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⑦W,X,Y,Z聖書の概略とその救い

  • ktanaka33014
  • 2018年12月24日
  • 読了時間: 101分

更新日:2024年8月2日


W,聖所の清めの解釈

 聖書の御言葉をどのように解釈していくかは、自分がどのようにイエスに対して信仰を持っていくか、直接に響いて来る大事な問題です。特に清めに関して、聖化ともいうが、自分がどのような目標を持ち、それに至るように心がけていくかは、その人のクリスチャンとしての、行動にも重大な影響を及ぼします。このような意味で聖句、特に聖所の清めに関する聖句をどのように解釈するかは、大事な問題です。


 セブンスデー・アドベンチスト教会(略してSDA)はカルバリーの十字架による贖罪は、救いの中心であり、福音の一番大事な根幹であると考えているが、キリスト教の他教派にはない、特色ある教理があります。それは、復活し、昇天なさったイエスは、天の宮、父なる神の御許にお帰りになり、今何をしておられるのかと言う問いの答えです。主が昇天なさってから早2,000年の歳月が流れた。イエスが地上生活を終えてから、今まで、天で何をしておられるのだろうか。イエスご自身が、 


 『あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。』(ヨハネ14:1~3口語訳)と言われた。


 確かにイエスが、何もしないで神の御許、天の宮、天の聖所で、お過ごしになっているはずはなく、場所の用意をすると言っておられるのだから、そのままイエスの言葉を信じよう。


 イエスは天の聖所にお入りになり、父なる神の前に出られ、大祭司として、私達のために、執り成しをしておられるのである。

 『今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。』(へブル8:1,2新共同訳)

 『そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。』(ヘブル7:25口語訳)

 『だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。』(ローマ8:34口語訳)

 イエスは天の聖所の中で、大祭司として父なる神と私達人類の間に立って、執り成しをしておられるのです。天の聖所におけるイエスの働き、ご自分の十字架の血を携えて父なる神の前に私達の罪の赦しと清めの嘆願をなさっていることを瞑想することは、二重贖罪になってしまうのだろうか。贖罪の根拠は天の聖所においても、地上のカルバリーの丘で流された、汚れのないイエスの十字架の血潮によるのであるから、それはダブルアトーメント(二重贖罪)にはならない。ただイメージとしてカルバリーの丘のイエスの場面に瞑想の課題と焦点を置くか、それとも、目には見えないが、今天のどこかにおられる、聖所の奉仕をしておられるイエスのお姿に焦点を置くかだろう。どちらも既になされたイエスの罪の贖いによる犠牲を根拠にしているので、それはそんなに大きな問題ではないだろう。 


 イエスは天の聖所にお帰りになられたと言うが、論点を少し変えてみると、イエスは物理的な、天の聖所におられるのであろうか。宇宙のどこかに、3次元的な意味で、そういうところがあって、物理的にイエスはその空間に存在し、奉仕しているのだろうか。私のこれは個人的な理解と感想ではあるが、イエスの天の聖所での奉仕は、次元を超えたものとして捉えるべきではないかと考えています(物理的に天に聖所があって、そこでイエスは奉仕をしておられると考えている人はその立場を尊重したい、あるいはそうかも知れない)。


 宇宙の大きさは、私達の知性では十分に理解できないほど大きい。天の川銀河が属する銀河団は5億光年ほどの大きさで、約10万個の銀河の集団であることが観測されている。ビッグバン理論が正しいとするならば、宇宙の誕生から138憶年たっています。138億光年先に、最も遠い銀河が存在し、しかも、外縁部に行けば行くほど、中心から離れる速度は増しているそうだ。あたかも風船を膨らますように、中心から外に広がり続けているのです。宇宙全体の銀河数は、約2兆個と言われており、一番大きな銀河団は100憶光年もの大きさがあるそうだ。天の川銀河は2,000憶個の恒星から出来ている、わりあい大きな棒渦巻銀河です。星の数など誰もそんなものを数えた人もいないし、数えられるものではない。さらに138億光年先はどうなっているのか? その外側に、果てしも知れない宇宙空間が広がっており、その直径は930億光年であると推測される。やがて、それぞれの銀河が、中心から離れて飛び続け、広がり続ければ、理論的には宇宙はカラッポになってしまうのか。そんな理論もある。しかしそれはまだわからない、ある程度膨張した宇宙は、そのうち収縮に向かうと考える人々もいる。

さらに、物理学者は今、次元の違う宇宙空間が存在する可能性があると主張している。 

 最新の宇宙論にはホログラフィック宇宙論と言って、宇宙の境界面に2次元の情報量(エントロピー)のある場所があり、そこから3次元の私達の住む世界が投射されており、私達のこの世界は仮想現実の世界かも知れないと、途方もない理論を展開している。

 結論を言えば、私達は科学を信奉しているが、こと宇宙論に関しては何もわかっていないのが現実です。


 この宇宙のどこかに物理的、3次元的に、イエスのおられる聖所があって、その限られた物理的空間の中で、2,000年間、イエスが執り成しの奉仕をしているとは、私の頭では、ちょっと考えにくい。3次元の世界ではなく、次元の異なる場所に天の聖所があり、場所と言う言葉が使えるかも甚だ疑問ではあるが、そこにイエスはおられるのだろう、私はそのように、イエスの天における奉仕を理解しています。


 こんな笑い話がある。ある天文学者が、望遠鏡で、宇宙を見まわし、どこにも天国はなかった、だから天国は存在しないと言ったと言う笑い話です。3次元的な視野にとらわれると、こんな風になってしまいかねない。天国の存在は、次元を超えたところにあると私は考えます。この私が持っている天国概念とは、違う考えをお持ちの方もおられるとは思うが、それはそれで尊重していきたい。


 聖所に関するSDA教会の伝統的解釈を申し上げる。結論から先に言うと、1844年に再臨、世の終わりが来ると信じて待っていたキリスト教の超教派的グループが、アメリカにあり、その中からSDA教会は誕生した。もちろん、イエスは1844年に、来られなかった。言うまでもなく世は終わらなかった。

 彼らは、最初、1844年に聖所が清められると解釈し、その聖所は地上を指し、地上が清められる、すなわち再臨、世の終わりと考えたのです。

 

『…二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。』(ダニエル書8:14口語訳)

 この言葉は直接的には紀元前538年に、ユダ王国(南朝)が滅ぼされ、その結果荒れ果てていた、ソロモン神殿の中にあった聖所が2300年後に回復することを意味していたと考えられる(そのようにダニエルが最初は受け取ったの意味)。

 何故、この預言を根拠に、世の終わりが1844年になるのか、その理由、2300の預言の計算は後述する。


 何れにせよ、1844年にキリストが再臨なされなかったので、彼らは預言の解釈がそもそも間違っていたことに気付いた。それは地上の聖所ではなく、天の聖所の事であった。1844年に地上の聖所が清められるのではなくて、天の聖所の清めが開始されたのであると、SDA教会の創始者たちは考え、大失望を克服していった。


 イエスは復活し、昇天後、天の聖所の前の部屋にお入りになり、日々、人類のために執り成しの務めをしておられた。そして1844年に、聖所の清めのため、後ろの部屋、天の至聖所にお入りになった。(あくまでも従前の解釈) 


 ユダヤの幕屋があった時代、地上の聖所の務めに、二つの部屋があった。前の部屋(第一の幕屋)には、日々イスラエルが犯す罪の贖いとして、日々羊が屠られ、燔祭として捧げられ、その血を前の部屋の隔ての垂れ幕のところにふりかけていた。しかし、一年に一度、贖罪の日には聖所の奥の部屋(第二の幕屋)、すなわち至聖所に大祭司が山羊の血(レビ記16:15,16口語訳参照)を携え入れ、十戒を納めてある聖なる箱の上、ケルビムが栄光の姿で覆っていた場所、償いの座(新共同訳)贖罪所(口語訳)に、罪祭として山羊の血をふりかけ、聖所の清めの儀式を行った。一年間イスラエルの人々が犯してきた罪が、聖所の前の部屋にたまっていたと考え、その日は山羊の血を至聖所に携え入れることによって、全ての罪を清める、罪の清算の日だった。その日は贖罪の日と呼ばれ、聖所の清めの日であり、幕屋の周りに集まったイスラエルの人々は、それぞれ一年間の自分達が犯した罪を思い起こし懺悔し、身を悩まさねばならなかった。身を悩まさない者は民から絶たれた(レビ記23:26~29口語訳参照)。

 同じように、天の聖所にも、部屋が二つあり、昇天後、イエスは天の聖所の前の部屋にお入りになり、民のとりなしの奉仕をしておられたが、1844年に、イエスが天の聖所の前の部屋から、後ろの部屋に、お入りになり、天の聖所の清めを開始したとSDAの創設者たちは考えた。罪の清めは、当然調査審判が天において開始された事を意味する。調査することなしに、裁きはあり得ないし、救いの確定は、同時に審判の時でもある。

 『今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。』(ペテロ第一4:17新共同訳)

 『わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、……審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。』(ダニエル書7:9,10口語訳)

 『…「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。』(ヨハネ黙示録14:7口語訳)

 これらの聖句を解釈していく時、教えは理路整然としており、誠に、SDA信徒たる者の、他の一般教会にはない、真骨頂とも言えるべき、天の至聖所における調査審判の開始と言う、他教会にはない、特別な教理の完成であった。 


 自分もまた、若い頃、真剣にこの教えを学び、天の聖所において、既に審判が1844年から始まっており、自分の調査審判はいつ行われるかと思い、厳粛な思いでこの教理を受け止めた。信仰の一過程ではあったが、ある時など胃の痛くなるような思いをもって自分の犯した罪を毎日反省し、神の前に個人的に、祈りの内に告白していた。誰に聞かせるものではない、ただ個人的な祈りの中に神に向かって悔い改め、告白し、祈りの中で日々を過ごしていた。天の至聖所に思いを馳せ、いつ自分の調査審判は始まるのか、毎日真剣に祈っていた。こういう精神状態が良いか、悪いかわからないが、信仰を持つ過程の中で、誰しも一度は経験する事であるように思われる。そして、このような経験は、私の信仰生涯にとって決して無駄ではなかったと思う。しかしその信仰の段階にとどまっていてはいけないと思うように、最近は段々なって来た。そのことについては、後述しよう。

 

前後するが、何故1844年の10月22日に世が終わると考えたか、以下に概略を述べる。

 1844年にアメリカにおいて、ウイリアム・ミラーが起こした、超教派的な大再臨運動があり、多くのキリスト教徒がミラーの計算式を信じ、1844年に世が終わり、キリストが再臨すると信じ、待ち望んでいた。ところが聖書には『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(キリスト)も知らない。父だけがご存じである。』(マルコ13:32)と書いてあるとおり、世の終わり、再臨がいつかは、父なる神の専権事項であり、人間には知ることが出来ないことであった(キリストも知らないことを誰が知り得よう)。


 結局、ウイリアム・ミラーが提唱した1844年10月22日にはこの世は終わらず、キリストは再臨しなかった。

 ウイリアム・ミラーの計算の根拠になる基本は、預言の期間を計算する時、1日を1年としたことであった。『……一日を一年とする……』(民数記14:34)更にダニエル書に出て来る2300の夕と朝の間の預言を2300年と解釈し、ペルシャ時代のエルサレム再建命令を(BC457年)その起点とし、1844年が2300年目だと解釈した。


 ダニエル書には、キリストの初臨がいつあるか、その年まで正確に預言されていた。『 …エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週ある……彼は(メシヤ)一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。……』(ダニエル書9:25~27口語訳)


 ユダヤ人の選民としての期間は、ダニエル書によれば70週が定められていた。『あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。……』(ダニエル書9:24口語訳)1日を1年とすると、70週、490日、すなわち490年がユダヤ人の選民としての期間であった。メシヤが来ても、そのことを認めず、キリストを十字架に架けて殺してしまった当時のユダヤ人達。その血の責任は、我々と我々の子孫にかかってもよい(マタイ27:25参照)と言うことによって、ユダヤ人は選民としての意味では神から見捨てられてしまう。ユダヤ人個人としての救いは今だにあるが、民族としての恵みの期間は70週の預言の終了で終わってしまう。


 ペルシャ帝国のアルタシャスタ王のエルサレム再建勅令(BC457年)から数えて、483年(69週×7日=483日)すなわち紀元27年にキリストは公生涯に入り『メシヤなるひとりの君が来るまで、』の預言は実現した。『その週の半ばに、犠牲と供え物とを廃する』、週の半分、すなわち3日半、1日を1年とすると、プラス3年半後、紀元31年に、今までの犠牲制度を廃された。公生涯の終わりにイエスはご自分が真の神の子羊として、十字架刑につかれた。古代から羊を罪の身代わりとして殺すユダヤの犠牲制度は、本体であるイエスがご自身の命を捧げられた事によって、廃された。『 …エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週ある……彼は(メシヤ)一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。……』(ダニエル書9:25~27口語訳)


 この時ユダヤ人であるダニエルは新バビロニアとそれに続くペルシャ帝国の捕虜になっており、当時ユダヤ王国は滅亡していた。北朝イスラエルの十部族はアッシリアに(BC722)、南朝ユダ王国の二部族(ユダ、ベニヤミン)は新バビロニアのネブカドネザル王の侵略により(BC586)共に滅ぼされ、ユダヤ民族全体は捕囚の憂き目にあっていた。有名なユダヤ民族のバビロニア捕囚です。捕囚の身のダニエルが、荒廃したエルサレム、特にソロモン神殿の再興について、神に祈ったところ、2300年後に聖所が正しい状態に復する、と解釈できる預言が与えられた。『…二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。』(ダニエル書8:14口語訳)


 ダニエルは荒廃したエルサレムの復興を神に願っていたところ、2300年後に聖所が正しい状態に復する、すなわちエルサレムが復興するとその時理解したと思われる。この時、ダニエルの驚きは大変なものだっただろう。2300年もの間エルサレムは荒廃したままほっておかれるのか、このバビロニアの虜囚生活はそんなに長いのか?私達の苦難はそんなに長く続くのであろうかとダニエルは思ったに違いない。


 彼は何とかこの期間が短くならないか、神の約束はそんなことではなかったはずだと思いエレミヤ書を読んだところ、70年後にエルサレムが再建され、捕囚からも解き放たれることを悟ります(ダニエル書9:2参照)。良かった、もしかしたら自分が生きているうちに、エルサレムに帰れるかもしれない、そんな風にダニエルは思ったかも知れません。でもそれにしても、8章の預言が気にかかります、神のみ心が変わったのだろうか、2300年とはどういう意味なのだろうか?そこでダニエルは9章を見ると、必死の思いで、断食をし、荒布を着、灰をかぶって祈りました(ダニエル書9:3参照)。エレミヤの70年後のエルサレム再建の預言は取り消され、神の御旨は2300年に変わってしまったのだろうか?民や自分の罪を悔い改め、なんとかエルサレムの再建を早めていただくことを神に嘆願したのです。その時祈りの答えとして、神から与えられた預言が、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなる君(イエス・キリスト)が来るまで7週と62週あり、さらに週の半ばにメシヤは十字架につき、新しい契約が立てられることでした(ダニエル書9:24~27参照)。実はこの預言は、ダニエルが祈り求めていた目先の70年後の捕囚からの解放、エルサレム再建の事ではなくて、2300も、69週も世の終わりのことに関する預言だったのです。『「人の子よ、悟りなさい。この幻は終わりの時にかかわるものです」。』(ダニエル書8:17)

