②A,B聖書の概略とその救い
- ktanaka33014
- 2018年12月24日
- 読了時間: 58分
更新日:2025年12月24日
A信 仰 の 軌 跡
信じ方について
この文書は聖書を神の言葉と信じ、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れたある程度信仰経験を持っているクリスチャンを対象にして書いています。キリストを受け入れた以上、その時点で救われているのは確かなことです。しかし、信仰に入って信者になったのは良いことだが、その後の信仰の持ち方については、個人に任されていることがほとんどです。もう少し信仰の持ち方についてのサジェスチョンがあっても良いのではないか。
私の51年間の信仰生活をもとに、信仰の軌跡を振り返り、それが皆さんの信仰の道標になれば、余り回り道せずに、信仰生涯を進んで行っていただけるのかなとの思いで、書くことにした。なんせ、人生は短く、時間は限らすれているのだから。
イエスが十字架刑についたとき、イエスの両脇に、強盗を働いた為に、十字架刑になった人達がいた。2人のうち1人は最後までイエスを信じなかったが、1人は十字架の上から、イエスを救い主として受け入れ、人生真にギリギリのところで救われた。
『「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』(ルカ23:42,43)
今日あなたはパラダイスにいる。死刑になるほどの罪を犯した強盗が、具体的にどんな犯罪をしたのかは、聖書には書かれていませんが、この強盗が、イエスに、今一度、御国の権威をもっておいでになるときは、私を思い出してください、と言ったら、その場で生涯してきたすべての罪を赦され、今日あなたは天国にいるであろう、とのみ言葉を、お約束としていただいたのです。一瞬のイエスに対する信仰告白でこの強盗は全部の生涯の罪を赦されて、天国へ入る資格を得ました。
今、あなたはどんな信仰の持ち方をしたのですかと、イエスは十字架上の強盗に聞かれなかった。信仰は、その人が真実にその時点でイエスを救い主として全面的に受け入れるならば、どのように信じているかは、ある程度、個人のとらえ方に任されています。
使徒パウロも、様々な信仰の段階にある信徒たちに対して、多様性を認め
『ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。』(ピりピ3:16口語訳)
『……各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。』(ローマ14:5口語訳)と言っています。
それぞれの人によって信仰の持ち方には微妙な違いがあります。人間に個性があるように、ある人はこちらの方が重要だと考え、別の人は別の真理の側面に触れて、そちらの方を強調します。それぞれが達し得たところに従って、確信を持っていれば良いのです。
私が25歳の時、千葉にある全寮制の日本三育学院カレッジ・キリスト教学科を1年休学し、学生伝道者として、甲信越地方のある集会所(当時は聖書研究会)で働かせてもらったことがあった。土曜日の、安息日になると、学生であったこの私が、僭越ながら、礼拝説教や、教科の研究をしていた。そこの長老さんは、既に故人となられた方であるが、安息日の午後はひたすら信徒同士でのお交わり、楽しいおしゃべりにお過ごしになり、真面目な熱心な方ではあったが、会話の内容は、三育のごまバターの話であったり、自分はカフェインが入っているから、緑茶も飲まないという話であったり、若い私から見ても、話の内容が偏っているのではないか、この毎週伝道にも余り行かず、3~4名で食事後、午後4時頃、帰るまで同じような話をしている、こんな状態で良いのだろうかと、疑問に思った事があった。その当時は規模としては、まだ小さな聖書研究会であったが、今から考えれば、ハッキリこういう時間の過ごし方は良くないですよ、と忠告した方が良かったかも知れない。若い私には年輩の長老さんに対して遠慮があったことは言うまでもない。(長老とは教会の役職のことで、主に信徒の代表者で、信徒全体の世話をする人)
それぞれの信仰の確信、個性を尊重することは、良いことであり、パウロもそのように言っていますが、しかし、いつまでもそのままでいて良いのでしょうか。自分が主にあって、永遠の命をいただく希望を持って、眠りにつくまで、信仰の持ち方については、これで良いのか、こう考えていった方が良いのではないか、と自問自答し成長していかなければならないのではないだろうか。
もちろん、こういう意味で私も成長段階の一人であり、自分が今持っている、イエスに対する信仰の立場が、これからも発展していく可能性があるし、又発展していかなければならないだろう。
自分の信仰の持ち方が、模範的ものだとは思っていない。特に教会のご奉仕の面では、今はほとんど何もやっていないので、反省すべきことは多々ある。つまり、私が書くものが最終的な信仰経験の理想的な結論ではないし、もしかしたら、今私が到達したと、思い込んでいる境地ですら、間違っているかも知れない。
使徒パウロも、自分の走ってきたことは無駄に走ってきたことではないかと、第一次エルサレム会議に出席し、そこで当時のエルサレムの教会の主だった人々の意見を求めた。それまでパウロは自分の回心後ほとんどの12弟子達とは会わず(ペテロとヤコブにだけは会った)17年間にわたって自分独自に専ら異邦人伝道を続けていた。
『……自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。』(ガラテヤ2:2)
あの偉大な弟子パウロですら、自分の信仰を振り返り、回心後、17年たってはいましたが、エルサレムへ上り、ペテロたちの意見を求めたのです。それなら、私たちは?言わずもがなです。
前置きが長くなったが、自分の経験から言えることは、この私、SDA八王子キリスト教会において21歳でバプテスマを受け、信仰に入って間もなくは、今になって考えてみると、神を求める求め方も、ずいぶん自己流で、熱心ではあったが、どことなく変だった。
こういうように信じるんだよ、あなたの信じ方はチョットおかしいよ、とは誰も自分に言ってくれなかった。信じ方は、見えない心の持ち方であるので、手取り足取りして指導をやりにくい問題です。教会に行くことは行っていたが、自分としては非常に信仰の持ち方は、手探り状態であった。
まずキリスト教の、神たるものの性質も、ほとんどわからず、祈ってはいたが、その祈りは物質的であり、現世利益的であり、ご利益信仰的であり、今思えば何かおかしな信じ方をしていたようにも思える。でも哀れみに富む神は、そんな信じ方をしている私にさえ慈愛をもって、暖かくそばで、優しく私の信仰の成長を見守ってくださっていた。
12弟子でさえ、最初の時期には、イエスの言葉を本当には理解していなかった。
『十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。』(ルカ19:34)
ある真理については、私の信仰の目からは、その時は隠されていて、見えない、そんなことが信仰の世界にはあります。
『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。』(ヨハネ16:12)そんな聖書の真理もあるのです。
ただそれでは、いつまでも隠されたままでよいのか、そうは思えない。必ず、早い遅いはあっても、聖書が期待している、信仰の持ち方へ、祈りとみ言葉の研究と、瞑想と、信仰経験が増す中で、試練や、人生の艱難苦難にあいながら(なければ一番いいのだけれど)、やがてハット、信仰にとって一番大事な事に気が付くような瞬間が、それぞれの信仰の人生の中に訪れる。心がけなければならないのは、イエスから常に離れないこと、そして良く考えることです。古の賢人も言っている、
『順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。……。』(伝道の書7:14口語訳)と。
目標をしっかり持とう
前述したとおり、人生は短く、時間は限られているので、目標をしっかり持とう。
何の目標か?信仰の持ち方の目標です。お金をためたり、仕事で出世したり、大学へ入ったり、そういう目標もあるかも知れませんが、ここでは信仰の持ち方の目標に絞ります。結論を先に言ってしまおう。それは、もちろんイエス・キリストが言った、人生の究極の目標です。どんな信仰の持ち方であろうと、このイエスの言葉に優るものはありません。
究極的な意味での律法、すなわちイエスの戒めが信仰の持ち方の目標です。
『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13)
友のために命を捨てるほど愛することが、最大の愛であり、そこまでいかなくても、人の為に、多少犠牲になってあげるとか、家族のために自分のやりたい事を少しは我慢するとか(愛としては小さな愛ですが)このようにすることが、イエスの戒めの意味ですし、私達の信仰の持ち方の到達点です。
私はこの御言葉の前に立つと、「神様ゴメンナサイ、私はとっても自分の命が大事で、利己的な人間で、人の為に命を捨てられません」と祈るしかありません。しかし聖書の他の場所に、
『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』(マルコ10:27)とある。
ヨハネも言っている
『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)
