涙でイエスの足を拭き、香油を足に塗って、自分の犯した多くの罪を後悔しながらイエスお迎えしたのです。『……この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。……』(ルカ7:47口語訳)一説にはマグダラのマリヤは娼婦ではなかったかと言われています。パリサイ人が先に天国に入るのではなく取税人や遊女(娼婦)が先に天国に入る(マタイ21:31口語訳参照)との御言葉は本当の事でした。弟子のうち、レビマタイは取税人でした(ルカ5:27参照)。


 また、イエスの親しい友の中にラザロ、マルタとマリアの3兄妹がいました。その中の妹マリアがマグダラのマリアであったという説もあります。(ヨハネ11:1~3参照)

 もし同じ人物であったとすると、ヨハネ12章に出て来る、有名なナルドの香油を、過ぎ越しの祭り六日前に、イエスの葬りの準備として、イエスに降りかけたマリアは、マグダラのマリアとなります。マグダラのマリアは、イエスの宣教の最初にもパリサイ人シモンの家で香油を足に塗り、イエスが十字架にかかる週、過ぎ越しの祭りの六日前に、ナルドの香油を頭に注ぎかけ(マタイ26:7新共同訳参照)、葬りの準備をしたことになります。


 ナルドの香油はおみなえし科の宿根草から作り、 ナルドの乾燥品は、 漢方の甘松香として、輸入されています。少しかび臭い匂いのするもので、ユダヤでは死者への手向けとして塗られたそうです。マグダラのマリアは、イエスの葬りの準備のためにそれを取って置いたと書かれています。(ヨハネ12:7参照)


 そういえばイエスが亡くなった後も、香料 を買いに、マグダラのマリアともう一人のマリアは、安息日が終わってから、夜に、買いに行っています。(マルコ16:1,2参照)それを持って、週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、イエスの身体に香油を塗ろうと墓へ向かって出かけたのです。 


 物語の時間をもう一度逆戻しにして、『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61新共同訳)のところに帰って見ましょう。この時点でイエスは息を引き取ってから数時間しかたっていません。未だイエスは復活なさっていません。生前復活するとの預言は、イエス自身がされていましたが、それを聞いた弟子たちは、マリアも含めてまだ目が開かれていませんでしたので、そのことを悟ることはできませんでした。この時点においては、マグダラのマリアは、全ては失われたと思い込んでいました。大きな墓の入り口を塞いでいる岩を見て、マグダラのマリアは、多分途方に暮れ、涙を流し、茫然自失の状態であった事でしょう。イエスの母マリアと共に、遺体が安置されている方向に向かって、しばらく座っていたのではないかと思います。


 その時、イエスが、自分にしてくれたたことを、マリアは走馬灯のように思い起こしていたかも知れません。自分が最初にイエスと出会った時、自分のしてきた事の後悔の涙で、イエスの足もとを濡らし、自分の髪の毛でイエスの濡れた足をぬぐった事。『そして、イエスは女に、あなたの罪は赦された」と言われた。……イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。』(ルカ7:48,50新共同訳)思いもかけず優しい、愛の言葉をかけて戴いたこと、そんなことを思い起こしていたのではないでしょうか。


 それ以来マグダラのマリアはイエスと、12人の弟子たちが行くところにお供して旅しました。また、多くのイエスにつき従っていた婦人たちがいました。彼女たちは自分たちの持物を持ち寄って、イエスや弟子たちの身の回りの世話をしていたのです。(ルカ8:1~3新共同訳参照)


 ラザロ、マルタ、マリアの三兄妹のうちマリアがマグダラのマリアと同一人物であると言う説をとるならば、マグダラのマリアは、ある時はイエスの話に、夢中になって、イエスの膝元で、何もしないで、聞き入ってしまたこともありました。お姉さんマルタに、何故、妹は接待のお手伝いもしないのかと、これ見よがしに、自分とイエスの前で、嫌味を言われたこともあります(ルカ10:39,40新共同訳参照)。そんな時ですら、イエスは優しくマリアを擁護し、『……「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」』(ルカ10:41,42新共同訳)マリアの純粋な、救いを求める心を優しく弁護して下さったのです。そんな様々な出来事が、あるいは墓を見つめるマグダラのマリアの脳裏に、思い出としてよみがえって来ていたかもしれません。 


 もしイエスの死で、キリスト教が終わってしまったら、今のように全世界にイエスの教えが宣教されることはなかったでしょう。主イエスが十字架にかかった3日後、週の初めの日の朝、天使が、地震と共に、この入り口を塞ぐ岩をごろりと転がし、墓の入り口が開き、復活したイエスが墓から出て来る事になるのです。 