 

十字架後の3年半の期間はユダヤ人に対して弟子たちが聖霊のバプテスマを受け、大変な勢いで宣教活動をした結果、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗し、救われた期間です。ところが3年半後、70週の預言が終わる時、『あなたの民と、あなたの聖なる町(エルサレム)については、七十週が定められています。』(ダニエル書9:24口語訳)の言葉どおり、キリスト教会の敬虔な執事であったステパノが、ユダヤのサンヒドリン議会に呼び出され、議会の中で、立派な信仰の証をした後、外に連れ出され、石で打たれ、殉教死したことをきっかけとして、ユダヤ国内でクリスチャンに対する大迫害が始まった。この事件においてユダヤ人に定められた期間70週は終了し、ユダヤ人は選民の資格を失ったと考えられます。


 エルサレムを建て直せという命令は、ペルシャ王によって、何度かなされていますが、最も大々的で、有名なのが、アルタシャスタ王の再建勅令で、紀元前457年に出されたので、この預言の起算点とします。その起算点は、前の章ダニエル書8章の、2300年にも適用できる。何故なら、9章の答えは、8章の2300年に関するダニエルの、そんなに長い間、聖所が、エルサレムが、荒廃し、捕囚が続くのかと言う、神に必死に祈った結果として与えられた預言だからだ。その事に気が付き、8章の2300年の起点を、9章のエルサレム再建命令としたのがウィリアム・ミラーの着眼点であった。『…二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。』(ダニエル書8:14口語訳)この聖句解釈から、エルサレムを立て直せの命令が出たBC457年を計算の起点とし、1日を1年とすると、2300年後は1844年となる。聖所を地球と解釈し、その当時の解釈で、地球が清められる、すなわち世の終わり、再臨となりました。この年キリストが再臨なさると多くの人が信じて、キリストの再臨を待っていたのであります。


 ユダヤ神殿の中にあった聖所という場所で、聖所の清めの儀式が一年に一回あり(贖罪の日)(レビ記23:27参照)、それがユダヤ歴7月10日であり、西暦に直すと10月22日あたっていたことから、1844年10月22日に再臨を待っていたのです。その数、約10万人の人々がキリスト教各派から集まっていたといわれています。


 もちろんキリストは来られなかった。『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(キリスト)も知らない。父だけがご存じである。』(マルコ13:32)と書いてあるとおりです。


 その後、天にも聖所があることがわかりました。『…(大祭司たるイエス・キリストが)天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。』(ヘブル8:1,2)


 地上の聖所は天の聖所のひな型に過ぎなかった。事実、紀元70年のローマ軍によるユダヤ神殿の完全な破壊により、当時も今も、聖所は地上に存在していなかった。キリストの預言通りです。『…「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」』(マルコ13:2新共同訳)神が発せられた言葉は、必ず実現していくことが、ここからもわかります。


 ユダヤの神殿は今に至るまで再建されていないし、現在のエルサレム市内に〝嘆きの壁〞として、ソロモン神殿のほんの一部が残っているに過ぎない。ローマ帝国は徹底的にエルサレムを破壊し尽くしたのであった。


 以上の理由で、聖所の清めは、地上の聖所(地球)のことではなくて、天の聖所のことで、1844年から天において真の大祭司キリストが、清めの働きを始められたのだ。これが清めの段階と解釈され今に至っている。


 さて、ここで本論に戻ろう。万全自若と思われたこの聖所におけるイエスの清めの働きのSDAの教理にも、今から40年程前に変更が加えられた。イエスは昇天後、天の聖所の前の部屋か、あるいは至聖所と呼ばれ後ろの部屋かどちらに入られたのだろうか?ある学者の提議により、真理の更なる探究が行われた。イエスは昇天後、聖所かその中の至聖所か、どちらの部屋にお入りになったのかと言う根本的な問いです。ヘブル書、9章10章を本当に前提条件なしに、心をクリアにして読んで見ると、ここで言っているイエスのお働きは、日々のとりなしを象徴している前の部屋か、一年に一度行なわれる至聖所の奥の部屋か、自ずから分かって来ます。まず自分で読んで見ることが大事です(ヘブル9:23、10:20、9:7,8参照)。


 そこここと読み進めると、どう考えてもヘブル書は、昇天後イエスは、天の聖所の後ろの部屋に直接2,000年前にお入りになったと読み解けるのです。一般の教会の方々にはこんなことどうでも良いのだろうが、SDAの信徒には大変な問題です。ではあの1844年の大再臨運動はいったい何だったのか。もし最初から天の至聖所にイエスがお入りになられていたとしたら、私達の信じてきたことはいったいどうなってしまうのだろう。しかし、すべての教理は聖書の御言葉に照らし合わせて行かなければならない。言うまでもないが、聖書、神の御言葉が教理の基本なのです。そこでSDA教会の教理のこの部分に重大な変更がなされた。イエスは昇天後、天の至聖所に直ぐにお入りになった。そもそも場所的な聖所、至聖所と言うようなイメージ、前の部屋、後ろの部屋と言うイメージではなく、イエスは天の宮に帰られた後、父なる神の前に立って1844年までは主に執り成しのお働きをなさっていたが、1844年からは、いよいよ終わりの時が来て、清めのお働きを中心に開始なさったのだ。それは調査審判を含むお働きです。場所と言うよりも、働きの種類、場面、段階の問題です。そのような変更解釈がなされた。残念ながらこの問題で当時SDA教会内で混乱があった。


 さて以上のことを踏まえた上で、私の解釈を述べるが、絶対正しいなどとは思っていないので、こんな考え方もあるのかと参考にしていただきたい。

 まずヘブル書9章10章を自分なりに読んで見る。そこに出て来る第一の幕屋、第二の幕屋、聖所、至聖所の表現を読むと、明らかに昇天後イエスは本体である天にある神の宮、すなわち至聖所に入り、十戒の納められている箱の上、ケルビムで覆われた償いの座に、ご自身の血を振りかけたであろう。もちろん、これは象徴であって、この幕屋は今と言うときの比喩であると書かれてある通り(へブル9:9参照)どこまで地上の第二の幕屋と、天の至聖所とを、そこにある調度品を含めて文字通りに適用するかは微妙なところがあります。


 昇天後イエスは、天の至聖所、すなわち後ろの部屋に入られたことは、以下の聖句で充分な証明になる。

 『わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。』(へブル6:19新共同訳)

 祭司が第一の幕屋にいる時は聖所への道が開かれていない(へブル9:8参照)、第一の幕屋と第二の幕屋を隔てていた、垂れ幕があった。この隔ての垂れ幕は、イエスの肉体を象徴していた。

 第一の幕屋との間の垂れ幕、つまりご自分の肉を通って(イエスの犠牲のお身体)新しい生きた道を開いてくださった、の表現で、イエスは昇天後、天の至聖所にお入りになった事は確定されたと考える(ヘブル10:20参照)。


 問題はへブル10:3の罪の記憶がよみがえる問題である。羊を燔祭として捧げることは、日々の奉仕として、毎日前の部屋で行われていた。一年に一度、大祭司が至聖所に、山羊の血を携え入れ、償いの座に降りかけ、一年間の罪の清算をした。聖所の清めである。ユダヤ歴7月10日に行われた贖罪の日である(レビ記23:27参照)。それでも決して、罪を清め、民から罪を完全に取り去ることは出来なかった。雄牛や雄山羊の血は罪を取り除くことが出来ないからである。(へブル10:4参照)罪の記憶は毎年よみがえってくるのです。


 ただ一度イエスは血を流すことにより私達は清められた(ヘブル10:10口語訳参照)、ただ一度キリストの体が捧げられたことにより私達は聖なる者とされた(ヘブル10:10新共同訳参照)。キリストの血は聖なる者とされた人々を、永遠に完全な者になさった(ヘブル10:14新共同訳参照)。

 キリストの尊い血によって、贖いが完全に全うされたのなら、罪の記憶はなくなり、良心の咎めもなくなるはずではないか、と言う問いがこれらの聖句の根底にはあります。 


 聖書の中に、審判の概念は確かにあります。

 『……審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。』(ダニエル書7:10口語訳)、

 『…「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。』(ヨハネ黙示録14:7口語訳)

 『そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、』(ヘブル9:27口語訳)

 しかしながら、イエスの昇天後、天の至聖所で、イエスの汚れなき血によって完全に清められたのであるなら、救いと審判がそこで完成されていたと考えて良いのではないか。これはあくまでも、私の意見です。

 聖書の時間概念は特別な物です。ヘブル書が書かれた時代も世の終わりでありましたし(ヘブル9:26参照)現在の私達の生きている時代も世の終わりです。いつもその時点で、世の終わりです。キリスト教信仰を持った人々は、過去から現在に至るまで、使徒たちや、私達も含めて、皆が、それぞれの生きていた時代を世の終わりと捉えてきたのです。使徒時代は世の終わりの始まりであり、それから中世、近代に至るまで世の終わりは継続しており、今私達が生きている現代は、世の終わりの、終わりです。最終的なジ・エンドの世界です。


 そこで、世の終わりに起きると考えられてきた調査審判も個人的な裁きも、イエスが神の宮にお入りになった時、すでになされた完結したと捉えることは行き過ぎだろうか。これは私の個人的な理解であるが、昇天後、イエスが天の真の至聖所、神の宮に入られた時、裁きも、個人に対する調査審判も、既にその時点で、完成されてしまったのではないか。


 だから、心は清められて、良心の咎めはなくなるはずであり、真心から神に近づけるはずです。

 『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、』(ヘブル10:19口語訳)

 今ここで、救いの確信を持てるはずです。イエスの血は確かなものであり、良心の咎めも取り去り、罪の記憶も消し去られ、信仰の確信、救いの喜びに満たされて、イエスの肉体なる垂れ幕を通って、真心から神に近づいて行けるのです(ヘブル10:19~22新共同訳参照)。これがヘブル書の中心テーマです。


 ところで、罪の記憶は生涯個人の心からなくなることはないとは思う。それは既に赦されたもの、赦しの保証のある記憶であって、それらは真摯な悔い改めと、神のみに対する告白によって清算されたものであり、刺すような、胸の痛みを感じるような罪の記憶ではないと私は考えます。


 繰り返しになるが、もう一度確認しておこう。ユダヤにあった地上の聖所は1年に一度聖所の清めの儀式を行い、その日は調査審判の日であり罪の清算をする日であった。キリストはこの時代の終わり(ヘブル書が書かれた時代)十字架刑におかかりになり、復活し、40日後昇天し、天にお帰りになり、その汚れなき血潮、傷のない者として捧げられた肉体をもって、父なる神の前に出てくださった。一度だけ、天の至聖所でご自身をささげられ、私達を聖なる者とされた(ヘブル10:10参照)。聖なる者とされた人々を完全な者とされた(ヘブル10:14参照)。心は清められて良心の咎めはなくなり、真心から神に近づける(ヘブル10:22参照)。


 イエスが天の至聖所に入られた時点で、調査審判も裁きも根本的には全うされていたのではないか。イエスはヨハネによる福音書の中で、裁きについて、何んと言われただろうか。

 『また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。』(ヨハネ5:22新共同訳)、『………信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24新共同訳)、『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。』(ヨハネ3:18新共同訳)。私達の裁かれる姿は、御子の悲惨な御姿です。犠牲は完全であり、御子ご自身の十字架上の御姿は私達の裁きの姿です。

 神にとって時間は何千年であろうと一瞬です。十字架にかかり、復活し、昇天なさり、天の至聖所にお入りになったイエスは、私達に対して、一瞬のうちに裁きも、調査審判も完成なさたのではないか。

 人間が作ったスーパーコンピューターですら、あっという間に、兆の単位の計算をこなす。まして、神にとっては時間は有って無きが如きものです。80億人の人類の調査審判などあっという間にできるに違いない。

 ただ人間はそのことを理解できないので、聖書は、私達にわかるように描かれているのではないか。


 死後裁きがあるのは事実であろう。

 『なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。』(コリント第二5:10新共同訳)

 『善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。』(ヨハネ5:29新共同訳)。

 そして死んだときにはすべてが確定しているのです。死は眠りであり、私達は死の眠りを迎えたら、その後は無意識になり、眠り続けるだけです。死後はたとえ裁かれようと、私達は自分の裁きに関与することは出来ません。死んだ後は、次の瞬間、再臨の朝に眠りから起こされるのを待っているだけです。裁きは私達が生きている間に決定されていると言っても過言ではない。私達が自分の裁きに関与できるのは、私達が生き存在している、今以外にないのです。主はいつ私達を裁かれるのか?

 こういう意味では今です。今生き、行動している今が、私の裁きの時です。死の瞬間、裁きは確定しているとも言えます。もしそうなら、裁きが自分にとって意味がるのは生きている時だ、そうだ、今なのです。今悔い改め、神の前に裁いてもらおう。『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。』(ヨハネ3:18新共同訳)とはそういう事ではないのか。


 調査審判が行われるとすれば、やはり生きている時しか意味がないのではないか。死んでしまって、やがて自分も、世の終わり、再臨の時には復活するんだろうけれども、その時自分は何もできないのだから、結果を甘んじて受けるしかない。裁きも、永遠の命を戴くことも、自分が生きてその結果を変えられることにこそ意味があります。変えられない裁き(死んでしまった後は自分の裁きに関与できないのだから)はあまり意味がない。今結果を変えられるからこそ意味があるのです。そういう意味で調査審判が行われるのは今です。キリストの十字架の死、そのシミも傷もなく汚れもない尊い犠牲のお姿は、私達の裁きの姿だと前述した。イエスが十字架で苦しまれたお姿は、まことに、私達自身の本来の裁きの姿なのです。2,000年前あの瞬間に、私達の裁きは済んでいたのです。この事が土台です。この土台を、今と言う私達の生きている瞬間に、調査審判の概念を、敢えて赦されていることを前提にしながら適用するのです。 救いは完成されているが適用は今なのです。この瞬間、天の至聖所どころか、地上の私達の肉体の中で、言わば私達は、この肉体が神の宮(コリント第二6:16参照)なのであるから、この肉体の聖所の中で裁かれるのです。ということは私達の行動も心の持ち方も、今、調査審判され、裁かれているのです。


 調査審判は今です、その適用は今です。私達の行いは裁かれるのであろうか。然りであり否でもあります。もう救いはヘブル書によれば完成されたのです。終わりの時代に(2,000年前も、現代も聖書では終わりの時と言っている)に、ただ一度だけ至聖所にキリストはお入りになる事によって贖いは全うされ、調査審判も裁きもそこで完結したのです。しかし、実際の調査審判の適用は、今生きている今日の自分の信仰と行動のすべてが対象です。