大変な事を12弟子の一人、愛の使徒と言われたヨハネは、ここで言っています。これが真面目に言えて、実行できる人が本当にいるんだろうか。これが聖書の言う律法の本質なんだろうか。これが出来なければ、皆罪人なら、私も含めて私達皆罪人です。
しかし違った面からもう少し考えて見よう。命は良く考えると時間に等しい。時間の連続が命を形成している。今瞬間にも命があるが、命を継続して送ることができるのは、時間が継続して持てているからだ。完全に命=時間とは言えない気がするが、仮に、命=時間と考えるならば、友のために命を捨てるとは、友のために自分の時間を少しでも削って行くことではないか。自分のやりたい事ばかり、自分本位の生活の中でやっていく事は、この法則に反するだろう。友と言わず、他人のために、何か自分の時間を割いてあげて、やってあげることが、命=時間を捨てることではないだろうか。それが時には大きな愛になり、中程度の愛になり、最も小さな愛になる場合もある。例え、小さな愛であっても、皆がこのキリストの言葉の原則に生きるならば、それは積み重なって、良い意味での変化を周りの人々に及ぼしていくのではないだろうか。これが信仰の持ち方の、結論ではないかと、私は思っている。
結論から先に言ってしまったが、これから私が、どういう信仰の過程を経て行ったか、自分の信仰の持ち方の変遷を書いてみたい。
ある友人との出会い
私22歳の春、まだその当時は千葉の楢葉に校舎があった、日本三育学院カッレジ・キリスト教学科(全寮制)に入学した(現在は大多喜に移転)。入りたての1年生の時、沖縄出身のTさんと同室になった、T先輩は本当にまじめな方で、農業部で一緒になり、色々教えていただいた(三育学院は労作教育と称し、色々な部門で労働をさせる、レートは低いがちゃんと賃金が、働いた時間に応じて、学生に支給される)。私はといえば農業は苦手で、一生懸命やることはやっていたが、1年で農業部はやめさせてもらい、2年目からは園芸部の方で働くことになった。Tさんは沖縄の人らしく純朴で、一生懸命キャンパスライフを過ごしておられた。安息日である土曜日の午後などは、もっぱら福祉活動にあてており、学院の近くの老人の所を訪問し(その老人は、ほぼ寝たきりであったと記憶している)体をさすってあげたり、マッサージしてあげたり、爪を切ってあげたりしていた。私も何度かTさんに誘われて、お供した。それはもう、こんな親切なことは、とてもできない、私にはとてもまねできないと、ただ敬服するばかりであった。
そんな、真面目な、立派なTさんであったが、ある時私に、大学寮の部屋の中での雑談中、「田中さん、私は祈っていて、苦しくてしょうがない、田中さんはどうですか……。」と衝撃的な告白をした。実は自分は、神様に責められてしょうがない。苦しくて苦しくてしょうがない、と言うのです。あんなに親切で立派な行いをしている方の、告白は、そのときのわたしには本当に衝撃的でした。良心的であればあるほど、律法に忠実であろうとすればするほど、『わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。』(ローマ7:24口語訳)このパウロのローマ書の言葉通りです。Tさんはあんなに親切であったのに、心の中は、苦しくて苦しくてしょうがなかったなどと誰が想像できたでしょうか。
私は信仰の持ちたての頃は、神の律法を表面的には、守っていると思っていました。嘘はつかないように注意していましたし、人のものは盗まないでいましたし、自分が高慢にならないよう気をつけ、常にな謙虚な姿勢でいましたし、人を憎まないよう努力していました。
何か罪を犯したなと感じたときは、夜寝る前に、祈りの中で反省し、神と自分との間ではありますが、罪を告白し、十字架の血によってお赦しくださいと、毎晩祈り、心の中の平安を、私なりに得て、救いの喜びすら感じておりました。しかし、その頃の私の信仰の持ち方は、何か罪というものを、律法の表面的な行いとばかりとらえていて、表面的に、何か現行罪的に、罪を犯していなければ自分は神の律法を守っていると思っていました。実際はそんな軽薄なものではなくて、心の中で思う事がすでに罪だという事を見逃していたのです。Tさんは心の中の罪の葛藤に悩んでいたのです。私もだんだん信仰経験が積み重なり、年齢を重ねることにより、人間の心の中の罪がいかに深く、根を張っているかという事がわかってきました。
キリスト教では外面の行いも大事ですが、戒めはそもそも内面の方がもっと大事です。例えばこの世の法律では人を憎み、殺したいと思っても、思っているだけでは罪に問えない。実際に実行すれば、殺人罪となり、罪の刑罰を受けることになる。この世の法律では思っているだけでは、犯罪にはならない。罪人とも呼ばれない(これを日本の法律的には内心の自由と言う)。
しかし、神の律法では内面の方がもっと大事です。実際に十戒を現実として守らなかった、表面の、行い上の罪も罪ですが、思っただけでも罪です。神の聖なる律法はむしろ人間の思いを問題にします。
『兄弟を憎む者は皆、人殺しです。』(ヨハネ第一3:15)
人を憎まなかった者が、誰一人としているだろうか、こういう意味で私達は皆罪人です。誰がみじめな私を救えるだろうか、心では神の律法を喜んでいるが、それを行う力がないのです、神の律法を行えなくしているのは、私ではなく、『……わたしの内に宿っている罪である。』とパウロは言っています(ローマ7:7~17参照)。
だから人間は、神の前に謙遜になって、悔い改め、キリストの義を被せられ、キリストの身代わりの十字架刑によって、死という代価をもって、買い取られる以外に救いはない。そのことを信じることによって、誰にでも、無代価で与えられる救い。それを罪をあがなう(贖う)贖罪と言う。ただしそれは、自分の努力や行いで贖うのではなく、キリストの功績によって、買い取られるのです。神はキリストの十字架と言う値で私達を買い取ったのです。そのことを受け入れ、自分の事として信じることによって、救いは自分のものになります。信仰とは何か、色々な考え方があるだろうが、信仰の本来一番大事なところは、これらの事を信仰し自分のものにするという事なのです。
そのころの私は信仰の最も本質的なことがわからず、人間は罪を犯そうが、犯すまいが、精神も含めて、肉的な(霊と逆の意味)中に、根本的に売られており、イエスによって買い取られなければ、どんなに表面上律法を守る努力をしても、救いにはならないという事がわからなかった。
『……ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。』(エペソ2:3)
人間は肉の性質を持ち、人間の精神も肉的に堕落しており、一度自分が十字架にキリスト共に磔られ、
『……わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』(ガラテヤ2:19)の経験をして、さらに新しい命によみがえる経験をしなければならないことに、まだ私、その時は理解に到っていませんでした。
神の愛がわからなくなる時
『……神は愛だからです。』(ヨハネ第一:4:8)人間は弱いもので、あまり試練が続くと、神の愛がわからなくなる時があります。私が学生時代、25歳の時、1年休学してある地方で、学生の身分のまま、伝道活動をしていました。初めての働きでもあり、何の経験もないまま、教会の働きをしたため、自分の未熟さの故だったのでしょうか、今から思えば、何の試練でもないのに、自分としては、孤独で、祈っても、その祈りに力がなく、ただ空虚に言葉を天に向かって発しているように感じられ、神の臨在を感じられなくなっていきました。
地方での一人の伝道生活でした。ある一人の文書伝道者が、何年かその集会所に常駐し、そこの聖書研究会の責任を持ってはいましたが、専属の牧師はいませんでした。ですから、毎日、ほぼ私一人で闇雲に働いていたものです。何か祈っても、神が身近に感じられなくなり、神が愛であることがわからなくなってしまいました。表面は変わりなく生活しているのですが、実際には、心の中は、宗教的な焦燥感で一杯でした。
ある時、心を決めて、近くの川原に行って、誰もいないところで祈っていました。その時やっと平安が心に訪れたのです。それは単純なことでした、神は愛なんだなという事が、心に響いてきたのです。「そうだ神は愛なんだ、この神を信じて行こう。」と私は独り言を言いました。
頭で神は愛だと知っていることと、本当に神は愛であるという事を体験する事とは違います。
『……神は愛である。』(ヨハネ第一4:8口語訳)
この短く単純な、神の言葉が、私の心の中に、深く浸透するまで、どんなに時間がかかったでしょうか。宗教的経験というのは、スポーツに似ています、頭で理解しただけではダメなのです。スポーツは理論だけではできません。実際にやってみて、繰り返し練習してみて、初めてできるようになるのです。
神は常に私たちのそばにおられるのです。
『……主はすぐ近くにおられます。』(ピりピ4:5)
感じられても、感じられなくても、それは感覚や、感情の問題ではありません、信仰の問題です。主が私たちのそばにおられるというのは、インマヌエルのお約束です。
『……その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1:23)
『……わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』(マタイ28:20)とあります。ですからそれは、信頼の問題なのです。