 この金曜日の夕方、墓の方に向かって、座っていた、マグダラのマリアが何を考えていたか、実際の所は分かりません。しかし、イエスの死ですべてが終わってしまつたと思い、悲しみながら、イエスとの思い出を回想し、いったい今までの私の生きがい、イエスと過ごした時間、いったい何だったんだろう、私はこれからまた一人で生きて行かなければならないのだろうか。そんな風に、思っていたかも知れません。


 失意と悲しみの内に、ただイエスが葬られた墓を眺めていただけのマリアに、3日後、イエス・キリストは復活し、一番最初に現れることになります。復活後、最初にお会いになった人間は、イエスの母マリアでもなく、12弟子でもなく、マグダラのマリアだったのです。ヨハネによる福音書には、その時の光景が、鮮やかに描写されています。(ヨハネ20:11~18新共同訳参照)


 彼女は、最初、復活したイエスを園丁かと思って気が付きませんでした。しかし、聞き覚えのある声で、イエスが『「マリア」』と呼びかけると、イエスであることが即座に分かり、『「ラボニ(先生)」』(ヨハネ20:16新共同訳)と返事をしました。その時のマリアの気持ちを考えてください。人生最大の失望から、あの自分が愛したイエスが復活し、又生きて今お会いしている。私のすべての希望であった方が、今私の前にお立ちになっている。マリアは思わずひざまずき、イエスのお身体に触れ、足元に縋り付こうとしました。けれども未だイエスは天にお帰りになっていなかったので、『…「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。……。」』(ヨハネ20:17新共同訳)そして、復活したことを、他の弟子たちに伝えるようにお命じになりました。

 マリアはイエスの復活なさったお姿にお目にかかり、自分の罪が赦されているばかりでなく、自分もやがて復活出来るし、天国でもう一度イエスに、お会いできる希望を持ったに違いないのです。 


 言い伝えでは、事実であるかどうかはわかりませんが、マグダラのマリアと、ラザロ、とマルタの3兄妹は、使徒行伝の時代を経て、やがてフランスのマルセイユの近くのサント・マリー・ド・ラ・メール にたどり着き、マグダラのマリアはそこで宣教をなし、多くの人々をキリストに導き、最後の生涯を、サント・ボームの洞窟を住みかとし、一生を忠実なイエスの僕としての生活を送ったと言われています。その遺体はフランスの北東部にある町メッスのサン・マキシマン教会に保存されており、最近になってその頭蓋骨から、最新のコンピューター技術で、どんな顔であったかが再現されています。しかし、マグダラのマリアの身体と言われるものが、一部の部分も含めて、全世界5か所ほどにあるそうですから、あくまでも伝説だととらえるべきでしょう。 


 さて、マグダラのマリアが、まだ復活したイエスに出会う前は、イエスの葬られている墓の入り口を塞いでいる、大きな岩を見ながら、全てを失ってしまったと思い込んで、失意のどん底にいました。

 私達も、そんな時がないでしょうか。長い信仰生活の中で、いつも活き活きとした信仰を持ち続けられれば一番良い事なのですが、バプテスマを受け信者になったのに、イエスの御姿が、何か遠いものとして、感じられてしまう時もあるのです。イエスの復活されたお姿が、墓の入り口を閉ざしていたような、人生の大きな岩にふさがれて、先が見えなくなってしまうこともあるのです。長い一生の間には、信仰が低迷してしまう時期もあるのです。

 私達にとって、復活されたイエスを見えなくしているもの、墓の蓋である大きな岩は何でしょうか。キリストが復活し永遠の命への希望をもたらしました。『死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、』(コリント第一15:42新共同訳)この希望を、見えなくしているもの、遮ってしまうものは、私たちにとって何でしょう?


 復活されたイエスキリストを見るのを妨げているものは何か、この大岩は何か。ある人にとっては、この世の生活上の思い煩いかも知れません。仕事や、収入や、子供の教育費等の事で、私達は度々思い煩うのです。この世で生活して行く上での、様々な心配事、この世の思い煩い、経済的な事、仕事の苦しみ、健康の問題、親子の関係の軋轢、病気、趣味、宴楽、泥酔、様々なことがわたしたちを、キリストを見させないように働いています。キリストから私達の心を離すものは何でも、この大きな墓の岩なのです。それがどんなものであれ、『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。』(マタイ6:33口語訳)の約束の言葉に心をとめましょう。


 また世の快楽、様々な楽しみが、イエスと私達の間を隔てる大きな岩になっているかも知れません。『この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。』(コリント第二4:4新共同訳)もう、私達を取り巻いている、世の中の煩いを、すべて、心から取り除いて、純粋にイエスを瞑想し、聖霊の臨在を求め、イエスに霊的に満たしていただく、聖霊の満たしの中に憩う、そんな時間を自分なりに持とうじゃありませんか。


 今心を静め、もう一度純粋な気持ちになってキリストを求めて行きましょう。イエスこそ私達の、全てなのです。『……このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。』(コリント第一2:30新共同訳)