 ヘブル書の中心テーマを何度も強調しておきたい。救いは完成され、罪の記憶すらイエスの血によって拭い去られた。このような大祭司が私達のために、御自分の幕なる肉体を通って天で、神の前に出て下さっているのです。御自分の贖いの血をもって、天の至聖所を、ただ一度だけ清めて下さった。新しく、父なる神に至る道を開いてくださった。ですから、心はすすがれて良心の咎めを取り去り、確信に満たされて、信仰の道を進んで行こう。そして11章の信仰とは何かの章に読み進めて行こう。信仰がなくては、今まで述べてきたような、こんなに素晴らしい神の恵みを、理解し、自分のものとして、受け取る事が出来ないからです。


 私達が、真剣に信仰の時間の中、イエスに結ばれている時、常に贖罪は完成されているのです。そして救いを確信しつつ、日々を過ごして行こう。やがて空からキリストが来臨なさるとき、自分が死んで眠りについている場合は(ほとんどの場合そうだと思うが、あるいは生きたままキリストの来臨の目撃者になる方も、読者の中にいるかも知れない)その死の深い眠りから、土の中より、起こされて、この目で主と再会し、初めてイエスのお顔を仰ぎ見ます。キリストと直に『…顔と顔とを合わせて、見…』(コリント第一13:12口語訳)る時、それが永遠の命の始まりです。それからズートキリストと共におり、私達には不明なこと分からないことは一切なく、宇宙のすべての神秘も、永遠の時間の中で、究めることが出来ます。神の深い贖罪の摂理をも究めて行くことが出来るのです。イエスと父なる神と聖霊の、くすしい御業を褒め称えながら、賛美は永遠に続いていくのです。広大な救いのスペースドラマがさらに展開していく。そのような希望を、今私達は共有して行こう。


X, 時間て何だろう

これは聖書研究から少し離れた、私の随筆です。

時間について、少し考えて見たい。時間て何だろう?正直言って、自分も良くわからない。

二ュートン物理学的に言えば、時間は一定方向に流れていて、決して変質したり、逆流したりすることのない、一定、不変のものです。しかしアインシュタインの一般相対性理論によれば、時間も、速度によって影響を受けます。また重力によっても影響を受けます。

 物理学的な事はともかく、私が不思議に思うのは、時間を、人は皆、共有し、その経過を日々体験しているのに、その実態を誰もつかむことが出来ないということです。

 時間は色も形もなく、無味無臭、見ることもできず、ただ刻一刻と過ぎて行く。時計があるから、秒針を見れば時間が、カチカチと過ぎて行くのが見えているように勘違いする人がいるかもしれない。それはスケールとしての時間、メモリーとしての時間であって、時間そのものを見ているわけではない。


 意識と時間も密接です。私達は、生きているならば誰でも、自分と言う意識がある。意識がない、人間はいないだろう。この意識があるからこそ、人間は普通に生きたいと思うし、できたら、幸せでありたいと思う。

 自意識、自我、とにかく今意識できる何者かがここにいる。この意識の継続がなくては、また時間の継続も認識できない(意識から、離れた真に客観的な時間もある事はあるだろうが、その種の時間は認識できない)。意識と時間は個人にとって常につながっています。意識、自己、がなければ時間を考え、認識することは出来ない。


 また、常に現在だけが、過ぎて行くのが時間の特徴です。過ぎてしまえば、1秒前にも戻ることは出来ない。もし戻っていると錯覚しているならば、それは記憶の中で、もう一度再体験しているだけです。時間は戻らず、常に現在であり、前へ前へと進んで行く。実に不思議な、把握の出来ない、何かなのです。

 では時間は存在しないのか、そんなはずはなく、今この瞬間にも私達は時間の中に居て、刻一刻と時間は無情にも無機質的に過ぎ去って行く。但し、時間は存在しないのだと考える人もいるようです。


 時間て何だろう。考えても考えても分からないし、結論も出そうにもない。考えることをやめようか?でもやがて私が眠り(死)につく時、私にとっての時間はそこで停止してしまうのだから、今時間を体験し、実感できているこの時に、ある程度時間に関する思索を深めておいた方が良さそうだ。

 1秒前の時間と10年前(20年前、30年前でもよいのだが)の時間に本質的な差はないように思われます。過ぎ去って過去になって、それらはもう永遠に帰ってこないし、同じ体験をすることは出来ないのだから。こうは言っても1秒前の時間と10年前の時間には理論上ではなく、経験上何らかの差があるような気がします。それは1秒前の時間は意識の連続の中ですぐ追体験できる点です。こういう意味で意識とは(記憶も含めて)、何秒間の時間の経過の中で存在していると言えよう。脳細胞のシナプスの中を、意識が、弱い電流として行ったり来たりしてるのだろうか?生科学的な事は私にはわからない。


 1秒前の時間と10年前の時間には何らかの差があるのは、置かれた状況、環境が変化し、すぐ再現出来るか、出来ないかの違いかも知れない。1秒前の時間はすぐ再現できるし、環境、状況の変化もない、意識も数秒は連続しているものだ(あるいは数分かも知れないが)。

 ところが10年前の時間にはすぐ戻れない、いや絶対戻れない、タイムマシンがない限りは。10年前の時間に戻ると言う事は、記憶の中で思い出としてたどる以外に方法はないのです。その時の感情も、意識も、環境も、置かれた状況も、現在とは大部変化してしまって、同じ体験をすることは出来ない。せいぜいアアあんなこともあったなあと、懐かしく振り返るぐらいであろう。

 今と言う意識の連続が時間認識の最先端とするならば、時間とは数秒か、あるいは数分か、意識が連続する中でしか捉えられない物なのかも知れない(客観的な時間ではなく、主観的な時間という意味であるが)。

 自分の周りの環境が変化せず、自分のしていることに連続性があり、状況も、感情も、置かれている立場も一定であるならば、それに付け加えて、たとえ長時間であっても同じような気分と意識を持ち続けているとするならば、自分にとっての感じられる現在とは、数秒数分に縛られることではなく、あるいは数か月、場合によっては数年も、現在は過去からの継続的持続と感じるかも知れない。少なくとも、意識が持続していると言う意味での現在は、もう少し長い時間の連続として捉えられると考えたい。


 次に聖書の時間概念を考えて見よう。

 『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。』(エペソ1:4,5)

 天地創造の前に、救いの計画は予め定められ、キリストがお遣わされになる事は決まっており、神は私達を愛され、既に救いの計画の中で、聖なるものにしようと、私達を予めお選びになったと言うのです

 言葉を変えて言うなら、地球が造られる前に、予め神は私達の救いを、キリストにあって予定し、あるいは予知し、誰が救われるかをお定めになっていた。キリストの十字架の救いも、予定の中に入っており、時間的観念を超えて、救いは最初から神の大御心の中で予定され、完成されていたと言えます。

 『…しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。』(へブル4:3口語訳)この言葉の本来の意味は第七日目安息日に関して述べているものだが、 私はこれをもっと広範囲に受け取り、救いも、全ての事柄も、神にとっては、世の初めから完成していたと解釈したい。神にとって時間は千年も一瞬のことです。

 『あなたの目の前には千年も 過ぎ去ればきのうのごとく、世の間のひと時のようです。』(詩篇:90:4口語訳)

 神は時間の創設者であるから、時間に限定されたり、縛られたりする方ではない。神は、救われる魂ですら天地創造前から御存知で、救われる人々を、清く傷のない者にしようと祝福しておられた。神にとっての時間は、全く特別なものです。イエスは十字架につけられ、死ぬ間際に『…「すべてが終わった」…』(ヨハネ19:30口語訳)と言われた。贖いが完成されたの意味であろう。

 また、72人を選んで伝道にお遣わしになった時、『…「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。』(ルカ10:18口語訳)と言われた。72人が神の権威によって、悪霊を追い出し、病人を癒して、神の国を宣べ伝えた時、サタンの権威は地に落ち、諸々の霊は72人に服従したのであった。サタンの敗北が、時間を超越し、イエスの目にはハッキリとお見えになったのであろう。

 イエスは過ぎ越しの祭りの食事、いわゆる最後の晩餐を弟子達とお過ごしになった夜、弟子ユダが、晩餐の席から、裏切るため真っ暗闇の外へ出て行った事をもって、神の業の完成ととらえた。ユダがイエスを裏切るため、外へ出て行き、敵の陣営へ向かって行った事は、人々を救うために十字架にかかる事が決定づけられた瞬間だったからだ。この時、イエスは何んと言われたのか?すべての事をお見通しになって、『…「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』(ヨハネ13:31新共同訳)と言われた。贖いが完成されることを見据えて、このような時間を超越した御言葉を発せられたのだと私は解する。 


 聖書の時間概念は、『…「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。』(ヨハネ7:6新共同訳)とイエスが言われた通りです。肉の人、この世に属する人は、神の時など待たない。いつでも自由に何でもする事が出来る。『あなたがたの時はいつも備えられている。』

 神の人には神の時があり、神の時は神がご予定した時に実現して行く。『…時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、……』(ガラテヤ4:4口語訳)とあります。神の側には、計画表のようなものがあって、着々と歴史上の時間が、神の御手によって進んで行く。神のご計画は、世の終わり、すなわちイエスの再臨に向けて、直線的な歴史の時を刻んでいるように思われます。

 再臨は例えば、厚い、難しい本のぺージを、熟読しながら、注意深く、一枚一枚めくって行くようなものだ。中々最終章には到達しないが、根気よく読んで行けば、いつかは終わりのページがやって来る。但し、後ろから読んで行く、逆にめくって行くようなことは残念ながら出来ない。歴史を逆転するようなことは出来ないのです。

 ただ神は初めから最後のことまで、全てお見通しだろうから、神にとっての時間は、どんな事象であっても、既に完了されていると考えて差し支えないだろう。天地創造の以前からイエスはおられ、地球の、ユダヤの国、ベツレヘムにお生まれることも予定され、十字架による罪の贖いも既に神の大御心の中で用意され、失われた人類が天国に入り、新天新地が再創造され、アダムが失った楽園が回復されることも、神の時間感覚の中では、既に完了形であっただろう。2000年前から世の終わりだし、今も世の終わりだし、『……あなたがたが(弟子たちが)イスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。(再臨)』(マタイ10:23新共同訳)と言われています。これが神の時間感覚です。

 人間は死んだら、イエスの再臨の時に復活させられるまでは、深い眠りのように、無意識になり、土の中で昏々と眠り続けている。その間は無意識であり、霊魂がフワフワと漂いながら、魂だけが生き続けているようなことはないと言うのがSDAの死についての考え方です。

 『ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。』(伝道の書12:7口語訳)

 肉体は土から造られたので土に帰り、私達の霊はこれを授けた神に帰る。私達の霊は神の息になってしまう。息そのものは神の息であるから、私達は皆、無意識になって、深い眠りについた状態になる。神が最初のアダムにしたように、再臨時、もう一回神の息を吹きかけて下されば、私達はもう一度、土から再創造されて、活きたものとして出て来る。死んだ者が神の声を聞く時が来る。

『……墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』(ヨハネ5:28,29口語訳)但し、再臨の時には、栄光の体を持ち、死なない体を持って出て来る。

 『……「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、……、天使のようになるのだ。』(マタイ12:24,25新共同訳)

 しかし、例外として、聖書の歴史上、先に天国に行ってしまった人物がいないわけではない。エノク(創世記5:24参照)、モーセ(ユダ9節参照、マタイ17:3参照)、エリヤ(列王紀下2:11参照、マタイ17:3参照)です。彼ら3人にとって時間はどのようにたっているのだろうか。彼らは、既に父なる神の御許で、何千年と過ごしていると推測されます。


 『今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい』(エペソ5:16,17口語訳)

 私は72年の自分の人生の中で、大袈裟でなく、どれくらいの時間を無駄に過ごしてきただろうかと考える時があります。その原因は何だったんだろう?自分が持っていた根本的な考え方にその原因があるように思われる。どんな考え方を持つかによってその人の人生が決まってしまう。

 私は聖書を知ってはいたが、自分の価値観を変えるまでには心の中に神の言葉が浸透していなかった。唯一ゆるぎのない価値観があってこそ、時は生かして用いることが出来ます。単に時間がもったいないから、勤勉に生きよう、人間的な努力をしなさいとここで言っているのではない。ただ勢いに任せてバタバタとやたら忙しく生きるのも、実は時間を浪費していることかも知れない。

 私は友の為、人の為に命を捨てなさいと言う神の言葉を知りながら、その言葉に行動の土台をおかず、神の言葉の宣教の働きにかかわっていながら、根本的な価値観に立脚せず、この世の価値観に半分は自分の身を置いていたため、結局、大変な時間のロスをすることになった。聖職を、止むにやまれぬ理由(離婚)で辞し、郵便局長を約29年間もすることになった。ヤコブがレアのために7年、ラケルのために7年、合計14年欲深い叔父ラバンのために働いた記録が創世記にあるが(創世記29:16~30参照)、私も根気よくこの世の仕事に献身し、忍耐し続けたものだ。


 65歳の定年を前にした最後の4年間、郵便局長としての仕事をするのが特に辛かった。ちょうどその時期、あまり良い職員に恵まれなかった。事務ミスが多く、評判があまり良くない職員を、人出不足の為に、自局に迎えざるを得なかったことも一つの原因であった。その職員を含めて、大きな欠点のある職員が、どういうわけかその時期、自局に数名集まってしまい、毎日のように職員間のゴタゴタが続き、局長職をこのまま続けられるのかと思うこともあった。しかし、いささかくたびれてはいたが、何んとか局を正常に運行できるように立ち直らせ、意地でも最後まで勤め通した。それには、神に頼って、祈りながら難局を乗り越えると言う、信仰の力が大きな助けになった。総て自分の力で切り抜けたなどとは思っていない。総ては神の恵みで、やって来れたと思っている。もちろん、人間的には、部会内の局長達にも色々と助けてもらったが。


 郵便局長をしていた28年9ヶ月のこの世での生活の為の自分の労苦が、全て無駄だったとは思っていない。もしここに神の人がいて、この世の肉の努力は、霊の世界の事柄に献身することに比べ、総て無駄だったと言われると私の立つ瀬がない。局長になってから、今の家内と再婚し(自分一人では子育ては無理だっただろう)、先妻から受け継いだ2人の子供を育て、長男は某有名国立大学の大学院まで出してやり、市場調査会社としては大手の会社に就職が出来た。彼は40歳で、中古ではあるが一戸建ての大きな家を買い、親からは完全に自立し、職場結婚をして、子供も2人いる。長女も私立ではあるが美大を出してやり、郵便局で期間雇用社員をしていたこともあったが、今は幸せな結婚生活を送り、子供も一人授かった。昨年(2021年)漫画家デビューを角川書店よりした。【宝石商のメイド】をペンネーム「やませちか」で、現在第3巻を執筆中です。長男、長女とも信仰は受け入れていないが、私の通うSDA八王子教会で結婚式を挙げさせることが出来たのは、私の唯一の慰めです。2人ともいつかは教会に帰り、私の信仰を受け継いでくれるものと、心の中では密に期待しています。


 今の私の生活と言えば、細々と少額の年金暮らしではあるが、今のところ何とかアルバイトもせずに暮らすことが出来ている。そのうち老骨に鞭打って、又この世の仕事に、額に汗して働かねばならないかも知れない。その時はその時だ。『働かざる者食うべからず』(テサロニケ第二3:10参照)と聖書に書いてあるのだ。また働こう、喜んで働こう。高齢者に働き口があればの話だが。

