③C,D,E,F,G,H聖書の概略とその救い
- ktanaka33014
- 2018年12月24日
- 読了時間: 84分
更新日:2024年8月2日
日々の聖書研究と瞑想C~Ⅹ
C,日々瞑想している聖句 テトス①
私が二十年以上にわたって、毎日必ずと言っていいほど記憶の中で思い起こし、瞑想している聖句があります。それを書いておけば、機会があれば、同信の者にも読んでいただき、何かの参考にしていただけたらなと思い書くことにしました。またその他、色々な困難にぶつかった時、祈りのうちに聖書を読み慰められた御言葉も書き連ねていこうと思います。
『神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。』(テトス3:5~8)
『人間は生まれながら神の怒りを受けるべき者』(エぺソ2:3)であり、人間は本質的に、肉に売られており(霊と逆の表現)、生まれたまま肉の性質を持っている人間は、どんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる律法の要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけなのです。
パウロは断言します。律法を守る事によっては誰も救われず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのだ。
『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)
人間の精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、神の崇高な律法に従う事は出来ないのです。自分は神に従いたい、また律法にも忠実でありたいと思っても、私たちは肉のもとに売られているのです。従って、もう一度買い取られる以外に救いはありません。キリストの功しによって、買い取られるのです。神はキリストの十字架と言う値で私達を買い取って下さったのです。そのことを受け入れ、自分の事として信じることによって、救いは自分のものになります。
さらに、神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来ます。肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないけど、人間の内面が神の霊による生まれ変わりを経験して(新生)、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになって行きます(聖化)。
これらの過程を含めて、すべては神の憐れみによるしかないと思っています。基本的に神の憐れみによって神が私たちを救ってくださるのです。全く私たちが行った義の業によるものではありません。
たとえ何か正しい行いが私たちの側にあったとしても、それは救いの根拠にはなりません。パウロは『自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。……。』(コリント第一4:4)と言っています。この聖句は重要です、決して忘れないようにしましょう。
安息日を守ったとしても、その事の業によって救われるのではありません。隣人を助けるような善い行いをしたとしても、そのことが救いの根拠ではありません。義とされる根拠は私たちの行った正しい行いではなく、キリストがしてくださった義の行いを、自分のものとして受けるだけです。
『……自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(ピリピ3:9)
更にテトスへの手紙のこの箇所は続きます。聖霊によるによる新生と十字架と復活を象徴する水によるバプテスマによって救われた。聖霊によって新たに造りかえられるということは、十字架で古い自分が死ぬことを基にしています。今まで肉の生き方をしてきた自分が十字架でキリストと共に磔刑され、キリスト共に、新しい命に復活し、これから後は、ズーッとキリストと共に、聖霊によって新しく生きる経験なのです。
神は聖霊を惜しむような方ではありません。聖霊は父なる神から出て、キリストがそれを受け、キリストを通して、豊かに私達に注がれるのです。
『……約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。……』(使徒行伝2:33)
何故父なる神から聖霊は直接注がれないで、イエスに一度経由して人間に注がれるのでしょうか。それには深い理由があります。私達人間はあまりにも、未熟で、罪深く、たとえ救われて信仰をもって、クリスチャンになっても、この世のあらゆる習慣、考え方、肉的な物に囚われているので、聖霊を求めても、ゆがんだ性格と、おかしな器の中に求めてしまうのです。イエス・キリストのとりなしがあってこそ、多少変なおかしな信じ方をしているクリスチャンにも聖霊が注がれるのです。もっともそれが本人にとって良いことかどうかは分かりませんが。
もし直接父なる神から聖霊が注がれるとしたら、清められた、余程性格の良い、円熟した方にしか聖霊は注がれないでしょう。こんな私にすら聖霊が注がれるとすれば、イエスがとんでもない懇願を父なる神に熱心にしていただき、やっと注がれるようになるという事でしょう。
私たちが真剣に求めるならば、神の御恩寵によって、聖霊は豊に注がれるはずです。聖霊を求める私達も、まず自分たちが悔い改め、熱心に聖霊を求める熱い祈りが必要かとは思いますが。
『……キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされた…』(テトス3:7)
義は恵によって与えられるものであり、値なく、功績なく、無代価で与えられるものです。さらに、永遠の命を、既に得ている、私達の内に永遠の命が始まっているのです。永遠の命が信じる者にとって始まっていることは次の聖句からも明らかです。
『初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一2:24,25)
御子の内に、御父の内にいつもいる事が、既に永遠の命が始まっていることなのです。
さらに、『……信じる者は、永遠の命を得、また、…死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)のです。
これらのことから、次の聖句の意味が明らかになってきます。
『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。……』(ヨハネ11:26)
肉体的、物理的には一瞬の間、この世で言われているところの死を経験するかもしれませんが、既に生きている間、永遠の命が始まっていますので、死という眠りから目覚めた次の瞬間は、もうイエスの前に立っており、永遠の命を得ているのです。
これらのことを力強く主張するように、勧められています。
ともすれば、自分の罪深さばかりを見て、落胆しがちな私達でありますが、自分がキリスト・イエスにあって、義とされ、救われ、既に永遠の命が始まっていることを、力強く、神の前に主張しなさいとパウロは言っています。私達もパウロの勧めに従って、もう永遠の命を得ていますと力強く主張しましょう。信仰生活が力強く、希望に満ちて、楽しく、明るく送れるに違いありません。
こうすることによって良いことをする土台ができます。
『……そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。』(テトス3:8)
私達は救われるために善い行いをするのではなくて、既にイエスによって救われたから、善い行いをしていきたいのです。ガラテヤ書にパウロはこう言っています。『たゆまず善を行いましょう。…………。』(ガラテヤ6:9)自分達の力は弱く、何もできませんが、キリストが私達を力づけてくださるとき、必ず善い行いが出来るように変えてくださると信じています。『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピりピ4:13口語訳)
D,日々瞑想している聖句 コロサイ①
『神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。…………。』(コロサイ1:19~23)
キリストの内には神からいただいたあらゆるものが満ち溢れるほどに宿っています。聖霊、無罪性、愛、慈しみ、奇跡の力、病を癒す力、永遠の命、救いに至るあらゆる知恵、力、心の平安、権威、信仰、創造力等。その中で最も尊いものは、契約の血、聖なる御子自身の契約の血です。十字架の血の和解の効力は動物、植物、全物質に及ぶのです。天地あらゆるものが和解させられました。地球そのものが消滅せずに残っていて、自転し大気が維持され、生命環境が循環しているのは、全部、御子の犠牲によって、神との間に和解が成立したからなのです。
万物は神によって造られましたが、アダムの罪によって、地は呪われ、茨とアザミが生じました。また蛇は罪の誘惑者に利用されたため、最も醜く地を這うものとされました。またカインがアベルの血を流すことによって地は二度呪われました。茨とアザミは呪いの象徴です。
なぜイエスは茨の冠りをかぶったのでしょうか。それは地の呪いをご自分が引き受けるためです。イエスの頭にかぶせられた茨は、呪いを引き受けることの象徴だったのです。何れにせよ、万物はイエスの贖いの血潮によって、和解させられているのです。もちろん今でも自然界は、完全に贖われたわけではありません。しばし自然界は猛威をふるい、人間に牙をむいて襲い掛かってきます。台風、地震、津波、大規模な山火事等によって、今でも多くの災害が各地で起こっています。万物の和解が完全に成立するには再臨の時まで待たねばなりません。しかしイエスが十字架で血を流されたとき、自然界を含めて、万物は、根本的には和解させられたのです。
次に和解させられるのは、私達です。私達は自分の行いが悪いので、神に敵対し、神を憎んできたのです。「神がいるのなら、何でこんなひどいことが起こるのか?」と言って、自分の行いは棚に上げて、心の中で、自分の運命(私は運命はないと信じていますが)を呪い、神を恨んできたのです。
日本人の大部分は無神論者であり、神仏はただのご利益をもたらすものとしか考えず、人生の生き方を変えるような信仰心など、ほとんど持ち合わせていないではありませんか。真の神を畏れず、敬いもせず、自由にふるまい、罪を罪とも思わず、それを楽しみ、好き放題、かって放題に生きてきました。しかしそんな私達の為、御子は和解の血をすでに二千年前に流して下さっていたのです。
それどころか御自分の死によって、人間を神の御前に、聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者として立たせてくださっているのです。これから聖になるのではありません。原理的に既に聖い者、罪のない者として、イエスの義の衣で覆って下さっているのです。私達は汚れに染まっているのに、真っ白な、無罪な者として神の前に立たせて下さっているのです。もちろん、信仰によってそのことを受け入れなければ個人的にそのお約束がその人のうちに実現しないことは言うまでもありません。またその信仰は、生涯にわたり維持していかなければなりません。一時的なものであってはならないのです。ですから、聖なる者として神の前に立たしてくださっているのだから、信仰から離れる者でないようにと御言葉が続いているのです。
『ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。…………。』(コロサイ1:23)
信仰に立っている限り、次の御言葉も私たちのものです。
『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、…………。』(コロサイ3:12)
私達の内には何の功績も、聖なるものもないのに、神に選ばれ、神の御前に聖なる者として立たされ、神に愛されているのです。そんなことがあるでしょうか、あまりの不思議さに、驚き、感謝するしかありません。ただイエスの功しによって、このような立場が神の前に、信仰という条件がありますが、与えられているのです。
でも私達はこのような素晴らしい、恵の立場が与えられているからこそ、その恵みに感動しつつも、私達もまた、キリストに助けられながら、聖霊によってキリストに心に住んでいただき、自分を変えていただかなければなりません。自分が罪をキリストによって赦されたように、他人の罪を赦し、自分が憐れまれたように、他の人々を憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容の限りを尽くしていかなければなりません。
これは、一朝一夕で出来るようなことではなく、祈りの内に、努力して、徐々にゝ身に着けて行くしかないでしょう。イエス・キリストは常に私達の傍らにおられ、又、私達の心の中に住み、私たちが変わるように、助けてくださいます。さらに御言葉は続きます。
『これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。…………。』(コロサイ3:14)キリストの平和があなた方の心を包むように、さらにその後、感謝の言葉が三度でてきます。あらゆることに感謝するように。キリストの言葉を心の中に常に宿し、すべての事を、キリストの名によって行え、と。(コロサイ3:15~17要旨)
日々瞑想している聖句 コロサイ②
『世の初めから、代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。』(コロサイ1:26)
救いの計画は世の初めから計画されていました。
また、エペソ書を見ますと、この世界と人類が創造される前から、神はキリストにあって私達を選び、救いの予定を立て、既に贖罪の計画をお持ちになっていたと書かれています。