 キリストに再びお会いしたい。もしキリストにお会いできなければ、この短い人生に何の意味があるでしょうか。いつかは人間は死ぬし、皆、誰でも最後の時は平等に訪れるのです。こればかりは富める者、貧しい者の差はありません。

 また、今キリストを受け入れ信じていないで、いつキリストをお迎えできると言うのでしょうか。肉とこの世、世の楽しみを、すべてを否定するわけではありません。『……高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、』(テモテ第一6:17口語訳) 

 肉にありながらも(霊と肉は同時に私達の中に存在しているわけですから)(コリント第一15:49新共同訳参照)、キリストの中にキリストの霊を求めて、聖霊の内住と臨在を感じながら、今を生きてまいりましょう。


 まずこの世で与えられた、生まれついたこの世の肉の命が、永遠の世界の入り口であることをしっかり認識しましょう。『つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。』(コリント第一15:44新共同訳)肉に蒔かれて、霊の命が誕生するのです。肉の誕生がなくては、霊の誕生もないのです。別の言葉で言い換えれば、肉の命を受けたという事は、永遠の霊の命を受ける可能性としての機会が与えられたという事です。 

 キリストの十字架の贖いによって、又墓から復活した、復活のキリストに、今心の中で出会う事によって、イエスと私達を隔てている墓の岩の蓋が取り去られます。

 この世的には、全てを失ってしまい絶望のどん底にいる人が、今、いるかもしれません。


 岩の外で眺めていた2人のマリアがそうでした。その時は、彼女らは悲嘆にくれ、総ての希望を失いかけていました。しかし、やがて、イエスと彼女達を隔てている墓の入り口を塞いでいる大岩は取り除かれるのです。人生味わったこともないほどの失望が、復活されたイエスにお会いした時、一瞬のうちに、大いなる希望に変わっていくのです。

 復活されたキリストを、やがて天からおいでになるキリストを、想像し、その方を真剣に、信仰の目をもって見続けましょう。 


 しかし、もっと根本的なことが私達の霊的な目を曇らせているのではないでしょうか。それは私達が持っている肉の生まれつきの性質なのです。何かうまく行けば驕り高ぶり、少しでも贅沢したい、楽をしたいと考え、自分のためにはどんな労苦もいとわずやるが、人の為にはあまり積極的に行動できない、すぐ面倒臭くなってしまう。こんな私達の性質が、イエスを見えなくしているのかも知れません。


 腹が減れば美味しいものを食べたいと思い、また、たまには旅行でも行って、パットお金を使ってみたい、こんな欲は誰でも持っています。『……肉と血とは神の国を継ぐことができない……』(コリント第一15:50新共同訳)良く表現できませんが、イエスを見えなくしている何かは、どうもこの辺にありそうです。私達の生まれつきの肉の性質そのものが、イエスを純粋に見て生きる事を妨げているのではないでしょうか。ではどうしたらいつも十字架にかけられたイエスを、また復活なさったイエスを、希望をもって見続けられるでしょうか。それは十字架と復活の経験を個人的に、霊の体験としていくことにより、わたしたちの生まれつきの性質を、聖霊によって変えていただく以外にはありません。


 以下どのようにしたら自分の古い肉の性質が変えられていくか、その秘訣を書きます。

 コリント第二3:3~18までをまずよく読んで見てください。

手紙は文字によって内容を伝える手段です。コリントの信者は、パウロに言わせれば、パウロが書いた、パウロの生きる手紙である。(イエスによって変えられた霊に満たされたコリントの信者自身が手紙である)文字は人を殺し、霊は人を生かす。石に刻まれたモーセの十戎の文字は死を宣告する務めだ。これは『……律法によっては、罪の自覚が生じるのみ…』(ローマ3:20口語訳)と同じことを書いた別表現である。要するに、罪を指摘し、罪に定める働きが文字の働きである。もはや、イエスを信じ、恵の下にある信者は、そのような律法の下、養育掛的用法の下にはいない。主を仰ぎ見るとき、恵の下に、霊の自由な中にいて、キリスト者の自由を味わうことが出来る。今でも会堂で、律法の書が読まれるたびに、何か自分の肉の努力で、単に表面的に律法を守る事によって救われるのではないかと言う、律法主義の覆いが会衆の心に被せられ、恵の光を遮ってしまう。律法の下にいないとパウロが言っているのは、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいないと言っているとも解釈できる。もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなる。これこそ律法主義である。『…もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。』(ガラテヤ2:21口語訳)


 『…主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17新共同訳)モーセの顔覆いは、私たちから取り去られて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、聖霊の毎日の満たしの中で、イエスにいつも心の中でお会いして、イエスと同じような形に私達は日々変えられていく。これがクリスチャンの生き方だとパウロは言っているのです。

 

『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。』(ヨハネ第一3:16口語訳)とイエスに特別に愛されていた弟子ヨハネは言いました。