 今はとにかく、自分の好きな聖書の勉強に励んで、パソコンの前に、座って、聖書関連の記述を、自分の生涯の趣味としている。この時を大事にしよう。こんな時間を持てていることも、今まで、一生懸命に脇目もふらず働いてきたおかげであるとは思っている。 


 しかし、私には嘆きがある。

 『わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13口語訳)

 私が友のために命を捨てるほど愛せよと言うこのイエスの言葉を実行出来なかった為に、この価値観にしっかりと立脚出来なかった為に、どれほど多くの自分の人生の時間を無駄使いしてしまったことだろうか。そしてその価値観にこれからもしっかりと立っていかない限り、また、これからの、定年後の多くの時間を、無駄に過ごしてしまう轍を踏みかねない。そういう弱さを持った私なのです。『今の時を生かして用いなさい。』(エペソ5:16口語訳)ずっしりと心に迫って来る、神の言葉です。

 また、今まで何度も書いてきたが、命=時間であると考えることが出来る。命と時間が完全に等しいとまでは言えないが、時間の継続がなければ、命の継続もない。命をいちどきに捨てることが、場合によってはあるかも知れないが、ほとんどの場合、命は時間として、その対価を徐々に削られて行くのです。命を神と人の為、友の為に捨てると言う事は、時間を捨てると言う事に他ならない。

 自分の為だけに使う時間は楽しい、利己心と言う最も罪深い肉の性質が喜ぶ時間の使い方です。

 時間を人の為に使うと言うのは苦しい、何故なら自分の肉の生存本能が、自分の体のどこかで拒否反応を起こしているからだ。他人の為に、自分の喜びまで捨てて、時間を費やしてよいのか?面白くもない!自分の限られた体力を、他人のために費やしてよいのか?こんなささやきが、変えられていない心のどこかに起こってくる。

 実はそこが変えられなければならないところで、自己を十字架のキリストと共に磔けなければならない大事なところです。

 『……わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。……』(ガラテヤ2:19,20新共同訳)


 母親は生まれてきた赤ちゃんのために、初めは3時間おきに母乳を飲ませる。総ての時間を自分の赤ちゃんのために捧げる。赤ちゃんは自分の命を分けたものであり、自分の命の延長だからだ。これには見ていて本当に頭が下がる。どんなに睡眠不足に陥ろうと、夜泣きされようと頑張る。時間を捧げることが、赤ちゃんの命を守ることだからだ。母性の赤ちゃんに対する献身度合いは、男には理解できない程だ。男はそこまで徹しきれない。どこか、すぐ投げやりになり、途中で嫌になり、飽きてしまい、投げ出してしまいそうになります。愛が試される時です。

 何れにせよ、神と人の為に、友の為に、妻の為に、子供の為に、自分の時間を少しでも削って、何かやってあげることが、以下の聖句が意味するところではないだろうか。

 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16新共同訳)  


 人生何かの活動をする事、人助けのため、善のため、ボランティア活動等をする事など大いに結構です。肉の助けを求めている人に、その様々な必要を満たしてあげることは大事なことです。私達は肉体をもって生きている以上、霊的な糧だけでは生きて行けない。  

 聖書の中に、腹減ったものには食べさせ、凍えているものには着せ、貧しい者には施せと言われています。

 『……行いと真実とをもって愛し合おうではないか。』(ヨハネ第一3:18口語訳)

 『ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。』(ヤコブ2:15,16口語訳)

 肉の命が維持できない程、追い込まれている人に対しては、まず何よりも、肉の命を助ける事です。海でおぼれて、助けてくれと叫んでいる人に対して、まずロープと浮き輪を投げ、自分が泳ぎが得意ならば、その人のところまで泳いで行って、助けるのが、まずしなければならない事だろう。


 上記のことを十分踏まえたうえで、もう一つの私が考える大事な、時があります。

 『静まって、わたしこそ神であることを知れ。……』(詩篇46:10口語訳)

 静かな心で、全く世俗から離れて、天を仰ぎ、父なる神から出て、キリストを通して注がれる聖霊を求めて行きましょう。

 『…イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。……』(使徒行伝2:33新共同訳)

 聖霊のバプテスマを注がれることを心から願い、聖霊の内住と、臨在をいただく時間、心に静かに聖霊が語りかける小さな声に耳を澄ます事、聖霊に満たされる事、ただそれだけを求める事、その事が人生において一番大事な時間ではないだろうか。

 『……キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11新共同訳)

 神の霊を求め、イエスの救いを瞑想し、今イエスの愛を心に宿し、イエスのお力で隣人を愛していくこと。自分の肉的な努力ではなく、ただイエスによって強められ、生きる事は全てキリストになり、キリストの内に生き、行動し、キリストを仰ぎ見ながら生きる時間。キリストの臨在と、内住を意識し、何をなすにも、キリストが全てとなる。こんな生き方をして行こう。こんな時間が私にとって至福の時間です。

 再臨の時は、この世にある物、何もかも、肉的、物質的な物は全部燃えて、滅びてしまう。残るのはただキリストとの交わり、贖罪、復活、永遠の命だけ。ここに自分の精神も、時間も、心も、魂も集中して行こう。

 滅ぶべきこの世と、世が提供する肉の快楽を求めて、気が付いた時には、人生の多くの時間を、無駄に過ごしてしまったとならない為に。

 『ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。』(テモテ第一6:8口語訳)


Y, 勝利と逆転の人生

 今から書く事は、先回Xに続き、また私の心に思い浮かぶことを気ままに書いた随筆です。

 人生とは何か、最近高齢者の仲間入りをして、自分の人生についてしばしば考えることが多い。若い頃からの様々な出来事を振り返ると、反省する事ばかりが多くて「失敗の連続であったなあ」と我ながら、嘆息せざるを得ない。思い出をたどるごとに、過ぎ去った何十年前のことだとは言え、顔を赤らめるような出来事が多く、局長時代も含めて誇れるようなことはほとんどない。  

 私がイエス・キリストと出会ったのは21歳の時であった。教会には19歳の時から行っていたが、でもなかなか福音とは何かと言う事は理解できず、ただ何かを求めて教会に通っていた。キリスト教の素地がない日本人にとって、福音を理解するには相当な時間がかかるものです。

 今の年齢になって、人生を振り返り、反省する時間が与えられた。そんな時間を持てたこと、そのことだけでも、私は幸せな方だったのかなと思う。

 人生って何だろう?そんなことも考えもしないで一生を終わってしまう人がどんなに多いことだろう。病気、自然災害、労働災害、交通事故、不慮の事故、犯罪の被害者、あるいは自殺等で、せっかく始まった人生を、若くして終えてしまう人達も、世の中には多くいる。


 毎日の報道されるニュースの中で、色々な事件、事故、災害で突然亡くなってしまう人々のことを聞いたり、見たりします。彼らは神の愛も知らず、イエスの救いも知らず、人生を振り返る事もできず、ほとんどの場合突然命を取り去られてしまう。

 彼らの人生っていったい何だったのだろうと思ってしまう。そういう意味では、彼らに福音を宣教しなかった責任の何万分の一かは、私にもあるのだろう。 


 乳癌が手遅れで、早世した未婚の女性を知っています。もう43年前に、実際にあったことです。私がまだ牧師のインターンであり、SDA名古屋教会にいた時、指導牧師と共に名古屋郊外に住んでいた、その女性の家まで訪問したことがあります。

 「癌はもう手遅れで、ジュクジュクになっており、娘はもうダメなんですよ。」とその時、お母さんが、布団に入って横になって休んでいる娘さんに聞こえないように玄関先で、私達に小声で言っていたのを、今でも覚えています。

 もうこういう状況になると、医者のどうのこうのと言う話ではない。ただ神による慰めがあるように祈って帰って来る以外に方法はなかった。昔であっても乳癌の定期健診の必要性は、今ほどではないが叫ばれていたはずです。

 娘さんは若いし、恥ずかしいし、医者に行くのをためらっているうちに手遅れになってしまったのだろう。誠にお気の毒であった。

 この出来事のただ一つの慰めと言えば、この娘さんのお母様は、熱心なSDAキリスト教会の信徒であったことです。また次女がおられて、その方も信仰を受け入れており、今はある牧師(数年前に引退)の奥様になっています。お母様も、詳しい事情は知らないが、愛知にある家を引き払い、東京でお暮しになっていたが、既に故人となられた。 


 最近私の姪が、やはり胸にしこりがあると言う事で、専門医に見てもらい、手術で腫瘍を摘出した。数年前に実際にあった話です。幸い病理検査の結果、腫瘍は癌であった。そして、かなりの乳房の部分を切り取らざるを得なかった。腫瘍は結構大きかったと聞いている。本当に他人ごとではない。こう考えて見ると、人生何があるかわからないというのが正直な感想です。

 今まで無事に生きて来れたことは、見えない神の御手に守られ導かれてきたと、誰でも感謝しなければならない。決して自分一人で、自分の力で生きてきたのではないのです。

 『あなた(神)は人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。』(詩篇90:3新共同訳)


 聖書の中に、人生の象徴的な終わり方をした二人の人物が描かれています。イエス・キリストが、人類の身代わりに、十字架に磔になった時、イエスの両側に二人の死刑囚が十字架にかかっていた。彼らは強盗(マルコ15:27参照)であり、死刑になるくらいだから、かなり悪いことをしてきた連中であった。一人は最後まで神を信ぜず自分が死刑になるのに、当時周りにいた群衆と共に、イエスを嘲笑し、メシヤであるなら自分を救え、また我々をも救ってみろと罵り(ルカ23:39参照)最後まで自分の犯した罪を悔いることもせず、救い主を受け入れることもせず、神を呪って死んでいった。ある意味、潔いと言えば潔い、滅ぶべき人類の代表のような極悪人である。彼こそ罰当りな、滅んでしまう人類の一方の代表であり象徴だと考えられる。自分の犯してきた重大犯罪を認めず、メシアを受け入れず、滅んでいくのだ。


 しかし、もう一人のイエスの横に一緒に磔けられた強盗はそうではなかった。

 この人こそ超ラッキーな男であった。彼以上に幸せな人を聖書の中で見ることは、中々出来ない。彼は好き勝手に生きてきた。常習犯ではなかったと思われるが、死刑になるほどの大罪を犯した強盗であった。ただ彼には良心があった。自分の犯してきた罪を悔いる心があった。

 『すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。』(ルカ23:40~42新共同訳)

 彼は死ぬ間際の十字架上で信仰告白をした。彼はイエスを神として受け入れた。イエスの無罪性と再臨と天国を信じた。死んでも復活するという、永遠の命の希望を持つことが出来たのです。

 『イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。』(ルカ23:43口語訳)と救いの約束をされた。イエスは彼に、天国に入れる保証の言葉、わざわざ『…「よく言っておくが、……」。』と念を押されて、約束して下さったのです。彼は天国に入れる資格をこの日に得た。イエス御自身、神であられる方が救いの保証をしたのです。それは絶対に救われると言う保証の言葉でした。


 死は眠りであり、彼にとって死んだときから時間は無くなり、次に目覚めるときは、イエス来臨の場面であるから、彼にとっては死んで意識がなくなり、次に気が付く瞬間はイエスをお迎えする再臨の時だ。だから彼にとっては、今日天国に入れると言う事と同じ意味なのです。彼は信仰による義を得た。

 ダビデもまた何の行いもなく主によって義とされた人の幸せについて 

 『「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」』(ローマ4:7,8新共同訳)と言っているが、この御言葉を体現したのがこの悔改めたこの強盗です。


 この幸運な人は、救われる人達を代表し象徴していると思われます。実はどんなに善行を積んだ人でも、その善い行ないによって救われるのではない。私の考えでは、救いはすべて、このイエスの傍らで、死刑の間際にイエスを救い主として受け入れた強盗のように、皆ただ神の御前に義とされ、赦され、キリストの贖罪の功績によってのみ救われるのだと思う。いや確信する。    

 信仰がどんなに深くても、人生が愛に包まれ、義に満ち、信者の模範となっているような人でも、そのことによって義とされ救われるのではない。それはキリストを信じた結果結んだ、信仰の善い実であって、実そのものがその人を救うのではない。皆、ただキリストの前に裸であり罪人であり、100%自分の為になされたイエスの贖罪の業によって救われるのです。


 こうは言うものの、もちろん義人が行った人助け等の善行は、それによって多くの祝福、影響を周りの人に与えてきているに違いない。義人によって助けられる人は多く、その人自身の祝福に満ちた人生は幸せであり、多くの人に感謝され、自分の人生を豊かに名誉に、送ることが出来る。

 ただ救いの根本を私は言っているのです。救われる人は皆、十字架上の悔い改めた強盗と同じ立場で、救われるのです。私は信仰がどこまで成長しても、また信仰のどの段階でも、そのようにして救われるのであると言う立場を堅持したい。あなたの考えや如何?


 この十字架上の回心した強盗の立ち位置で、私達信仰者は皆救われて行くのです。これは救いに至る人類を代表している。どんな人生を送ろうと全ての人々に福音の門戸は開かれています。全ての人々に勝利と逆転の人生が用意されているのです。この世でどんなに栄華を極めた生活をしようが、キリストを拒むなら、それは失敗の人生です。滅びがその人には用意されています。しかしキリストの贖罪を受け入れるならばその人には神の国と永遠の命が約束されているのです。

 この世的には貧しく、苦悩に満ちた人生であったとしても、キリストが来られる時、永遠の命に復活させられ、喜びに尽きない素晴らしい世界がその人の為、用意されているのです。これこそ正に逆転の人生だ。誰でも、勝利と逆転の人生を送れる可能性があります。 


 毎週教会に通い、クリスチャンとしての義務を果たすことは大事なことだ。私は決してそれを否定するものではない。世の中で生きる事は誘惑が大きく、油断すれば、世の中の風潮に流されてしまい、自分はイエスを信じているとは思っていても、考え方がこの世的になり、やがてはこの世の人と区別がつかないような生き方をしてしまう危険性があります。

 私達は一人ではそんなに強くないのです(テサロニケ第一3:10新共同訳参照)。

 いつも集まって初心に帰りお互いの信仰を励まし、燃え上がらせる必要があるのです。ユダヤ会堂シナゴーグで始まった礼拝形式(ルカ4:16~22参照)は、その後キリスト教の家の教会へと引き継がれ、発展していった。聖書は教会による礼拝を肯定している。『…集会をやめることはしないで…』(へブル10:25口語訳)と書かれています。


 しかし、あの十字架上の悔い改めた強盗は、毎週教会に出席し、牧師の説教を聞くようなチャンスは与えられなかった。ただイエスから直に、『…「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。』と言う言葉を聞いた、それで十分だった。彼は聖書研究をする時間も与えられなかった。しかしイエスから救いの保証の言葉を戴いた、それで十分だった。

 本書を読んで下さっている皆さん、今キリストを、その十字架で皆さんの罪を負って下さった唯一の救い主、神の御子、ご自身も復活し、やがて天からおいでになる方、御国の栄光の中に私達をも復活させて、招き入れてくださる方、永遠の命を下さる方として受け入れて下さい。

 『…人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ10:10口語訳)そしてイエスの弟子になって下さい。

 『……「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」』(使徒行伝16:31新共同訳)