時間の待ち合わせで、友人と待ち合わせて、なかなか友人が来ないので、イライラした経験は誰でもお持ちでしょう。(友にもよりますが)本当にその友が、誠実で信頼できる方であったなら、多少待ち合わせの時間に遅れても、あの人だったら間違いない、きっと来るはずだ、と思って、信頼して待ち続けるのではないでしょうか。神様は真実な方です。
『……人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。……』(ローマ3:4)
神は信頼に値する方です。その神に信頼しましょう。あまりに試練が大きく、神が見えなくなってしまうこともあるでしょう、神の愛がわからなくなってしまうこともあるでしょう。でも私たちの一時的な感情や、感覚に頼るのではなくて、神の愛であることは間違いないことなのですから、信頼しましょう。信仰は信じることもそうですが、信頼し任せることがより大事であると思います。
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、』(詩編37:5口語訳)
私が、郵便局で働いていたとき、ある職員が事務ミスをやりました。もう約20年も前の話です。
センターから、突然、調査の照会文書が郵送で来て、どのような状況でこのような事務ミスをしたのか説明を求められました。大変迷い、考え、心の中で祈り、一週間ほど大変でした。ある瞬間、そうだこうすれば良いと名案が頭に浮かびました。数字の読み違えをしたという文書回答したのです。その結果、すべては丸く収まり、無事処理をすることが出来ました。ある晩、10時頃、自宅の周りを、散歩に出て、星を見ながら、すべてをご存知で支配しておられる神に、この問題を解決してくださるように、必死にお祈りしました。夜の散歩中、あたりに人は誰もいなかったので、声を出して祈っていたと思います。この問題が、穏便に処理されるよう心から祈りました。総てを神の御手にゆだねました。その祈りに行きつくまで、おゆだねできるまで3日から4日かかったと思います。でもその時、祈りの中で全部、神にゆだねることが出来たのです。お任せすることが出来たのです。心は久し振りに平安で満たされました。『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。』(ヨハネ14:27口語訳)『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。』(ヨハネ16:33口語訳)何という喜び、何という平安、私の心は、感謝で満たされました。やがて、回答書も無事承認され、ミスやった本人にも、厳重注意をして、1件落着となりました。
私たちは、霊的な世界に生きているだけではなく、様々な犯罪やら、ごまかしやら、偽りに満ちた、現実の世界に生きているのです。人間の心は醜く、いざとなると、自分の身を守るためや、自分の利益のために、何をやらかすかわかりません。一見正直だと見える人間が、自分を守るために、平気で嘘をつくことがあるのです(自分も含めて)。このような、醜い世界に生きている私達が、信仰を全うしていくのは容易なことではありません。でも憐れみに富む神は、私達のその時々の叫びのような祈りに応えて、救いの御手を差し伸べてくださるのです。『……人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。……助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。』(出エジプト記2:23)
理解を避けていた言葉と人生最大の遠回り
私が信仰を持ちたてのころ、どうしても理解できない聖書の言葉があった。否、理解できないという言い方は正確ではない。私がその意味を真に自分の事として理解することを心のどこかで嫌がり、あえて避けてきたと言った方が正しい。それは次の御言葉である。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』(マタイ16:24)十字架は命を捨てる所です。自分を捨て、というのは自分の命を捨てよ、という事です。自分を捨てる、自分の十字架を負え、これは聖書独特の同じことを別の言葉で繰り返す、反復表現です。イエスに従うものは、自分の命を捨てよ、と言われているのです。 前述したことの繰り返しになりますが、真理は一つです。要するに以下の御言葉と同じ意味なのです。『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13)
私はこのことが実践できず、あえてこの御言葉を避けてきたために、人生ずいぶん遠回りをしてしまいました。自分の天職と思っていた聖職を辞し、好きでもないのにこの世の仕事をする羽目になり、管理職として、6~7名の部下の面倒を見て、彼らの指導をすることになり、大部お金の苦労もしてきました。でも定年退職した今、やっと神のこの御言葉こそが、聖書で一番大事な真理であることがわかってきました。この御言葉を理解し実践するためだったのか、ずいぶん人生遠回りをしてきたなあ、とつくづく思います。理解したとは言え、友のために命を捨てられない自分が常に示され、悔い改めの祈りを繰り返すことの方が多く、まだまだ未熟な事ばかりです。
救いに関する予定と予知
神は救われる人をあらかじめ、予定しているのだろうか?『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』(エペソ1:4)『キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。』(エペソ1:11)ここでは予定と予知の神学論争に陥るつもりはない。自分の経験から言えば、やはり予知であり、神はあらかじめ私の人生を、このような遠回りの道を最初から予定されていたとは考えにくい。人間には自由意志があり、私はある時点で、良い方を選びそこなった為に神は、別の道を用意してくださったのだと思う。もちろん、全知全能の神であるから、私が自分の自由意志で選び取ったとしても、その選びも含めて、結果も予知なさってはいたであろう。私達セブンスデー・アドベンチスト キリスト教会は、人間の自由意志を強調する立場を取り、神は全てを予知されているが(選びの結果を含めて)、しかしあらかじめすべてを予定されているのではないという立場をとる。すべてを予定されていたとなると、人間の自由意志はどうなるのか、という大きな問題が残る。しかし、前述のエペソ書をよく見ると、天地創造前に、救われる人と救われない人は決まっていて、あらかじめ定められている(二重予定)、予定されているように受け取れる。正直にそういう解釈も出来る余地も認めておかなければなるまい。
さて、学生伝道していたとき、ある長期に教会に来られなかった方の救いのために、大変な努力をして祈った事を思い出す。何度か集会にお見えになったが、なかなか祈った通りにはならず、完全に信徒として復帰されるまでには至らなかった。神は、人間の自由意志を否定なさらない。救われる自由もあれば、そうでない自由もある。
ある意味、神の方で救いに予定されていた方は皆、信じるようになるのではないか。何かそう考えると気が楽になる。
一方あまり予定的考えを強調しすぎると、今度は伝道する意味がなくなる。何故なら神の方で救いを予定しているとすれば、予定された方々は必ず信じるようになるはずですし、積極的な伝道の意味がなくなってしまう。
二重予定説はジャン・カルヴィンが主張。それらを信じる人たちをカルヴィニストという。彼らは自分が救いに予定されているから、そのまま安心するのではないか。そうではなかった。予定されているかどうか自分でも確信を得ようと、かえって日常生活の中で、勤勉に一生懸命は働くことによって、救いの予定を確認しようとした。逆説的ではあるが、予定を強調することにより、勤勉な、労働意欲が生まれ、それが初期資本主義の成立につながって行ったという。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ウェーバー著参照
調査審判と良心の咎めに関する考え方
私が学生だった頃、毎日、毎日自分のした事を振り返り、夜寝る前けっこう長い間、悔い改めと罪の告白していた。自分と神の前に、心の中で個人的に祈っていた。
昔の聖書解釈では、1844年にイエスは天の聖所の前の部屋の日々のとりなしの働きを終え、至聖所にお入りになり、調査審判を開始なされた。学生時代始めの頃私は、調査審判はいつ来るのか、告白し忘れた罪はないのか、胃の痛くなるような日々を(チョット大袈裟ではあるが)送っていたのです。ヘブル書を、イエス・キリストが昇天後、聖所のどの部屋に入られたか、前提概念なく読んでみると、明らかに至聖所の方に、直に入られたと読み取れる。ご自分でヘブル書をイエスが天の聖所のどちらに入られたか、問題意識をもって、是非読み直していただきたい。
教理も重大な変更が近年あり、キリストは天の至聖所に昇天後、すぐお入りになり、人類のために流されたご自分の十字架の血を携え、父なる神の前に出て、執り成しの祈りをささげておられたが、1844年からは清めの働きをする段階になったのだというように変更された。