 さらに、イエスは『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)と言われました。イエスは人類のために命を捨てられました。私達もそれに倣って命を友のために捨てるべきであると言われているのです。


 ただ、自分の命を守りたい、全ての時間を自分のために使いたいと言うのは、生きて行くための私たちの内にある自然な防衛本能です。根本的な解決は、自分自身を、この肉の保存本能を含めて、キリストの肉と共に十字架に付け処断してしまわなければ変わることは出来ません。


 モーセの蛇を思い出して下さい。旗竿の先に掲げたのは、モーセが作った青銅製の蛇でした。イスラエルの人々が毒蛇に噛まれて苦しんでいた時、モーセがの竿の上に掲げた蛇を、仰ぎ見た人は救われ、毒も無毒化され癒されたという故事があります。(民数記21:5~9)蛇はサタンの象徴であることは間違いありません。掲げられたのが何で蛇だったのか、私は長い間分からなかった。しかしイエスの肉体が滅ぼされる事によって、罪が罪として処断され、サタンが一番罪の誘惑とする入り口であるところの依り代である肉体が破壊された。その誘惑の根本である肉体、依り代としているものが滅ぼされたと考えるなら、何んとなく合点が行くのです。(十字架=釣り針説)


 イエスが十字架で、その肉により、罪を罪として処断なさった時、実は私達の肉もこの時キリストと共に処断され、十字架でキリストの肉と共に、私達の肉も破壊された。このように霊的に解釈しましょう。それでないと中々新しい生き方が出来ない。人の生き方が変わっていかない。罪赦され、救われても、いつまでも肉の誘惑に負けながら、弱いクリスチャン生活を続けて行くことになってしまう。私の罪の誘惑の依り代となっていた、古い肉は滅びた。古い肉をまとった、この世の情と、欲と、自我にまみれた自分がキリストと共に十字架につけられ、葬られ、死んでしまったのです。『あなたがたは死んだのであって、………』(コロサイ3:3)


 さらに次の段階で、キリストの復活にあやかり、新しい命、新生された命に、キリストと共に復活(霊的意味での復活)させられたのです(コロサイ3:1、エペソ2:6参照)。古き自分は十字架にかけられ死んでしまい、もはや私が生きるのではなく、私の内に宿っているキリストが生きているのである。現在の私は信仰によって生きているのです(ガラテヤ2:19,20参照)。

 既に、古い、我欲に迷っている肉の自分が死んで破壊されているからこそ、友のために命を捨てられるのではないか。

 『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。』(ヨハネ第一3:16口語訳)

 『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)


 命は時間に等しい。時間の連続が命を形成している。今瞬間にも命があるが、命を継続して送ることができるのは、時間が継続して持てているからだ。完全に命=時間とは言えない気がするが、仮に、命=時間と考えるならば、友のために命を捨てるとは、友のために自分の時間を少しでも削って行くことではないか。

 それは自分の持っている時間を削る事かも知れない。場合によっては、自分の命そのものを差し出せと言われる時が来るのかも知れない。自分にとって唯一の大事なものを本当に私は捨てることが出来るのだろうか。それも肉欲中心に生きている、肉の塊のような人の為に、この世の人、すなわち新生もしていない人の為に、自分の一つしかない命を捨てられるのだろうか。

 人間的に言えばそれは自分の力では不可能に近い。稀には強固な意志を持っている人がいて、義の為に、大義の為に、あるいは国家の為に、命を捨てられる人がいるかも知れない。

太平洋戦争の末期、カミカゼとなって国家の為に命を捨てた、日本の若者たちもいたのだから。

 でも事自分に関して言えば、正直そんな勇気は持ち合わせていない。自分の残された人生の大事な時間、また命そのものを捨てる事が出来ようか。自分の肉のこの命を、時間も自分の力も、短い残りの人生も、人助けの為に惜しまない、自分の命すら顧みない、本当にそんな生き方が出来るようになるんだろうか?自分の命が一番大事だと思っている、私のような利己的な人間が、そんなことが出来るのだろうか?


 キリストにあって、肉が既に滅びているから、肉の命を捨てられる可能性があります。既に十字架で私の肉が、処断され、既になされているから、捨てることが出来ると信じます。キリストの肉が十字架で処断された時、私の肉も共に処断されてしまったと考えることによって、こんな利己的な私も、友の為に命を捨てられるように変えられるかも知れない。既になされているから、捨てることが出来るのです。神の為、友の為、人の為、隣人の為、自分の時間と労力を割くことが出来るように変えられて行くようになるのです。時間はかかるかも知れないが、やがてそのような生き方が出来るようになって行けると信じています。

 『わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。』(コリント第二10:3口語訳)

 『…もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。』(ローマ8:13口語訳)


Ⅴ,ペテロ再び漁に出る

  『 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。……』(ヨハネ21:3口語訳)