 そしてクリスチャンのスタンダードを受け入れ、やがて教会に出席し、名実共にクリスチャンになって下さい。

 『…だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』(ヨハネ3:5新共同訳)

 バプテスマを受け、教会員となり、毎週教会に通い、もちろん日曜教会ではなく、第七日目土曜日安息日を聖日とする聖書的教会に、毎週一回集まり、公に神を礼拝し、共に神を賛美しましょう。


 こういう事は、この世ではクリスチャンの義務としてはあるものの、今キリストを、個人的に、心の中であなたが受け入れるのに、何のためらいがあるでしょうか。信仰の始まりとして、取り敢えず、今、何の組織が必要でしょうか。

 ただ全面的にイエスのなされた贖罪の業を自分の罪の身代わりとして信じることは、あなたの心の中だけで行われる聖霊がして下さる奇跡なのです。それが救いの第一歩なのです。すべての人が無料で招待されています。すべての人に、あの十字架上で救われた悔い改めた強盗のように、『…「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。』(ルカ23:43口語訳)と言うイエスの救いの言葉が約束されているのです。今まで送ってきた人生が、どんなものであっても、勝利と逆転の人生が用意されているのです。


 私が自分の今まで過ごしてきた人生を考えて見る時、自分の人生、「もう少し別の生き方が出来なかったのか?」と、つい本音を漏らしてしまう。誠に後悔の多い半生だったと思う。しかし、ひん曲がった性格の私を聖書の標準に従って造り変えるために、このような遠回りの人生が必要であったのだと今は、深い神の御摂理に感謝しています。


 小さい頃のことを思い起こせば、私は月足らずで生まれ、虚弱児であった。この間改めて母に聞いたところ、何と私の産まれた時の体重は800gだったそうだ。超未熟児ではないか。保育器にも入らず良く育ったものだ。

 既に故人になった母の姉が当時同居しており、そのままでは冷たくなり体が硬くなってしまう私を、指で揉みながら育ててくれたそうです。

 本来だったら育つのが難しかったこの私を、肉の命を与え、少しづつ健康を与え、やがてキリストと出会うことを計画されていた神なのです。そして今やそんなひ弱な人間が72歳となり、さらにこの世の命の上に、復活の命まで賜ろうとしている、有り難い愛の神なのです。

 小学生の時は、校庭で行われていた朝礼で、途中気分が悪くなり、保健室へ度々運ばれていたものです。

 父は建設会社に勤めていた関係で酒を飲むことが多く、いわゆる酒乱であった。21歳の時、ある牧師に導かれ、バプテスマ(浸礼)を受け、SDA八王子教会員になった。この時の経験は今でも鮮明に覚えている。1971/9/11の事であった。やがて父も、母も共にバプテスマを受け信者になり、妹も信者になった。すべて私の力ではなく、聖霊が働かれたのです。

 今、72歳(2022/8/12現在)だから、51年間信仰している。27歳の時日本三育学院キリスト教学科を卒業し牧師となった。沖縄三育小学校、大謝名集会所、富山教会、金沢集会所、福井聖書研究会、名古屋教会、岐阜教会、八重山教会とインターン、兼牧を含めて約10年牧会を経験した。その後、ある事情で牧師を辞し、昭和62年6月23日に八王子横山町郵便局の局長に任用され、平成28年3月31日に同局を定年退職した。局長歴は28年と9ヶ月になる。


何故牧師職を辞したのか、その理由は私の不徳の致すところと言わざるを得ない。離婚をしたことです。離婚には様々な原因はあるが、全ては私が愛のなかったこと、この一言に尽きる。神と人の為、友の為、兄弟の為命まで捨てて人を愛せよと言う、イエスの御言葉を実行できなかった私に原因があります。それ以上のことを言うと自己を正当化し、相手を責めることになるのでそれ以上は言うまい。


 局長になってから、二人の子供を引き取った。自分一人では子育ては困難であったので、必要に迫られて、ある牧師の紹介で、30数年前に、今の家内と再婚した。同じSDAキリスト教信者であり、以来一緒にSDA八王子教会に通っている。家内は自分の子供のように二人を可愛がり、育ててくれた。彼女には、本当に感謝している。彼女の愛情と、イエスの導きにより、子供は二人とも真っ直ぐ育ち、今はそれぞれ結婚し、子供も生まれ、幸せな家庭を築いている。ただ二人ともまだイエスを本当には受け入れてないので、いつかは教会に戻り、正式な信者になってくれればなと、心の中で潜に思っている。

 この年齢になって、パソコンに向かいながら、何かもっと他に生き方はなかったのだろうかと考える。私は運命論者ではないが、今になって人生を振り返る事が多い。私のような生き方も定めだったのかなと、つくづく思うような毎日です。今更になって、如何に後悔しても、どうしようもないことは分かっているのです。半分はあきらめの気持ちもあります。まだ72歳、元気なので、もう一回チャレンジして、ただ一回限りの人生を、若い時のように、神に献身し、イエスを宣教するために働きたいと言う、大望はあります。ただそれは自分の計画ではなく、すべて神が備える機会に委ねなければならない。 


 私は決して運命論者ではないが、人間の生まれ付いた環境、その人に備わった能力等、どうにもならないものがあるのは事実だ。例えば、生まれつき強く頑丈な身体を持った者もいれば、私のような弱い者もいる。虚弱な体質を持っていても、運動をしたり、栄養に注意したりして改善すればある程度は変えられる。しかし、もともと弱いので限界はあるのです。

 教育等を受けて能力を伸ばすことは出来ても、持って生まれた資質までは変えることは出来ないのです。


 さらに、人種は個人の選択出来ない領域だ。黒人に産まれれば、一生黒人であり、白人に産まれれば一生白人である。私は、たまたま日本人として産まれたが、例えばアフリカに産まれた人は、その人種のもっている産まれた土地にある環境を背負っていかなければならない。


 どんな人でも自分の負い目を担い、人生を生きて行かなければならない歴然とした事実です。もちろん自分の置かれた環境はある程度、色々な努力をすることで脱することもできよう。 しかし限界はあります。


 誰も、自分が不遇であることを、社会や政治のせいにしてはならない。あなたにはあなたの人生があり、私には私の人生がある。自分が持っている負い目を誰かや、何かのせいにすることは出来ない。私が言いたいのは単純に、人生それぞれ自分の置かれている環境には、マイナスの面が沢山あり、経済的なことを含めて、皆負い目を持っており、それらは、個人として背負っていかなければならないものだと言う事です。


 何か他の生き方が出来なかっただろうかと考えても、72歳になった現在の私では、今の環境を受け入れ、その中で、最も神の御旨にかなった生き方であろうと思われることを選択し、生きて行く以外に道はない(とは言え、今の生き方が神の御旨にかなっているかは自信がないが)。


 勝利と逆転の人生とは何か、それはどのような環境に生まれようと、今どのような人生を送っていようと、キリストを自分の人生に発見し、キリストの贖罪を、自分の為になされたこととして受け入れ、創造主たる神を知って、その招きに応えて、キリストのうちに自己を見出すことです。


 聖霊なる神の存在を知り、ただ肉的にバタバタと生きるのではなく、聖霊の降下と、臨在のうちに毎日を、やがて来る御国を待望して生きることです。

 『イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』(ヨハネ11:25新共同訳)

 このイエスの約束を心から信じ、やがて、復活の命を受けることを切望しながら生きて行くこと、これに優る生きがいはなく、幸せはないと考えます。

 『たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。……』(マタイ16:26口語訳)。


 皆さんは、永遠の命、などと聞くと何か夢物語りのように感じてしまうかも知れないが、クリスチャンは皆その希望を持って喜んでいるのです。

 勝利と逆転の人生とは、キリストにある喜び、復活の命への希望、今キリストを霊の眼で見ること。今キリストと出会い、キリストの内住と、臨在を感じ、聖霊の神が私のような小さな存在に触れて下さる幸せを感じること。

 『……見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。』(コリント第二6:2口語訳)

 あなたの人生にも、今勝利と逆転の人生が用意されている。それを望み信じるなら、福音が無代価で、今日という日に、誰にでも与えられるのです。今日、あなたはパラダイスに入る資格を得られるのだ。

 それを受け取ったら、生涯をキリストに捧げよう。心の中で、ぶれることなく、キリストにお会いし続けよう。今キリストにお会いしないでいつキリストにお会いするのか。心の持ち方で私達の救いと現実の生き方が決まって行くのだ。信仰とは正に心の持ち方に由来している。心をどう持つかによって、救いの道が開けてくるのです。『……わたしたちの心を吟味される神…』と書いてあります。(テサロニケ第一2:4新共同訳)


 そして忘れてはならないのは贖罪の奥義です。十字架から離れて私達の救いはない。罪の赦しは救いの土台です。

 『人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。……』(ガラテヤ2:16口語訳)

 十字架上の強盗は、ただただ、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることによって救われた。身動きすることもできない磔刑の中で、心の中だけで、イエスを信仰した。それ以上でもそれ以下でもなかった。勝利と逆転の人生、ここに鍵があります。私もあなたも、ただ信じるだけで(もちろん心から、真剣に信じなければならないが)救われるのです。


Z,ローマ14章に関する一考察

 これから書く事は、支離滅裂で、何の理論的思考もないが、実は最も大事な、信仰の本質を追求することであると思っています。以下繰り返しの多い不可解な文書を書いてしまうが、とにかく私の言いたいことを、その行間からでも読み取っていただければ幸いです。

 キリスト教は旧約聖書を土台にはしているが、基本的には新約聖書を、信仰の標準・基準としている。新約聖書は主にキリストの弟子たちが当時の教会に宛てた手紙から出来ている。新約聖書は、新たなる神の言葉として、信徒に受け入れられていった。

 ユダヤ教は、今でも世界三大宗教の一つとして存在し、旧約聖書のみを神の啓示の言葉として受け入れ、新約聖書は神の言葉としては認めないし、キリストを神であることを否定する。私達日本人から見れば、たくさんの理解できない、奇妙な風習を持っているユダヤ人の民族宗教がユダヤ教です。旧約聖書教と言っても良いくらいです。超保守的ユダヤ人たちは、今でも真面目に旧約聖書を毎日読み、研究しています。

 ユダヤ教に改宗するためには、まずユダヤ人にならなければならず、これは容易なことではない。男子は割礼をしなければならないし、豚肉は汚れた食物として食べてはならない。例え牛肉、羊の肉のような、清浄な、食べるのを許されている肉であっても、血を抜いて食べなければならない(余談になるが、ものみの塔の信者が輸血をしないのはこの辺からきている)。肉の生食は禁じられている。

 さらに毎週、神の創造の記念日である第七日目安息日として、金曜日日没から土曜日日没までを安息日として守らなければならない。安息日は基本的に仕事は禁止であり、現在でもイスラエルの国へ行けばレストラン、ショップ等もやっていない。その日は買い物もできないし、娯楽もできない、掃除も、洗濯もしてはいけない。

 2000年前には、ユダヤの国では安息日に歩くことができる距離すら決められており、900mであった。その日は誰でもユダヤ人であるならばユダヤ会堂に集い礼拝をしなければならなかった。そのためユダヤ会堂は1.8㎞毎にあったと言われている。

 さらに結婚はユダヤ人同士でなければ認められない。有名なトランプ前大統領の娘イバンカが夫クシュナ―(ユダヤ人)と結婚するためにキリスト教からユダヤ教に改宗したのは有名な話です。

 ちなみに、トランプ前大統領はプロテスタントのキリスト教徒です。誤解のないように断わっておくが、決して模範的な信者とは言えない。特にトランプ前大統領の倫理面における行動に関し、報道されていることが事実とするならば、明らかに聖書が求めている道徳の規準から、かなり逸脱している。しかし一応は、彼はクリスチャンなのです。 


 ユダヤ人は旧約聖書のみを神の言葉として受け入れ、今でも自分たちは、信仰の父アブラハムの子孫であることを民族的誇りとしている。自分達は神に選ばれた特別に祝福された民族であり、ユダヤ民族だけが救われると考え、強烈な選民意識を持っている。他宗教、他民族には不寛容であり、様々な不思議な儀礼に縛られたユダヤ教は、世界宗教への発展は望めない民族宗教であった。

 宗教と民族は、文化と密接に結びついている。ユダヤ教の特徴は宗教的祝祭日を守り、また礼典、儀式の実行、様々な戒律を守ることです。

 割礼はユダヤ人が救いには不可欠な通過儀礼として先祖代々施してきたものです。医療技術が発達している現代ならともかく、数千年前から行われていた、割礼は実際どのように施術されていたかは私にはわからないが、不衛生であっただろうし、ユダヤ教に改宗したい異邦人にとって、大きな障壁になって来ただろうことは、想像に難くない。


 キリスト教は出発当初は、ユダヤ教の分派(使徒行伝24:14新共同訳参照)として見なされた。しかし、偏狭ともいえるユダヤ教がもつ奇妙な特徴から、脱皮することにより、世界宗教に発展していった。あらゆる民族に、平等に救いを提供できる宗教になっていった。


 さて、ローマ人への手紙14章を読むと、パウロがいかに救いについて普遍的考えを持っていたかがわかります。この章の中には、ユダヤ人が伝統的に頑なに守っている宗教儀礼によって救われるか、それとも神の前に、キリストによって自由にされた人間として、信仰のみによって救われるか、という大きな問題が横たわっているように思われます。パウロが議論している根底にはこの二つの考え方があります。まず、ローマ人への手紙14章を、御自分で、前提条件なしに、忌憚なく読んでいただきたい。

 ローマ人への手紙14章が問題としている、ユダヤ人たちが持っていた、旧約聖書に根ざした、飲食に関するこれらの習慣は、単に飲食に関する規定だけでなく、神がユダヤ人たちを古来より一時的に他の民族と隔離し、特別な愛を注がれたことに由来します。

 神は、大昔の無知蒙昧な他民族から聖別するため、ユダヤ人を一時的に神の民族として、世の中から隔離して、ユダヤ人だけに神の御言葉の啓示をお与えになったと考えられます。これが選民と自分たちが考えるようになった理由です。ユダヤ民族には他の民族にはない、神からモーセを通して与えられた聖なる律法があり、神の言葉である旧約聖書があり、モーセに率き入れられて荒野をさまよっていた時に、幕で出来ていた幕屋、聖所があった。神の超奇跡的な臨在もそこでは感じることが出来た。聖所は後にソロモン神殿となる。

 ユダヤ人たちが大切にしている、言い伝え等も含む様々な儀礼的生活の規定の中に、世俗との隔離傾向が全般的に見受けられます。何もかもごちゃ混ぜにしている善悪の区別もはっきりしない他民族から、ユダヤ民族を隔離するしるしはたくさんありました。そのうち目立ったものは、ヤーウェなる唯一神への信仰、正直な道徳的生き方、偶像礼拝の禁止、安息日遵守と割礼、食物の禁忌規定であった。

 これらのものは周りの多神教を信じる他民族にはないものであった。神は一時的にせよイスラエル民族を選民の位置に定め、その諸々の儀式等の礼典律法を厳格に課することによって、他民族の多神教と神の唯一の正しい教えが同化しないように守られたのであろう。