『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』(エペソ1:4)
神の救いの計画は隠されてはいましたが、ユダヤ人の歴史を見ればわかるように、完全に隠されていたわけではありません。羊を自分たちの罪の身代わりとして、燔祭としてささげるという、ユダヤ人の宗教的儀式である犠牲制度の中に、救いの計画はボンヤリではありますが、ある程度わかるように示されていたのです。
祭壇でささげられる羊の血は、イエスの流された血を象徴していました。羊が何匹殺され、生贄にされ、祭壇の火で焼かれようと、羊そのものの血が罪を赦すわけではありません。それは本体である、イエス・キリストの十字架の血があったからこそ、ユダヤの古い時代に、羊の血は罪の赦しとして象徴的に有効だったのです。
神の御計画はハッキリとは、犠牲制度の中ではわかりませんでした。そういう意味で代々隠されてきたと言えます。どうしてこのように救いの計画は、キリストの出現までハッキリしなかったのでしょうか。それは深い神の摂理の中にあって、神の偉大なる救済の歴史計画の中で進行してきたと言う他ありません。
何れにせよ、救いの計画は今や(二千年前の今)聖なる者たちに啓示され、明らかにされたのです。ただ現代においても、救いの計画は、信仰によって受け入れた個人個人において、聖霊が心に働くことによって明らかになりますが、信じない人には昔と同じで、神の贖罪計画は依然隠されたままなのです。信じない人には、聖書の中にある、キリストの十字架による贖いも、ただの戯言としか思えないのです。この世の知恵は、神の贖罪計画を認めることが出来ないのです。
『この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。』(コロサイ1:27,28)
この贖罪計画の目指すところは一つです。それはどんな過程を経ようと、どんな説明をしようと、あなた方の内にいますイエス・キリストを自覚する事なのです。すべての人がこの内なるキリストに、聖霊によって心の中に住んでいただき、キリストに結ばれることによって、神の御心に完全に(十分に成長した、成熟していると訳すべき。ギリシャ語テレイオス・ヘブル語タム)従うようになるのです。
私達生まれながらの人間は、罪のもとに売られており、肉の努力や修行ではどんなに努力しても、神の律法を守れないことはすでに書いて来ました。完全になる(成熟する)唯一のチャンスは、自分の力や努力ではなくて、イエスの十字架の血による贖罪をそのまま自分のものとして受け入れ、買い戻され、そして内なるキリストに心の中に住んでいただくことなのです。
罪の赦しもキリスト、罪の聖めもキリスト、品性の完成もキリストなのです。キリストに常に結ばれていく以外に、完全(成熟する)になれる可能性はありません。100%キリストなのです。
パウロが信仰による義を説き、聖霊によって新しく生きることを説き、あらゆる知恵を使って教えてきた事、しばしば難しい例えも、パウロの書簡の中にはありますが、ここでは触れることはせずに、後述します。これらの知恵を尽くした説明のすべてが内なるキリストを目的にし、クリスチャンが自分の心の中に住むキリストを自覚し、キリストに固く結ばれ完全なものになるように、完全を目指して歩むようになるためであったとパウロは言っているのです。
『このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。』(コロサイ1:29)
パウロの思想の中には、霊と肉体の身体が時々分離して存在しているように考えている節があります。パウロの霊が、祈りの内に身体を離れ、ここではコロサイにいる兄弟たちのところに行って、共にいてその信仰を喜んでいると言った表現です。
コリント第一の5章には、大変大きな罪を犯した一人の信者を、コリントの教会員が除籍すべきではなかったかと警告し、その続きの言葉の中に、霊と身体の分離の思想が出てきます。
『……わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、』(コリント第一5:4)その人を裁いて、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したというのです。それはその人が悔い改めて、彼の霊が救われるように、そのようにしたと言っています。
この辺の解釈は大変難しく、十分には解説できませんが、何れにせよ、パウロは祈りの内に、パウロの霊が、コロサイの信者と共にいて、その信仰を見て、喜んでいると言っています。
『わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。』(コロサイ2:5)
また、コロサイ2:1のパウロの苦闘はまだ会っていない人々も含まれているのですから、祈りの内の霊の苦闘だったのでしょう。
『わたしが、あなたがたと……また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。』(コロサイ2:1)
ここは、霊ではあなたがたと共にいるんだよ、と言う5節に続いていく文脈と読み取れます。ここに、本来の『あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。』というテーマから離れてしまったかと思われる、『……体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて……』と『……顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、……』の二つの聖句は、テーマである「あなたがたの内におられるキリスト」の霊が働きかけた証拠です。内住のキリストの霊が働いた結果、パウロは祈りの苦闘の内に、霊が分離し、コロサイ信者とパウロの霊が、共にいて、健全な、固い信仰とを霊の内に幻視して、喜んだのではないでしょうか。
またもう一つの解釈は、パウロの霊すら、体では離れていても(コロサイ2:5参照)コロサイの信者と共にいることが出来るのに、増してや、キリストの霊は、『あなたがたの内におられるキリスト、』(コロサイ1:27)として、確かにあなたがたの中(コロサイ信者の中)におられるのだ、と言いたくて、この二つの聖句を挿入したのではないだろうか。
次に、コロサイの人たちが心を励まされ理解力を豊かに与えられ神の秘められた計画であるキリスト、すなわち前述したあなた方の内におられるキリストを悟るように再度書いています、ここでの中心のメッセージです。(コロサイ2:2要旨)
『知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。』(コロサイ2:3)
どんなに大学に入って勉強しようがキリストから離れては意味がありません。確かに勉強すれば、この世の知識、科学、技術を学べ、資格も取れ、良い会社にも入れるでしょう、高給取りになれるかもしれません。でもそれはこの世において生活するための手段であって、目的ではありません。知恵と知識を得る目的は、キリストを受け入れ信じることによる心の平安、罪の赦し、永遠の命、隣人を愛する愛の生活等を得る為です。そこがブレてはいけません。
この世の知恵は神の前では愚かなものです。学者はどこにいるのか、この世の論客はどこにいるのか、神はこの世の知恵を愚かなものにされたではないか、この世は自分の知恵では神を見出す事はできなかったのです。神は知者を辱めるため、この世の無学な者、無力な者、世の無に等しい者をあえてお選びになったのです。(コリント第一2:20~28要旨)キリストこそ真の知恵、真の知識です。
日々瞑想している聖句 コロサイ③
私達がキリストの義をいただいて、神の御前に罪無き者として立たしていただくことは大変重要なことですが、もう一つどうしても必要なこととして、絶え間なくキリストに結びついていることが大事です。その結びつき方について、
a聖霊によって心の内に住んで下さるキリストを悟る事と、
b古き自分をキリスト共に十字架に毎日磔刑する事(霊的意味で)と、
cキリストと共に毎日新しい命に復活する事(霊的意味で)の三つが挙げられます。
まずパウロはコロサイ書のこの箇所で、キリストに結びつくことの大切さを強調しています。
『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』(コロサイ2:6,7)
キリストに結ばれて生きるとは言っても、24時間、毎日毎日の事ですから容易なことではありません。 その結びつき方について、私なりにまとめますとコロサイ書は前述のa,b,c3つのやり方でキリストに結びつくように提案していると思われます。
a聖霊によって心の内に住んで下さる『……キリストを悟る…』事(コロサイ2:2)。
静かにキリストが私達の心の中に住んでくださるよう、毎日少しの時間で良いですから、日常の煩わしさから離れ、雑念を追い払い、静かに瞑想してみましょう。キリストが私達のために何をして下さったのか、また今、天の父なる神の前に出て、何をしているのか、考えてみましょう。この世のやらねばならない用事を横において、(やらなければならないことは生きている限り、常に数限りなくあるのですから)しばし、キリストに心を向けて、自分の心の中を探ってみましょう。あまりにもつまらない、物質的な、肉的な享楽に拘ってはいませんか?心の中に示されたことに対し、反省し、静かに神の前に告白し、悔い改めの祈りをする。またキリストの聖霊による臨在を瞑想しましょう。一日に何回か短くても良いですから、このような時間を取ることは、思った以上に、自分に落ち着きを与えてくれるし、楽しい、静かな、自分にとってかけがえのない時間になっていくと思います。
b古き自分をキリスト共に十字架に毎日磔刑する事(霊的意味で)。
コロサイ2:8からの要旨は、私達は様々な規則、決まり、苦痛を伴ったり、一見知恵あるように見えるけれども、何の役にも立たないこと等に囲まれて暮らしています。礼典律の祭りに付随した特別な安息日を守ったり(週の7日目安息日以外のユダヤの各種祭りに伴う特例安息日)、食物の禁忌規定を魂の救いのために守ったりしています。(健康のためには食べ物に、現代では、昔以上に十分注意する必要があります。しかし、食物は救いの手段ではない。肉体を健全に維持するためのもの)
パウロはそれらをこの世から出た諸々の霊から発したものや、言い伝えにすぎない人間の哲学等として、排除しています。偽りの謙遜、身勝手な礼拝、様々な苦行、天使礼拝、幻を見たことの自慢、手をつけるな、味わうな、触れるな、肉の割礼を含めて、そんなものはもう古い証書として十字架で廃されてしまったものだ。武装解除されてしまったものなんだ。そんな難行苦行を伴う様々な儀式形式、人間の考えだした一見知恵のあることに見えるような規則、それらは全て十字架で廃されてしまったものだと言っているのです。
あなたがたが受けたバプテスマはなんだったのですか。あの水の中に沈んだ時、もうあなたは死んだことにされ、水の中に葬られ、水から上がって来た時、新しい命に復活したことにされています。それは十字架と復活を儀式として表現していたのです。古き自分をキリスト共に十字架に毎日磔刑する事(霊的意味で)今肉の私をキリストとともに磔、古き自分、ねたんだり、憎んだり、肉欲的な事に囚われ、物の欲、目の欲に縛られている自分を十字架にキリストと共に葬るべきです。嘘、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、貪欲(偶像礼拝)みだらな行い、悪い欲望、不潔な行い、情欲、それらをすべて十字架に磔にしてしまいなさい。
あなたがたはすでにキリストにあって死んでいるのではないか。『あなたがたは死んだのであって、………』(コロサイ3:3)
cキリストと共に毎日新しい命に復活する事(霊的意味で)。
あなたがたはキリストと共にすでに霊的意味で復活させられているのだから、地上的な肉的な物ではなくて、上にあるもの、霊的なものを求めて行きなさい。
『…あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。………』(コロサイ3:1)
キリストにある愛、平和、喜び、満ちあふれるばかりの感謝、隣人愛の実行、キリストを心の内に住まわせ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ深さがどれほどであるかを瞑想し、神の豊かさのすべてにあずかることを求めていきましょう。
『互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人(文明人)、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:9~11)そして、更に、『…憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。』(コロサイ3:12)と続けて勧めているのです。
追記
イエスと共に葬られ、イエスと共に復活され新しい命に御霊によって生かされていると言っても、注意しなければならないのは、再臨になるまで、私達は弱い、罪の誘惑に陥りやすい肉体を持ったまま生きているという現実です。常にキリストを見ていないと古い罪の性質が甦り、また大変な罪を犯しかねません。聖書全体に、警告と教訓、あらゆる道徳的な諭しが書かれているのはその為です。
キリストにあって死に、新しい命に霊的に復活したと言っても、まだ捨てるべきものがあります。第一に捨てるものは、人の規則、教えです。当時は、モーセの五書以外にも、タルムードと言う、モーセが口伝で伝えたと信じられていた、様々な規則、戒律、その解釈等があり、それらを全部守るなど至難の業でした。(コロサイ2:22,23参照)