ヘブル書の中心メッセージは何か。イエス・キリストが天の大祭司として、昇天後、天の至聖所にすぐお入りになり、神の前に出てくださり、私達のために執り成しのお働きをしてくださっているのだから、もはや死んだ行いの悔い改めや、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学ぶことは、一度横において(へブル6:1,2)、良心の咎めを捨て去り、イエスの犠牲によりすがって、神を恐れるのではなく、愛の神に信頼して信仰の確信に満たされて、神に仕えて行こうという事です。
私の学生時代の経験は、このヘブル書のメッセージとはまるで逆であった。日々良心の咎めを感じながら、悔い改めと罪の告白していた。
このような経験も必要であると私は今も考える。しかし、いつまでもその段階にとどまるのは、聖書、特にヘブル書の趣旨ではないだろう。事実、私の学生時代初期、個人的な罪の悔い改めと告白に拘泥し、あたかも自分の罪の告白の行為そのものが罪を赦すが如く、勘違いをしていたことも否めない。自分の罪の告白そのものが罪を赦すのではなく、あくまでも贖罪、キリストの流された血潮が、罪を赦すのである。その辺は勘違いすべきではない。まるでそれではカットリックの懺悔室の中で、神父に向かって行う告解行為そのものが罪を赦すと同じようになってしまうではないか。
へブル書には、死んだ行いの悔い改めは、もう横において、キリストの、罪の赦しの血、契約の血を信じ切って、良心の咎めを捨て去りましょう、とあります。
『だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、……神がお許しになるなら、そうすることにしましょう』(へブル6:1~3)
『…イエスの血によって聖所(天にある至聖所)に入れると確信しています。……心は清められて、良心のとがめはなくなり、……信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。』(へブル10:19~22)
行き過ぎた良心の呵責に悩むのはやめましょう。天の至聖所において、審判の時が来たからと言って、自分の審判がなされるのはいつだろうと、真剣に悔い改めることは良いことですが、あまり心配しすぎる必要はないのです。すべてはキリストの贖いという確実な救いの基本ベースの上で、天で進行しているのだと思うからです。
ヨハネによる福音書には
『はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)と書いてあります。
何れにせよ、現代のクリスチャンはヘブル書の中心メッセージを、自分なりに、もう一度捉え直すことが、大事なことであろうと私は考えます。
聖所と至聖所を分けていた垂れ幕は、イエスの肉体を象徴し、その裂かれた犠牲の肉体を通り、イエスは神の前に出られたと書いてあることを参考にしてください。
『イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。』(へブル10:20)
『わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。』(へブル6:19新共同訳)
十字架と復活の信仰、三育学院での信仰リバイバル
私達は信仰生活でまだ経験していない分野があることを認める度量が誰にでも必要であろう。
三育学院での学生を対象にした祈祷週の時に、当時鎌倉教会を牧しておられた沖縄出身の儀部先生が招かれて復活体験という事を講演なさった。
私ども学生達は、その牧師の言う事が、さっぱりわからなくって、戸惑いを覚え、ある学生たちは熱心に、寮に帰ってからも、牧師に質問していた程であった。それからしばらくしてのことだろうか。ある学生が、聖書のある個所を読んでいて、聖書が急にわかるようになったと言い出し、その学生を中心に、信仰のリバイバル(復興運動)らしきものが始まった。
らしきと書いたのは、私はその当時、彼らのやっている運動には懐疑的であり、冷静であり、傍観者的立場をとっていたからだ。とにかく、火が付いたら止まらないのが、若さの故か。毎晩のように、小さな聖書研究会と、証と、祈りの集会がもたれた。ある者は泣き出し、ある者は聖霊が見えたと言い出し(聖霊は見えるものなのか甚だ疑問?)、ある者はキリストに対する献身を新たにしたのであった。
前後関係は47~48年前の記憶なのではっきり覚えてないが、このリバイバル運動と並行して、私の心にも、良くても悪くても多大な影響を与え、その後の私のクリスチャン人生を左右するに至った、1冊の本と出会う。「霊の解放」ウォッチマン・ニー著です。(日本福音書房)。当時私はこの本の一言一句を深く瞑想しながら読んだ。その内容は、今から思えば、いくつかのどうしても修正を要する点がありますが、それは後述するとして、簡単に述べると以下のとおりです。
『……あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、……』(テサロニケ第一5:23口語訳)
聖書の教える、人間存在は、霊と心と体からできている。霊は聖霊が宿るところを指し、心は、知性、感情、意志からできていて、体は肉体のこと。それぞれに機能を果たしている。体は霊と心の入れ物であるので健やかで健康であるのに越したことがない。パウロも、体の鍛錬は少しは役に立つと言っている『体の鍛錬も多少は役に立ちますが、……』(テモテ第一4:8口語訳)、スポーツジム等で体を鍛えている人が最近増えている。私もやりたいくらいだが、今は年金生活なので、歩けば同じ効果があるだろうと思い毎日歩いている。さて、心は知情意から出来ていて、それぞれ役割があり、バランスの取れた発達が望ましく、知情意は教育によって成長させ、維持することが出来る。
気が付かない人が多いのが、人間の中心にある霊の部分です。霊は神の聖霊に反応する部分で、人間の奥底にあり、一番大事な部分です。霊はあまりにも奥底にあるので、なかなか外に出てこられない。健康で鍛えられた肉体は良いものです。しかし、ある人にとっては、外側の体の作用が内側の霊の出て来るのを妨げています。知性、感情、意志、すべて果たす役割があり、人間の生活するうえで大変重要なものです。教育はそれらが成長していくのに重要な役割を果たしています。
しかしこの世の人の心と言われる部分、すなわち知情意だけで人間が生きて行けるとしたらそれは間違いです。余りにも優れた知情意が、その人の一番内側にある霊が外に出て来るのを邪魔している場合があります。霊が解放されるためには、一番外側の肉体、次に少し内側の心(知情意)が一度砕かれなければならない。
『またその石(イエス)の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう。』(マタイ21:44口語訳)
イエスによって、肉の人、外なる人が砕かれて、人間の最も内側にある霊が出て来ることができます。高価で純粋なナルドの香油を入れた石膏のつぼが砕かれなければ、香油は出てこない。
『……非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、……』(マルコ14:3)
どうしたら、人間の持っている岩のような心、自我、肉の知・情・意が砕かれるのか。
それは、それぞれ各人の信仰経験の中で、神がお許しになる試練によって砕かれ、苦しみの中でハット気付くことが多い。肉なる自分が死んで、霊なる自分が復活する。十字架に自己が磔られ、新しい自分が覚醒する。十字架と復活の霊的解釈です。
古い自己がキリストと共に十字架につけられ、新しい命に、キリストの復活と共に自分も霊的に新しい命に復活する経験。これが儀部先生の言われた復活経験だったのです。
『……わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』(ガラテヤ2:19)
『さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、……』(コロサイ3:1)
実際には人生のつらい経験を通してこのことが実現していく。その時初めて、「ああそうだったのか」ハットある瞬間気が付いてくる。これが復活経験というものだ、ヤットわかってきた。
「霊の解放」は有益な本であるが、いくつか修正を加えたい。まず第一は、心と体が砕かれれば、霊は人間の中心に最初から入っているものだから、人間の中から霊は解放されるというこの本の書いている根本的な考えに少し問題があります。確かに人間には霊がその人それぞれの中にあると思うが、本来聖霊は上から降って来るものです。そこが違う。イエスのバプテスマさえ、聖霊が天から鳩のように降ったではないか。
『イエスは洗礼を受けると、……神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。』(マタイ3:16)
ペンテコステの時聖霊は上から降って来たではないか。
『突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、……炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。』(使徒行伝2:2,3)
使徒が手を置いたとき聖霊が信徒の上に降ったではないか。
『パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。』(使徒行伝19:6)
人間の中にある霊はあっていいが、それはあくまでも天から降る聖霊に呼応する場所です。人間の中にある私達の霊とアバ父よと呼ばせる御子の霊はお互いに協力し合う。
『神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:15~16)