 ペテロは漁師でした。3年半前、イエスが宣教を始めた時、兄弟アンデレと一緒にイエスの弟子となり、その時、父と舟を置いてイエスに従ったのです。(マタイ4:18~22参照)また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、同じ漁師仲間でしたが、その時に弟子に加わりました。またルカによる福音書には、イエスがガリラヤ湖畔で伝道を始めた時、たまたま2艘の小船が岸に寄せてあるのをご覧になり、そのうちのペテロの船に乗って、岸から少し漕ぎ出させ、湖の上から、ついてきた岸辺にいる人々に教を説きました。話しが終わり、沖に舟を出させ、漁をするようにペテロにお命じになりました。ペテロは漁はいつも夜にしていたので大変いぶかりました。日中は漁をしても魚はほとんど取れないことを、経験で知っていたからです。ましてその日は一晩中漁をしましたが、何も取れなかったのです。でもペテロは考えました、この偉い先生がもう一度網をうてと言うのだから、やって見ようと。その結果おびただしい量の魚が網に入りました。一艘の小舟では到底引き上げられない程の量だったので、近くにいた、ヤコブと、ヨハネの舟も呼んで、加勢に来てもらい、網を引き揚げたところ、両方の舟に魚が一杯になり、舟が沈みそうになりました。ペテロはその時、イエスはただの偉い先生ではない、神の子である事を直感的に感じ取り、思わずイエスの膝元にひれ伏して、イエスを拝し、自分の罪深さを自覚し、『……「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。』(ルカ5:8口語訳)と言いました。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはイエスから人間を獲る漁師になれと言われ、舟を岸辺にあげて、一切を捨てて、イエスに従ったのでした。


それから3年半、イエスと共にペテロはいつも一緒に行動し、イエスの教えを聞き、罪の赦しの福音を聞き、病人が癒され、奇跡が行われるのを何度も見てきました。十字架と復活も目の当たりにしていました。

 エルサレムで復活後のイエスに2度お会いした後、ガリラヤに帰ったペテロは突然言い出したのです。 『 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。……』(ヨハネ21:3口語訳)いったい、これはどういうことなのでしょうか?一度網も、舟も捨て、イエスに付き従い、人間をとる漁師になった、すなわち伝道者になったはずのペテロがもう一度、漁師に戻って、網も舟も取り戻して、言わば、世俗の生活に戻ろうとしたのです。


 ペテロはエルサレムで十字架刑の直前の夜、囚われの身となったイエスの後に、大祭司カヤパの庭までついて行き、そこで3度イエスを知らないと言って裏切ってしまいました。その後エルサレムでは2度もイエスが復活してお現れになり、そこにペテロもいました。イエスは12使徒の一人トマスには、ご自分の体すら触れるようにお話になり、『…信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』(ヨハネ20:27新共同訳)とまで強くご自分を証なさいました。復活後、初めて弟子にお会いになった際には『…「聖霊を受けなさい。』(ヨハネ20:22新共同訳)とおっしゃり、弟子たちに息を吹きかけになりました。しかし、聖書の記述を見ますと、この2度、復活後お姿をお現わしになった時、ペテロと何らかの会話をなさったという事は書かれていません。イエスとペテロの間、心の中では赦されていたのでしょうけれども、ペテロの3度イエスを裏切った行為の清算は、まだハッキリとはなされていなかったのです。


 復活後、すぐマグダラのマリアにイエスは不思議なことをおっしゃいました。故郷ガリラヤに行くように弟子たちに言いなさい、そこで再びあなたがたと会うと。(マタイ28:10,マルコ16:7参照)エルサレムとガリラヤ湖ではかなり距離があります(約120㎞)。これは東京から沼津までの距離くらいです、歩いて行くとかなりあります。


 イエスはエルサレムで、ご自身が復活した週の初めの日の夕方と、さらに8日後と2度弟子たちに会っているのですから(ヨハネ20:19,26参照)、エルサレムで会い続ければ良いのに、何故3度目の再会はガリラヤの地を選ばれたのでしょう。最後の弟子たちとのお別れは、エルサレムのオリーブ山でした。又エルサレムに来て、再び40日の間多くの人々にお会いになりオリーブ山のべタニヤ辺り(ルカ24:50参照)からイエスは弟子たちの見ている前で、昇天なさいました。ペンテコステの日に聖霊の降下があったのもエルサレムでした。復活後のイエスのお現われになった中心はエルサレムでした。では何故、歩いて3日もかかるガリラヤの地に弟子たちを一度お戻しになったのでしょうか?