身体の苦行を伴い、知恵のある業のように見えるが、使えば無くなってしまうもの、人間が言い伝えによって、意味もなく守っていたものが沢山ありました。また、トーラーと言われたユダヤ民族の信仰にとって最も大事とされていたモーセの五書、律法の書の中にも、クリスチャンとして守らないで良くなったものがあります。割礼、様々な規則が書いてある証書、ユダヤ神殿に捧げる犠牲の動物の種類や、捧げる際の細かい規定、儀式、食べ物、飲み物の禁忌規定、祭、新月、礼典に伴う特別な安息日等。これらはキリストにあって新しく創られた者には、用がないもので、捨てなければならない戒めであり、縛られてはならないものでした。この外面的な規則が第一番目に捨てるべきものです。(コロサイ2:13~18参照)
新しくキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされた者は、まだ捨てなければならないものがあります。死んだとされていても、実は古い肉の自分はすぐチャンスをとらえては生き返って来るので、第二番目に内面の死にきれていない心の部分を、更に捨てるという行為によって、葬り去る必要があります。地上的なもの、怒り、憤り、悪意、そしり、嘘等、加えて、悪い欲望、金銭の欲、貪欲(偶像礼拝に他ならない)みだらな行い、不潔な行い、情欲等を捨てるように勧められています。要するに地上的なもの総てを捨てる事となります。(コロサイ3:5~9参照)
あなたがたはイエスにあって死んで、よみがえらせられているのだから、これらを捨てるように、またさまざまな人間が作り出した規則には縛られないように勧告されているのです。
捨てるものの第一は外面、すなわち言い伝えのがんじがらめの規則等。第二は内面、様々な悪口、欲望等。パウロは捨てるべきこの二つを順記し、整理して書いているのです。
E,日々瞑想している聖句 ピリピ
いくらコロサイ書で霊の生き方を強調しても、実は私達は言うまでもなく、食事をしたり、夜になれば睡眠をとったり、寒ければ暖かい衣服を着たり、肉の生活をしている現実があるのです。霊の生活だけでこの世がやっていけるなら、こんなに良いことはないのですが、現実にはそんな訳にはいきません。様々な思い煩いがあり、細かな気を配らなければならないことがあり、実際にはお金がかかることだって、生活していれば、多々あるのです。自分の肉体の健康を維持するために、適度な運動をしたり、健康的な食物、栄養バランスに気を使ったり、けっこう時間が取られます。そんな私達にとってピリピのこの個所は、大変役にたちます。
『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピリピ4:13口語訳)
困った時この聖句を心の中で、何度も何度も繰り返すのです。何と天から、すごい力が与えられ、自分の内側からも力が湧いて来るではありませんか。これは是非体験してみることです。
『…神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、…………』(へブル4:1 2口語訳)
神の言葉は私達の心の中に働き、私達の古い精神を鋭く切り刻むことさえもできるのです。
『聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。』(テモテ第二3:16)私達の行動に影響を与え、義に導くのには聖書はさらに有効です。
『わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19)私達に必要なもの、それは霊的なものも満たされるし、肉的なこの世の必要、飲むもの、食べるもの、着るもの、お金、肉体の健康、とにかくすべて満たしてくださるお約束です。もちろん祈り求めないで、それらが可能だとは思いません。熱心な祈りが必要でしょう。
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。………』(マタイ7:7口語訳)
『どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。』(ピリピ4:6)思い煩って、クヨクヨするのはやめましょう。何でもいい、どんなことでも神に聞いていただけないようなことはありません。何でも祈ることが出来るのです。どんな心の思いでも打ち明けることが出来るのです。ただし、聖書の言葉に反することはダメ、人を呪ったり、自分の享楽だけのために、この世の富を不必要に求めたりすることは最初からダメなのです。
『わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。………』(ピリピ4:12口語訳)飽くことにも、飢えることにも、乏しいことにも、富むことにも、あらゆる境遇にキリストに助けられて、処していけるとパウロは言いています。
繰り返しますが、『神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19)必要なものは必ずすべて備えて、満たしてくださるとのお約束です。
また祈った後、まだ現実にはまだ祈ったものをいただいていなくても、必ずお約束したものはいただけると信じ切って、心に平安が与えられるのです。現実に何かが起こるより先に、心に平安が与えられるお約束です、ここが大事なところです。祈った結果、先に聖霊によって、心に平安が与えられるのです。
『そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。』(ピリピ4:7口語訳)
『ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物を賜わらないことがあろうか。』(ローマ8:32口語訳)
飲む物、食べる物、着る物、それらは異邦人が切に求めている物です。空の鳥が生きて行くのに必要な食べ物を、神が支配している自然界の中に、充分に備えているように、神は私達クリスチャンに、食べるもの、飲むもの、着るもの等が、必要であることをご存知です。
だから、あなたがたは『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。』(マタイ6:33口語訳)
こんなにたくさんのお約束があるのですから、これらの聖句を心の中で繰り返し想起することにより、信仰に結び付けられて、毎日を神の導きと、そのお力に囲まれて生きて行きましょう。
イエスは、あなたはこれらの約束の言葉を信じるか、と今も言っておられ、私達の答えは『………信じます。不信仰なわたしを、お助けください。』(マルコ9:24)と癲癇もちの、子供の癒しを求めた父親のように、自分の不信仰を反省しながら、ただひたすらイエスにより頼んでいくだけです。
F,日々瞑想している聖句 エペソ①
エペソ書も、表現の仕方は違っても、だいたいコロサイ書と同じような論理と構成でパウロは口述筆記ではあると思いますが、筆を進めています。1章2章のところで、何の行いもなく、信仰によって義とされ、キリストの十字架と復活を、霊的に解釈し、古い自分自身がキリストと共に磔刑され死んだことにされており、霊的にキリストと共に新しい命に復活し、さらに霊的に天の王座にまで着いているとまで言っています(エペソ2:6参照)。その後の記述はコロサイ書と同じように様々な礼典戒律、規則をキリストの血で廃止され、異邦人とユダヤ人の隔ての中垣も取り去られ、表現はコロサイ書とは異なりますけれども、神の隠された救いの計画について言及し、結論として、内住のキリストがその目的である、ということで3章を締め括っています。
4章には、コリント書で詳しく触れられる、霊の賜物について、教会全体の益ために与えられることを説き、後半において、イエスを信じる信仰によって、イエスの血によって、無代価で救われたものは、そのまま後は自由で、何をしても良いのか、それともしてはいけないことと、して良いことがあるのか、イエスを救い主として受け入れた後、何をどうすれば良いのか、どのように行動し考えていけば良いのか、いわば十戒の霊的解釈を展開していきます。
この4章の後半から6章に至るまでの記述は、私流に言わせれば、新約聖書の中で触れられる、最も顕著な、救われたクリスチャンが、今後どのようにして、十戒を表面的でなく、霊的に、キリストの結びつき、内住のキリストの霊によって、守っていかなければならないかを記述している箇所です。当時パリサイ派の教えによって、ユダヤ人達は十戒を表面的にのみ守り、自分の義の行いを救いの確証とし、礼典律、人間の様々な慣習、先祖からの言い伝えも含めて、律法を守るように教えられ、律法でがんじがらめにされていました。パウロのここの記述を理解するにあたって、ユダヤ人達が、自分の力で律法を守ることによって救われるという、いわゆる律法主義そのものに陥っていた時代背景を理解しましょう。彼らは律法を守っていると言いながら、その守り方は、律法のうちの最も大事な愛と、思いやりに欠けた表面的なものでした。
救われたクリスチャンに対して(ここではエペソ教会の人々)直接、単刀直入に十戒を守りなさいと言うと、ユダヤの律法主義に逆戻りする恐れがありました。パウロは知恵に満ちた方でありましたから、あえて十戒を整然と並べたりせず、エペソ4:25から十戒の順序を全くバラバラにして、しかも表面の行いよりは、心の中を描写し、心の中そのものの持ち方が大事であることを強調して書く事にしたのだと思います。
無慈悲、憤り、悪意を捨てなさい(エペソ4:31)これは6条‐殺すなのパウロの解釈です。みだらな者、汚れた者(エペソ5:5)これは7条‐姦淫するなにあたります。
『盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。』(エペソ4:28)これは8条‐盗むなの解釈。
『だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。』(エペソ4:25)これは9条‐偽るなにあたります。
『………また貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。』(エペソ5:5)これは10条‐貪るなの解釈。
6条から10条まで、本来は大事な戒めから優先して並べられるはずです。十戒は全部大事ですが、殺すなは、偽るな、より重要でしょう。嘘と殺人では、この世の法律でも刑の重みが違います。十戒は重い順に書いてあるのです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽るな、貪るな、の順です。そして当時の社会には何の社会福祉制度もないのですから、両親を敬う戒めは、(老後の面倒を見ることを含むと考えられます)十戒では人間同士の戒めとしては一番最初に来る、重要な戒めとして第5条があるのです。パウロはあえてこの最初の戒めを順番を逆にし、最後の方、すなわち6章へ跳んで、エペソ6:2『「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。』(エペソ6:2)と書いています。
この書き方からして、エペソ書のこの箇所を書いているパウロの頭には、十戒があったことは間違いありません。なぜパウロはわざわざ十戒を見事に跡形もなく(順番としては)、バラバラにし、更に、心の中の状態まで色々と付け加え、また様々な、酒に酔うなとか、無分別になるなとか、細かく気を配って歩めとか、メッセージを付け加え、エペソ4章から6章に至る、いわば自分の十戒解釈を、それとなく条文としては悟られないように、エペソの信者に提供したのでしょうか。
その答えはクリスチャンに対して標準的用法—後述、としての十戒をあまり生のままあからさまに提示すると、せっかく恵によって救われたのに、行いによってやはり救われるのだと、勘違いされるのを恐れたのではないかと思われます。
何れにせよ救われたから十戒を守る必要はなくなったなどとは、パウロはどこにも聖書の中に書いていないのです。もちろん養育掛用法—後述、の下にはいないとは書いていますが。(ローマ6:14参照)
ここで再度確認しておきたいことは、私達が自分の力で律法を守れることなどありえません。私達生まれながらの人間は、罪のもとに売られて、肉の努力や修行ではどんなに努力しても、神の律法を守れないことはすでに書いて来ました。完全になる(成熟する)唯一のチャンスは、自分の力や努力ではなくて、イエスの十字架の血による贖罪をそのまま自分のものとして受け入れ、買い戻され、そして内なるキリストに心の中に住んでいただくことなのです。罪の赦しもキリスト、罪の聖めもキリスト、品性の完成もキリストなのです。キリストに常に結ばれていく以外に、完全になれる可能性はありません。100%キリストなのです。パウロが信仰による義を説き、聖霊によって新しく生きることを説き、あらゆる知恵を使って教えてきた事、これらの知恵を尽くした説明のすべてが内なるキリストを目的にし、クリスチャンが自分の心の中に住むキリストを自覚し、キリストに固く結ばれ完全なものになるように、完全を目指して歩むようになるためであったとパウロは言っています。また、完全と訳されているギリシャ語テレイオスは、十分に成長した、あるいは、成熟していると訳した方が良いと言われています。