霊は本質的に天から降るのです。聖霊は、父から出てイエスキリストが受けて、われわれに上から注がれる。『それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。……』(使徒行伝2:33)
修正の第二点目は、この世はそんなに甘くないという事です。あらゆることに細かく気を配りなさいとあります。『……細かく気を配って歩みなさい。』(エペソ5:15)日常の行動において、まず何を始めるにもに霊の現れを待つ、聖霊の満たしを待ち望み、肉の努力を持ってのみ行動しないのは大事です。霊に任せ、霊を受けて行動するというのは大変大事なことです。しかし、実は世の中は肉の世界であり、己の知情意のすべての能力をフルに働かさなければやっていけない時がある。もちろん、こうは言うものの根底には祈りがなくてはならないし、御霊の導きがなければならない。でも、そのことはわかりつつも、霊も心も体もフルに動員し、集中して一生懸命やらなければならない時もあります。私たちはこの世で生きているのです。ある意味肉の訓練も、肉の働きも大事なのです。この二点を修正するならば「霊の解放」の著書は大変キリスト者の霊的生活にとって有意義であります。
B信 仰 の 軌 跡
生ける水が腹から流れ出す経験
生ける水が腹から流れ出す経験において、誤解してはいけないのは、人生このような経験もあった、という事で、常にこのような霊的状況が続いたわけではない。むしろこのような恵まれた経験は、ほとんどの場合、あまり長続きしないことの方が多い。
『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。』(ヨハネ7:38口語訳)
ここで、イエスの言った生ける水とは、神を信じるものに与えられる聖霊の事を言っています。
日本三育学院、キリスト教学科で私が学んでいたとき、一部の学生によりリバイバル運動が起きた。それと前後して、「霊の解放」を熟読することにより、私にも霊的覚醒がもたらされた。すべては神の恵み、憐れみによるのであった。その当時学生のほとんどは、自分も含めて、どこかで求めているのに、それを得ることが出来ない。もどかしさ、宗教的空虚感のようなものが漂っていた。よく思い出してみると、SDA教団の理事長までなさり、近頃退職なさった、島田先生(当時私の後輩であった)も、学生として、何か心の中に、深く考える毎日を送っていたような時代であった。
さて、私は「霊の解放」を読むことにより、十字架と復活の霊的自己体験をしようと、私なりにずいぶん考えていた。いつの瞬間からか、霊が解放されることを覚えた。『キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。』(ローマ8:2)
人生であまり経験したことのないほどの、霊の解放感を覚え、自分の腹から、まさにキリストの霊が溢れ出し、流れ出すような経験を、個人的にしていた。
別に何か熱狂的なるのではない、ただ落ち着いて平静に生活しているのであるが、心は爽やかに、平安と、キリストの内住の喜びで満たされ、自然に、気負うことなく、聖書の言葉や福音を語ることができていた。残念ながら、一時期しか続かなかったが。
ある時、三育学院大学の食堂で、私がY君と話をしていた時、急に目の前で、Y君がキリストの臨在を感じ、イエス・キリストの存在を全面的に受け入れたのであった。Y君は既にバプテスマを受けており、真面目な、アメリカンフットボールが好きな好青年であったが、三育学院に来て、何か、イエス・キリストが自分から遠くに離れているような、虚しい感じを毎日持ちながら、学生生活を送っていたのでした。
食堂のテーブルにY君と対面で食事をしていた時、キリストの救いの話をしていたら、彼は器からこぼれた一粒のご飯粒を指しながら「こんな一粒のご飯粒の為にも、キリストは贖いの血を流されたんですね。」とポツッと一言、言った事が忘れられません。それからY君は確かに変わったと思います。もちろん若いという事もあり、彼が生涯キリストから離れず、良いクリスチャンであり続けたかは、卒業後、彼とは会っていませんので定かではありません。
また、大学の同じ敷地内に建っていた全寮制の三育高校から、引き続きそのままカッレジに進学し、仕方なく学んでいるような後輩が何人かいました。信仰を持っているかどうかもはっきりせず、信仰熱心な親に言われるまま、止むを得ずカッレジで勉学を続けているような何人かの学生の一人が、珍しく私に話しかけてきたのです。信仰のことで求め、私に話しかけてきたのです。
普段だったら、友達にもなれないような生き方、世界観が違う新入生たちの中にそんな人が出て来るとは、私自身にも予想もできないことでした。きっとその時は私の内側から、何かが出ていたんだと思います。何かとはもちろんキリストの霊であったと確信はしていますが。
腹から生ける水が川のように流れだすとはこういう経験なのかと教えていただきました。何度も言うようにこれはその時の一時的な経験であって、長続きしたわけではありません。
神の癒しの経験
話は前後するが、入学してすぐ、農業部にいたとき、たわいない事象ではありますが、信仰をもって初めて神の癒しの経験をしました。農業をやるのにゴム長靴でやっていたのですが、ゴム長の右の足のつけ根の内側が2~3㎝ほど破れてしまった。直ぐ買い替えれば良かったのだが、あまりお金もなかったので、そのまま何日か履いていたある時、カラタチの枝を切っていて、鋭いカラタチの3㎝もある棘が、ちょうどその裂け目のあるところを突き刺し、足の真ん中の土踏まずのところに、ブツッと刺さってしまった。場所は右足の土踏まずの真ん中だったように記憶している。余りの痛さに耐えかね、その場の舗装された道路の端にそのまま座って、うずくまってしまい、思わず、神様「癒してください……、」と、神経を集中し、長靴を脱ぎ、靴下の上から、手を当てながら、半分べそをかいて一生懸命お祈りしました。すると、不思議にも突然パット痛みが消えたのです。こんな経験は初めてだったので、早速、靴下を脱いで見ると、右側の足の土踏まずの真ん中にとげが刺さった、丸く小さな跡があり、にじむくらいの血が流れていました。しかし、その血もすっかりと止まっており、痛みが全然ないのです。その舗装された道路の端にそのまま座って、思はず神様に感謝と喜びの祈りをささげました。そこは学院内の生活道路であり、車はほとんど通りません。労働時間も終了しており夕方になっていましたので、その後風呂場でシャワーを浴び、傷口から毒が入ることもなく完治いたしました。
更に、中部地方のある小さな教会に赴任したとき、またもう一つの実際に体験した癒しの例を書きます。熱心な信者さんで、お年寄りのS さんていう方がいました。ご主人は未信者で、ご主人も亡くなられ、またご自分もそんなに健康ではなく、血圧も高い方でした。あるときSさんが倒れられ、そのまま意識もなく救急車で病院に運ばれ、点滴と酸素吸入をしているような状況で、もうだめかと誰もが思いました。
私は一人でお見舞いに行ったのですが、その時、病室には誰もいなくて、そうだ今しかない、と思いまして、持ってきたオリブ油を、危篤状態のS さん額に塗って、一生懸命にお祈りしました。
『あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。』(ヤコブ5:14,15)
この聖書の約束の言葉を信じてオリブ油を脱脂綿に浸み込ませ、危篤のSさんの額に塗り、祈ったのです。「私は神の前に何の功績もなく、ただ罪深い人間ですが、すべての私の罪を十字架の血潮によって赦していただき、このS姉妹に対する私の祈りをお聞きください。どうぞ元気になるようにしてください。このままお話もできずお別れしてしまうのは、あまりにも寂しいことです。」と、心を込めて祈りました。
むせてはいけないためでしょうか、ベッドは最初から背の部分が起こされておりました。S姉妹は、何の意識もなくお話もできず点滴と、酸素を吸っておられ、鼻にビニールチューブが二又になって通され、チューブは途中、液体を通してブクブクと音をたてていました。
突然痰が詰まったのでしょうか、「ガッフ、ガッフ」と大きな咳をなされ、こちらはあまりにも驚いて、ガタガタと震えながら、こんなことをしたのが良いのやら、悪いのやら、その場を、ホウホウの体で退いてまいりました。
その場では何の変化もなかったのですが、翌日Sさんの意識が戻ったとの、Sさんが親しくしていたある信者さんから連絡があり、病院に行ってみると、なんとSさんがベッドをくの字型にして起きていて、お話もできるではありませんか。「のどが乾いた」と言うので水をなんとか、水差しで、飲ましてあげ、普通におしゃべりをしました。普段は標準語でしたが、どういうわけか、その時は、すっかり関西弁になっておられました。「お元気になり、お話もできるようになり良かったですね。」と言うと、「もう私は目も見えませんし、指も手も利きません。こんなお化けのような状態になってしまって。」などと言うのです。それから1ヶ月後位にお亡くなりになったのですが、突然倒れて、そのまま、何もわからなくなって、お別れするよりは、意識も戻り、お話もでき、お祈りもしてあげられて、本当に良かったと、今でも思っています。