 その中でも特に、男子の性器の前の皮を切り取る割礼はユダヤ民族の純潔を守るための、異邦人との雑婚を禁じたしるしであり、慣習であった。最初の割礼は今から約4000年前、信仰の父アブラハムから始まった。そしてさらに霊的にはアブラハムが神の前に信仰によって義とされた、契約のしるしと考えられ、割礼のない者は救われないとまで考えられていた。


 その他様々な、モーセを通してイスラエル民族に与えられた様々な儀礼典は、当時においては神から与えられた知恵であり祝福であった。それらの礼典を守る事によって、衛生的生活をすることができた。清い食物を食べることによって、健康で長生きをすることもできた。たくさんの戒めは祝福でもあった。ローマ人への手紙14章の肉食か菜食かの問題は一部の例であり、儀礼典はユダヤ人の全般的な生活様式となっていた。

 旧約時代にあっては、ユダヤ民族は世を照らす光であり、神の言葉が託宣され、神から与えられた律法を保護し保存し、偶像礼拝にふけり、道徳的にも堕落していた無知蒙昧な他の多くの民族を導く立場にあった。

 今から4000年前と言えば、日本の縄文式土器の時代よりもっと前の話です。

 迷信と、不道徳、不衛生と、多神教と、呪術的世界観に満ちた、何の秩序もない世界に、神はユダヤ人の先祖となった父祖アブラハムを選び出し、その子イサク、孫ヤコブの神として、御自身を顕現なさったのです。イスラエル民族は神の民となり、選民となった。

 ユダヤ人の始祖アブラハムが、メソポタミヤにあったカルデヤのウル(創世記11:31新共同訳参照)を父テラと共に出発し、一時ハランにとどまり、ハランで父テラを葬った。ハランにいた時、アブラハムに神が顕れ、召命され、カナンの地に移住し、アブラハムを父祖として新しい国民を興すことを約束されて、信仰の父となった。アブラハム75歳の時である(創世記12:4新共同訳参照)。


それから歴史は動いて行く。アブラハム100歳になった時、イサクが産まれ、さらに孫ヤコブから12人の男の子が産まれた。ここからイスラエルの12部族が増え広がって行く。この時代のある時、カナン地方に飢餓があった。同時進行で、数奇な運命をたどりながら、ヤコブの末の子ヨセフが当時豊かであったエジプト国の宰相になっていたので、アブラハムの子孫であるヤコブの子供たち11名は、エジプトに下り、ヨセフのもとで暮らすことになった。豊なエジプトで、驚異的に増え、イスラエル民族が成立していくことになる。


 ヤコブが親族、郎党を連れてエジプトに下った時、わずか70名であった(創世記46:27参照)。エジプトに寄留して後、約430年、イスラエルの民はエジプトで増え、300万人の大民族となった。やがて指導者モーセにより、紀元前15世紀頃(諸説あり)、エジプトを脱出し、アブラハムになされていた神の約束の実現である、カナンの地目指して、荒野の中の旅を続けた。モーセ亡き後、その志を受け継いだヨシュア指導の下、やっとカナンの地に定住することになった。


 モーセは、エジプトを出た後、40年イスラエルの民と共に、荒野を彷徨うこととなり、自分はカナンの地に入る前に、120歳でその生涯を閉じた(申命記34:7新共同訳参照)。

 また、モーセは神ご自身からの啓示を受けて、創世記から始まるモーセの五書を書いた。その中で数々の律法を定め、それによってイスラエルを統治した。その時定められた儀礼を、その通り行おうとしたら、それはもう大変な努力をしなければならないことであった。ユダヤ教の中にも、正統派もあれば、自由主義的な派もある。今日でもユダヤ教の古典的宗派は、いまだにその儀礼を守ろうとかたくなに努力をしている。 


 キリスト教がユダヤ教の影響をかなぐり捨てるのには、かなりの変革の努力と年月がかかったと思われます。

 ローマ人への手紙14章は、いまだに私達もキリスト教を信じていながら、その信じ方の中に、改革しなければならないことがあることが示唆されている。ローマ14章を何度も読み直すうち、私達の信仰にとって本質的な問題は何かという問いに行き当たった。

 特に急進的なユダヤ人たちは野菜しか食べず、豚肉は汚れた食物の代表であり、それを口にすることは自分が汚れることであり、神が許されていた牛の肉、羊の肉も食べなかったと考えられます。異邦人と食事を共にするなど、自分達が汚れてしまい、神の道から外れることになるので、考えられないことであった。イスラエルの人々は異邦の人々と交際しないどころか、異邦人と混血をしてしまった隣の地方のサマリヤの人々とも交際しなかった。

 さらにユダヤ人達は、様々な宗教的祝祭日を守っていた。天地創造の記念日である第七日目安息日(土曜日)を聖日とするのはもちろんであるが、ユダヤには様々な、祝祭日があり、それには特別な安息日が伴っていた。そのような儀礼的安息日も守らねばならなかった。

 

ユダヤの宗教儀礼を食物の禁忌規定も含めて守ることが救いの必須条件なのであろうか?

 そんなことない。救いは神と私との間の、純粋な生きた関係であって、食物によって、決まるのではない。

 『…食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。…』(ローマ14:15新共同訳)

 『それ自体で汚れたものは何もない………』(ローマ14:14)とパウロは言っている。 一方、自分がこれが良いと定めたことは自分自身で神の前に確信をもって守っていなさいと言う寛容な態度も見せている(同14:22参照)。

 『肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。』(同14:21)

 パウロ自身は、神の前に、様々なユダヤ的宗教儀礼から自由になってはいるが、宗教的祝祭日を含め、様々な戒めを守っている人々の宗教的行為を、無下に否定せず尊重しているのです。ここがパウロの寛容的な、ユダヤの慣習に対する理解があります。

 真理を知っているとしよう。しかしある方々は、真理とはあまり関係がなく、単なる今までの習慣や、伝統的行事を大事に守っている。それは真理から見れば、無意味であるかも知れない。でも、それらは守っている人々にとっては大事なものなのです。その立場を尊重してあげようと言うのが、パウロの度量の大きさです。

 総ての人は神の裁きの前に立つのだから、神に申し開きが出来ればそれでよろしい(同14:10~12参照)。自分の標準に合わせて兄弟を裁くのは止めよう。自分の確信のままに歩め。食べる時は確信をもって食べなさい、疑いながら食べるものは罪に定められる(同14:22,23参照)

 信仰とは信じることだとは良く言ったものだ。同じことをやっていても信じてやるか、信じないで疑ってやるかによって、結果が違ってくる。確信をもって食べるなら、肉食も神は許されると言うのです。

 これは野菜しか食べないことが、神の正しい道だと考えている、ユダヤ急進派の者にとって、驚愕すべきパウロの見解です。信じると信じないで、同じものを食べても、結果が違うと言うのです。

 私にとってもパウロのこの言葉は、誠に「目から鱗」である。信仰とは、そういう一面があるのかも知れないのです。

 こうは言うものの『肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。』(ローマ14:21)と書いているので、菜食主義が望ましいことであることは間違いないのです。 


 SDA教会がラクト・ベジタリアン、卵乳菜食主義を公式には採用していることは、聖書の空極的な意味で、食物に関する理想を突き詰めて行けばそうならざるを得ないと私は理解しています。しかし、菜食をしたから救われる、肉を食べたから救われないというような意味で菜食主義を実行しているわけではないのです。あくまでも健康の為にその方が良いと言う確信に基づいて行っているのです。アメリカにおけるある疫学調査によると、SDA型の卵乳菜食にした場合、長生きが出来ることが判明しています。


以下参考:

「JAMA Internal Medicine」誌に発表された研究によると、菜食主義の人のほうが長生きできる可能性があるようだ。

米国ロマリンダ大学の研究者が6年かけて実施した調査によると、ベジタリアンはそうでない人たちに比べて死亡リスクが12%低かったという。

調査の対象となったのは、セブンスデー・アドベンチスト教会の信者である7万3308名の男女だ。彼らは2002年から2007年にかけて募集され、平均で5.79年間追跡調査が行われた。


 さて、禁酒禁煙も同様に、聖書が求める私達に対する健康的生活における、理想的な生き方であろう。誰も酒と煙草が健康には良いと考える人はいないであろう。聖書が書かれた時代、煙草なるものは知られていなかった。ですから禁煙は明らかに近代になって付け加えられた、プロテスタント的な生き方の中で出てきた考え方です。

 また、酒については、少量の酒、グラス軽く一杯分の赤ワインはポリフェノールの関係で健康に良いと言う学説があります。聖書にも『これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。』(テモテ第一5:23新共同訳)と言う、私達SDAから見ればドキッとするような聖句もあります。しかし最近の学説の中には、たとえ少量のアルコール摂取であっても、病気の種類によっては害になると主張する学者も出てきています。以下少し紹介します。 


 では、飲酒はどのようなメカニズムでがんを発症させるのか? 

 国際医療福祉大学病院 内科学の一石英一郎教授が言う。

 「体内でお酒を分解すると発がん物質である『アセトアルデヒド』が発生します。これを無毒化するには『2型アセトアルデヒド脱水素酵素』(ALDH2)が必要です。この脱水素酵素には分解力の強い正常型と弱い欠損型があり、それを決めるのは両親それぞれから受け継がれた2つの遺伝子です。日本人は2つの遺伝子のうち片方もしくは両方が欠損した人が多く、体内にアセトアルデヒドが長く滞留することが発がんに影響していると考えられているのです」

 アセトアルデヒドはDNAに直接結合し、変異誘発性のDNA付加体(DNA変異を引き起こし、がん化となる物質がDNAと結合したもの)を形成する。その結果、DNAを障害することは培養細胞を使った多くの実験で証明されている。

  コラム【がんとは何か】2018/8/31(金) 9:26配信


(LANCET 飲酒リスクによりグーグル検索)

年間に300万人がアルコールが原因で死亡

 研究には40ヵ国以上の研究者が協力し、アルコール摂取についての694件の調査と、592件の研究を解析した。研究は国際的な医学誌「ランセット」に発表された。

 世界の2016年の飲酒者の数は20億人以上で、63%が男性だ。一方、アルコールが原因で死亡した15~49歳の男性の数は2016年に300万人に上るという。これは全死因の12%に相当する。

 アルコールの飲み過ぎは、心筋梗塞、脳卒中、がん、肝硬変、2型糖尿病、膵炎などの原因になり、交通事故などの傷害も引き起こす。

 アルコールは2016年に、死亡を早め、DALY(障害調整生命年)を縮める7番目のリスク要因だった。アルコールを原因とする死亡率は、男性で6.8%、女性で2.2%に上る。年齢層を50歳以上に絞ると、死亡率は男性で18.9%、女性で27.1%に跳ね上がる。

安全なレベルの飲酒は神話に過ぎない。

 今回の研究では、アルコール摂取量の基準とされるお酒の1ドリンクを、純アルコールに換算して10gで算出した。お酒の1ドリンクに相当する量は、ビール(アルコール度数 5%)なら250mL、ワイン(同13%)なら100mL、ウィスキー(同40%)なら30mLだ。

 たとえば米国の食事ガイドラインでは、アルコールの適切な摂取量を、男性は1日に2ドリンク、女性は1ドリンクとしているが、「この程度の制限では十分ではない」と研究者は指摘している。

 研究によると、2ドリンクのアルコールを毎日飲むと、まったく飲まない人に比べ、アルコールが原因の障害が起こるリスクが7%上昇する。飲む量が7ドリンクに増えるとリスクは37%跳ね上がるという。

 「アルコールは死亡の主要な原因になっています。世界で数百万人の命を救うため、緊急に行動する必要があります」と、ワシントン大学のマックス グリスウォルド氏は言う。

 「1日1~2ドリンク程度の飲酒量であれば健康に良いと言われていますが、それはまったくの神話です。今回の調査は、それが幻想であることを明確に示しています。安全な飲酒量など存在しないのです」と、グリスウォルド氏は強調している。


一般社団法人 日本生活習慣病予防協会 2018/8/30 最近の関連情報・ニュース


 何れにせよ禁酒禁煙の原則は救いの手段ではなくて、ただ神の恵み、御恩寵によって、魂が救われたものが、目標として目指していくべき姿です。私はそのように理解しています。


 『どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。』(テサロニケ第一5:23新共同訳)

 テサロニケ教会の信者は、信仰篤く、模範的な、愛の実践を多くの人々に対して行っていた。このような信者に対して、さらに非のうちどころのない者になることをパウロは願って、テサロニケ教会の信者に宛てこの手紙を書いた。


 神が聖霊を賜って、再臨の準備と、聖めの力を与えて下さるようにとパウロは強く願っています。それは神が、約束された聖霊を賜ってなさって下さることで、単に自分たちの努力で出来ることではない。


 『…(神は)真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。』(テサロニケ第一5:24新共同訳) 聖めを強調するあまり、行いによって救われるような誤解が生じかねないようにしよう。         

 聖化を強調する時は、常にその辺を注意したい。しかし成長し、非のうちどころのない者として聖められのは、霊も魂も体をも(テサロニケ第一5:23新共同訳参照)対象にしています。霊的に救われ、天国に入れればそれで良いと言うわけではないのです。

 私達の霊性が高められ、聖霊に満たされることは第一です。救われて永遠の命を得なければ何にもならないし、何も始まらない。肉体や心が癒されるのはその後のことです。

 しかし、魂も体も健全であるようにとパウロは言っています。魂(心)は知情意のことであり、体は肉体のことです。救いは全人的なものなのです。①聖霊によって新生し、②精神(知情意)も健康であり、③肉体も健康であることが、全人的な聖化であろう。その為には、①に霊的な救いが必要であり、②に教育による心(知情意)の成長もなおざりにはできない。③に身体を訓練し健康で、強靭な肉体を持つことは、奉仕の土台であり、生きて行く上でプラスになります。この三つのことを涵養していく必要があります。三育教育の基本理念です。

 身体の健康について特化して考えれば、日光、水、空気、栄養、休養、運動、節制、信頼等あらゆる面でのセルフコントロールを含む、健康の原則の実行が大事になります。SDA教会だけが声高に叫んできた、第三天使の使命『神の戒めを守り、』(ヨハネ黙示録14:12口語訳)の中に、『殺してはならない。』の戒めがあり、それは他人の命はもちろん、自分の命も殺すことは出来ないのです。健康を損なうことは、自分自身の命を徐々に殺すことに他ならない。ここに健康改革のメッセージが、出てきます。健康改革のメッセージは第三天使の使命の一部なのです。

 健康に対する科学的な知識が一般の社会に広がっている現代ですら、SDA教会の健康に対する指針は、先駆的なものであり、今でも多くの人々に感化を与えています。

 良い物も悪い物も何もかもごちゃ混ぜにしたような、この世にあって、SDA教会の提唱する健康の原則を含む、ライフスタイルは、暗い世の中にあって、『…星のように輝き、』(ピリピ2:15新共同訳)続けています。 


 さて2000年前、新約聖書が書かれた当時のみ存在していた特殊な問題があります。偶像に捧げられた肉の問題です。この問題を聖書から素通りしてしまうわけにはいかないのです。当時は異教の神殿で、食肉が異教の神の為に捧げられ、その一部が一般の市場にも出荷され、売られていたようです。 

 しかしパウロにとっては、偶像の神など本来は存在しないのです。

 『そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。

 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。』(コリント第一8:4~11新共同訳)