十戒を見れば見るほど、自分の至らなさが示され、律法はキリストに私達を連れて行くための養育掛としての働きをする。『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育掛となったのです。』(ガラテヤ3:24)人間の思いの中にある罪を自覚し、キリストの十字架のもとに連れていかれ、悔い改め、神に義とされ、赦されて、神の前にキリストの義をいただいて救われます。パウロは断言する。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)律法を守る事によっては誰も救われず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのだ。人間は本質的に、肉に売られており(霊と逆の表現)、生まれたまま肉の性質を持っている人間はそのままどんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる律法の要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけだ。人間の精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、そのままではどんなに努力しても、神の崇高な律法に従う事は出来ないのです。
神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来る、肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないけど、人間の内面が神の霊による生まれ変わりを経験して(新生)、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになるのです。(聖化)。
養育掛用法はいつまでもその用法の下にとどまるべきではない。信仰によって義とされ、聖霊に満たされたクリスチャンが律法の養育掛用法の場所にいつまでもとどまらないと聖書自身が解釈しています。『しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。』(ガラテヤ3:25)
律法には養育掛用法と、もう一つ見落としがちであるが、標準的用法があると考えます。クリスチャンとしてのスタンダードを示し、キチッとしたクリスチャンを作り上げるのに役立つ用法です。標準に達しているから救われる、達していないから救われないという事ではなく、クリスチャンとして、達すべき標準を示すことは、大事なことではないだろうか。
『律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。…律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、…父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、…偽証をする者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えれらているのです。』(テモテ第一1:8~10)
盗まない、 嘘つかない、殺人をしない、姦淫をしない、同性愛をしない、偶像崇拝をしない、週の第七日目安息日遵守、貪欲に陥らない、人を憎まない、天地創造の聖書の神のみを拝むこと、神の御名をみだりに唱えない、父母を敬う事、等まだまだあると思うが、守らなければならない標準が聖書の中に書いてあり、クリスチャンになれば、これらの事を行動の標準として遵守すべきだ。これらを守ったから救われるとか救われないとか言う事ではなくて、このような標準に達することが期待されているのです。
パウロはエペソ書においてここまで、夫婦間の在り方、主人に対して奴隷はどのように仕えるべきか等色々なことを、十戒を念頭に置きながら記述しているのに、何故十戒の第1条から第4条に触れなかったのか?素朴な疑問が生じる。
エペソ教会の信者に第4条の安息日遵守を含む神に対する拝み方等についての勧告は必要なかったのだろうか。私はそうは思はない。では何故書かなかったのか。それは推測するに、宗教儀礼に行き過ぎくらいに凝り固まっている当時において、安息日を守る事、偶像を拝まないこと、畏れ多い、神のみ名をみだりに唱えないこと、天地創造の神のみを神として礼拝する事はあたり前のことであって、いちいちエペソ書の中で勧告する必要もないことだったのであろう。当然守り実行すべきものだという了解が、パウロにも、エペソ信者にもあったから、敢えて書かなかったのではないだろうか。
もしエペソの信者が、第七日目安息日を守らず、神を第一とせず、偶像を拝んでいたとしたら、仮にそんな状況だったら、パウロの強烈な警告メッセージが発せられたはずである。それがないという事は、そのような問題がなかったという事ではないだろうか。
エペソ5章の中で最大の私の心を捉えて離さない聖句は、
『何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。』(エペソ5:10)
『だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。』(エペソ5:17)です。
この2つの聖句の意味はどちらも同じ。自分のやっていることが十戒にかなう事はもちろん、本当に主に喜ばれることなんだろうか、事の是非はともかく、たとえ善悪ではなくて、日常の普通のことであっても、やってる事は本当に主に喜ばれているんだろうか、常に反省し吟味する必要があります。
主の御心とは何なのでしょうか?私達はあまりにも無分別で、大言壮語したり、自分の趣味に没頭しすぎたり、はてまた飲酒の奴隷になったりしてないでしょうか。日常の事であっても、自分で判断し、行動し、ある程度の教育の力と、ある程度の善良さで、一日一日を過ごしていないでしょうか。すべての事を主の御名によって行っているでしょうか。一日の内のたとえわずかな時間であったとしても、自分の力、知恵、能力により頼み、キリスト無しに生活してはいないでしょうか。神から離れ、独立して、自分の能力だけで生きていける、そこにすべての罪の根源があると私は考えます。やはり根本的に肉の私が造り変えられなければ、主の御心に従う事は出来ないのです。
日々瞑想している聖句 エペソ②
エペソ書1章2章のところで、何の行いもなく、信仰によって義とされ、キリストの十字架と復活を、霊的に自分に適用し、自身がキリストと共に磔刑され、霊的にキリストと共に新しい命に復活し、さらに霊的に天の王座にまで着いているとまでパウロは言っています(エペソ2:6参照)。
また、様々な礼典戒律、規則はキリストの血で廃止され、異邦人とユダヤ人の隔ての中垣も取り去られました。3章からは神の隠された救いの計画について言及し、異邦人伝道に自分が神によって召されたこと、神の秘めれられた計画の結論として、内住のキリストがその目的である、と書いています。
『信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわさせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、』(エペソ3:17,18)
心の中にキリストが住む経験がどんなに素晴らしいことか、それは本当の意味での喜びであり、平安な幸せに満ちた時間なのです。お金では買え難い充足感、物質では満たされない喜びがあるのです。
それは何ものにも替え難い祝福と希望に満ちた気持ちです。そこから出て来るものは愛なのです。人間的な限界のある愛ではなく、聖霊の力に裏付けられた、神の無限の愛なのです。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを体験し、その愛をもって総ての人を愛していきなさいと言われているのです。
『………ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。』(エペソ3:19)とパウロはひざまづいて祈っています。誰が満たされるのでしょうか?教会や、それを構成する私達がです。神の豊かさの総てとは、どんなものでしょう。それは健康(テサロニケ第一5:23参照)、長寿、必要な限りの物質的豊かさ、真の友情を持った友達関係、信頼に満ちた夫婦間係、断絶のない親子関係、教会での信徒同士の偽りのない兄弟愛。必要な限りの過不足のないお金、住む所、着る物、健康的な飲む物、食べる物の祝福。その他、この地上で私達が必要な物、かつ、幸せを感じる総てが考えられます。
私達が求めたり、思ったりすること総てを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会と、キリストによって、栄光が世々限りなくあるように、と祈りの言葉を終わっています。(エペソ3:18~21要旨)
G,病の癒しの約束された聖句① 詩篇103篇
神癒とは本当にあるのだろうか。信仰と癒しの問題は現代人には理解するのは難しいことの一つだと思います。聖書を読むと、病気は悪霊によって引き起こされていると考えられており、イエス・キリストが病気の霊を追い出すと、病んでいる人が完治したとか書かれています。
『……ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたし(イエス)の命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。……イエスが手を取って起こされると、(その子は)立ち上がった。』(マルコ9:25~27)
他にも癒しの例はたくさん書かれています。イエスやその弟子たちが行った病いの癒しをすべて否定するなら、聖書の大事な部分を失ってしまうことになりかねません。
イエスの時代は細菌によって病気になるとは誰も考えていませんでした。細菌によって病気になることがわかったのは、パスツールからです。1800年代に、微生物が病原体である可能性を示唆したのはパスツールです。微生物は動物や人間の身体にも感染するという結論に達したパスツールは、狂犬病のワクチンを開発したことで知られています。それまで細菌が病気を引き起こすことは知られていませんでした。14世紀にヨーロッパで、ペストが流行った時、人々は、ペスト菌による感染とはわからず、なすすべがありませんでした。当時のヨーロッパの総人口の4分の1が亡くなったといわれています。
医学が発達し、病気の原因も分かり、良い薬もでき、様々な先進治療、医療機械(時には高額なものも)による治療を受けられるようになったから、もう神の癒しは必要ないのでしょうか。私はそうは思えません。現代でも神の癒しはあるし、そのことは信仰の一部だと思います。もちろん医学には医学の役割があるし、それを無視して、加持祈祷に返れとは言いません。迷信が危険なことは、今も昔も変わりはありません。でも、現代医療によってすべての病気が治るわけではなく、難病奇病は増えるばかりです。私の知っているご夫人がTAFROという未だ治療法が確立されていない難病で亡くなりました。残念ながら発病から、お亡くなりになるまで数か月と言う短さでした。
さて、現代においては、正直言って、神の癒しは、めったにおきません。神の癒しはどうすれば起きるのか、こうすれば、こうなる、こう祈ったら聞かれる、というような方程式のようなものはありません。これこれこうすれば必ず癒される、と言うようなことは信仰者も含めて誰にも言えないのです。
祈っても癒される時もあり、癒されない時もある、これが実情です。また薬が効くのか、はてまた自然治癒力や、民間療法的なもので治るのか、溺れる者はワラをもつかむで、何でも試してやってみているのが正直な話です。八幡平の玉川温泉で岩盤浴をやって癌が治る人もいれば、治らない人もいます。私はそのことを否定しません。病の辛さは病にかかっている本人が一番なのですから、癒しの可能性のあることは何でもやってみることです。
しかし、病の癒しの最後は全て神の御心にお委ねしなければなりません。宗教に入ればどんな病気も必ず治るのでしたら、病院はいらなくなりますし、その宗教には何百万と言う病人たちが押し掛けるでしょう。でもそのようなことは、現実としてはないのです。神の癒しは、繰り返しになりますが、めったに起きないのです。そのことを踏まえながらも、神の癒しは、今でも起きる場合があるのです。このことについては、個人的体験がかなりの影響を与えていると思います。
私達クリスチャンはどのように病の癒しを考えて行ったら良いのでしょうか。聖書の言葉に入る前に、病の癒しに対する、バランスの取れた考え方について探っていきましょう。まず医学は万能ではありませんが、医者や薬、そのほか医療機械を含めた医療技術、手術等には、それぞれ果たすべき役割があり、決してこれらを無視してはならないという事です。神の癒しを求めつつも、現代の医学も神は癒しの手段としてお用いになるという、広い視野を持ちましょう。
病気については原因があるものです。先ほど述べた難病のように原因不明の場合もありますが、普通はあるものです。例えばお酒を飲み過ぎて、肝硬変になったとか、甘いものを食べすぎて糖尿病になったとか、運動せずに食べてばかりいて、肥満になり、心臓病になったとか。何れにせよ、ほとんどの場合原因があり、結果があるものです。
原因を取り除かないで、結果である病気を神に祈って、癒して下さいと願うのは虫が良すぎるでしょう。お酒は大好きでやめられないし、やめるつもりもないのに、原因であるお酒を飲みながら肝臓病を癒して下さいと神に願うのはどうでしょうか?
ヘビースモーカーで肺癌になったとします。原因のタバコを喫いながら、肺癌治療が出来ますか?医者もあきれるでしょう。
まず原因になる習慣をやめ、健康的な生活をして、自己の生き方の改革から始めることです。神は自然の法則を無視なさいません。
セブンスデー・アドベンチスト教会(日本語に訳しますと、第七日目(土曜日)安息日遵守・キリストの再臨教会)では健康のため、出来るだけ菜食主義を勧めています。魂の救いには、食物は関係ないという、キリスト教の一般的考えを否定しているわけではありません。尊重しつつも、旧約聖書の食物禁忌規定はイエスの十字架の犠牲によって廃止されているが、そこにはユダヤ民族の健康を考える神の御配慮があったのではないかと推論し、色々理由はありますが、結論として、あくまでも、健康のため、菜食主義を勧めています。