 そこには深い神の御心があったのです。ガリラヤ湖畔は最初にイエスがペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと出会った場所でした。世俗の漁師と言う仕事から、聖なる宣教師と言う仕事に、最初に召し出したところだったのです。


 イエスが十字架刑につく前後、エルサレムでは色々なことがありました。ペテロだけではなく、結局、弟子たちは、皆イエスを見捨てて逃げ去ったのです。(マタイ26:56参照)ですからペテロだけがイエスを知らないと言って、激しく誓ったり、呪ったりして、(マタイ26:69~75参照)イエスを顕著な形で裏切りましたが、他の弟子たちも逃げ出したという点については、五十歩百歩のところがあったのです。ガリラヤへ帰って、最初の召命の所へ戻って、もう一度やり直す必要があったのです。伝道を開始した、原点へ戻って再召命する必要があったのです。


 さて、エルサレムから下って、3日間旅をして、ガリラヤ湖に帰って来ると、ペテロたちはどこに泊ったのでしょうか?懐かしい故郷へ帰ったのですから、当然家もあり、父も母も住んでいる、わが家へ帰って来たことでしょう。ペテロには奥さんがいたこともわかっています。(コリント第一9:5参照)故郷へ帰って来れば、懐かしい、自分が使っていた舟もあれば、網もある。歳を取った父親が、細々と漁をしながら家族を養っている。久しぶりに会った妻もいる、きっとそんな場所に帰って来たに違いありません。突然ペテロは言い出します。もう一度漁に出て魚を取って見よう。ペテロは弟子の中でリーダー的存在でしたから、他の弟子たちも、わたしたちも一緒に行って漁をしましょうと言い出しました。特に、ヨハネ、ヤコブはもともとペテロの漁師仲間でした。ガリラヤへ帰っては来たが、まだガリラヤではイエスとはお会いしてない。エルサレムで二週にわたり2度ほど、復活後のイエスにお会いしたものの、実際イエスは今ここにまだお現れになっていない。結局のところ、人間は、生活のため働かなければならないし、いつまでも歳をとった両親に面倒をかけるわけにもいかない。この漁村でぶらぶらしているわけにもいかない。そうだもう一度漁師に戻って、魚を獲って暮らそう。ペテロはそんな風に思ったのかも知れません。一度イエスの弟子になろうと決心し、世の中の仕事、父、舟、網、生活の道具一切を捨ててイエスに従った者が(ルカ5:11、マタイ4:22参照)また漁に出たのです。生活のためとはいえ、この世の仕事に帰ってしまったのです。しかしイエスは再び弟子達を人間を獲る漁師にしようと計画しておいでになりました。彼らの再献身を考えておられたのです。それは最初の献身の場面をもう一度繰り返すことが、最も彼らのために良いとお考えになったのでしょう。最初から、その計画で、ガリラヤで弟子に会うと伝えなさいとマグダラのマリアに伝言なさったのです。(マタイ28:10,マルコ16:7参照)


 ペテロたちは漁には出ましたが、夜遠し働いても魚は一匹も取れなかったのです。あの、3年半前の夜漁に出た時と、同じ状況です。あの時も、夜通し働いても魚一匹取れなかったのです。ペテロはあの日の出来事を、『……「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。』(ルカ5:8口語訳)と言った事を、まるで昨日のように思い起こしながら、漁を一晩中続けていたのでしょう。


 虚しい、成果が得られない漁を、一晩中続けていたら、早、夜が明けて来ました。気が付けば、朝もやの中にはっきりは見えませんが、岸辺に誰か立っているではありませんか。その時舟は、岸から200 ぺキスしか離れていませんでした。1ぺキス45㎝ですから90mしか離れていません。でも弟子たちにはそれが誰か、最初は分かりませんでした。その人が舟の右側に、網をうってごらんなさいと言われるのでその通りしたところ、大きな魚が153匹も網にかかったのです。そう、三年半前のあの時と同じ奇跡ではありませんか。その時、同じ船に乗って漁をしていた弟子のヨハネがペテロに向かって、『…「あれは主だ」…』(ヨハネ21:7口語訳)と言いました。ガリラヤ湖周辺は、暖かな気候で、五月頃でも、昼間は最高気温35℃ほどあります。上半身裸で漁をしていたペテロは、上着をまとって、 ザブーンと湖に飛び込んで、90m、イエスの所まで泳いでいきました。健康なペテロにとっては訳もないことなのでした。 舟が、重い大量の魚を網にかけたまま、網が重くて舟の上に引き上げられないので、そのまま岸まで漕いで寄せるのを、熱血漢のペテロは待っていられなかったのです。ペテロが岸に着いて、ビショビショに濡れた姿で、イエスにお目にかかった時、何てイエスは声をかけたのでしょう。この場面では最初にイエスにお目にかかったのはペテロです。聖書に書いてはありませんが、泳いで自分の所に、真っ先にやって来た、ずぶ濡れのペテロを見て、イエスは何んとおっしゃったのでしょう。その愛する、荒削りの弟子を見て、イエスは何んと思われたのでしょうか。ペテロ、そのままでは風邪ひいちゃうぞ、ここに火が焚いてある、濡れた衣服を脱いで、乾かし、体を温めなさいとおしゃったのではないでしょうか。これは私の想像です。この場面で、何かペテロとイエスの間に、会話があったはずです。舟が魚で、パンパンになった網を、引き上げることが出来ないで、水の中に入れたまま、岸辺に来るまで、かなり時間がかかったと思いますので、舟が岸に着く間、イエスとペテロが会話せず、黙ったままであったとは考えにくいのです。