病気が癒される、癒されないは、神の御手のなかにあります。どんなに祈っても癒されない場合もあります。それが現実です。しかし中には本当に奇跡が起きて癒される場合もあるのです。どのように祈ったら癒されるのか、祈りの方程式のようなものはありません。罪を悔い改め、とにかく謙虚になって、神の癒しの力を熱心に祈り求める事、それしかありません。後は御手にお委ねするしかありません。癒しの賜物『……いやしの賜物を持つ者、 ……』(コリント第一12:28口語訳)が初代教会にはいたと書かれていますが、皆が癒しの賜物を持っていたわけではありません。『みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。 ……』(コリント第一12:30口語訳)初代教会ですらそうであったのに、現在はなおさらのことです。でも私達は奇跡が起こること、癒しがあることを頭から否定すべきではありません。例えめったに起きなくても神の癒しがあることは、聖書の中に書いてあるのです。
ここで霊の賜物について触れておきます。救いは全くの、イエス・キリストの贖いのなされた業を、受け入れ、信じるだけで、誰にでも無償で与えられることは、言うまでもありません。信仰による義のメッセージこそ聖書の中心メッセージであります。
それと同等に、キリストを受け入れた者が、毎日キリストに霊的に結ばれる事によって、キリストに似たものとして段々と変えられていくことも聖書の中心メッセージであり、見落としてはならない大事なことです。
しかし、それとはまた別に、聖書の中に聖霊が自由に、個人の持っている能力等に応じて賜物をお与えになることが書いてあるのです。
『…霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。』(コリント第一12:1)
初代教会の特徴に、聖霊の神が、単なるパワーとしてだけではなく、あたかも目には見えないが、どこにでも偏在する、ひとつの人格神として、顕著に、個人個人に臨まれていたことがわかります。
『すると、‟霊”がフィリポに……と言った。』当時は聖霊が自在に弟子たちに明確に語りかけていたようであります。更に聖霊は賜物を、信徒の能力に応じてくださった。賜物の種類はたくさんあり、超自然的な能力もあり、単なる才能みたいなものもある。総ては信者全体に奉仕し、全体の益になるためだと書かれている。
『一人一人に‟霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。』(コリント第一12:7)
次に聖書が掲げている賜物の種類を列挙してみます。
知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力、使徒、預言者、教師、援助する者、管理する者等。
皆が同じ賜物を持っているわけではありません。今私たちに必要な賜物は多くあると思いますが、癒しの賜物がもし誰かに与えられたら、信者全体にとってどんなにか益となる事だろう。医療によっても病気は治りますが、一方難病奇病は増えるばかりで、医者は決してオールマイティーではないのです。
また教会の奉仕とは、それぞれのタラントがあるものが、自分の得意分野において、それを生かして奉仕する事です。これがコリント第一:12章全体の要旨です。
話の得意な人は話をすればよいし、教えることが得意な人は教師をすればよい。例えば裁縫が出来なくても、文書を書くことが得意な人もいるかもしれない。各自の賜物は全体への奉仕の為、皆の為です。教会はキリストの身体であり、優れたところよりも、むしろ必要ないと思われている、劣っているところが必要なのです。体の劣っているところを化粧したり、着飾ったりして、見映えを良くするように、劣っているところこそ大事にすべきものなのです。
神の深い臨在を感じる時
私が中部地方のある小さな教会にいたとき、ある深い平安と喜びの経験をしました。その経験は神の御旨を果たしたという、心の奥底で感じた喜びであり、深い平安でありました。歴史上、迫害された多くの殉教者たちが、キリストのために生命を捧げてきたといわれていますが、きっと彼らの心は特別な喜びと平安が、天から与えられ、大変な艱難の中でも、信仰を全うできたのだと思います。
ある出来事があって、私は行きたくなかったのですが、どうしても使命者として、行かねばならないことでした。あるSDA 二世の奥様と、その方に親しかった最近導かれた奥様が、教会の中で、何かあったのか、二人とも教会に来なくなったと思ったら、何んと、日曜教会に行っているという、連絡をある別の方から受けたのです。どうしてあなたがたはSDAの真理を学びながら、週の第一日目である日曜日を礼拝日にする教会に行かれるのですか、と、どうしても言って来なければならない私の立場があります。人間は自分が嫌でも、したくなくても、どうしても言わなければならないことは言わなければならない、そんな時があるのです。聖書の第七日目こそ、神が定めた礼拝日であり、今の土曜日が安息日である。『……七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。』(出エジプト記20:11)そのことを受け入れてくださったかどうかは定かではありませんが、ある日の夕方、それらの方々を訪問し、ハッキリ上記のような趣旨を申しあげたのでした。私としても決して行きたくありませんでしたし、お宅を訪問し聖句を引用して、お話しするなど、したくないことでした。でもそれが使命者としてしなければならないことですし、どうしても言わなければならないことでした。一生懸命お祈りして実行いたしました。
その夜、普段から健康のためにしていた、いつものジョギングをしていると、どこどこまでも、わたしの心に深い喜びがあり、絶大な平安が、走っている私を包んでくれていたのです。こんな平安と深い喜びは今までも、それからも感じたことはありません。聖霊がその時の私を特別に慰めてくれたのです。残念ながらこの経験がズーッと続いたわけではありません。次の日は平凡な、普段の私に戻っていました。でも、この時のような心の奥底での、平安と喜びは、その後2度となかったので、この経験は私の心の中に強く残っています。『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。』(ヨハネ14:27口語訳)
またそのことがあってから、だいぶ時間がたち、私が沖縄の石垣島にいたとき、私としては人生最大の試練に苦しんでいました。それは、自己中心の、愛のない、自己を犠牲にする事ができない、自分の生き方が総て招いたことでした。言わば、自分の罪の結果が招いたことであり、誰にも相談することもできず、ただ悩んでいました。人生最大のピンチに立たされ、もう、神の前にへりくだり、悔い改め、ただ神の憐れみと導きを乞うしか方法がなかったのです。
ある晩、10時頃、2月とは言え南国ですので、わりと暖かい夜、緯度の関係でしょうか、こちらで見るよりは大きな満月が煌々と照らす、石垣島の野球場の入り口に立って祈っていた時の事です。夜ですので、野球場は閉まっており、入り口にはチェーンがしてあり中には入れません。満月の照らす明るい光に全体が浮かび、神の臨在を醸し出すような雰囲気であった。そこは目には見えないが、聖霊の神が臨在していて、神にまるで手を伸ばせば触れられるような一時であった。確かに神の存在を私は近くに感じていた。
その時は全く分からなかった、将来が見えなかった。神に何とか道を備えてくださるように一生懸命お祈りした。「………新しい職業を備えてください。あなたにできないことは何もありません、………石ころからでも神はアブラハムの子孫をおつくりになることが出来るのだと聖書に書いてあります。」『………神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。』(マタイ2:9)「私には今何もないけど、この悔い崩れた心のいけにえを受け入れてください。」『神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。』(詩編51:17口語訳)「神はわが祈りを今聞き入れてくださった、神は必ず備えてくださる。」という確信をもってその場を退くことが出来ました。祈った時は何も見えていませんでした。しかし、その場で神の臨在を確かに感じ、自分の将来に対する不安は取り去られ、目に見えない神の祝福を、信仰の手によって、ガッチリとつかんだ、夜のひと時だったのです。
忘れもしません、昭和62年5月に石垣から帰って、余り時を置かず、T建設がある局の建て替え工事をしていた時、T建設の常務をやっていた私の叔父が、たまたま、そこの局長と親しくなった。局長と叔父の雑談の中で、「八王子横山町局の局長が6月で定年退職するが、今回郵政の方針で、民間から採用することになった、誰か適当な人を知らないか。」と言われた。叔父は私の父とは双子の兄弟であり、私の家の隣に住んでいて、石垣から帰って来た私を心配していたので、渡りに舟とばかりに、「甥が沖縄からか帰ってきているので、是非お願いしたい。」と言った。それから話がトントン拍子に進み、その当時理事をやっていたO局長を紹介され、私と叔父が一緒にO局長へ挨拶に行ったところ、何とO局長は内村鑑三が創立したキリスト教、無教会派の信者だった。私とは信仰が同じ、キリスト教というわけで、話しも合い、私をとっても気に入ってくれた。
その時の東京郵政局の人事部長が、郵便局に外部の色々な経験をしてきた者を入れて、郵便局をバラエティーに富んだものにしようと考えて、外部の人を局長に採用するようになったことを後で知り、本当に神の導きを感じた。
5月に石垣から帰り、6月23日には局長になっていた。今から38年前、昭和62年(1987年)にあったこと。ただ神の憐れみ以外にない。