マクロビオテック(玄米菜食主義‒桜沢如一「正食」)に考え方は近いですが、それほど極端ではありません。マクロビオテックの陰陽の考え方はとりません。玄米は好きな人は食べますが、ほとんどの信徒は白米を普通に食べています。
ラクト・ベジタリアンと言うのが公式な立場です。卵乳菜食主義者とも訳されます。卵と牛乳併用の菜食主義です。ただ宗教に関係なく健康のため、完全菜食主義の方々も世の中にはたくさんいます。私達のグループの中にも、完全菜食主義者もいますし、フイッシュ・ベジタリアンもいますし、肉を普通に食べられる方もいます。
総て聖書の言葉から逸脱しないようにしましょう。『(肉を)食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、(肉を)食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。……』(ローマ14:3)肉を食べる人もいる、食べない人もいる、それぞれ個人の自由であって批判してはいけないとパウロは言っています。『……食べ物のことで、兄弟を滅ぼしてはなりません。……』(ローマ14:15)『何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人はは野菜だけを食べているのです。』(ローマ14:2)、『肉も食べなければぶどう酒も飲まず、…望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。』(ローマ14:21,22)
健康改革は食物以外にも、運動、日光、水、新鮮な空気、休息、節制、神に対する信頼、等多岐にわたる改革です。単に食物にとどまらず健康全般に及びます。皆さんの中でそれぞれが、大なり小なり自分の健康法を実践していらっしゃると思いますが、要は健康の為、適度な運動をして、必要な日光に当たり(今はオゾン層崩壊による紫外線の害には注意が必要)、水分をよく取り(清涼飲料水、ジュース等には糖分がある物もあるので要注意)、1日に何回か深呼吸(大気汚染に注意)をし、過労死などしないように、休息も大事。神に対する信頼、ひらたくいえば信仰心が大切。節制‒良い物でも行き過ぎは注意。すごく甘い物、すごく辛い物、味付けの濃い物、カフェイン、香辛料で刺激の強い物は体によくありません。十分な睡眠が健康の秘訣。範囲を広げれば水治療法等も含まれてきます。あくまでも概要です、民間療法的なこととか、その他にも色々あるでしょう。
SDA信徒は禁酒禁煙を実行しています。それは、『汝殺すなかれ』の戒めを自分の体に対しても実行しているからです。あらゆる健康の原則の中の一部に禁酒禁煙が挙げられます。聖書にも酒に酔ってはならないと書かれています。『酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、』(ェペソ5:18)『……また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、……』(テサロニケ第一5:23)とありますので、良いことは取り入れて、健康で、元気でおられることが、何よりのことです。特に霊の健康は見過ごされています。霊と言っても日本的な変な意味での霊でなく、ここでは聖霊のことですが、信仰心を涵養し、神の御言葉である聖書を読み、教会にも出席し、真の神を発見する事こそ、霊の健康を取り戻す一番の近道だと思います。
以上の事を理解した上で、詩篇103篇の癒しの聖句を見ていきましょう。
『主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、』(詩篇103:3口語訳)
人間の世界になぜ病があるのでしょう。最初神がこの世界と、人類の始祖、アダムとエバをお創りになった時、病気はありませんでした。神の言う事を聞かず、罪を犯すようになってから、人類に病気が入って来ました。
ここで注意をしなければならないのは、特定の罪が特定の病気の原因と言うわけではないということです。もしそんな風に考えると、又おかしな方向に宗教的な見当違いをしてしまうかもしれません。ある人が病気になったら、その人が何らかの特定の罪を犯したに違いないと言う考え方です。病気の原因は、大きな意味で人類全般の罪の結果だとは言えますが、特定の個人の特定の罪の結果だと決して考えてはいけません。
例えば、聖書の中に、そのことに関連する記事があります。イエスの通りすがりに、生まれながらの盲人がいて、目が見えないのは誰かが罪を犯したからか、この人本人が罪を犯した結果か、それとも両親の罪の結果か、弟子たちはイエスに聞きました。イエスはそうではなく、それは神が癒しを行い、神の業が現われるためであったと言って、生まれつき盲人の目を癒され、彼は目が見えるようになった、有名な話があります(ヨハネ9章要旨)。
何らかの個人の特定の病が、個人の特定の罪の結果と言うような、見方を、宗教によってすることは決してあってはならないのです。もしそうなら、病気の人を見るたびに、この人は大変な罪を犯したに違いない、こんな大変な病気になったのだから、となってしまいます。
だいたい全人類が皆、根本的に神から離れており、罪がない人間など一人もいません。極端な話、慈善家でも癌になるし、人殺しをした死刑囚(2019,12,26現在判決確定死刑囚112名:於日本)でも健康な人はいっぱいいるわけです。ただ人類全般として見たとき、この世に罪が入ってきた結果、病気も入って来たんだなとは言えます。
何れにせよ、まず第一に詩篇の103篇の聖句で心に留めなければならないのは。『主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、』(詩篇103:3口語訳)です。この御言葉を、何十回でもよいです、自分の心の中で繰り返してみてください。私!この罪深い私が生涯犯してきたすべての罪を主は赦されるというのです。何故、御子の身代わりの犠牲の故です。ハレルヤと叫びたくなります。この短い御言葉が、本当に自分のものになったら、これが福音の真髄です。これは御自分を偽ることのできない神の、お約束です。決して変わることのないお約束です。主は私のすべての不義を赦して下さっているのです。ここに心の平安があります。ここに真の喜びがあります。そして、そうしてくださった神に献身して行きたいという思いが、心の中にフツフツと湧いてくるのです。
次に来るのが『あなたのすべての病をいやし、』です。前述したように、神の癒しは現代ではめったに起きませんが、あることはあるのです。私は現代でも神の癒しはあると信じています。
T牧師は歯並びが悪く、若いときから舌の先が、前歯に常に接触していました。中年になったある時、歯の治療に行ったところが、舌の先が舌癌になっていることがわかりました。偶然名医と出会い、舌癌治療に通う事になりました。そして手術しか方法がないと思っていたところ、自然に腫瘍が消えてしまったそうです。医者はこんなことは見たことないと言ったそうです。これは本人から直接聞いたことで、実際にあった話です。
私は病の癒しを神に祈り求める時、必ず自分と、皆の罪を悔いる事から始めます。何故なら私達は自分が思っている以上に、身勝手で、自分中心の利己的な存在であり、神の目から見たら、あらゆる意味で罪深いからです。まず、「神様、私はこのような祈りをする資格のない者です。本当に罪深い、又不信仰なこの私をまず十字架の血、イエスの犠牲によって赦してください。」と祈ります。それから次に、誰それの病、あるいは自分の病の癒しを求めます。最後に神の偉大さを祈りの中で賛美します(重要)。そして祈りの締め括りに、キリストの名によって祈りますと言います。何故ならキリストの名によって祈るならば何でも答えてあげようというお約束だからです。
『わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。………』(ヨハネ14:13)
私達は何をどう祈ってよいか分からないと聖書に書かれています。
『…わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』(ローマ8:26)
イエスは『わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。』(ヨハネ14:14)と繰り返し言われました。キリストの御名によって祈るとは、このお約束に基づくものであります。
御名より頼むという事は、自分の功績に頼らないということ、『…イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されているからである。』(ヨハネ第一2:12)とあるとおりです。
イエスの贖罪と仲保によって父なる神に祈ることだと思います。『神は唯一であり、神と人との間の仲保者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです』(テモテ第一2:5)
イエスの御名によって祈るとは何か。私達の祈りは、私達の罪のために神に届きにくくなっています。尊い犠牲をなしとげた御子の血が、私達の祈りに注がれて、清められ、赦されて、父なる神に届いて、応えられていくのだと、私は理解しております。
病の癒しの約束された聖句② 詩篇41篇
『主は彼をその病の床でささえられる。あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる。』(詩篇41:3口語訳)
病の床についたことは誰でもあるでしょう。私も小さいときには身体が弱く、しょっちゅう布団に寝かされておりました。小学生の時には慢性気管支炎を患い、咳が止まらなくなり、ついに荻窪の天沼にあるSDAの東京衛生病院に1ヶ月も入院しました。小さいときには自宅の天井ばかりを眺めて、天井板の木の模様や、節目をいつも見ていた記憶が今でもあります。
病になると人間は心まで弱ってきて、人生を積極的に考えられなくなるし、物事を悪いように、悪いように考えてしまいます。もしかしたらこの病気は治らないのではないかとか、色々悲観的になってしまうものです。そんな時この御言葉を思い浮かべましょう。
『主は彼をその病の床でささえられる。』(詩篇41:3)何と力強い御言葉ではありませんか。一人寂しく闘病している時、神がそばにいて、その寝床で自分を支えてくださるのです。それを思うと、有難さで、涙が出てきます。
イエスは『……悲しみの人で、病を知っていた。……』(イザヤ53:3口語訳)とあります。誰かに知られていることは、どんなに自分を励ましてくれることか、イエスは私達の病を個人的に御存知なのです。私達は孤独では決してないのです、ひとりボッチではないのです。特に病気の時、主は私達のそばにいてくださり、慰めて下さるのです。『……主はすぐ近くにおられます。』(ピリピ4:5)とあります。
詩篇41篇の癒しの聖句は素晴らしいですが、そこには大きな条件が書かれています。1節に『貧しい者をかえりみる人…』とありますので、善行をする人は、『主は彼をその病の床でささえられる。あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる。』(詩篇41:3口語訳)と読むことが出来ます。
私達は普段から善行に励まねばなりません。自分が癒されたいのでしたら、まず先に人を癒してあげなさい、という事だと思います。そうするならば今度神があなたを癒してくださるのです。
病の癒しについて考える時、病はすべて悪なのかと言う問題にぶつかります。全人類の全体的な罪の結果、病がこの世に入って来たのだから、病は良い物では決してありません。でも一度病にかかってしまったらどうでしょう。治るために全力で努力をするものの、病にかからなければわからなかったことが見えてくることもあるのです。
例えば病によって人生の限界がわかり、自分がいかに弱い者かを知り、神を発見していくきっかけになることは良くある話です。そうです、病は罪の結果人類に入り込んだものですけど、そこから様々な教訓を学ぶことが出来ることもまた事実です。
自分の弱さを知り、高慢が打ち砕かれ、謙虚になり、他人の痛みが感じられるようになれるのも病を通して悟れる事です。そして癒された時の喜び。歩けない人が、歩けるようになった時、それは本人にとって、大変な喜びです。私達歩くことが出来る人間にはそれが当然と思っているので理解できません。でも一度、脳梗塞などで倒れ、たとえ一命をとりとめても、歩行に障害が残るようなことが起きてしまったら、歩けるようになるまで大変辛く長いリハビリの時間と努力が必要になります。そして歩けるようになった時の喜び、それはそのことを経験した人にしかわからないと思います。足を様々な理由によって痛め、一時的に歩けなくなり、忍耐強い治療の過程を経て、再び歩けるようになった人には、歩ける喜びは一塩大きなものです。
病は良い物ではありませんが、敢えてそのそれがもたらすところの、効用、良い面を見るならば、その苦しみを通して人間理解が深まり、この世の命を造られた神、さらに、この世の命を超えた永遠の世界を用意して下さる神に、救いを見出すきっかけとなります。
不治の病に冒され、永遠の命に希望を託さざるを得ない環境に置かれている人々も、たくさんおられます。病による不自由さによって、本当の神が与えて下さる継続的な真の自由さを与えられて、救いに入れられ、イエスにある復活の希望を見出し、病を通して救いの道を発見している方も多々いるのです。
もちろん、どんな病も、神によって、あるいは神が手段としてもお用いになる、現代医療を通して、癒されるのが一番良いことは言うまでもありませんが、現実は、多くの方が病との厳しい闘いを余儀なくされているのです。
病の癒しの約束された聖句③ ヤコブの手紙5章
『あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。』(ヤコブ5:14~16)