 さて岸には、炭火が焚いてあり、魚も何匹かすでに火の上で焼かれており、パンも用意されてました。弟子たちはその時は、ペテロも入れて7人いましたので、魚が足りないので、今獲れた魚から、何匹か持って来なさいとイエスは言われました。また描写から、イエス自らが、パンを裂いて、弟子たちに渡したような感じです(ヨハネ21:10~14参照)。


 食事が終わると、イエスはおもむろに切り出しました。ペテロに向かい、この人たちがわたしを愛する以上にあなたは私を愛するかと。3回も聞くので、ペテロは悲しみに満たされ、私がどれほどあなたを愛しているかは、人の心を見通しになる、神の子であるあなたが一番知っているのではないでしょうか、と言いました。そこにはあの出しゃばりペテロはもういませんでした。主が全てを御存知で、自分がどんなに主を愛しているかも、御存知であると、謙虚に思っていました。イエスはペテロに3度私の羊を飼えと命じ、私に従いなさいと2度言いました(ヨハネ21:15~22新共同訳参照)。


 十字架にイエスがかかる前、兵士達に捕えられた時、ペテロは主を知らないと、鶏がなく前に、三度言ってしまいました(ルカ22:61,62新共同訳)。そのことをほかの弟子たちも知っていましたので、弟子たちの前で、敢えて3度、自分を愛しているか、念を押され、ペテロの罪を清算し、弟子たちの前で、ペテロの名誉を回復なさったのです。それはペテロに対するイエスの思いやりから出た言葉なのです。私の羊を飼えとイエスから3度も直に言われたのはペテロだけです。そしてペテロは、当時の教会の指導者となって行ったのです。


 ペテロだけではありません、誰しも、信仰の過程で、主を裏切るようなことをした経験はあるものです。ペテロは心ならずもそのことをしてしまった時、大祭司の庭から外へ出て、激しく泣いて(ルカ22:62参照)心から悔改めました。イエスはこの事が起こる事を予知して、事件が起きる前に『しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈っ……』(ルカ22:32新共同訳)ておられました。


 私達も、バプテスマを受け、一度はこの世を捨てて、クリスチャンになって、天国への道を、まっしぐらに歩もうと決心しました。ところが、やがて時がたつにつれて、信仰が薄らいできて、この世に帰ってしまう危険性があります。多くの同信の兄弟姉妹が、いつの間にか教会を去り、姿が見えなくなっている、悲しい現実があります。


 私達も、この世の楽しみ、又肉の生活の忙しさに負けて、段々祈りはおろそかになり、聖書を読む機会も減り、全てこの世の思考と、自分の、肉の力のみによる努力によって、神に頼らなくてもやって行けると思い込むようになり、神から離れて行くことがあるのではないでしょうか。自分の知恵と力で、神抜きで人生をやって行ける、神に頼らなくても生きて行ける、私はこれが人間の、また私たち自身の最大の罪だと思います。(自律の罪と私は個人的に名前を付けている)『もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。……』(コリント第二3:5新共同訳)


 私の理想はいつも御霊を求め、生活の中にいつもイエスを意識し、聖霊の臨在を感じながら生きて行くこと、全く自分の力を当てにせず、全てを神に頼り、委ね任せて生きて行くこと、そんな生き方が私の理想です。『……よみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。』(テモテ第二2:8口語訳)


 人生に神を入れる余地のない生き方ほど、神から離れた生き方はありません。実際恐ろしいことに、人間は神無しでもやって行く事が出来るのです。本当に幸せかどうかは分かりませんが、多くの日本人が、無宗教で、それなりに生きて行っているのを私達はそこ、ここに見ることが出来ます。

 自分の知恵や、才能、今までに受けた教育、財産等、ただの人間的な努力だけで生きて行けるのです。神無しの生き方をも神はお許しになるのです。信仰は自由です、神はどんな生き方もお許しになるし、どんな人にも信仰を強制はなさいません。

 ただ寂しいですね、そんな生き方には聖霊の満たしの内的な喜びも、イエスの十字架の贖いによって救われ、罪赦された賛美も、感謝も、永遠の命の希望もないのです。あるのは、自分は、自分の力で立派に生きてきたと言う自己満足だけです。それは自己が自分の力で作物を生産し、その野菜や果物、穀物等の収穫物を、自分の手柄として、神に捧げものとして献上し、神から拒まれた、まさにカインの生き方に似ています。カインは、弟アベルのように、自分の不足を感じ、自分の身代わりに死んでくれた小羊の犠牲を、燔祭として、神に捧げようとはしませんでした。(創世記4:1~5参照)つまり贖罪の必要性を認めようとはしなかったのです。