 神は万物を造り、総てのうちにおられる方であり、具象的な物を超越した方であるので、もともと偶像の神などいないのです。

 市場で肉を買うとき、これは偶像に捧げた肉なのだろうか?それとも普通の肉なのだろうか?いちいち詮索せずに、気にしないで買ってきて食べなさいとパウロは言っています。しかし誰かが、それは偶像に捧げた肉ですと言う人がいるなら、それは、自分の良心ではなく、言ったその方の良心の為に食べないでおきなさい。何故なら、自分はこんな偶像など世界にないのだと思って平気で偶像に捧げた肉を食べると、それを見た真理の知識のない人が、偶像を拝む気持ちで肉を食べるようになり、滅びてしまうかも知れないから。

 『………そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。』(ローマ14:21新共同訳)の聖句の背景は、偶像に捧げた肉を食べることに関するパウロの考えがあるようです。食物等で兄弟を誘惑し、偶像崇拝の罪(十戒の第二条)に誘うようなことは決して行ってはならないのです。


 私は酒は一切飲まないが、もしこんな文書を書いている私が、総てクリスチャンは、もう律法の下にはいないから自由だと言って、大酒を飲んでいたら、それを見た人は、じゃあ私もやろうと言う事になって、罪に誘う結果にならないだろうか。繰り返しになるがパウロのこの言葉を生活の指針にする事が一番安全です。『肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。』(ローマ14:21)


 これらの議論から、もっと普遍的、本質的結論が導き出せないだろうか。

 私達も自分の信じ方を振り返って見よう。あらゆる宗教的慣習の中で、本当に自由にされているだろうか。

 『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。』(ガラテヤ5:1口語訳) 本当に自分から、宗教儀礼から、罪から解放されているだろうか、自由にされているのだろうか。

 民族的な習慣、古代の呪術的かつ神話的世界観、食物、祭日、儀礼的な慣習、それら一切を排除して、救いに必要な、本質的問題を私自身の信仰の覚醒の為にも、自分で聖書を読みながら考えて行こう。


 聖書、すなわち神の言葉について『…「…あなたはどう読むか」。』(ルカ10:26口語訳)これがイエスが私達一人ゝに問うている問題です。聖書の本質に迫るのは難しいことかもしれないが、チャレンジする価値は大いにあると思っています。色々考えて来ると、結局、何が普遍的な真理であるかを、聖書から、自分なりに、神学的な思考を駆使して抽出していく作業がどうしても必要になります。

 まず食物の問題、すなわち肉食、菜食、汚れた食物の問題は、信仰の本質からは排除できそうです。もちろん菜食を否定しているのではない。健康的な生活の原則から考えればそれは良いことです。しかし、『…あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。』(ローマ14:16節)とも書かれています。

 食物は救いのメーンテーマではないので、そのことに信仰の重大なポイントを置くべきではない。肉体の健康を維持するという観点から考えれば、食物は大変重要な要素ではあるが。

 ビーガン(完全菜食)のような生き方を信念として貫く人もいるし、豚肉は食べないという戒律を守り、ハラル思想で凝り固まっている、イスラム教徒のような人たちもいる。イスラム教徒らは徹底していて、酒は飲まない、アルコールを一切体に入れない。味噌に含まれている、わずかな加工用のアルコール成分すら問題であるとして、ハラル認証を与えないと聞いたことがあります。個人的ではあるが宗教は違うけれど、ハラル認証されている食品には私は大変魅力を感じています。

 他宗教のしていることはともかく、ここのパウロの思想を見る限り、食物で野菜ばかり食べる人は、それなりの理由があってそうしているのだからそのような生き方を認めてはいるが、彼にとって食物の問題は信仰の中心課題ではない。『……食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。……』(ローマ14:15)

 旧約聖書に出てくる、預言者ダニエルとその仲間たち実行していた菜食主義『……わたしたちにただ野菜を与えて食べさせ、水を飲ませ、』(ダニエル1:12口語訳)を理想とする考え方も聖書にはあります。また、健康のために菜食主義をとるなら、その人の確信に基づいてとれば良いと私は思う。 


 また、何か伝統的な祝祭日を、信仰の大事な記念日として守る人がいたとしても、パウロはそれを頭から否定するようなことはしていない。特定の日を大切に考える人も、それは主の為にしていることだから、尊重しようと言っている(ローマ14:5,6参照)。但し、SDAとしては、これは週の第七日目安息日のことを指しているのではなく、旧約聖書にある各種祭りに伴う特別安息日のことを指していると思うのだが、この辺は見解が分かれる、聖書解釈の難しい問題です。正に『…「…あなたはどう読むか」。』(ルカ10:26口語訳)の問題です。

 この尊重すべき日とは何だったかを含め、食物や、ぶどう酒を飲む習慣があったか、アルコールは一切摂取しない方が良いのか等、あまりそれらのことに拘って行くと、信仰そのものの大事な部分までもそぎ落としてしまいかねないような気がするのです。その辺はあまりハッキリしなくても良いのではないかと最近私は自分の頭の中で考えるようになって来た。

 宗教の本質的な部分を失うことなく、儀礼から解放され、習俗、習慣、民族的祭事からも自由になることは出来ないだろうか。 


 長崎県生月島(いきつきしま)の隠れキリシタンが、先祖伝来の言い伝えを、今だに守っています。

 今になっては意味もわからなくなっているオラショ(もとはラテン語の三位一体を賛美する祈祷文であったと言われている)を唱えたり、正月に聖水を汲みに行ったりしている。彼らにとっては大事な言い伝えであっても、聖書的にはあまり意味のないことをしている。 同じようなことが私達の信仰の中にないだろうか。

 

ユダヤ人が暮らしていた2000年前の世界は、非科学的で、迷信に富んだ、神話的な世界であった。呪術と魔術が人々の心を支配しているような世界であった。『また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。………』(使徒行伝19:19新共同訳)と書かれています。当時悔い改めて真の神を信じた者の中に、過去魔術を行っていた人がいたことがわかります。

 この事件の前の使徒行伝の記事の中に、パウロの使っていた手ぬぐいや前掛けを病人に当てただけで病が癒されたと書かれています(使徒行伝19:12新共同訳参照)。

 この場面では、呪術的迷信の中に、生きている人々に理解できるような形で、神は癒しの奇跡の業をなさったのであろう。言わば当時の人たちの理解力に合わせて、神がそのような業をなさったのです。神の側で、人間に分かり易いように、レベルを落として近づいて来てくださったのです。


 例えば、キリストは、弟子たちが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて、見えなくなり、天国に帰ったと使徒行伝に描写されています(使徒行伝1:9新共同訳参照)。キリストの昇天について、当時の神話的な世界観の中に生きている人々に分かり易く神はこのような現象を人々にお見せになったのではないのか。


 また世の終わり、すなわち再臨の時、キリストは天の雲に乗って来られると聖書にはハッキリ書いてあります(マタイ24:30、マルコ13:26同14:62、ルカ21:27参照)。

 それはそれで、神は何でもお出来になるのだから、キリストが雲に乗って世の終わりに、再臨することも、歴史上の最大の出来事として、私は信じている。私の信仰として捉えてはいる。

 しかし、現代の人間は、雲に乗って来られるキリストと聞いて、何か違和感をそこに感じないだろうか。実際には天国はこの3次元の延長の世界にあるのではなくて、4次元か5次元かわからないけれども、次元が異なった世界にあるのではないか。人間の物理学の世界ですら、多次元の世界が宇宙にはある事を想定し始めている。まして、詭弁に聞こえるかも知れないが、神の世界を3次元に固定して考えるのは、少し狭すぎるのではないか。 


 物理学の世界では、ひも理論をはじめ、私達から見れば、不可思議な理論が次々に発表され、それらは証明されたわけではないが、何んと11次元の世界を想定している理論もある(膜理論)。最新の理論によれば宇宙はいくつもあるかも知れないと言う途方もない考え方をしている物理学者もいる。(多元宇宙論multiverseマルチバース理論、泡理論)

さらに最新の宇宙論にはホログラフィック宇宙論と言って、宇宙の境界面に2次元の情報量(エントロピー)のある場所があり、そこから3次元の私達の住む世界が投射されており、私達のこの世界は仮想現実の世界かも知れないと、途方もない理論を展開している。

 結論を言えば、私達は科学を信奉しているが、こと宇宙論に関しては何もわかっていないのが現実です。

 天国と言うとはなはだ幼稚に聞こえるが、私個人の勝手な理解では、我々が住んでいる3次元空間の隣に、目は見えないが、別次元の存在として、別の世界が存在する可能性があります。

 『神の国はあなたがたの間にあるのだ。』(ルカ17:21)


 信仰の本質的な事は何だろうか。それは私達が霊の存在としてのキリストを信じるかどうかであろう。どうも究極的キリスト教の目的とその生き方は、その辺にあると私は考え始めている。霊の存在として、今感じられ、私達の心の中に住んで下さるキリストを信じるかどうかが、究極的に言えばキリスト教の本質なのではないのか?

 聖霊の神、父なる神、子なる神はそれぞれ三位一体の存在として、私達人間の心の中に今この瞬間にもお住まい下さることができる。『……父である神は…、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。』(エペソ4:6新共同訳)

 私は、目には見えないが、三位一体の霊的存在を信じる。

 パウロはこの宗教の目的について、『主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。』(テサロニケ第一5:10新共同訳)と言っている。キリスト教は究極的に言えばキリストを心に宿すこと、聖霊の形で今この地上に来ておられるキリストを認め、信じ、この地上での生活をキリストと共に歩んで行くことであると私は考えている。 


 こうは考えるものの、本質だけで信仰が成り立っているわけではない。聖書の中の他の様々な病気の癒しや、奇跡の記事も、事実として、謙虚に受け止めなければならない。聖書を読んで行く時、総てを最初から疑うのではなく、いわゆる信仰的な受け取り方も必要だろう。

 歴史的事実としてのイエスの存在と、そのなされた、数々の奇跡、宣教にも目を留めるべきだし、聖書はただの神話ではなく、出来る限り(あなたの理性が許す限り)それらを事実として受け入れなければなるまい。

 処女降誕しかり、ガリラヤ湖でのイエスの水上歩行しかり、5つのパンを5000人に食べさせたことしかりです。その他何を挙げようか、死者を生き返らせ、盲人の目を開け、様々な病をイエスは癒した。これらすべてを事実として、私は信じています。それは私の信仰であって、誰からもとやかく言われる筋合いのものではない。そして現在も私達が聖霊に満たされ、聖霊のバプテスマを受けるならば、使徒時代と同じことが、各種の霊の賜物が与えられて、起こるはずです。


 イエスの十字架の死は全人類を救うための、神が備えた贖いの供え物です。この事を信ぜずにキリスト教は成り立たない。

 十字架は単なる聖人イエスの殉教死ではない。偉大な宗教家イエスの、私達から見れば誠にお気の毒な、単なる無実の死ではないのです。神の子イエスの、私達個人ゝの罪を背負われた、贖罪の死であることを認めよう。そのことを信じられないなら、キリスト教の本質の最も大事な教理を失うことになります。

 十字架は、最も本質的な神の愛をあらわす、言わば永遠のモニュメントです。


 割礼や断食、ナジル人の誓い(民数記6:1~6)物断ち等宗教的儀礼は、その時代においては、神に近づく為の手段として、何らかの意味はあったのであろうが、それらは本質的問題ではない。


 礼拝形式も時代の変遷で変わってきている。オルガン、ピアノなど2000年前にはなかった。讃美歌を含めた教会音楽や、礼拝形式など、どれも本質的問題ではないのです。


 豚肉は汚れていると考えられ、ユダヤ教でも、イスラム教でも、今でも食すことは禁じられています。牛肉と羊の肉等は食することは許されています。

インドのヒンズー教徒は牛は神の使いであると言う理由で食べない。宗教によって様々な形の食に対する考え方があるのであるから、それらに対して私達は寛容になるべきだ。

 当時、ユダヤ教徒の急進的な一部の人々の中には宗教的信念から、菜食を採用したグループもいたようです。何を食べたから救われる、何を食べないから救われないと言うことはない、とパウロは言っています(ローマ14:15,17新共同訳参照)。

 さらに、人々はぶどう酒はクリスチャンになっても飲んでいたようです。当時キリスト教会では、愛餐と言って、教会で集まって食事をすることが度々おこなわれていたようです。教会には貧しい人々もいたので、食事を提供することは、教会の働きの一部であったのだろう。しかし、他の人のことを考えず、早く教会に集まったものが先に食べてしまうというような礼儀に反したことが行われた結果、ある者は満腹であるのに、ある者は飢えているという極端な現象が生じたこともあったようだ。その中には酔っている人もいた、と書かれているので(コリント第一11:20,21新共同訳参照)、どう考えても飲酒は行われていたようです。

 イエスは、罪人や取税人を招いた。彼らと一緒に食事をした時、罪人や取税人との食事の中で、ぶどう酒を飲んだのだろうか?(ルカ7:34新共同訳参照)

 また、ナタナエルがイエスの弟子として召命された直後、彼の親族か友人の関係で、カナで催された婚宴にイエスと弟子達は招待された(ナタナエルはガリラヤのカナ出身)。

 当時の結婚式は盛大で、村を挙げての婚礼であったようだ。場合によっては、一週間も続くこともあった。

 ところが、カナの婚礼の席で、お祝いに欠かせない、ぶどう酒がなくなってしまった。

 この時、イエスは大きな甕6つに水を注がせ、奇跡によって水を、たちどころにフレッシュぶどうジュースに変えてしまった(SDAエレン・G・ホワイトの解釈)。


 しかし、その奇跡の解釈はそれで良いとしても、その前に婚礼の席で飲まれていた普通の飲み物はぶどう酒であったはずだ。それらの飲み物を弟子たちもイエスも当然飲まれたことは、想像に難くない。ただ、イエスと弟子たちが、婚礼の最後頃、途中出席であったなら話は別になるが。


 アメリカを中心に発展していったプロテスタント教会の比較的新しい派は、どこも禁酒禁煙を採用している。しかしカトリック教会や、ギリシャ正教、ロシア正教、聖公会、ルター派など、古い教派は飲酒を認めている。

 聖書全体の思想は『酒に酔ってはいけない、それは乱行のもとである。…』(エペソ5:18口語訳)。『肉も食べなければぶどう酒も飲まず、……望ましい。』(ローマ14:21新共同訳)とあるので私は聖書全体の思想から禁酒が原則として導き出されるのは当然の帰結であると考えます。要するに、時代的背景の中で、神は人間の理解力に応じて、様々なことを許されているが、究極的に考えて何が神の御旨であるかを洞察することが大事です。


 2000年前は、冷蔵庫もなく、ガラス瓶もなく、菌を消毒して保存する術がなかった。ぶどう汁はほっておけば、すぐに発酵が始まってしまうのです。

 一般的に言えば、酒を飲めば私達の判断力が鈍る。健康にも良くない。酒を飲みながら、聖書を読み、聖なる霊を求められるだろうか。酔って教会に足を運べるだろうか。様々な飲酒の弊害を考える時、酒を飲むことは決して勧められない。酒がどれくらいの害悪を社会にもたらしているかは、枚挙のいとまもない。たとえば飲酒運転によってどれほどの尊い命が奪われてきただろうか。どれほど多くの家庭がアルコール中毒者によって破壊されてきたか。また、暴力と、淫乱の原因になり、多くの人を不幸にしてきたか。