私達の中で誰も義人はいません。しかし義人の祈りの模範として、ヤコブ書には、この箇所に続いて、預言者エリヤの例が出てきます。エリヤは死を経験せずに天国移されたほどでしたから、義人であることはその通りです。エリヤの祈りには天候を左右するほどの力がありました。同じように今のこの世で義人の祈りは聞かれるとヤコブは書いています。
すべての人は神の前に、生まれながらに御怒りを受けるべき者ですから、義人は絶対的定義ではありません。こうは言うものの、神の前に相対的に、キリストによって変えられて、正しく、忠実な方はいるはずです。教会長老とは当時教会の責任を持っていた、信徒の中での指導者でした。義人=教会長老ではないですけど、役職的にも比較的、品行方正な方が多かったのでしょう。長老を招いてオリブ油を塗ってもらって、病人の人は祈ってもらえば、病も癒され、罪も赦されると書かれています。
オリブ油の注ぎの本来の起源は、病を癒し罪を赦すことではありません。イスラエルでは昔、王の資格を与えるのに、預言者が王となる人の頭にオリブの油を注ぎました。メシアは、ヘブライ語のマーシアハמשיחの慣用的カナ表記で、油を塗られた者を意味します。すなわち、メシアは、神によって油注がれた者の意味です。オリブ油は聖霊の象徴であり、聖霊が注がれることを意味しています。イエスは神によって油注がれた者でした。
ヤコブが書いているオリブ油の注ぎの祈りは、病の癒しを目的としていますが、オリブ油の薬効によって、癒されるのでしょうか?薬効は特に火傷などには認められていますが、ここではオリブ油の薬効によって病が癒されるのではなくて、オリブ油は聖霊の象徴でありますので、あくまでも聖霊が、臨在し、病が癒されると考えた方がよいでしょう。
では風邪でも何でもよい、ちょっと調子悪ければオリブ油を塗って祈ればよいのでしょうか?それはチョット行き過ぎでしょう。罪の赦しと並行して書かれていることから、終油の祈りと言って、重病で死ぬ直前にのみすべきだ(死の危険にある病人で、しかも同一の病気の場合ただ1度のみ与えられる、かつてのカトリック教会の終油の秘跡)、これも行き過ぎかも知れません。
私はこの中間位がいいのかなと考えます。病の癒しが目的ですから、自分と神との間で、これはオリブ油を塗油して祈った方がよいかなと思ったら、やって見てもよいのではないかと考えますが、他に異なった意見をお持ちの方もいるでしょう。
ちょっと気になるのが、この辺の罪の告白の聖句を基にして、告白そのものの行為が罪を赦すと勘違いしないようにしましょう。
祈りの中で特に大事なのは、罪の告白の祈りです。プロテスタントには懺悔室はありません、罪を許す権威はキリストだけがお持ちなのです。
『人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』(ルカ5:24)
神父や牧師に罪を告白する必要はありません。ただ直接、イエスに向かい、個人的な罪は個人的に祈りの中で自分の罪を、小さな声で告白すればよいのです。それで罪は赦されます。人に聞かせる必要はありません。
『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。』(ヨハネ第一1:9)
公の罪は、公に言い表しお詫びすべきです。例えば公共物を、若いときの勢いに任せて、うっかり壊してしまったとか、そんなことが考えられます。
イエスが十字架刑についたとき、イエスの両脇に、強盗を働いた為に、十字架刑になった人たちがいました。2人のうち1人は最後までイエスを信じませんでしたが、1人は十字架の上から、イエスを救い主として受け入れ、人生最後のところで救われました。
『「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』(ルカ23:42,43)
今日あなたはパラダイスにいる。死刑になるほどの罪を犯した強盗が、具体的にどんな犯罪をしたのかは、聖書には書かれていませんが、この強盗が、イエスに、今一度、御国の権威をもっておいでになるときは、私を思い出してください、と言ったら、その場で生涯してきたすべての罪を赦され、今日あなたは天国にいるであろう、とのみ言葉を、お約束としていただいたのです。一瞬のイエスに対する信仰告白でこの強盗は全部の生涯の罪を赦されて、天国へ入る資格を得ました。しかし、十字架刑の最中に、この強盗が自分の罪をイエスに全部告白する時間があったとは到底思えません。
神の前に、自分の罪の身代わりとしての十字架のイエスを信じ、イエスが死に勝利し復活した、神の御子であると信じ、告白して、瞬時に義とされるのです。
『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』(コロサイ1:22)
ヤコブ書のこの部分でちょっと気になるのが、カトリック教会の7つの秘跡の内2つがこの辺から出たのではないかと言うことです。洗礼、堅信、聖体、告解、病者の塗油、叙階、婚姻のうち告解と病者の塗油です。秘跡とは、秘められた神のみわざの跡かた(=しるし)であり、その神のみわざの恵みが目に見えるしるしとなって与えられること。
このような意味での秘跡をプロテスタント教会は教理として受け入れてはいません。バプテスマはあくまでも水に葬られる時、自分が十字架でイエスと共に葬られることを儀式として意味し、水から上げられるとき、イエスと共に新しい命に復活することを、儀式として意味します。ですから浸礼と訳すべきものです。また、バプテスマと言えども、それはあくまでも象徴的儀式であって、カトリックの教えるような秘跡ではありません。
ヤコブ書のこの個所は、色々意見が分かれるところです。素直に読んで、お互い信徒同士が、自らの過ちを認めて、謝り合い、自分の罪を兄弟に赦してもらうよう、告白し合うよう単純に勧めていると解釈しましょう。告解と言って、懺悔室で罪を神父に告白する教理を、ここから導き出すのは、無理があります。同様にここは終油の秘跡を言っているのではなく、医療もあまり無かった当時において、病気の癒しの為、オリブ油を塗って、神の癒しを、義人であると考えられていた教会長老を招いて、単純に祈ってもらいなさいと言っているのだと、私は解釈します。
病の癒しの約束された聖句④ マルコ16:17,18
『信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。』(マルコ16: 17,18口語訳)
『ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。』(コリント第一1:22口語訳)とありますが、私たち日本人は、しるしよりも、どちらかと言えばギリシャ人のように知恵を求める傾向があります。
ユダヤ人のように、病の癒しの中に、神の存在の証拠としてのしるしを求めるのは、いささか危険な兆候でもあります。なぜなら、暗黒の勢力もある程度の不思議な業を行うことが出来、奇跡的な病の癒しも行うことが出来ます。現象をもって何かの存在が正しいとか、存在するとかを証明する根拠とするのは危険です。しるしに頼りすぎると、癒されなければ、信じないという事も起こり得ます。病が癒されても、癒されなくても、神が存在することは間違いないのです。現象を超えた信仰を持たなければなりません。
しかし、ここで『信じる者には、このようなしるしが伴う。……』と書かれています。穿った見方をすれば、人間は何らかのしるしがなければ、やはり信じることは難しいのではないでしょうか。前言を翻すような言い方になってしまいましたが。
例えば、外面的な奇跡もしるしかも知れませんが、神を受け入れ信じることによって、心の中に変化が起きて、利己的な人間が、愛の人に変わっていく、これは一つの内面的しるしではないでしょうか。いつもイライラ、カリカリしていた人間が、神の御言葉を受け入れ、救いを体験したとき、穏やかに、平安な心を持つことが出来、物に執着することなく、落ち着いてすべての事を神に委ねながら処理することが出来るようになれば、これは一つの、人間の心の中に起こる奇跡と言ってよいでしょう。そういう意味を含めれば、信じる者には必ず、しるしが伴っているのです。もちろん、これは私の解釈ですが。
『……すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、……』(マルコ16:17)
イエスの名で悪霊を追い出しとあります。今でも悪霊が人に宿ることはあるようです。いよいよ迷信の世界には入っていくようで、あまりこのことは教会では言いませんが、当時の人は、悪霊が人間を病気にさせていたと考えていました。
聖書を読むと、病気は悪霊によって引き起こされていると考えられており、イエス・キリストが病気の霊を追い出すと、病んでいる人が完治したとか書かれています。
『……ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたし(イエス)の命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。……イエスが手を取って起こされると、(その子は)立ち上がった。』(マルコ9:25~27)
たぶんこれは癲癇の癒しの場面と推測されます。他にも癒しの例はたくさん書かれています。
繰り返しになりますが、イエスの時代は細菌によって病気になるとは誰も考えていませんでした。細菌によって病気になることがわかったのは、1800年代になって、微生物が病原体である事が発見されてからです。医学が発達し、病気の原因も分かり、良い薬もできたので、もう神の癒しは必要ないのでしょうか。現代医療によってすべての病気が治るわけではなく、医者や薬は人間に備わった生命の力、自然治癒力や、自己免疫力を強め利用しているだけなのです。
キリストの名でもし、今でも聖書の言葉に基ずいて、病気の霊よ出て行けと祈ったら、その祈りは聖書的でなく、行き過ぎでしょうか?どのように考えるかは個人の判断に任せたいと思います。ただ私は、すべての事を理解した上で、この祈りを個人的に使うのは、許されることではないかと思っています。
さらに、積極的に考えて、この祈りが、私達の身体に備わっている自然治癒力や、免疫力を強め、癒しの助けになることもあるのではないかと考えます。要は病が治れば良いのです。どんな形であれ、こだわる必要はないでしょう。もちろん医者にかかり、適宜な治療をしてもらうのは一番にしなければならないことですし、医者や医療手段も神が用いる大事な方法だと思います。
聖書の中に、今で言えば精神を病んでいた、あるゲラサ人の事件が書かれています。彼の中にはレギオン(軍団の意味‐1軍団はローマ軍約5,000人で構成)という名の多数の悪霊が住んでおり、墓場を住みかとし夜昼叫び続けていました。イエスがその男から、汚れた霊を追い出し、豚2,000頭の中に追いやったところ、豚が狂って、ガリラヤ湖の中に、崖から雪崩打って落ち込み、その男は正気になったが、豚の群れはおぼれ死んだという事件があります(マルコ5:1~20要旨)。
昔日本では狐憑きという現象が霊現象としてあったようですが(単なる精神病か?)、イエスの時代は精神病も悪霊によって起こされると考えていたのでしょう。また本当に精神病ではなく、正常な人に悪霊が、乗り移り、キリストの名によって追い出すような霊現象が当時あったのでしょう。
ただ科学が発達したこの現代にも、悪霊が人に宿ることは起きるのでしょうか?あまりこのことを強調すると、映画のエクソシストの世界に陥ってしまうので、たとえ現代に、今だに悪魔払いがあるにせよ、このような世界には、余り近づかないほうが賢明ではないでしょうか。
次に、『…………新しい言葉を語り、』(マルコ16:17)。これも解釈は大変難しい聖書の個所です。間違ってしまうと変な方向に行ってしまう恐れのある、問題の聖句の一つです。ペンテコステの日に12弟子の上に聖霊降下があり、天から聖霊が舌のような形に、炎のように分かれて現れました。(使徒行伝2:1~4参照)この時、弟子たちは、神の奇跡によって、宣教の為、数種類の外国語を話し始めたと記されています。今で言うなら、英会話教室に通って、勉強しなくても、突然英語がしゃべれるようになったようなものです。このような奇跡そのものがすごいことですが、これをもって新しい言葉と言うなら、まだ話しは単純なのです。
このことをもう少し追及すると、実は私にとって、あまり話したくない問題の一つである、聖書の中に出て来る異言現象に触れざるを得ません。パウロは、ある人物の体験談として、実は彼自身のことなのですが、コリント第二において(コリント第二12:2~4参照)第三の天に引き上げられ、人間が語ってはならない言葉を聞いたと言っています。また、コリント第一において、異言の問題を12章~14章にわたり取り扱い、異言は教会に与えられた賜物の中で低い位置にあると結論づけています。
教会で、全員異言を語っているところに、未信者が入ってきたら、皆訳の分からない言葉を話しているのですから、この教会の人達は、皆気が狂ってしまったと思って、未信者は誤解してしまう、と言うようなことをパウロは言っています。自分は誰よりもたくさん異言を語れるが、教会では預言の方が皆に役に立つし、優位な賜物です。
異言を語るのを妨げてはならないが、それはその異言が、どんな内容か解き明かす人がいて、教会内で始めて語ることが出来ます。多くても2、3人位にすべきだ。解き明かす人がいない時には、自分に対して、あるいは自宅で語っているべきであって、教会では黙っていなさいとパウロは言っています。
聖書に異言という霊現象が明確に書かれている以上、そのことを否定すべきではない。もし異言そのものを否定するなら聖書を否定することになります。パウロは低い賜物と評価しているとはいえ、異言があることは認めているのです。このマルコによる福音書に書かれている『新しい言葉』が単なる外国語でなく、パウロがコリント書で解説している異言であるとしたら、聖書がすべての教えと、行為の基準であるとしても、かなりその解釈は、私としては困難を覚えます。