 一度主を信じたものが、世俗に戻ってしまう。良く目にする光景です。あってはならないのですが、残念ながら、すぐ身近で起きている出来事です。再び教会に、イエスのもとに、戻って来る人もいます、そういう人は本当に幸せな人です。あの放蕩息子の例えのように、父なる神は、放蕩に出て世俗にまみれてしまった息子を、いつも、あの懐かしい、家の農場の入り口に立って(農場の入り口、そこは天国でしょうか、それとも教会でしょうか?)今日帰って来るのか、明日帰って来るのかと、息子が帰るのを待ち詫びているのです。教会も長期にお休みになている方が帰って来るのは大歓迎なのですが、本人はもう、教会の皆様に合わせる顔がない、などと思って、中々戻ってこないのです。


 ヘブル書には、こんな厳しい言葉も書かれています。光の道を歩み聖霊を受けたものが、もう一度この世の中に帰ってしまって、世俗の人々と同じになってしまったら、もう一度イエスのもとに帰る事が出来るだろうか(へブル6:4~6参照口語訳)。しかしこうは言うものの(へブル6:9参照口語訳)もっと恵まれたこと、救いにかかわるもっと良いことが起きる可能性をその後に続けています。神は愛であるから、かつて、イエスの御名を愛し、信じ、献身したことをお忘れになるような方ではないのです。一度イエスから離れ、この世を選択してしまっても、もう一度イエスのところに戻るのは、決して不可能なことではないのです。


 ペテロの厳しい言葉もあります。『…「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る。」……』(ペテロ第二2:20~22新共同訳)私達が捨ててた世俗にも言う一度帰るとすれば、それは犬が自分が吐いたもののところへもう一度戻って来るのと同じだよ、あるいは、豚が飼い主がきれいに洗ってやっても、また泥んこの中に、転がって、体を汚して泥だらけになってしまうのと同じだよ、気をつけなさい、と諭しているのでしょう。 


 確かに厳しい面がる事は認めざるを得ません、しかしそれは私達に対する警告のために書かれたのであって、しっかり信仰に立つようにとの励ましの意味で書かれたと理解すれば良いのではないでしょうか。


 『こういうわけだから 、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。』(へブル2:1口語訳)


 弟子たちの中で、パウロと一緒に働き人として献身するようになった人々の中にも、そんな人もいました。『デマスはこの世を愛し、わたしを見捨てて、テサロニケに行ってしまい、………。ルカだけがわたしのところにいます。……』(テモテ第二4:10,11新共同訳)


 パウロはローマにおり、囚人の身でした。迫害にあったり、ライオンに食べられそうになったり(テモテ第二4:17参照)、困難な目にあっている時、デマスはこの世の方が楽だからと、主の道を捨て、師匠パウロや仲間たちを見捨てて、テサロニケへ帰って行ってしまったのです。


 聖書の中には様々な信仰の道を踏み外した人々が出て来ます。銀貨30枚で、主を裏切ったユダ、虚栄のために、全財産を処分したと偽って捧げ、一部を自分の物として取っておいた、アナニヤとサッピラ夫妻がいました。彼らはぺテロの見ている前で心臓が止まってしまいました。旧約聖書にも、コラの子らと言って、指導者モーセに逆らい、反逆した人々がいました。彼らは悔改めなかったので、イスラエルの人々が見ている目の前で大地が裂けて飲み込まれてしまったのです(民数記16:31~33口語訳参照)。


 誰でも失敗はするものです、そんな時どのようにして主に帰れば良いのでしょうか。失敗してしまった時、救いはどこにあるのか!キリストを離れて救いはないのです。失敗ばかりしてしまう自分を見て自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。しかし自分の側をどんなに自己分析したって救いはないのです。ただイエスの十字架を見上げるだけなのです。キリストとの個人的な関係の中に、いつもイエスのところに帰れる秘訣があるのです。心ならずも罪を犯してしまった時、再び十字架の上でキリストは、私達のために釘打たれ、傷ついているのです。ペテロが裏切った時、主は振り返りペテロを、慈愛に満ちた、優しい赦しの眼差しで見つめられました。その赦しと、慈愛に満ちたイエスの眼差しに触れた時、ペテロは激しく泣いて、自分のしたことを悔い改めたのでした(ルカ22:61,62参照)。主は私の為に再び、傷つき、泣いて下さっている。再び私の為に十字架にかかり血を流されている。そこが私達が霊的に、もう一度生き返るために、帰る場所なのです。罪を犯して、イエスから離れて行ったら何にもなりません。その時こそ、イエスに帰る事しかないのです。私達が常に戻るところはイエスの十字架しかないのです。

 
 
 

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