もちろん、その後も様々な困難、大小の紆余曲折はあったわけではあるが、その時はわからなかったけれど、今振り返って見れば、あの石垣島で、あの神に触れたような体験の中に、その後の38年が祈りの答えとして含まれていたような気がしてならない。
『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。』(ヨハネ16:33口語訳)
神にすべてを委ねる経験
学生時代に大きな信仰上の経験をしたことはすでに書いた。最終学年を迎え、その頃、卒論や不得意なギリシャ語の授業に追われ、大変忙しい時期を過ごしていた。12月ぐらいだろうか、あまりにも大変で、重荷を感じたので、そうだ、復活なさった主の御手にもう全部委ねてしまおうと思い立ち、ある冬の寒い日の夜、キャンパスの芝生の上を、教科書を両手に抱えて、歩きながら、「もう全部神にお任せします。復活し、心に内住されるキリストに今全部お任せします。私がやるのではなく、今からは全部私のうちに内住するキリストがやってください。」とお祈りした。するとすべてがスーと軽くなり、かえって能率が上がり、総てをやることが出来、無事卒業することが出来た。
天を仰ぎ見ながら、全部をキリストに委ねる経験は心に平安をもたらす。私の重荷をイエスに負っていただくことが出来る。身も心も軽くなる。
『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』(マタイ11:28口語訳)
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、』(詩篇37:5口語訳)
全部神にお任せする。そんな時期があって良いのではないか。
キリスト者は、現代あまりにも思い煩い、あまりにもやることが多くて心をすり減らし、神に対する一番大事な平安を失っているのではないか。いや、他人事ではなく自分自身がそのような心境にたびたび追いやられてきた。
一方、世の中は複雑で、実際現実にやらなければならないことは一杯あるし、パウロも、『………細かく気を配って歩みなさい。』(エペソ5:15)と言っている。
マリアとマルタの経験をよく耳にする。妹マリアは何もしないで、家で、キリストのそばに座り、命の言葉にジッと耳を傾けていた。ところが姉のマルタはイエスと弟子たちの接待で忙しく立ち働き、食事の用意をしたり大変だったのだろう、思わず何もしない妹の、マリアに対して、何で手伝いしないんだろう、という思いが心の中に湧き上がり、妹に直接言いにくかったのであろうか、イエスに向かって、妹に自分を手伝うように言ってください、と願ってしまった。つい本音が出てしまった。しかしイエスは言われた、マルタ、お前は多くのことに気を配って、思い煩っている、人生必要なことはそう多くはない、今私が話している命の言葉こそ一番必要なことだ、妹マリアはその良いほうを選んだのだ、彼女から、それを取り上げてはいけない。(ルカ10:38~42参照)。
私達もどっちを選べ、と言われたら、マリアの方。それは確かなことだが、マリアもマルタも両方働きが必要です。
思い煩うほどに世の中の仕事は大変だし、ある時は祈りつつも全身全霊を傾け、睡眠時間ですら切り詰めてやらなければならないことがあります。現実の問題としてあるのです。ある意味それはバランスの問題ではないかと思う。全部を神にお任せし平安な気持ちで過ごす時間と、時には寝る時間も惜しんで、テキパキと仕事に没頭する時間、両方あって良い。没頭している時にも、自分の力に頼らず、祈りながらやらなければならないことは言うまでもないが。
聖霊の声を聞く経験
神の声、聖霊の声、天使の声、表現はどれでもよいが、言葉が心に直接響く事がある。最初に断っておくが、回数はそれほど多くはない。私の51年の信仰生活の中でも5回ほどしかない。ささやきの言葉が耳に聞こえるのではなくて、まるで外部から、心の中にかなりハッキリ、直接響いてくるのです。それはいつも私の場合は短い言葉です。
下記に列挙し、一つずつその時のシチュエーションを説明する。
・万事が益となる
・我でやってるな
・二度と会えないかも知れないぞ
・肉の奉仕は受け入れない
・あなたの分を生きなさい
時系列に並べて見たが、説明の都合上最後の「あなたの分を生きなさい」から説明しよう。郵便局を定年退職した6年前、さて、これからどのように生きて行こうか真剣になって考えた。一時は今から35年前に石垣島で牧師をしていたところからまた始めるべきかとも考えた。もちろん65歳になっていて退職後2か月もすれば66歳になる(1950/5/11生まれ)私が再び牧師に戻れるわけではなく、一人のただの信徒として石垣島に行くことになるのだろうが。
しかし、高齢の母も二世帯住宅で、生活はほぼ別々に暮らしてはいるが、一応同居している。再婚した家内も、ヘルパーをしており彼女なりの生活環境が確立している。おいそれと石垣島にはついて来てくれそうにはない。
若い時だったら、思い切って決断し、実行できただろう。しかし、歳を取り定年退職し、自分の人生自分で設計できる立場になったが、私は踏み出せないでいた。実は6年たってもいまだ踏み出せない。その一つの理由は、退職して間もなくであったが、祈っていると「あなたの分を生きなさい」との言葉が、ふっと自分の心の外側から入って来たのです。神が与えてくださった、人生の「あなたの分」て何でしょうか。いまだに自問自答しているのです。
次に「肉の奉仕は受け入れない」を書こう。これは最近、心に響いてきた、言葉です。「私の半生で理解したこと」と題をつけて、求道者に対して聖書研究の材料にと思い、退職してから半年間パソコンに向かい、入力してきた。執筆も後半に差し掛かったある時、いつもは熱心にお祈りして、霊の導きを願いつつ入力していくのだが、その朝はどういうわけか起き掛けに祈りもせずにすぐにパソコンに向かい、入力しようとした。その時だった、心の中に、ハッキリと、心の外側から響いてきた短い言葉があった。それは大変短い言葉で、「肉の奉仕は受け入れない」とハッキリ響いてきた。
何か自分の考えの延長でそう思っただけではないのかと言う風に思われる方がいるかもしれない。あるいはそうかも知れない。そう思っていただいても結構です。しかし自分としては、その時やろうとしていたのと正反対の言葉が、外部から突然、心の中に響いてきたので、その場にひざまづき、自分としては伝道の材料の準備と思ってはいたが、今朝に限って、祈りもせず、神の導きをも求めず、始めようとしたことをまずもって、神にお詫びし、悔い改めた。
次は逆からたどって、「二度と会えないかも知れないぞ」これはあまりにも個人的な別離の経験の時に心に響いた声なので、説明は省略するが、まるで耳に聞こえるかの如く、明瞭に心に響いてきた、やはり短い言葉であった。
四番目は「我でやってるな」であるが、これもまるで耳に聞こえた如く、全く心の外側から、響いてきた言葉です。中部地方のある小さな教会にいたある時、教会で伝道講演会を開催することになった。いつも教会の周りばかりを対象にしているので、今回は周りではなくて、教会よりチョット離れた、市街地を対象にしようと教会理事会で決めた。にもかかわらず長老が平日に私のところにやってきて、講演会の案内チラシを、教会のすぐ近所に配りたいのだがと言うので、日中に2人で配り始めた。その時、教会そばの通りの、坂のある、四つ角のところでハッキリ「我でやってるな」という言葉が心に響いた。この時は、まるでハッキリ耳に聞こえたように感じた。長老は何も気が付かなかったが、もう私は内心ビックリであった。
順番が逆になったが、最後は、私が初めて心に響いた神の言葉の経験です。『万事が益となる』大変短くローマ書8章28節の神の言葉が祈っている私に直接響いてきた、その時初めての経験であったので、祈りの中で、「神様これは本当にあなたの声なのでしょうか?」何度も何度も疑って、「神様本当にそうですか、あなたの直接のお言葉なのでしょうか?」と聞いてしまった。その時点ではわからなかったが、やがてその祈った通りになって、心の響きは神から出たものであることがわかった。祈りの内容等を以下に簡記する。
私が赴任していた中部地方の小さな教会に、熱心に求道しておられた、かなり年配のIさんと言う奥様がいて、その方がイエスを受け入れ、バプテスマの日程も決まっていた。ある時知人からもらった伊勢海老を、もったいないからと思って食べてしまった。そうしたら海老にあたってしまい、熱を出して寝込んでしまった。それで癒してくださるよう、バプテスマが予定通り受けられるよう、一生懸命祈っていたのであった。その祈りの中で、『万事が益となる』という言葉が急に心に、まるで心の外側から入ってくるように響いてきた。二週間ほど寝込んでしまったようだが、バプテスマを予定していたその週の後半に、病が癒され、無事にバプテスマが受けられた。
話しはそれるが、健康の原則の中で、この話を受け止めてもらいたい。食べたから救われない、食べないから救われる、という問題ではない。ここから、誤解がないように、救いと、食物と、健康の原則について書く。
一般的なキリスト教の立場は、食物とか健康とかにはあまり注意をしません。何を食べるのも自由です。カトリック教会とか、プロテスタントでもルター派とか、お酒もタバコも自由、何も規制しない教派もあります。(SDA教会は禁酒禁煙です)
旧約聖書だけを信じているユダヤ教の社会では、旧約聖書に規定されている禁忌としての食物規定がありました。今でもユダヤ人は宗教的禁忌としての食物規定を守っています。キリスト教は、禁忌としての旧約聖書の食物規定は新約聖書によって廃止されていて、何を食べるのも基本的には自由であると考えています。