あまりにも、SDAの私達にとって、教会内で起こり得る、異質な異言という霊現象(訳の分からない言葉のようなものを、ベラベラとしゃべり出すらしい)は、何か違和感をとても覚えます。
異言現象は本当に神が許されていることなのだろうか?本当に神から出ていることなのだろうか?私の正直な感想は、霊現象としての異言はあることは認めるが、それをもって、聖霊のバプテスマを受けた証拠として強調するような教派は、(例えばペンテコステ派)行き過ぎではなかろうか。異言も聖書が記述している位置に納めるべきです。
ただ根本的問題は、『…………新しい言葉を語り、』(マルコ16:17)と言っているイエスの言葉が本当に異言を指すのかどうか、それは意見の分かれるところです。例えば全くの未信者に、聖書の難しい教理的な解釈を私が話したとしよう、彼らは私の言葉を理解できるだろうか?相当分かりやすく話したとしても、たぶん無理だと思う。そういう意味で、私達が信仰の熟練している人達に話す言葉は、ある意味で、それを聞いた未信者にとっては、新しい言葉に聞こえるに違いない。もしかしたら、そういう意味で信じる者は新しい言葉を語りと、イエスはおっしゃったのかも知れない。
神の言葉は信仰と行為の唯一の基準であるが、良く祈って、御言葉を解釈していかないと、変な方向に行ってしまう危険があります。そもそも神の言葉の解釈の問題で、今のような多くのキリスト教派が乱立するようになってしまったのです。聖書の言葉を正しく解釈をするのは、中々難しい問題です。何故なら、各教派、皆自分たちが正しい御言葉の解釈をしていると、思い込んでいるのだから。
例えば、私達SDA教会には、女性預言者が過去にいたが、他の教派にそのことを言えば、エー?という事になります。私達は真の預言者と信じていても、他の教派の方から見れば、それは到底受け入れることが出来ないことなのです。何故なら一般の教会は、預言者の出現は、新約聖書の書かれた時代で、終ったと考えているからです。
何れにせよ、『…………新しい言葉を語り、』(マルコ16:17)の聖書の個所は解釈の難しいところであるのは、間違いないです。どのようにして、この御言葉を受け入れるかは個人個人によって違う。その程度の寛容さと、心の広さがあって良いであろう。パウロは、『……あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。』(ピリピ3:15)また続いて、『…わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。』(ピリピ3:16)と言っています。
『へびをつかむであろう…………。』(マルコ16:18)
信じる者は本当に蛇をつかまなければいけないのだろうか。以前テレビで、たぶんアメリカだと思うが、プラスチックの透明な箱に、蛇を何匹か入れて、上から手を入れて、つかんでいるところを見たことがあります。肝試しだったか、宗教的な行為だったかは覚えていないが、もしその時のしていたことが、この『へびをつかむであろう…………。』(マルコ16:18)の実行としてなされていたとしたら、それは狂信であろう。
この言葉は、信じる者が悪魔とかサタンとか呼ばれる、蛇に象徴される(ヨハネの黙示録12:9参照)悪の勢力に、御霊に満たされて打ち勝つことが出来ることを言っているのであって、決して物理的な意味で蛇をつかむと言っているのではないと解釈します。
百歩譲って、本当に蛇をつかむことを意味していたら、パウロがマルタ島で焚き火に枯れ枝の一束をくべたところ、束が熱せられて、それに隠れていたマムシが出てきて、パウロの手に咬みついた事件を想起します。毒が回らずに、腫れもせず、それを見た島の人々が驚き、神を信じるきっかけになったのです。(使徒行伝28:3~6参照)
未開地に宣教しに行くと、危険な時もあるだろう。例えば実際に未開の場所を通るときに、毒蛇に咬まれる危険性もあるかも知れない。そんなときその危険から守られることを言っているのではないだろうか。それは蛇に限らず、サソリ、毒蜘蛛、有害動物、種々の有害昆虫の害から、神の不思議な力によって守られるという事を意味しているのではないだろうか。
『……また、毒を飲んでも、決して害を受けない。……』(マルコ16:18)これも昔聞いた話で、真偽のほどは定かではないが、共産主義が華やかな頃、キリスト教が弾圧され、その時の逸話で、共産圏のある国の官憲が、キリスト信者に毒を差し出し、聖書のこの個所を引用し、聖書にこう書いてあるのだから、毒を飲みなさい、害を受けないのだろう、と脅したというのである。脅されたある信者が本当に飲んでしまったが、死にもせず何も起こらなかったそうである。この時、神は奇跡を行ってくださったのか、あるいは単なる官憲による脅しであって、飲んだ物に最初から毒が入ってはいなかったのかは分からない。
『……また、毒を飲んでも、決して害を受けない。……』(マルコ16:18)この言葉はいったいどう解釈したらいいのだろう、解釈に苦しむ聖書の言葉の一つです。
このイエスの言葉を、そのまま信じ、毒を飲もうか、それはとんでもない、御言葉の乱用解釈です。ではどう解釈するのか。『……また、毒を飲んでも、決して害を受けない。……』と書いてあるではないか。書いてあることそのものを否定することはできない。だからと言って、じゃあ毒を飲もうか、と考えることは、行き過ぎですし、狂信です。
前述のように信仰の迫害の中で、無理やり、毒を飲まされ奇跡が起こって、害を受けなかったという事も起きる可能性は、私はあると信じています。普通の常識的に言えば、どんな毒かは知らないが、毒を飲めば死ぬのはあたり前のこと、例えば青酸カリであったら100%死に至るであろう。
私のこの聖句の理解は、神から与えられたこの世の肉体を維持するために、出来るだけ体に良い物を食べ、健康的な生活をする義務が、クリスチャンにはあるが、たまたま、不節制をして、体に毒になるようなものを食べてしまったとしても、そんな時、体の毒にならないように、不思議な力で神が守って下さるという事ではないだろうか。
『……病人に手をおけば、いやされる。』(マルコ16:18)
新約聖書の中には病の癒しについて、不思議なことがたくさん書かれている。使徒行伝の中には、ペンテコステの日に御霊に満たされた弟子たちによって、数々の奇跡が行われたことが書かれています。
パウロの使用していた手ぬぐいを持って来て、病人にあてただけで、病が癒されたとも書いてあります(使徒行伝19:12参照)。パウロはペンテコステの奇跡が起きた時は、まだユダヤ教を熱心に信じており、敵方でありましたから、聖霊降下の奇跡には関与していません。それでも御霊に満たされて宣教していた時、様々な奇跡がパウロを通してなされて行ったのです。
イエスは手をおいて病を癒された(ルカ13:13,マタイ8:3参照)言葉だけで癒された『……ただ、お言葉を下さい。……「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。…』(マタイ8:5~13口語訳参照)イエスが唾で泥をこね、生まれつき盲人の目に塗り、その盲人がシロアムの池で目を洗ったら、盲目が癒されて目が見えるようになった。(ヨハネ9:1~7参照)イエスのみ衣を触って癒された。(マタイ9:20~22参照)キリストの名によって癒し、信仰の言葉で命令する、癒しの宣言をすると癒された(使徒行伝3:6~8)。
癒しには様々な形があるが、それは受ける側の人間の信仰を強め、癒しの力をキャッチするためであった。基本的にイエスは神であられたので癒しの力が備わっており、信仰によって、その奇跡を受け取る側の態勢ができていれば、御言葉を宣言するだけでお癒しになることができた。
しかしマルコのここでは『……病人に手をおけば、いやされる。』(マルコ16:18)とあるので、手をおいて祈ることも、癒しの媒介として、模範の一つとして取り上げられているのです。手をおくと、当時は聖霊が下った(使徒行伝19:4~7参照)。伝道に送り出す時、按手の祈りをした(使徒行伝13:3参照)。
また、旧約聖書の時代ヒゼキヤ王は、干しいちじくを腫瘍に充てることによって癒された(列王紀下20:7参照)。スリヤ人ナアマンはヨルダン川の水で身体を清めることで、籟病が癒された(列王紀下5:14)。
罪の赦しと病の癒しは、聖句においてはリンクしていることも多いです。中風の者に対する癒しの場面で、肉体の癒しより罪の赦しが優先することが示された。イエスは中風の者に『あなたの罪はゆるされた、……』(マタイ9:5)と言って罪を赦し、その罪の赦しの証拠として、中風も癒された。『「…人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」……「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。』(マタイ9:6,7)
この記事では罪の赦しの方が肉体の癒しよりも優先されています。この事件では、はキリストが罪を赦す権威を持っている証拠として肉体も癒されたのです。
しかし現代において、癒しに関する聖書の物語を適用するとき、決して誤解が生じないようにすべきです。病の癒しは滅多に起きないので、罪の赦しと癒しのリンクは避けるべきだと考えます。
病が癒されなかったから、罪は赦していただけなかったのだ。そう逆に考えることは大変危険で、弊害を伴います。祈って癒されようが癒されまいが、罪は真剣に悔い改め、十字架の身代わりの贖罪を信じれば、その瞬間に、あの十字架上の強盗のように(ルカ23:42,43参照)、瞬時に罪は赦されます。それこそ信仰で最も大事なところです。
死から復活されたラザロでさえ(ヨハネ11:43,44参照)、結局、齢をとって、もう一度死んだと考えられます。聖書の記述にはないが、そのように推測されます。たとえこの世で神の奇跡により病の肉体を癒されても、人は必ず寿命があって、いつかは死ぬのであるから、その後、永遠の命が付与されることを考えると、肉体の癒しは、それほど重要なことではない、という見方も成り立つ。
ただし短い、地上生涯でも、病が癒され快適に過ごすことが出来れば、一番良いことは、明白です。辛い、苦しい、重い病を背負いながら、イタイ、イタイと一生言いながら、病と闘いながら毎日を過ごすのは、クリスチャンになって、永遠の命が与えられるのが分かっていても、実際は病を抱えながらの厳しい人生です。そんな境遇の人も多くいて、誠にお気の毒とは思う。
健康で、長生きして、主のご奉仕を最後までする事が出来て、一生を終えたいものです。手段はどうであれ、『信じる者には、このようなしるしが伴う。………』(マルコ16:17) を活用して、できれば信仰の癒しも経験して、神の恵みを賛美していきたいと思うのは人情です。そしてイエスはこんなに弱い、精神と肉体を持つ私達に必ず同情してくださり、救いの御手を差し伸べてくださると、私は個人的には信じている。
『……病人に手をおけば、いやされる。』(マルコ16:18)
この稿を書いていて思う事だが、聖書は神がその当時の、呪術的、神話的世界に生きている人々が、読んでも理解しやすいように書かれたのではないか。当時の人々に、病気は細菌によって起きるのだと言っても、誰も理解できなかったに違いない。皆が病気は悪霊の仕業によると考えていたのだから、キリストもそのような人々の考えに合わせて、病の霊を追い出して、病をお癒しになったのであろう。
聖書を読むと、キリストは雲に乗ってくることになっているが、今や気象衛星が、台風の雲や目をハッキリと映し出すことが出来る時代です。雲は水蒸気が空に上がって、細かい霧状の水滴になったものです。世の終わり、すなわちキリスト再臨の時、キリストは雲に乗ってやってくるのを文字通り信じることに、現代の人間は、違和感を抱きます。それは当時の神話的世界観に合わせて、神が分かり易く、キリストの来臨の光景を、弟子たちを通して、描写したのではないだろうか。もちろん雲に乗ってやってくると書いてある聖書の言葉を否定するわけではない。雲に乗ってやってきても私としては一向にかまわない。何れにせよ、超自然的な形でこの世が終わるという事ではないのか。
聖書の記述から、現代にも通用する真理だけを抽出し、神話的表現を除いていこうとする神学がある(非神話化)。その深みにはまって行くと、何やら、神の言葉に対する、確信が揺らぐような状況にもなりかねない。
しかし、現代人が聖書を読むとき、心の片隅にでも、迷信と、呪術的世界にいた二千年以上前の人々に、分かり易く、書かれたのだという事は頭に入れておきたい。日本でいえば、弥生式土器の時代の人々に書かれた言葉なのだから。
H,病の癒しの約束された聖句⑤ イザヤ書53章・マタイ8章
私のような者が、イエスの贖罪預言として、旧約聖書の中でもっとも有名なイザヤ53章を解釈するなど、畏れ多いことだとは思うが、私なりの理解を書いていこう。
まず、ここに出て来る『……義なるわがしもべ……』(イザヤ53:11口語訳)はイエスのことです(使徒行伝8:30~35参照)。中心テーマはイエスの身代わりの死による人間の罪の赦しです。我がしもべ(イエス)の犠牲による神に背いた人類の救い、しもべそのものが神に対する執り成しの供え物です。旧約聖書の犠牲制度、全焼の燔祭の理念がここにはあります。イエスの生涯、生まれてから、十字架で死ぬまでを詩的に表現しています。人間の罪、咎(人から責められたり非難されたりするような行為)、不義をイエスは自ら負い、人間の神に対する背きの罪の身代わりになって十字架で死んでいくことを預言しているのです。
導くものがいない羊は、自分勝手な道に進んで行き、迷子になり、最後はのたれ死んでしまう。人間は導くもののない羊だ。神無しに、自分が良いと思う道を、好きなように、自由に(実は自由ではなく、罪と利己的な生き方の奴隷なのだが)生き、『……おのおの自分の道に向かって行った。……』(イザヤ53:6口語訳)