 医学的には肝硬変、肝癌等の原因となり、人々の寿命を縮めてきたのです。私は個人的には酒は飲まない。酒の害はどんなに強調しても良いと思っています。禁酒禁煙はプロテスタント教会の採用するクリスチャンのスタンダードとして既に現代において確立しています。聖書の時代、どうも弟子たちを含めて、ぶどう酒は飲まれていたようだと類推することによって、禁酒の原則を崩すことは、私には生理的に無理だ。教会は禁酒禁煙でなければならない。この原則は、教会を世の光、地の塩とするためには堅持しなければならない。


 しかしそれは本質的な問題だろうか。そこは大いに議論する余地があると思っています。

 酒を飲まないことが救いの本質的問題ならば、断酒会に入っている人は皆、酒を飲まないわけだから、救われていることになります。救いはイエスの十字架の贖いによるのだから、その考えはおかしいだろう。酒を飲まないことは、魂の救いの結果であって、救いの手段ではない。 


 様々な宗教儀礼は何のためであったか、先に結論を言ってしまえば、それらは、その時代には、神に近づく、部分的な手段であったと言えよう。週に二回の断食(ルカ18:12参照)、手洗い(マルコ7:3参照)種々の清め(マルコ7:4参照)割礼、宮への捧げもの(マルコ1:44)、ナジル人の誓願(民数記6:2~8)、物断ち、新月ごとの安息日(イザヤ66:23,詩篇81:3参照)神殿で行われていた儀式等、これらはすべて本質的な問題ではないだろう。私達は過去の宗教的儀礼の残滓に囲まれているのではないだろうか。


 少々脱線するが、聖書は奴隷制度を容認している説、王権神授説、様々な本質から離れた、聖書に対する政治的宗教理解もあった。過去には十字軍に参加すれば、それをもって生涯の罪が許される(贖癒)と教えられていた時代もあった。これらを一々解説はしないが、奴隷制度と王権神授説についてはちょっとだけ触れておこう。  

 総ての魂が救の対象であり、男も女もなく、人種も、未開人、文明人、自由人、奴隷の区別も無く(コロサイ3:11参照)神の前に平等であるならば、当然奴隷制度はパウロがいた時代の、社会悪の残滓であることくらいわかるはずです。

 

また、『権威者(支配者)は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。………』(ロ―マ13:4新共同訳)と書いてあることをもって、絶対王政を正当化することなどできようか。

 民主主義は神から与えられた制度などと、主張するつもりはないが、2000年前に、王政あるいは帝政等により政治が執り行われていたのは事実であり、歴史の必然なのであろう。

キリスト教は主に魂の救いを、その社会の政治体制の枠組みの中で説いたのであって、第一義的に政治制度の改革を唱えたのではなかった。目的は政治改革や革命ではなく、あくまでも魂の救いであった。

 聖書が第一義的に、政治改革を主張していないからと言って、絶対王政は神から与えられた制度なのだろうか。そんなことはありえない。

 神の前に全人類が、その魂の価値において平等であると言う聖書の本質的な考えの中で物事を理解して行く時、結果的には自由平等を基本とした今のような政治体制、国民主権、民主主義になって行ったのではないか。

 選挙によって自分たちの意見を反映させることが出来る代表者を選び、それによって議会運営をして、法律を作り、内閣及び行政組織により政治を実行し、司法によって法律を監視する。これらの三権を分立して政治を行う。また、宗教は政治とは分離し、宗教自由の原則を貫く。これらの制度は、専制政治や宗教の強制等の過去の歴史のあらゆる失敗、過ちを学んだ人類が、やっと到達した知恵の産物ではないか。 


 宗教の世界では、今だに、儀礼的、習俗的習慣から抜け出せず、神が本質的に私達に教えようとしていることが伝わってこない。聖書そのものが2000年前に書き終わった書物なので、その当時の奇妙な習俗、文化、慣習がそのまま入り込んでいる。

 例えば礼拝時に女性は被り物をする風習があった(コリント第一11:5,6参照)。

 例えばアブラハムが生きていた時代は、今から約4000年前にさかのぼるが、二人の人が神に誓いを立てる場合、お互いの股の下に手を入れて誓いを立てる習慣があった(創世記24:2,3新共同訳参照)。現代において、そんなことをしている民族はあるまい。そこまでさかのぼらなくても、イスラエル民族には色々な慣例があった。割礼、断食、種々の祭日、祭日に伴う特別安息日、新月ごとの祭り、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭り。様々な食物の禁忌規定、食事の習慣、念入りに手を洗ってからでないと食事をしないなど(衛生的には大変良いことだと思うが。)、ナジル人の誓い、物断ち等。

 イエスの物断ちについて、『…わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」』(マタイ26:29新共同訳)と書かれている。イエスは最後の晩餐以来、天に帰ってから、ぶどうの実から作られたものは一切飲んでいないはずである(禁酒に通ずる)。

 女性は、静かにしていて、従順に学ぶべきだ。(テモテ第一2:11,12新共同訳参照)これもしかり、当時の奇妙な習俗、文化、慣習であった。

 実際男性の私としてはこのようにしていただけたら助かる。私としては個人的には、女性の無駄なおしゃべりには、常日頃、辟易とさせられている。これは女性差別であろうか。さらに女性は、結婚して『……子を産むことによって救われ…』(テモテ第一2:15新共同訳)るともパウロは書いている。はたして子を産まない女性は救われないのだろうか?そんなことはない。主にあっては平等であり未開人、文化人、男女の差別はない(ガラテヤ3:28,コロサイ3:11参照)。

 『婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。……』(テモテ第一2:12新共同訳)とも書いてある。女性は教師にはなれないのだろうか、そんなことはない。これらの勧告は時代的なものであったと私は考えます。

 女性でも長老になる事、又正式な牧師になる事は出来ます。教会組織の中で、どの派にも言えることだが、長い間女性牧師が認められなかった経緯があります。これは女性差別と言われても仕方がないであろう。SDA教会でも最近になって女性でも長老になり、又正式な牧師になれるようになったはずです。聖書の言葉を解釈するに、それがその時代に限りに与えられた、時代的なメッセージであるか、永遠の真理に属する普遍的なメッセージであるかは、常に祈りつつ、神学的思考も働かせながら考えて行かないと、大変間違った方向へ行きかねない。


 例えば、アブラハムの孫ヤコブが妻を複数持っていたから、一夫多妻はは許される、こんな解釈をしたらとんでもないことになる。他教派であるが、末日聖徒イエス・キリスト教会(通称モルモン教会)は昔、創立当初そのような解釈をし、一夫多妻制度を実行していた。教祖のジョセフ・スミスが妻を複数持っていたことは有名な話です(今は解釈の変更をして公式には一夫多妻制度を行ってはいない)。 


 ナジル人とは神に対して誓願を立てた人のことを言い、ナジル人という人種がいたわけではない。誓いを立てたら、その誓いが実現するまで髪は切らなかった。実現した段階で、髪を剃る事で、ナジル人の誓いから解き放たれた。 

 一定期間ナジル人になった人はどうだろう。当然髪は長くなっているはずだ。

 サムソンは生涯のナジル人であった(士師記13:5参照)。サムソンの怪力は、髪の毛を切らないところからきていた。

 ところが、長い髪を伸ばすのは男の恥であるとも書いてある(コリント第一11:14参照)。

 ナジル人とは、恥をもいとわず、神の誓いを優先している事を、周りの人々に表現している、長い髪をした男の人達だったのだろうか。様々な文化的風習はすべてその時代に限られていたものであって、全て普遍的な原則ではない。


 しかし、髪の毛に関して言えば、今でも日本では男の長髪は好ましく思われていないはずです。昔、私が若い頃、既に53年程前のことではあるが、若者がこぞって長髪にした時代があった(私も含めて)。日本では男が髪を伸ばすのは、聖書が言う通り恥ずべきことなのだろうか。そんなことはもうどうでもいいことになったのだとしたら、問題に感じている私の頭が古いのだろうか。


 現代の私達も、見回して見れば、様々な儀礼的制約の中で生きている。自分がそれに気が付いていないだけで、お盆の墓参りや、正月の初詣で、門松を立てたり、しめ縄を飾ったり、日本の神道や仏教からくる風習に縛られてはいないか。

 町内会とのお付き合い、夏祭り、盆踊り、一周忌、三回忌等の仏事、七五三や宮参り、端午の節句等、異教の習慣と風俗の中で、それらを行うのがあたり前のように感じ、けっこうな経済的な負担を感じながらも、冠婚葬祭などに縛られている。普通に生活し、日本人として平均的に生きて行く為には、様々なことをやって行かなければならない。しかし、それらの事は生きて行く上での本質的な問題なのだろうか。


 ユダヤの儀礼的な宗教行為、例えば割礼や、食物の禁忌規定には、私達は日本人であるから縛られてはいないが、神道と仏教からくる、無意味な習慣、習俗に縛られてはいないだろうか。いったい何が本質的問題なのだろうか。いっその事ユダヤ文化を研究し、身も心もユダヤ人のようになり、様々な儀礼をおこなってしまおうか、これは冗談ではあるが。 


 聖書の中で何が一番大事かというと、イエスの十字架と復活です。パウロはコリント書の中で、『最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。………』(コリント第一15:3~6新共同訳)と述べている。

 十字架と復活は時代的なもの、民族的なものを越えています。聖書の中で最も大事な、教えなのです。


 聖霊に満たされ、聖霊のバプテスマ(使徒行伝1:5参照)を授けられることも大事なことの一つです。


 テサロニケ教会の信者は『…すべての信者の模範となるに至った…』(テサロニケ第一1:7新共同訳)とパウロによって評価されているほど、善良な人たちであった。これも大事な生き方です。私達は一人で生きているのではないから、常に同信の兄弟の事を考え、助け合って生きるべきだ。信仰の兄弟に対しては特に親切に善行に励むよう勧められています(テサロニケ第一4:9,ガラテヤ6:10参照)。

 『……たゆまず善いことをしなさい。』(テサロニケ第二3:13新共同訳)信仰と関係がない人々にも良い関係を築いて行くことは必要だ。こういう意味では、バランスの取れた近所づきあいはしなければならないだろう。『……キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。』(ローマ14:18)


 結論を言えば、とにかくキリストと共に生き、常にキリストのようにふるまいなさいと言うことだ。私達は、真剣に祈り求めれば、目には見えなくても聖霊が下って来ているのだから、『……生きることはキリスト……』(ピリピ1:21口語訳)になり、食べること、飲むこと、考えることの中に聖霊が関与し、私達の心の内におられるキリストが、総てのことを、なしてくださるのだと言う自覚を持ちたい。

 キリストが考えるように考え、自分の思いではなく、キリストがなさりたいことをして行く。大げさに言えば、少し不遜ない言い方であるが、良い意味で、自分がキリストに似てしまえば良い。別に自分がキリストそのものになって、「我はキリストなり」などと、新興宗教の教祖のようになれと言っているのではない。ここは誤解の無いように理解してもらいたい。私は安っぽいシャーマニズムを説いているのではない。

 キリストのように考えキリストのように行動しなさいと言うことだ。自分が最大限キリストに近づいて行くと言うことだ。

 他人が自分を見て、人格者として良い意味で評価してくれるようになれたらどんなにうれしいことだろう。「あの人はキリストのようだ。」などと言ってくれたらどんなにうれしいことであろう(今まで長い人生の中でそんなことを言われたことはただの一度もないが)。そんな時が来れば、私も真のクリスチャンです。でもまだまだそんな時が訪れてはいない、まだまだ未熟な私です。

 いつも十字架を見上げながら、また復活の希望を心に宿しながら、天からの聖霊の満たしを戴いて、内住のキリストと共に生きること。これこそキリスト教信仰の一番大事な本質的な事ではないか。もちろん、内住するキリストの聖霊から戴いた愛の力を持って、神を愛し隣人を愛していくことも大事なことです。 

 『愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。』(ローマ13:10口語訳)

 要するに何が本質か、何が付随するどうでも良いことなのか、宗教の世界においても思慮深く、自分なりに、理性を働かせ、常に自分の宗教理解を反省して行くべきだ。祈りのうちに、本質的なものは何かを、見抜く霊性が必要になろう。良い意味で私達は知的にならなければならない。  

 聖霊の神に、本当の大事な『……知恵と啓示との霊を与え、……』(エペソ1:17新共同訳)て下さるように、祈りつつ歩んで行こう。 


 最後に『…あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。』(ローマ14:16新共同訳)と言うパウロの言葉に耳を傾けよう。

 私達は宗教を動機とする様々な行いについて、自分では善いと思ってやっていることも、他人のそしりにならないように気を付けよう。宗教的な行いが、人々の目に奇異に映ることは、他の宗教を含めて良くある話です。元々、宗教というのは自己満足的な面があるのは、しょうがないかもしれない、そういう面を含めて宗教なのだから。


 福井県にある曹洞宗の大本山、永平寺の若い修行僧達をテレビで見ました。それは大変な時間を座禅と、様々な生活上の規律の実践をして、厳しい修行に耐えていた。他宗教ながら、その真面目な道を求める姿に感動した。朝起きてから、顔を洗う所作、食事、勤行、作務、寝ることまですべて修行です。仏教とは言え、尊敬に値します。しかし皮肉な見方をすれば、彼らのやっている宗教的実践は、自己満足的なものではないのか。そんな疑問を感じてしまう。修行を終え、山を下りて、俗世間に帰って行くあの若い僧達は、永平寺で培った純粋な道を求める生き方を、本当に生涯続けて行くことが出来るのだろうか? 


 また、別の仏教系の新興宗教S会の信者が、熱心に唱える、お題目が、エクスタシー的、恍惚感をもって、聞こえてしまうことがあります。あのような独特のリズムを持って唱えられるお題目のような、繰り返しの宗教的行為は、まことに私達の目からは奇異に映る。あれが宗教学で言うトランス状態なのだろうかと思ったりする。それは彼らにとっては修行みたいなものだと思うので、余り批判することは避けたいとは思いますが。 


 そんな他宗教を批判的な目で見てしまう私達はどうであろうか。私達クリスチャンの宗教的行為も、けっこう周りの人たちに奇異に映っているのではないか。『…あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。』(ローマ14:16)とのパウロの言葉を心に留め、私達も大いに注意をしなければならない。

 「私はSDAなので、お茶は飲みません、コヒーも、酒も、刺激物は一切健康の為に摂りません」と未信者の前で言って憚らなかった一時代前の熱心なSDA信徒を知っています。もうだいぶ以前に亡くなった方であるが、彼が元気で、私も若かった昔の話です。一緒に未信者宅を訪問すると、田舎なものだから、必ずと言っていいほど、相手は緑茶を勧めて来ます。そばにいた私は、何をこの方は言い出すのだろうかと、いつもヒヤヒヤしていた。未信者にとって、ずいぶん奇異な宗教に映っていたのではないだろうか。


 『……キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。』(ローマ14:18 )の言葉を繰り返すことによって、この一考察を閉じることとします。

 
 
 

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