セブンスデー・アドベンチスト教会(日本語に訳しますと、第七日目(土曜日)安息日遵守・キリストの再臨教会)では健康のため、出来るだけ菜食主義を勧めています。キリスト教の一般的考えを否定しているわけではありません。尊重しつつも、旧約聖書の食物禁忌規定は廃止されているが、そこにはユダヤ民族の健康を考える神の御配慮があるのではないかと推論し、色々理由はありますが、結論として、あくまでも、健康のため、菜食主義を勧めています。
マクロビオテック(玄米菜食主義‒桜沢如一「正食」)に考え方に近いですが、それほど極端ではありません。マクロビオテックの陰陽の考え方はとりません。玄米は好きな人は食べますが、ほとんどの信徒は白米を普通に食べています。
ラクト・ベジタリアンと言うのが公式な立場です。卵乳菜食主義者とも訳されます。卵と牛乳併用の菜食主義です。ただ宗教に関係なく健康のため、完全菜食主義の方々も世の中にはたくさんいます。私達のグループの中にも、完全菜食主義者もいますし、フイッシュ・ベジタリアンもいますし、肉を普通に食べられる方もいます。『(肉を)食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、(肉を)食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。……』(ローマ14:3)肉を食べる人もいる、食べない人もいる、それぞれ個人の自由であって批判してはいけないとパウロは言っています。『……食べ物のことで、兄弟を滅ぼしてはなりません。……』(ローマ14:15)『何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。』(ローマ14:2)、『肉も食べなければぶどう酒も飲まず、…望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。』(ローマ14:21,22)
健康の原則については、ただ食物に注意するだけでは十分でなく、適度な運動、新鮮な空気と水、適度な日光浴、休息、神に対する信頼(心の平安)、充分な睡眠等が必要です。アルコール、タバコ等は健康にとって良くないのでSDAは昔から禁酒禁煙を実行しています。
契約の宗教と悟りの宗教
契約宗教と悟りの宗教の違いがあるように思われます。私達日本人の先入観として、宗教に入れば、何事にもとらわれなくなり、すべての事に動揺せず、悟りの境地に達し、無我になることが出来ると思っているところがあります。それは禅とか、諸行無常を悟った仏陀の宗教の影響でしょう。
キリスト教は必ずしもそうではない。確かにキリストも『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。』 (ヨハネ14:27口語訳)とおっしゃったので、心に安らぎがないわけではない。
父なる神が、キリストを通して、聖霊を与えられ、心に平安が宿り、喜びで満たされていくこともあります。確かに心の静けさ、悟りのようなものも、宗教の一面としては期待して良いものだし、私はそのような穏やかな境地に達したい。
しかし、キリスト教は根本的には契約の宗教です。絶対、唯一の、人格的な神がおられ、人間との間に、救いの契約を交わしたのです。もちろん、旧約聖書における古い契約と、新約聖書における新しい契約があるが、契約は契約です。私達人間の側でどんなに怒ったり、泣いたり、思いわずらったりしようと、神との間の契約は変化なく、履行されていくのです。
神と人間との間に結んだ、救いの契約は、人間の側の、その時々の気分、感情等にはあまり左右されない。神との契約を信じながら、実存主義的に、教えを実践し、祈り、勤勉に毎日を過ごしていくことが、キリスト教の心情ではないかと考えます。
またこの契約については神の方が救いの条件をお決めになる絶対的な主権を持っています。人間はその神が教え、定められた契約条件を、十分理解し、納得し、同意するだけです。神と人間の間の契約条件を深く考えれば、絶対的に神の方の権能が大きいのだから、人間は自分の都合で契約の条件を変えることはできないし、ただ神の示された救いの計画に対して、同意して行くだけです。
さて以上のことを基本にして、最近私は、歳のせいかもう少し、ただあまり動き回るのではなく、静かに、イエスの救いの業と、神の存在を瞑想する時間を増やした方がいいかなと感じ始めています。聖書の中にも、
『静まって、わたしこそ神であることを知れ。……』(詩篇46:10口語訳)と書いてあります。
キリストを瞑想するための静かな時間を、自分なりに設け、それから日常の活動をしていく方が良いのではないか。
現在自分が理解している神に対する心境について
信仰の持ち方について、自分なりに考えてきて、生涯のうちに、かなり変遷を経てきたが、現在の自分が持っている考え方について以下書きます。これからも自分なりに進展して行くだろうし、最終的なものではない。また繰り返しの箇所も多いと思うが、そこはお許しいただこう。
自分自身を振り返り、反省し、神の前に悔い改めることによって救われます。どの信仰の時点においても、クリスチャンの救いは常にこのような所、原点に戻ることにより、救いが認識され、確認されていくと私は思う。
繰り返しになるが、イエスが十字架刑についたとき、イエスの両脇に、強盗を働いた為に、十字架刑になった2人の人がいました。2人のうち1人は最後までイエスを信じませんでしたが、1人は十字架の上から、イエスを救い主として受け入れ、人生真にギリギリのところで救われました。
『…「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。』(ルカ23:42,43口語訳)
今日あなたはパラダイスにいる。死刑になるほどの罪を犯した強盗が、具体的にどんな犯罪をしたのかは、聖書には書かれていませんが、この強盗が、イエスに、今一度、御国の権威をもっておいでになるときは、私を思い出してください、と言ったら、その場で生涯してきたすべての罪を贖罪され、今日あなたは天国にいるであろう、との御言葉をお約束としていただいたのです。
一瞬のイエスに対する信仰告白でこの強盗は全部の生涯の罪を赦されて、天国へ入る資格を得ました。しかし、十字架刑の最中に、この強盗が自分の盗みを働いた罪をイエスに一つ一つ全部告白する時間があったとは到底思えません。「わたしを思い出してください」と言う告白で、その時は十分だったのです。
『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』(ローマ3:23,24)
すべての人は神の栄光を受けられなくなっており、値なく、恵により、すべての人が、神の前に信じることだけで義とされるのです。
『不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」』(ローマ4:5~8)
また、ガラテヤ書においてパウロは、
『けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。…』(ガラテヤ2:16)と言っています。
罪の告白は重要ですが、その告白がそのものが罪を赦すわけではなく、イエスキリストのなされた贖罪の業が罪を赦すのです。
またヘブル書には、死んだ行いの悔い改め、復活と永遠のさばき等は、もう繰り返し学ぶことをやめて、キリストの、罪の許しの血、契約の血を信じ切って、良心の咎めを捨て去りましょう、とあります。
『だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、……神がお許しになるなら、そうすることにしましょう』(へブル6:1~3)
『…イエスの血によって聖所に入れると確信しています。……心は清められて、良心のとがめはなくなり、……信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。』(へブル10:19~22)
行き過ぎた良心の呵責に悩むのはやめましょう。私たちは、イエス・キリストにあって赦されているのですから。
『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、……。』(コロサイ3:12)
『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』(コロサイ1:22)
また、パウロはコリント人への手紙の中で
『自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。……。』(コリント第一4:4)とも言っています。
あまりにも良心的で、心を悩ませている方に向かって、ヨハネはこう言っています、神の前に自分の心を安んじていよう、神は私達の小さい心よりも、広く大きな心をもっている大きな方である、と。
『……神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。』(ヨハネ第一3:19,20)
このような約束があるのですから、私達は、死んだ行いの悔い改め等は神の許しを得て、繰り返し学ぶことはやめて、イエスの血によって至聖所に入り、心は清められて、良心のとがめはなくなり、信頼しきって、真心から神に毎日近づいて行こうではありませんか。



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