イエスは乾いた土から出た根っこから、生えてきた若枝のように育ったと表現されている。ごつごつとした、見栄えの良くない木の根が、しもべとなり、人間となった、『……われわれの慕うべき美しさもない。』(イザヤ53:2口語訳)イエスのお姿を現している。
さらにイエスは不当な裁きで取り去られ、神の御旨として、神ご自身がイエスを苦しめられたとある。当時のローマ総督ピラトは、イエスに何も死に値する罪がないのを認めながら、不当な裁判で死刑を宣告した。イエスは法廷でピラトが不思議に思うほど沈黙を守っていた。(マタイ27:14参照)
『……ほふり場にひかれて行く小羊のように、……口を開かなかった。』(イザヤ53:7口語訳)
またイエスは重い木の十字架を背負わせられて、刑場まで歩かされ、その重荷にイエスの肉体は耐えかねて、途中で、もはや背負うことが出来なかった。ローマ兵たちは、やむを得ず、通りかかったクレネ人シモンに無理やり十字架を担がせた。『苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。……』(イザヤ53:7新共同訳)
イエスは多くの人々を救い、天国に連れて行くことが、『…多くの人を彼の取り分とし………』(イザヤ53:12新共同訳)と預言されています。キリストの生まれ、生涯、不当な裁き、十字架の身代わりの死、その結果、多くの人たちが救われ、共に永遠の命が与えられるのです。私達もその中に加わり、イエスと天国においてお会いすることが出来ます。
イエスはその時、自分が成し遂げた贖罪の業によって救われた多くの子孫を見て満足します。つまりキリストの誕生、成長、生涯、犠牲、その結果の多くの人々の救い、贖罪の完成によるキリストの満足まで預言されているのです。『彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。………』(イザヤ53:11新共同訳)
イザヤ書のテーマは、罪の赦しと病の癒しです。まず病の癒しが先に来ます。
『彼は……悲しみの人で、病を知っていた。』(イザヤ53:3口語訳)とあります。
イエスは人間として、罪なく完璧なお方だったので、病になったことはなかったと推測されます。風邪もひいたこともなかったのか、理論上はそうなります。イエスは神であり、肉体は取られたが人間の情欲によって産まれた方ではなかった。そもそも聖霊のお力によってこの世に産まれて来たのであって、普通の人間とは、出だしから違うのです。マリヤの処女懐妊です。これを信じないとイエスの神性は理解できない。いずれにせよ、イエスは病気になることもなかったし、風邪をひいたこともなかった。完全な人間であり、完全な神であられた。
しかし『彼は……悲しみの人で、病を知っていた。』(イザヤ53:3口語訳)。
イエスは様々な人間の苦しみを理解することがおできになり、空腹(マルコ11:12)、のどの渇き(ヨハネ4:7)、労働の苦しみ(マタイ13:55)、道理でない事に対する憤り(マルコ10:14)を感じた。
彼は悲しみの人であった。そして病がどんなに辛いものであるかを知っていた。病にはならなかったが、肉体を取られた神であったので、肉体が病に侵されてしまった人間を身近に見て、その苦しさ、ひどさ、痛み、苦しみを感じることが出来た。それでなくては、あれほどの病の人たちに同情し、癒しを与えることはできなかったはずです。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。………』(イザヤ53:4口語訳)とあります。ここでは霊的病も含むだろうが、本当の病を負ったと解釈すべきです。
ペテロのしゅうとがイエスによって熱病を癒していただいたことがあった。『これは、預言者イザヤによって、「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。』(マタイ8:17)、イエスの病の癒しの働きは、このイザヤ書の預言が実現するためであったと、マタイはわざわざ解説までしているのです。
ですから聖書の言葉によって聖書の言葉を解釈すべし、の原則に照らし合わせ、ここで、『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみ(新共同訳では痛み)をになった。………』のは、実際の病とそれに伴う病の痛み、病のために生じる様々な悲しみ(経済的な悲しみをも含む)をも負われたと解釈すべきです。
もちろん続く5節で『我々の咎のために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ』ともあるので、霊的意味、すなわち私達の罪のために十字架で、イエスの肉体が傷つけられ、それによって私達の罪も赦され、癒されたとも解釈できます。
整理すると、イザヤ書では、肉体の癒し、と罪の赦し両方が取りあげられていることが分かります。まず肉体の癒しが最初にあり、次に罪咎の赦しがあります。その両方が5節の聖句に帰結していくのです。十字架の傷によって、『………その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』(5節)
『我々の咎のために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ』(5節)と『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった』(4節)この2つが、 『その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』(5節)に繋がっているのです。つまりイエスの十字架で打たれた傷によって、罪赦されるだけでなく、病も癒されるという結論になります。
では何故、罪は100%赦されるのに、病は100%癒されないのか?それは、キリストが天にお帰りになってしまい、全員を癒すことにストップがかかっているからだと、私は考えます。しかし、現在でも、御霊が豊かに降るときには、二千年前と同様に癒しの業が行われていくはずです。この解釈は私の信仰の確信です。
聖霊は父なる神と子なるキリストと同位格の人格を持った神であり、神とキリストに栄光を帰す働きをします。聖霊が豊かに昔のように降るときには、病の癒しを含む、あらゆる奇跡が現代にも起きて来ると、私は個人的には信じています。
では何故、SDA教会では癒しが強調されないのだろうか。
終わりの時代には、サタンの陣営でも病の癒し、あらゆる人を惑わす奇跡、不思議な業が行われ(テサロニケ第二2:9,10口語訳参照)、神の陣営でも、終わりの前に起こる聖霊降下(収穫の前に降る後の雨)によって、病の癒しが行われるので、癒しという現象そのものでは、その土台となる教えが、正しいかどうかがわからない。
私達は正しい教えを、信仰と行為の唯一の基準である聖書に照らし合わせ、SDA教会の教理そのものも含めて、選択して行かなければならない。たとえそれが残りの民と言われているSDA教会の教えであっても、神の言葉に一致しないものは断固として排除しなければならない。
癒しの奇跡が起きたとしても、そのこと自体は、教えの正しさの証明にはならない。このことを、肝に命じておく必要があります。逆に例え、神に癒されなかったとしても、そのこと自体が教えが間違っている証明にもならない。聖書に従い、正しい教えを守っていても、癒されないことは、いくらでもあるのです。
だから一番良いのは聖書の正しい教えを守りながら、神の癒しの奇跡が行われていくことです。そうなるならば、癒された信者も助かるし、看病している周りの家族も助かる。正しい教えも擁護され、感謝と栄光が神に帰され、神の御名が賛美されることは間違いない。
終わりの時代には、悪の陣営も不思議な業と、しるしを行って人々を騙し、真理を信ぜず、偽りの教えを信じるようにする。(テサロニケ第二2:9,10口語訳参照)またそのことは神の許しの下に行われるそうです。『そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、』(テサロニケ第二2:11口語訳)
『…サタンも光の天使に偽装する…』(コリント第二11:14)
私達SDAは、神の癒しの奇跡を否定はしないが、あまり積極的には強調しない。神の御言葉の正しい教えを曲げるような危険性が、そこには常にあるからです。癒しが起きたからと言って、その人の罪の生き方が肯定されるわけでもなく、聖められるわけでもなく、霊的に何か高められることでもない。ただ痛いところが治り、医学では治らないような、病が癒され、この世の肉の寿命が、少しだけ延びるだけです。
イエスの奇跡によって死から復活したラザロも、齢とってやがては死んだと推測されます。永遠の命をいただく観点から言えば、これは極端な言い方であるが、癒される癒されないはあまり関係がない。誰でも、いつかは死ぬのだし、神の御言葉の真理を受け入れ、それに従い、キリストの贖いによって罪赦され、永遠の命に復活することが一番大事なことなのです。
SDA教会は聖書の第七日目安息日を含む正しい教えを宣教する事が神から与えられた使命です。教えが正しいかどうかの確証にはならないような神の奇跡の癒しは、教会としては伝統的にあまり強調しない。
今、全世界で行われている、超教派的なキリスト教のリバイバル集会で、奇跡的な癒しが強調され、ハレルヤと言いながら、車椅子に乗って来た人が、立ち上がり、杖もつかずに歩いて、集会から帰ったりする、驚くべき光景を目にする事が出来る。しかし、そこで教えられている聖書の教えは、正しい教えなのか、重々注意すべきです。
このような危険性があるため、SDA教会は神の癒しの奇跡より、医療伝道を強調する。現代医療による治療は、この時代においては癒しの主体です。神の奇跡のかわりに、現代の最先端医療機械を備えた立派な病院と、優れた医師による、的確な診断、先進治療技術による治療が行われています。合わせて、手厚く献身的で思いやりのある、医療スタッフの愛の看護の奉仕によって、SDA教会が経営する病院は、多くの患者を治療してきた。
初期のSDA教会では、自然治癒力、水治療法、卵乳菜食主義等、健康の原則を実行しながらの医療を啓蒙してきた。SDA教会は自然療法を施す診療所等を経営することによって、福音宣教の役に立つものとして提供してきた。福音宣教と医療行為は一体のものと考えられてきた。しかし初期においても、すでに医療行為のみを切り離して提供しようという試みをする者がいたのです。あのケロッグコーンフレークで有名なケロッグ博士(当時SDA教会のメンバーであった)によるバトルクリークのサニタリアムにおける混乱は、博士が宗教と切り離して、自然療法を中心とした医療行為を提供しようとした事が一因でありました。
私達の考えでは病院伝道は、医療そのものの提供で終わってはならないのです。医療行為の提供は、福音宣教を目的としています。病を癒すことによって、人々にイエスの福音に対する心を開かせ、真の神の言葉の宣教に貢献すること。これが教会が病院経営する大事な趣旨です。
私は個人的にではあるがこう考えています。
医療による癒しも、神の奇跡による癒しも両方あって良いではないか。心を広く持ちたい。要は苦しんでいる病人にとって、何であっても癒されれば良いことなのです。そしてどちらの土台にも、聖書を唯一の基準とする正しい教えがなくてはならないと言う事です。
ただ医療伝道、病院経営は大事であるが、ここで一言、重大な問題を指摘しておこう。現代医療、特に高度な、先進治療には大変高額な医療機器と設備費、高額な薬代がかかります。癌は日本において、癒される可能性が高くなってきた、それは医療技術が年々上がて来たからです。医学研究の賜物です。政府予算による高額な研究費がそれに費やされ、治療費も膨大な額です。陽子線治療(約300万円保険適用外)とか、抗癌剤による治療とか、私達が想像するよりも、遥かに多額のお金が掛かっている。例えば肺癌の特効薬、オプジーボを1年間投与された場合の薬代は3,500万円です。今は薬価が見直され半額になったが、それでも高額です。日本人で健康保険に入っているなら高額医療費の給付が受けられ、個人負担の上限は200万円で済むとは言われているが、それでも大変である。金のない者は死ねと言う事なのか。
一方大医者イエスによって奇跡が起こって、癒されたとすれば、10人の籟病人の例えのように(ルカ17:12~19参照)、感謝はしなければならないが、癒すためにかかるお金はゼロ円、信仰だけで、ただです。イエスは貧しい者と富める者の区別はなさらない。ただし、癒しの奇跡はめったに起きないという重大な問題はあります。
富める者は高度医療が施され良い薬も使うことが出来るが、貧しいものは医者にもかかれないし、ましてや高額な先進治療を受けられない。ここに現代医療が抱える大きな問題があります。医療はある意味経営であり、利潤を求めます。決してボランティアではない。
私は現代医療による病の治療を決して否定するものではない。それも大きい意味で神の手段であるとは思う。しかしそこには様々な問題もあるのです。
一方また、聖書が唯一の信仰と行為の基準であり、正しく解釈され教えられているという土台に則している限り、神の癒しの奇跡を求めるのは、良い事であり、癒されればその人にとって、大変な祝福ですし、感謝です。
もちろん奇跡によって癒されたからと言って、癒しの現象そのものが、信じている教えの正しさを、証明するものでないことは、何度も念を押しておこう。
繰り返しになるが、癒しが起きたからと言って、その人の罪の生き方が肯定されるわけでもなく、聖められるわけでもなく、霊的に何か高められることでもない。ただ、癒していただく前に、真剣に悔い改めの祈りをして、今までの人生の生き方を、聖書の提示する標準に合わせて変えて行く決心をしなければならないだろう。永遠の命を獲得するためには、むしろその方が重要であろう。



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